🏯13)─2─武士の子供は大人の心得として6歳から仏間で「切腹の練習」をしていた。~No.24 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代の日本人には、民族的な歴史力・伝統力・文化力・宗教力はなく、武士道、武士道精神、大和魂、日本精神の欠片もない為に、武士・サムライを理解できない。
 特に、リベラル派、革新派、エセ保守派、左派・ネットサヨク、過激派、護憲派人権派、反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人達はそうだと言える、彼らは超エリート層と言われる高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達である。
 彼らは日本人であっても日本民族ではない。
 日本民族の心・志・誠を持たない彼らに、武士・武士道そしてを百姓・百姓根性、職人・職人魂などを語る資格はない。
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 2023年5月13日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「6歳から仏間で「切腹の練習」をする…「武士の中の武士」と呼ばれた会津藩のすさまじい子育てルール【2022編集部セレクション】
 河合 敦
 © PRESIDENT Online
 2022年下半期(7月~12月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2022年7月19日)江戸時代の子供たちはどんな教育を受けていたのか。歴史研究家の河合敦さんは「教育は各藩にゆだねられていた。徳川家に恩を受けた歴史のある会津藩では、幼いときから目上の人や父母に絶対服従することを家庭で教えていたため、独特な士風が醸成された」という――。
 ※本稿は、河合敦『江戸500藩全解剖』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
 勇敢な薩摩隼人をつくり上げた教育システム
 薩摩武士の勇猛さは江戸時代、天下に知れ渡っていたが、ようやく薩摩藩に藩校が設定されるのは安永2年(1773)のことで、それ以前は郷中(ごうちゅう)と呼ばれる教育システムが藩士の育成を全面的に担っていた。
 薩摩藩では藩士の子供たちは郷中(方限(ほうぎり))と呼ぶ近隣グループをつくって自主教育をおこなった。6歳から10歳頃までを小稚児(こちご)、11歳から15歳頃までを長稚児(おせちご)、15歳から25歳頃(妻帯前)までを二才(にせ)と呼び、それぞれの同年齢集団がお互いに研鑚しあった。
 また小稚児集団は長稚児に、長稚児は二才に指導を仰ぐ年功序列の教育制度が機能していた。
 郷中は特定の教育施設を持たないが、稚児は毎朝6時に自分の敬愛する二才の屋敷へ行き、そこで四書五経などを学ぶことになっていた。午前8時になると、路上や広場に集まって同年齢集団で相撲や戦ごっこ、駆けっこや縄跳びなどで遊びながら体を鍛えた。午前10時、小稚児集団は長稚児のもとに集まり、今朝学んだことを反復させられた。うまくできないと、叱責(しっせき)されたり折檻を受けた。
 昼から午後4時までは遊戯の時間。ただ、個人行動は許されず、仲間とともに遊ばなくてはならなかった。その後は武道の鍛錬ということで、稚児は二才から2時間みっちりしごかれた。午後6時になると、小稚児は一切の外出を禁じられた。いっぽう長稚児は、二才のもとに出向いて夜8時まで夜話を聞き、武士としてのあり方を学んだ。こうしてようやく1日の日課が終わった。
 郷中の教育で重視されたのは、知識の修得ではなかった。仲間との団結、長幼順の遵守、武芸の上達、いざというときに命を捨てる覚悟、そして人間としての潔さであった。こうした教育を受け続けることで、主君の命に絶対的に服従する剽悍(ひょうかん)な薩摩隼人が完成したのだ。
 領主がめまぐるしく入れ替わった会津藩
 もう1つ、武士の中の武士と言われ、幕末、薩摩藩と戦った会津藩の教育についても紹介しよう。
 会津藩松平家の祖は保科正之である。ただ、その入封以前の50年間、領主はまことにめまぐるしく入れ替わった。中世以来、会津の地を支配していたのは蘆名(あしな)氏だったが、天正17年(1589)に伊達政宗がこの地を占領した。しかしその政宗も翌年、小田原平定に遅延したことから豊臣秀吉会津を没収された。秀吉は同年に蒲生氏郷会津に入れた。氏郷は居城を黒川に定め、同地を若松と改称して城下町の建設をはじめた。
 だが、氏郷の死後、その子秀行は13歳で家督を継いだが、重臣間の抗争を咎められて石高を大幅に減らされ、宇都宮へ領地を移された。代わって秀吉から会津を付与されたのは上杉景勝だった。景勝は会津を中心に120万石を有する大大名となり、五大老として豊臣政権をささえた。ところが慶長5年(1600)、徳川家康と敵対、関ヶ原合戦後は米沢30万石へ移封され、蒲生秀行が60万石の大名として旧領会津へ戻った。
 徳川家光と異母弟の保科正之の篤い信頼関係
 ところが、慶長17年に秀行が没すると、幼君忠郷のもとでまたも家中騒動が勃発、寛永4年(1627)、蒲生氏は減封のうえ伊予松山へ移された。次に会津を領したのは加藤嘉明であったが、嘉明は寛永8年に没した。子の明成が家督を相続すると、やがて重臣の堀主水(ほりもんど)と激しく抗争するようになり、寛永20年、なんと自ら会津40万石の返上を幕府に願い出たのである。
 このため会津保科正之に付与されることになった。
 正之は、将軍徳川家光の異母弟(秀忠の側室の子)である。だが、父の将軍秀忠は恐妻家で、正室の江(ごう)が側室を持つことを許さなかったので、生前、我が子と認知されなかった。
 このため正之は高遠2万5千石を領する保科正光に養育され、その後を継いで藩主となった。やがて異母弟がいることを知った将軍家光が正之を優遇し、山形藩主(20万石)に抜擢、次いで会津23万石を与えたのである。家光の正之に対する信頼はいよいよ深くなり、自身が死去するさい、11歳の我が子家綱(4代将軍)を補佐してくれるよう、正之に強く依願。正之はその死に至るまで、老中たちと幕政を主導した。
 6、7歳の子弟は毎日「什の掟」を読み上げる
そんな正之は家中に対して、全15箇条の家訓を発した。特徴的なのは第1条である。
「一、大君(将軍)の儀、一心に大切に忠勤を存ずべし。列国(諸藩)の例を以て自ら処すべからず。若し二心を懐(いだ)かば、則ち我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」
会津藩士は、まず将軍への忠節を第一とし、他藩と同じように行動せず、あくまで徳川家に尽くし通せ」
 というのが、その大意である。
 自分を会津23万石の大大名に抜擢してくれた家光に感謝し、その恩にいつか報いるため、徳川将軍家に対する忠勤を命じる文言を家訓の冒頭に持ってきたのであろう。
 そんな会津藩の教育だが、10歳になると家臣全員が藩校「日新館」に入学するが、すでに子弟の教育はそれ以前からはじまっていた。
 男児は6、7歳になると、城下の寺子屋や私塾に入り読み書きを学ぶが、同時に「什(じゅう)」と称する10名前後のグループに属し、毎日いっしょに遊ぶ。リーダーを什長と呼び、9歳児がその任に就く。什長は毎日仲間に向かって、以下の「什の掟」を読み上げる。
「一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ。
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
三、虚言を言うことはなりませぬ。
四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
五、弱い者をいじめてはなりませぬ。
六、戸外で物を食べてはなりませぬ。
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。
ならぬことは、ならぬものです」
 掟を破った子は「手あぶり」「雪埋め」「派切り」に…
 このとき子供たちは一条読み終わるごとに、「はい」と返事をし、丁寧にお辞儀をする。
 この後、什長は全員に向かって「昨日から今日まで、掟に背いたものはあるか」と問う。もし違反を告訴されたり、自ら告白した者がいたら、什長が本人に問いただし、みなで制裁方法を決めた。什の仲間で判断できないときは、10歳以上の男性に判断を仰ぎ、その決定にしたがった。
 処分は、什の仲間に謝罪する「無念」、手のひらや甲を思い切りたたく「しっぺい」、手を火鉢のうえにかざす「手あぶり」、雪の上に押し倒し、上から雪をかぶせる「雪埋め」といったものがあったが、最も重いのは「派切り」だった。仲間から絶交され、什から追放されてしまうのだ。
 派切りされた子は、父や兄が本人同伴で什の仲間に謝まり、その罪を許してもらうのが慣例だった。
 さらに藩士の子供たちは寺子屋や塾から自宅に戻ると、まず仏間へ入って切腹の作法を練習する。「いつ藩命で切腹を申しつかっても、武士らしく自害できるように」との考えからであった。
「父母の助けとなることは労を厭わず、勤め行うべし」
 なお、文化2年(1805)になると、会津藩は「幼年者心得之廉書(かどがき)十七カ条」を全藩士に配布し、幼少年の家庭教育を徹底させた。
 いくつか紹介しよう。
「其の一、毎朝早く起き、手をあらい口すすぎ櫛(くしけず)り衣を正うして、父母の機嫌を伺い、年齢に応じ座中を掃除し、客の設け等致すべし」
「其の三、父母および目上の者の出入りには必ず送迎すべし」
「其の四、出る時は父母に見(まみえ)て暇(いとま)を乞い、行き先を告げ、帰る時も同じく其の旨を告ぐべし。すべて何事も父母に伺い己れ専らになすべからず」
「其の十、人を誹(そし)り、人を笑い、あるいは戯れに高きに上り、深きに臨み危うきことなすべからず」
「其の十四、父母の助けとなることはいささかも労を厭わず、まめやかに勤め行うべし」
 このように会津藩では、幼いときから目上の者や父母に対する絶対的な服従心を家庭で教えていたのである。こうした教育により、会津藩では独特な士風が醸成されるようになったのだ。
 朱子学ではなく徂徠学を主とした庄内藩
 最後にもう1つ、ユニークな教育をおこなった藩を紹介しよう。
 庄内藩である。文化2年(1805)、9代藩主の酒井忠徳は藩校「致道館」を設置した。続く10代藩主忠器は、致道館の講堂で役人たちに政務をとらせ、会議や裁判もおこなわせた。「藩政は学問をすることで身につく。学問を身につける場は藩校。ならば藩校そのものを藩庁(藩の役所)とすべきだ」という信念からだった。文化13年(1816)には鶴ヶ岡城三の丸に致道館を拡大移築し、藩庁の機能もここに置いた。
 教育内容は朱子学ではなく、荻生徂徠がとなえた徂徠学(古文辞学)を主とした。
 その特徴は、中国の古典や聖賢の文に直接ふれ、聖人の道を明らかにしようとしたところで、経世論政治学)にも重点を置いた。
 文化2年、庄内藩は「被仰出書(おおせいだされしょ)」という形式で、致道館の教育目標を明らかにした。そこには「国家(庄内藩)の御用に相立候人物」、具体的にいうと「経術を明らかにし、その身を正し、古今に通じ、人情に達し、時務を知る(儒教の文献を解き明かし、品行方正で歴史に詳しく、人の情けを知り、的確に政務がとれる)」人材の育成を目指したのである。ただ、面白いのは、その目標を達成するためにとられた教育方法だった。
 生徒の自主性を重視する「放任主義
 初代校長の白井矢太夫は教職員に対し、次のように述べている。
「諸生(学生)の業(学業)を強いて責むる(強制する)は由(よし)なきなり(良くない)。今度、学校(致道館)建てられたれば、才性(個人の才能)によりて教育の道違(たが)はずば、自然(おのずから)俊才の士生ずべし。とにかく学校に有游して、己が業いつしか進めるを覚えざるが如くなるを、教育の道とするなり」
 このように勉学の強要に反対し、「個人によって教育の方法は違うのだから、なんとなく藩校にやって来た学生たちが、自分でも気づかないうちに学業が進んでいる、そうした状況をつくるよう教師は心がけよ」と命じたのである。
 さらに、「学校は子供たちの遊び場なのだから、子供が無礼を働いたりイタズラしても、たいがいのことは大目に見てやれ。教師は、子供たちがあくびしないで面白がるような授業を心がけよ。子供たちの面白がるような本を見せてやれ」と言っているのである。到底、江戸時代における校長の発言とは思えない。
 他の藩校は専任の教師や年長者が下の者を指導するスタイルが一般的だったが、自学自習の時間が多かったことも致道館の特徴だ。
「自分でテキストを選び、自らの力で学習する」
 それが致道館の方針だった。いわば放任主義だ。これも徂徠学の影響であった。
 校長や教頭に一言いえば酒も煙草もOK
 徂徠は著書『太平策』のなかで次のように語っている。
「人ヲ用ル道ハ、其長所ヲ取リテ短所ハカマハヌコトナリ。長所ニ短所ハツキテハナレヌモノ故、長所サヘシレバ、短所ハシルニ及バズ」(人を用いるコツは、その長所だけ取り上げ、短所は気にしないことだ。長所と短所は分離できないのだから、長所さえわかればよいのだ。短所など知る必要はない)
「善ク教ヘル人ハ、一定ノ法ニ拘ラズ其人ノ会得スベキスヂヲ考ヘテ、一所ヲ開ケバアトハ自ラ通ズルモノナリ」(良い先生というのは、臨機応変にその人が獲得できる能力を考えたうえで、一箇所に風穴を開けてやるもの。そうすれば、あとは本人が自分の力で能力を獲得していくだろう)
「彼ヨリ求ムル心ナキニ、此方ヨリ説カントスルハ、説クニハアラデ売ルナリ。売ラントスル一念アリテハ、皆己ガ為ヲ思フニテ、彼ヲ益スルコトハナラヌコトナリ」(生徒が自ら学ぼうという気持ちがないのに、先生が教えようというのは、教育ではなく販売である。そんなことをしても、生徒のためにはならない)
 こうした致道館の気風から、学則もかなり自由だった。
 館内での碁や将棋、飲酒、喫煙、楽器演奏などは禁じられたが、それはあくまで原則で、「格別の訳これある節は、祭酒、司業沙汰に及ぶべきこと」という但し書きが付けられており、校長や教頭に一言いえば、酒を飲んでも、煙草を吸っても大丈夫だったというのだから、驚くばかりだ。
 江戸時代には各藩に教育はゆだねられ、いま紹介したように、ユニークな教育を展開する藩もあったのである。

                    • 河合 敦(かわい・あつし) 歴史研究家・歴史作家 1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数 ----------

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