🏞71)─1─享保の飢餓。宝暦の飢饉。リスボン地震。徳川吉宗の死。1730年~No.289 @  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の封建領主である幕府・大名、特権階級である武士・サムライは、凶作で飢餓に陥り今にも餓死しそうな領民・百姓を一人でも救うべくできる限りの手を尽くしていた。
 故郷で食べ物をなくした飢餓民は、乞食となり江戸・大坂・京都や城下町などに流れ込み、非人・エタ・河原者・賤民達の下層民部落に住み着き、御上や豪商・豪農そして大寺院・神社などが行う炊き出し・施しに並んで生き延びていた。
 日本では如何なる大飢饉に襲われても、中国・朝鮮や西洋のような数百万人という餓死者は出した事はない。
 日本の封建領主や特権階級及び富裕層は、大陸とは全く違う。
 日本神道・日本仏教は、西洋のキリスト教や中華の儒教とも異なる。
 日本には、マルクス主義が社会問題として取り上げる人民・民衆・大衆は存在しなかった。
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 政治の町・江戸の人口は100万人で、町人と武士は半々であった。
 その多くが男性で、生涯独身で結婚できなかった。
 経済の町・大坂は40万人で、武士は約1万人で、残りは町人であった。
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 日本には、大陸的な天才は生まれず、居たのは島国的な秀才のみであった。
 情緒的な日本人が好むのは、神に愛された生まれながらの神童ではなく、艱難辛苦を乗り越えたという物語を持った職人的努力家である。
 合理的を好み、観念的を嫌った。
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 和辻哲郎「我々は自国の文化をどれだほど古く遡っても、外国崇拝の痕跡のない時代に達する事は出来ない」
 日本民族は海の外への憧れが強い分、外国をよく知る博学者は外国礼賛の危険性を理解するだけに、絶えず民族主義で日本人の目を国内に引き戻すべく警鐘を鳴らしてきた。 
 菅原道真本居宣長らは儒教価値観の中華文明の、西郷隆盛佐久間象山らはキリスト教価値観西洋文明の、その危険な本質を見抜いていた。
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 江戸幕府は、各大名に徳川将軍家に楯突かせない為に、金銭的余裕をなくす目的で参勤交代や天下普請など大金がかかる諸役を命じていた。
 各大名は、藩財政が苦しくとも無理難題の幕命に従うべく、藩政改革を絶えず行い、家臣への俸禄を減らし、年貢を引き上げ、豪商や豪農に多額の借金をし、地場産業の育成して特産品を作って売ったりして支度金を用意した。
 年貢を引き上げられて不満を抱く百姓は、一揆を行って逆らい、藩と話し合った。話し合いで解決できなければ、泣き寝入りをせず、江戸に出て公儀へ直に藩の不当を訴えた。
 大名は、体面を保つ為に豪壮な行列を組むのは、出国で城下町を出る前、他藩の城下町を通過する際、京・大坂などの都市を通過する際、そして江戸に入って屋敷に入るまでであった。
 各藩は、旅行費を抑えるべく、行列の3分の1を家臣ではなく現地で調達した臨時の日雇いで誤魔化していた。
 街道の宿場やその周囲の農村は参勤交替で潤い、「金は天下の回りもの」として、日本全体に金が大量に出回り、北は青森から南は鹿児島まで生活レベルは一定して貧困の格差が低かった。
 各大名が、経費をケチった宿泊代を出し渋ったり、横暴な振る舞いをして宿場で暴れたら、世間での評判を落として体面を傷付け、次回から宿泊を拒否される恐れがある為に、宿場役人には気を遣った。
 各地の方言や風習や物産が、江戸・京都・大阪などの情報や文化や芸能が、参勤交代によって日本全国隅々まで行き渡った。
 その基層にあったのが、開放的な日本神道と無常観の日本仏教の信仰であて、閉鎖的で息苦しい硬直した儒教ではない。
 参勤交代が廃止されると、大名は幕府の命令を聞かなくなり、生活レベルの均一は崩壊し庶民の間で貧富の格差が広がり社会は不安定になった。
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 百姓には、約束を守らない領主・大名に対して、ご無理ご尤もと逆らわず耐え忍ぶ「寝百姓」と、政道の理不尽は糺し猛省を促す為に一揆を起こす「立ち百姓」がいた。
 権力や権威に懐疑的な庶民は、命を賭けて権力に逆らってまで正しい事を押し通そうとする「立ち百姓」に声援を送った。
 領主・大名にとって、年貢を納める百姓ほど油断も隙もないたちが悪く領民はいなかった。
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 100万人の大都市であった江戸は、武士と町人が概ね各50万人ずつであった。
 幕府は、江戸の治安を守る為に南北両町奉行所に各140名の武士を配して、警視庁、裁判所、検察庁、刑務所などの役割を与えていた。
 警察官として犯罪捜査にあたるのは各24名の同心で、検察として犯罪吟味は各10名の与力が行った。
 町奉行は、与力が調べた「吟味詰りの口書」を基にして重罪事件や難事件を、短期間で、情状面を盛り込み、死罪などの厳罰を避けながら判決を下した。
 カール・シュンベリー「身分や権力によって左右される事なく正義が行われ、慈悲を乞う者もいなかった」
 裁判費用は幕府持ちで、庶民に請求される事はなかった。
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 岡っ引きは、町奉行所とは関係がなく与力・同心の個人的な配下で私的探索人のような存在で、正式な役人ではない為に町奉行所からは給金を貰ってはいなかった。
 雇い主の与力や同心と一緒に行動する時か捜索令状である「お手当の事」の書状を持っている時以外で、房なし十手を携行する事が認められていなかった。
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 江戸時代中期、旗本の数は約5,200人で、御家人は約1万7,400人とされた。
 直参は、1万石未満の旗本を言う。
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 1730年 尾張藩第7代藩主徳川宗春は、徳川吉宗の質素倹約による緊縮財政政策である享保の改革に反発して、全く逆の豪華絢爛たる放漫財政政策を行った。
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 1732年 享保の飢餓(〜33年)。日本は、度々、飢餓に襲われて夥しい餓死者を出した。
 だが。餓死するのは、地方の貧しい中小規模農家であった。
 城下町や大きな町の町人は、飢えてひもじい思いをしても餓死する事はあまりなかった。
 サムライは、借金が禹へても飢える事はなかった。
 飢餓地帯の百姓等は、食べ物を求めて町に殺到した。
 町の貧民窟に住む非人やエタは、飢餓地帯からの避難民で急増した。
 サムライは、領地経営として、藩財政を悪化させても飢餓民を助けた。
 だが。サムライも、全てが領民思いであったわけではなく、餓死する領民を見捨てたサムライもいた。
 優しい地主は飢えた小作人を助けたが、強欲な地主は小作人を見捨てた。
 日本人にも色々いて、他人の生き死にに関心を持たない日本人も多くいた。
 日本の歴史が、全て素晴らしかったというのは真っ赤な嘘で、陰湿で、陰険な、醜い所も多々あった。
 現代の日本人は、そうしたエゲツナイ面を持っているのも事実で、イジメや嫌がらせは当然でなくなる事はない。
 徳川吉宗の治世の後半は、自然災害による飢饉と年貢に於ける徴収方法の転向で、各地に一揆が起きていた。
 ローマ教皇クレメンス12世は、祖先崇拝は絶対神の理法に違反するとして禁止を発表し、如何なる民族宗教をも完全否定した。
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 1733年 第8代将軍徳川吉宗は、夏の江戸の風物詩として隅田川花火大会を始めた。
 娯楽は、庶民の為にあった。
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 1735年 カルル・リンネは、『自然の体系』を発表した。人類を、姿形から二つの分類した。
 「ホモ・サピエンス(賢い人)」。白人キリスト教徒で、絶対神に愛され魂を授かった人間。
 「ホモ・モンストル(醜い人)」。絶対神から見捨てられた有色人種で、命はあっても崇高なる魂を有さない獣に近い人。
 獣に近い人間は、家畜と同様に使役しても構わない。
 モンテスキュー「英知に富んだ神が、こんあにも真っ黒な体の中に魂を、それも善良な魂を、宿らせたとは考えにくい 」
 キリスト教的人種差別から、日本人などの異教徒有色人種は家畜同様の劣った人間とされ、改宗したとしても白人同様の普通の人間とは見なかった。
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 1736年 会津藩は、喜多方市山都町の本木・早稲谷地区の水を引くべく村人総出で「本木上堰(うわぜき)」に着工し、12年かけて完成させた。 
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 1740〜48年 オーストリア継承戦争オーストリアハプスブルク家の男子相続人が絶えた為に、皇女マリア゠テレジアが家督を継いで、神聖ローマ皇帝に即位した。
 プロイセンとフランスは、女性の継承を認めず、オーストリアを攻撃した。
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 1741年 中国の総人口は、1億4,341万人。
 膨張の積極政策が終了するや、侵略による富の略奪ができなくなり、巨大化した中国は衰退し始めた。
 清国の衰退は、対外膨張戦争を止めた乾隆帝の治世から始まった。
 上下関係を絶対視する正統派儒教価値観では、庶民を「人」とは認められなかった。教養ある支配層は、下賤なる民草の生死を一切考慮しなかった。その為に、貧富の格差が増大して社会問題化した。
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 1742年 『公事方御定書』制定。御定書百箇条、48条で密通の御仕置は「死罪」と定めた。
 服部早苗(婚姻史)「当時(平安時代)の高級官僚の俸給は莫大で、藤原道長クラスだと現在換算で年俸数億円がざら。これを確実に自分の息子に世襲させるため、妻と他の男との性交渉を禁止したのです」
 「庶民は一生結婚しないことも多く、男女関係も大らかだったようです。国民全体に〝不貞意識〟が浸透したのは、貞節を強調する明治の純潔教育以降です」
 「好きなったらセックスし、気持ちが冷めたら別れたのが、本来の日本人の婚姻観。不倫の復権は、むしろ自然なことだと思います」
 1745年 大岡越前は、密通が死罪は重すぎるとして、将軍吉宗に間男の内済方針を提言した。
 間男は、示談金として大判1枚7両2分を夫に支払う事と改めた。
 男系重視の儒教思想が普及するや、遺産相続は父親から息子への父系に限られ、これまでの父系母系両系相続はできなくなった。
 その結果、女性の貞淑が求められ、女性側の色恋は禁止となり、妻の通姦は重罪として罰せられた。
 ただし。上級武士が人妻に手を出す事がある為に、夫に金銭を贈って詫びを入れて許されれば罪に問わないという抜け道をよういした。
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 1746年 中国の官憲は、福建省密入国して秘密教会を建設して布教活動を行っていた、ドミニコ会宣教師を逮捕した。
 乾隆帝は、国法に従ってキリスト教弾圧を行い、国禁を破って密入国している宣教師を逮捕して追放した。
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 1748年 アンソンは、イギリス海軍軍人として世界を周航した経験を基にして『世界一周旅行』を、ロンドンで出版した。
 中国の実状が知れ渡るや、中国ブームは去った。
 モンテスキューは、中国の様な法治を無視した人治的専制君主による支配体制は、自浄能力なく腐敗すると批判した。
 ルソーは、中国を自由も平等もない、非人道的奴隷国家と酷評した。
 モンテスキュー「現に問題となっている連中(非白人)は、足の先から頭まで真黒である。そして、彼らは、同情してやるのもほとんど不可能なほどペシャンコの鼻の持主である。
 極めて英明なる存在である神が、こんなにも真黒な肉体の内に、魂を、それも善良なる魂を宿された、という考えに同調する事はできない。
 人間性の本質を形成するものは色であるという考え方は非常に自然であり……
 黒人が常識を持っていない事の証明は、文明化された諸国民のもとであんなに大きな重要性を持っている金よりも、ガラス製の首飾りを珍重するところに示されている。
 我々がこうした連中を人間であると想定するような事は不可能である。なぜなら、我々が彼らを人間だと想像するような事をすれば、人はだんだん我々自身もキリスト教徒ではないと思うようになってくるであろうから」(1748年『法の精神』)
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 1755年 宝暦の飢饉(〜56年)。
 清国は、最大の強敵・ジューンガル帝国を滅ぼし領土に組み込んだ。
 清朝は、他の王朝に比べて数多くの優秀な皇帝を輩出し、国家経営を上手く行い、経済が発展し安定していたという。
 その為に、人口は急増して4億人に膨れ上がった。
 人口増加で生活できなくなった貧民層は、新天地を求めてインドシナ半島インドネシア諸島などに移住した。
 国禁を破って出国した中国人は、未開の土地を開墾して農民となるか、商いを初めて商人となるか、町や港湾で肉体労働を行う自由民・苦力(クーリー)となるか、社会からあぶれて盗賊か海賊などの犯罪者となった。
彼等は、金を貯めて帰国するという目的を持った華僑とは違って、中国そのものを捨てた華人であった。
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 1755年11月1日午前9時40分 M8〜9 ポルトガル首都リスボン巨大地震
 地震の後の大津波。そして、街中からの出火でリスボンは6日間燃えた。
 人口の3分の2である約4万人が死亡した。
 ヨーロッパ史上最大の大地震
 イエズス会は、地震は自然の現象ではなく「神の大いなる罰」と説明し、悔い改めるよう説いた。
 11月4日 ポンバル公爵は、災害は神の怒りではないとして、被災者の救済とリスボンの復興に取り掛かった。
 イギリス王国、フランス王国スペイン王国、ドイツなどは、日頃の敵対関係を一先ず脇に置き、被災者救援の為に物資を送った。
 ヨーロッパの知識人は、罪もない子供までもが神の怒りで死亡したのは納得がいかないとして、自然の現象に過ぎないとキリスト教会に強く抗議した。
 キリスト教会は、抗議を受け入れ、神の天罰と地震及び津波を分けた。
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 1756〜63年 七年戦争オーストリアは、フランスと同盟を結び、シュレジエンを奪還する為にプロイセンを攻撃した。
 イギリスは、アメリカの植民地をめぐってフランスと戦い、勝利を得た。パリ条約(763年)で、イギリスはカナダ・ミシシッピ川以東を獲得した。
 『諸国民の習俗と精神についての試論』が出版され、パラグアイ居住地での住民に対するイエズス会の洗脳的教育が問題となるや、イエズス会批判が起きた。
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 1757(宝暦7)年 鶴屋南北は、庶民が日本近海に頻繁に出没する外国船への不安を感じていたので、「天竺徳兵衛聞書従来」の戯作を書き、歌舞伎で上演した。
 同じ様な戯作を、関西の並木正三も「日蓮聖人御法海」として発表していた。
 内容は、蒙古襲来で日本を救った日蓮を題材として架空の物語であった。
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 1757年 清朝は、宣教師の入国を阻止する為に、交易港を広州一港に制限し、ヨーロッパ人の上陸を禁止した。
 プラッシーの戦い。イギリスとフランスは、インド・ムガール帝国を植民地化する権利を巡って戦い、イギリスが勝利した。
 フランスは、新たな植民地を求めて東進して、ビルマ王国やタイ王国を素通りして中国南部・インドシナ半島に植民地を築こうとした。
 イギリスは、フランスの先に出て、中国に直接植民地を建設する為に食い込み、清国・満州族支配に不満を持つ漢族を手なずけ内戦を起こさせるべく画策し始めた。
 フィリピンを植民地とするスペインとインドネシアを植民地とするオランダは、植民地獲得競争に参加してきた両国に警戒し、植民地支配を強化する為に独立を希望する原住民を弾圧し、拷問にかけ、そして虐殺した。
 キリスト教会は、民族宗教の撲滅に異常な熱意を燃やしたが、搾取され虐待され奴隷的重労働を強要される異教徒原住民の具体的救済には興味がなかった。異教徒として処刑される原住民の魂を救済するべく、絶対神による「隣人愛の信仰」に改宗させ、キリスト教徒として祝福を与えて処刑場に送り出した。
 西洋列強は、キリスト教の使命に従って植民地を拡大する侵略戦争を起こし、絶対神の御名によっておびただしい血を流す虐殺を行った。
 侵略戦争の原因は、自国居留民の保護かキリスト教宣教師の虐待もしくは虐殺であった。
 キリスト教価値観の白人は、偏狭な排他的人種差別主義者として、異文化・異教徒の非白人を人間以下の獣と決めつけてわかり合う事を拒絶して虐殺した。
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 1759年 ポルトガル国王は、パラグアイ支配に対して、イエズス会インディオを支援したかどで、本国及び全植民地でイエズス会の解散を命じた。
 西洋諸国は、宗教的白人至上主義による非白人への植民地支配を妨害する者は許さなかった。
 白人キリスト教徒は、非白人非キリスト教徒を人間とは認め値なかった。
 清国は、旧ジューンガル領のタリム・ジュンガリアの両盆地を版図に組み入れ、1884年に新疆省を設置してた。
 清朝後期。周辺地域に帝国を脅かす敵がいなくなるや、科挙に合格した漢族官吏の管理する地方の多くが、漢族の悪弊で不正腐敗が絶えず荒廃していたといわれている。
 中国の読書人は、地方の名門・名家出身者として、中央の科挙試験に合格して高位高官になるべく仕事をせずに儒教の勉強に励んでいた。
 中国人知識層の目的は、天下万民が幸せに暮らせる世の中を創るのではなく、自分の血族・宗族のみの繁栄だけであった。
 口先で儒教の道徳を熱っぽう語るが決して実行しようとせず、他人に儒教の規律の遵守を強要する。
 つまり。中国には、儒教の崇高なる理想は存在しない。
 中国の面子は、人間以下の獣として見下す他人から自尊心を守る為に存在する、排他的な差別感情である。
 中国人は生まれ育った土地から離れる事が少なかった為に、方言が多く、共通言語を持たなかった。方言は、その地域限定の言語で、他の方言地域に行けば通用しなかった。
 遊牧民として草原を駆け回って帝国を創った満州女真族は、漢族の様な夜郎自大的き気質はなかった。
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 1760年 葛飾北斎は、武蔵国葛飾郡の貧しい百姓に生まれ、生涯3万点以上の作品を残し、19世紀の世界絵画にジャポニズム(日本趣味)を巻き起こして、印象派画家達に影響を与えた。
 エドガー・ドガ北斎は多々ある浮世絵師のひとりではない。北斎自身が島であり、大陸であり、世界そのものである」



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