🏞70)─1─徳川吉宗は、キリスト教抜きの西洋の学問と技術の輸入を認めた。蘭学。清国の宣教師追放。1716年~No.286No.287No.288 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸中期。ツュンベリ(スウェーデン人・植物学者)は、日本人が出島のオランダ人がアフリカ人やアジア人を奴隷として牛馬の如く使役する事に憎悪していると報告した。
 同時に、日本の家庭は開放的で夫人は自由に外出しているが、朝鮮の家庭は閉鎖的で夫人は奴隷の様に監禁されていると、書き残している。
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 浅見絅斎は、江戸中期の儒学者・思想家で、山崎闇斎に師事したが朱子学による垂加神道の説に従わなかった為に破門された。闇斎の死後は神道に興味を持ち、日本の正統な統治者は幕府ではなく万世一系の皇室であるという尊王斥覇論を唱えた。門下には、若林強斎(守中霊社)・山本復斎(守境霊社)らがいる。
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 寺子屋の先生は、僧侶や武士が多かったが、それでも3分に1ほどが女性であったといわれている。
 江戸時代の女性は、例外なく名前を持ち、一通りの教育や行儀作法を受け、手に職を持って男に頼らずとも一人で生活していた。
 江戸時代の女は、分別のない馬鹿な男に騙され泣かされるほど柔ではなかった。
 江戸や大坂の町は、男より女性が少なかった為に、社会は女性を保護する方向にあった。
 夫は日夜働いて生活資金を家に入れる義務があったが、妻は家計を完全管理してへそくりを貯め旨いものを食べ花見などを楽しんでいた。
 離婚する際の三行半は、夫が妻に渡すのではなく、妻が自由に再婚するする為に夫から奪うものであった。そして、妻が結婚のときに持ってきた持参金は、離婚するとき夫は全額返却する義務があった。
 日本の女性は、男よりも強かった。
 当時の日本女性の教育度は高く、11世紀には女流作家が現れていた。
 女性に対する神道的価値観(最高神は女性神)は、厳格な男尊女卑の儒教価値観とも、キリスト教的価値観とも、ユダヤ教的価値観とも、イスラム教価値観とも違う。
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 ピョートル大帝は、ロシア王族・貴族に西欧式教養を持たせる為に、フランス語を宮廷公用語とした。
 ロシア語に愛着を持つ民族派貴族達は、フランス語の公用語化を嫌って、宮廷を去って地方の領地に移り住んだ。
 ロシア帝国は、表面上は西欧化して華やいで見えたが国内的には分裂し、フランス語を話す者は利権を手に入れ財を成して贅沢な生活を送り、フランス語を話せない者は社会の脱落者として貧困生活に追い遣られた。
 貧富の格差が拡大する事によって、貧民達によるロシア皇室への反感が募り、社会変革の革命運動が芽生えた。
 ロシア皇室の滅亡は、こうして始まった。
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 1716年 徳川吉宗は、第八代将軍となる。
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 武士は、現実に即した行動や現象に応じた実践を重んじるがゆえに陽明学を本音で取り入れ、現実を無視し実践を後回しにして形式や名分を重んずる観念的な朱子学を建前として学んだ。
 日本は異端の陽明学を学んだが、朝鮮や中国は正統の朱子学を学んだ。
 古学派の荻生徂徠(1666年〜1728年)「儒学の絶対的実践指針である8項目、すなわち格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下の内、7つはいらない。最後の平天下のみがあればよい」
 自然災害多発地帯の日本では、如何なる甚大なる天災に襲われても天下を平穏に保つ事が至上命題とされ、現実離れした朱子学を嫌った。
 中国や朝鮮は、朱子学を正学としない日本を野蛮国として軽蔑した。
 日本は、陽明学や古学以外に国学蘭学など数多くの現実に即した生きた学問が盛んとなっていった。
 前近代時代の始まりである。 
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 徳川吉宗は、徳川綱吉の「生類憐れみの令」でもなお諸大名が残酷な拷問や陰惨な処罰を改めない事に憂慮し、清国の事例を踏まえて『公事方御定書』を完成させ拷問の限定と刑罰の緩和を行った。
 拷問は、ハッキリした証拠や共犯者の自白があるのに罪を認めない重犯罪者に4段階の拷問を行い、明らかな証拠もない者や無実な者に濡れ衣を着せる為の拷問は禁止した。
 町奉行所は、犯行が明らかな重犯罪者に対する苦痛を増大させる拷問を行う時は、老中に正確な事件調査報告書を提出し許可を得てから行った。
 無実の罪で人を裁かない。冤罪者を作らない為であった。
 処刑は、如何に残虐非道な重罪人であっても苦痛を与えながら処刑する嬲り殺しの方法を改め、処刑は速やかに執り行うか、火炙りなどの極刑では予め殺害して行う事とした。
 諸大名は、幕府の定めに従い、横並び的に拷問と処罰を行った。
 この結果、江戸時代の拷問や処刑は、中華(中国)や欧州諸国の様な血塗れな猟奇的陰湿さは薄い。
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 1717年 康煕帝は、民族宗教の伝統的典礼を容認しない不寛容さに激怒して、布教活動を禁止し、許可書を持たない宣教師を中国から追放した。許可書を持つイエズス会の宣教師らは、以前と同じ役職に留まる事が命じられ追放を免れた。
 イエズス会は、中国の伝統文化を尊重し、正統派儒教道教でいう天帝・上帝をキリスト教絶対神と同格とし、孔子老子などの賢人崇拝と宗族としての祖先祭礼などの宗教的儀礼典礼)を認めた。
 清王朝も、柔軟に対応するイエズス会の布教活動を黙認した為に、中国社会で確実に信者を増やした。
 正統派儒教は、自分と祖先の関係を重視し、子孫への関心を軽視した。つまり、自分の幸福のみを追求する「個」の思想である。
 中国大陸は、正統派儒教の価値観により戦乱と略奪が絶えなかい、生き地獄と化していた。
 マルクスユダヤ人)「ちょうど法王の背後にイエズス会がいるように、全ての専制君主の背後にはユダヤ人がいるという事を我々は知っている。イエズス会の軍隊が全ての自由な思想を殺したように、もし、何であれ、諸国や人々の冨が、人類の宝を盗んだユダヤ人のものでなかったなら、ユダヤ人のものになるまで圧政の企みは成功の機会を持ち続け、戦争は資本家が止めるまで奨励された。イエスエルサレムの神殿から高利貸しを追い出したのは疑いもなく1856年前のことである。専制君主と独裁者の後ろにいるのは現代の高利貸しのようだ。その大多数はユダヤ人である。ユダヤ人が世界の生命を脅かすほど強くなった」
 フランチェスコ会ドミニコ会などの後発各派は、信者を増やして地盤を固めているイエズス会の布教活動を妨害する為に、布教の為に中国の民族宗教に妥協して伝統的典礼を容認した事は教義に違反するとして、ローマ教皇に訴えた。
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 1719年 琉球首里城には、清国冊封使を歓迎する北殿と薩摩藩使節を歓待する南殿があった。
 清国使節を接待するには多額の費用がかかる為に為に、薩摩から借り入れた。
 琉球王府は、薩摩への好意して、琉球人女性が薩摩武士との間で子供を生めば一族を士族に取り立て、混血児を幕府との取り次ぎ役に抜擢した。
 琉球王朝は、大陸ではなく、薩摩への依存の強めていった。
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 1720年 第8代将軍徳川吉宗(1716年〜1745年)は、京の銀工・中根玄圭の建言を受け、キリスト教関連の書物を禁止しながら、西洋の優れた科学などの実学に関する洋書の輸入を解禁した。
 儒学者青木昆陽や野呂元丈らに、オランダ語蘭学を学ぶことを命じた。
 大岡越前細田勘定奉行は、豊作で米価が下落して景気が悪くなった為に、通貨改鋳を行って大量の貨幣を町の中にばらまいた。
 日本中に溢れた金と銀は、南蛮の商品を購入する事によって外国に大量に流失して不足し始めた。
 金価格は日本で安く西洋で高かった為に、オランダ商人は二束三文のがらくたを高値で売りつけて儲けていた。
 物珍しい舶来品を好む日本人は、それが意味のない商品でも大金を払って購入していた。
 見知らぬ学問や技術への知識的好奇心旺盛な当時の日本人は、学者や職人はもちろん、町人や百姓に至るまで理解できなくとも知ろうとした。
 特に興味を持ったのは、理屈をこねる文化系学問より実生活に関係ある理科系学問であった。
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 1722年 徳川吉宗は、貧窮民を無料で治療するべく、小石川薬園の中に療養施設・小石川養生所の設立を命じた。
 収容規模は、設立当初は40人、翌年に100人、最終的には約110人。
 山本周五郎「人間ほど尊く美しく、『清らかでたのもしいものはない』と去定は云って、『だがまた人間ほど卑しく汚らわしく、愚鈍で邪悪で貪欲でいやらしいものはない』
 『世の中は絶えず動いている、農、工、商、学問、すべて休みなく、前へ前へと進んでいる。それについてゆけない者のことなど構ってはいられない、──だが、ついてゆけない者はいるのだし、かれらも人間なのだ、いま富み栄えている者よりも、貧困と無知のために苦しんでいる者たちのほうにこそ、おれは却(かえ)って人間のもっともらしさを感じ、未来の希望が持てるように思えるのだ』」(『赤ひげ診療譚』)
 幕府は、心中の流行に歯止めをかけるべく、「心中」という言葉の使用を禁じて「相対死」とする事を定めた。
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 1724年 バチカンは、正式に、祖先崇拝を全面禁止とした。
 ヴォルテール啓蒙思想家は、陰鬱なキリスト教会の精神支配からの自由を訴え、中国人の宗教を否定する典礼問題論争を批判し、同時に信仰中心のキリスト教歴史観を否定した。
 ヨーロッパ世界は、絶対神のもとでの宗教支配から脱出し、人間としての諸権利を持った自由を求め始めた。
 雍正帝は、福建省でのドミニコ会宣教師による事件を理由にして、キリスト教布教禁止令を出し、交易に従事しない白人をマカオに追放した。
 宣教師らは、寛大の処置を懇願した。雍正帝は、キリスト教の布教が帝国の危機をもたらすと警戒し、暦と地図の作成に従事するイエズス会宣教師約20名以外をマカオに追放した。同時に、キリスト擁護派も中央から地方へ左遷した。
 各地でも、キリスト教弾圧が行われ、多くの宣教師がマカオに追放された。
 だが、中国は広く、地方の官憲は腐敗・堕落していた。宣教師等は、彼等に金を渡して密入国し、正統派儒教に見放された貧困層を中心に布教活動を続けた。
 これ以降、大陸への浸透は加速し、身分低い下層階級を中心にして多くの中国人が改宗して、中国は隠れキリシタン王国となった。
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 1727年 清国とロシア帝国は、キャフタ条約を締結した。同和平条約の草稿を作成したのは、イエズス会の宣教師であった。
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 第八代将軍吉宗は、幕府の基本法である公事方御定書を編纂し、71条に「切り捨て御免」を武士の特権として認めた。
 武士が「斬り捨て御免」で殺害した時は、本当に町人が無礼を働いたかどうかを厳しく詮議し、武士の申し立て通りに間違いがなければ許されたが、少しでも嘘があれば斬った武士に厳しい処罰を加えた。
 斬られた庶民に落ち度がなければ、武士に切腹を申し渡した。
 江戸時代では、切り捨て御免が認められた例はそれほど多くなかったと言われている。
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