🏞92)─3─士道・武士道は明治時代から日本に広がった。~No.382 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸時代は、天下泰平で、庶民の時代であって武士・サムライの時代ではなかった。
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 日本の封建社会封建制度は、西洋的思考・知識・教養では理解できない。
 だが、現代の日本は、西洋の思想や哲学を近代学問として日本の歴史を解剖している。
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 総人口の、1割弱が武士で、8割が百姓で、残りが町人・宗教関係者・その他であった。
 江戸時代は、庶民が9割で、武士は1割で、武士の時代ではなく庶民の時代であった。
 江戸の庶民は、西洋キリスト教の民衆ではなかったし、中華儒教の小人でもなかった。
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 『葉隠れ』は、1716年頃に佐賀鍋島藩士・山本常朝の話を同藩士・田代陣基が筆録して作成した書である。
 佐賀藩は、『葉隠れ』を藩外に持ち出し禁止の禁書とし、さらに藩校の教本にも採用しなかった。
 『葉隠れ』は、藩の重臣・要職などごく一部の者のみが読み、一般藩士は読む事ができなかった。
 世間に知られるようになったのは、1906(明治39)年以降であった。
 それまで誰も『葉隠れ』を知らなかった。
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 新渡戸稲造は、1900(明治33)年に英語版の『武士道』を刊行した。
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 庶民の子孫である日本人が、自分は武士・サムライの子孫であり、自分には武士道があると勘違いしたのは大正時代に入ってからである。
 日本人が自分は武士だと勘違いしたキッカケは、立川文庫が爆発的に読まれたからである。
 そして、判官贔屓と勧善懲悪が時代小説の主題となった。
 ウィキペディア
 立川文庫は、立川文明堂大阪市東区博労町、後に南区安堂寺橋通へ移転)が1911年(明治44年)から1924年(大正13年)にかけて196篇を刊行した。 
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 大正時代の歴史小説から、武士・サムライの姿・イメージが変わった。
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 現代で語られる武士・サムライは、本当の武士・サムライではない。
 つまり、偽者である。
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 武士とは、人と殺し合う兵士であったが、平和な時代になると戦いがなくなり用済みとなった。
 解雇されて、浪人になるか、百姓に戻るか。
 あるいは、解雇されず武士を続けるか。
 解雇されずに武士を続ける為には、家禄をもらって働くサラリーマンになるしかならなかった。
 だが、武士を続ける事は、1600年頃の祖先が与えられた家禄と自分の役職手当で生活するしかなく、生活は苦しかった。
 役職手当がなく、祖先の家禄だけでは生活は苦しかった。
 武士は、苦しい生活を補う為に現金が稼げる「副業」を行っていた。
 役職に就けず副業がない武士は、武士株を庶民(百姓・町人)に売って武士を辞めて庶民となった。
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 江戸時代の日本には武士道など存在しなかった。
 日本人が武士道を知ったのは、負けると信じられていた日露戦争に勝利してからである。
 武士道は、大正時代に意図的に歪曲・捏造・改竄された。
 武士道は、昭和時代に入るとに偽物が広まり本物が消された。
 明治初期の武士・サムライは、庶民の間に武士道が広がる事を危惧して、1889(明治22)年に大日本帝国憲法と共に統帥権を作って、軍隊に自由な行動を封じ込めた。
 統帥権の真の目的は、軍部を政府から切り離して特権を与える法律ではなく、軍部が政府を無視して暴走・独走しないように抑えるためであった。
 武士・サムライは、庶民(百姓・町人)のおぞましく恐ろしい本性を知るだけに、庶民に武士道を持たせる事は日本の危機・破滅に繋がると警戒した。
 昭和前期の戦争の悲惨と敗戦の惨劇は、正しい武士道を持った武士・サムライではなく、偽物の武士道を振り回す庶民によってもたらされた。
 明治までは分別ある武士・サムライの時代であったが、大正以降は分別なき庶民の時代であった。
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 本物の武士・サムライは、教養が高かったが故に「臥薪嘗胆」と「会稽の恥」の故事を知っていて、国力のなさからロシア・ドイツ・フランスの三国干渉を涙を呑んで受け入れた。
 日本は、軍事力と経済力を強化して、ロシアと日露戦争で戦って勝利し、ドイツと第一次世界大戦で戦い勝利し、フランスにたいしては仏印に軍隊を派遣して復讐した。
 日本には、ロシア、ドイツ、フランスに対して報復権・復讐権があった。
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 武士・サムライは、戦えば必ず負けると分かっていても、如何に不利な状況にあっても武士の一分・武士の体面を守る為に、死を覚悟して戦った。
 如何に武力差・兵力差があっても、万に一つの望みを信じ、最後は必ず勝つとの信念で戦った。
 戦の趨勢は戦ってもなければ分からない、それが武士・サムライの考え方であった。
 誰も、武力差や兵力差があっても、戦う以上は最初から負けるとは思っていなかった。
 武士・サムライは、小賢しい事は考えなかった。
 小賢しく知恵の回る者は、不利と分かれば主君や見方を裏切り、優勢な敵方に寝返り主君を殺し、その戦功で褒美を貰った。
 それが、本当の武士の姿である。
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 百姓・町人は、戦が始まれば主君や領主を捨てて一目散に逃げ出し、安全な山の上で弁当を食べ酒を飲んで高みの見物をし、戦が終われば戦場に降りて死んだ武士の武具甲冑から服まで全て剥ぎ取って丸裸にし、死体を無造作に穴に放り込んで埋め、落ち武者狩りで負けて逃げ出した武士を討ち取って褒美にありついた。
 勝利して新しい大名・領主となった支配者・実力者に対し、ご無理ご尤もと、愛想笑いを浮かべ、おべっかを使い、、負けた昔の大名・領主の悪事を並べ立て貶して恥じなかった。
 百姓・町人とは、そうした存在である。
 武士・サムライにとって、庶民(百姓・町人)は油断も隙もないずる賢い「奴ら」であった。
 その象徴的出来事が、GHQの日本占領支配における日本人の態度であった。
 現代日本人は、庶民の狡さを際立て、それを強め、武士・サムライからさらに遠ざかっている。
 昭和から平成へと時代が進むにつれて、その傾向はさらに強まってきている。
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 GHQ、マッカーサーに一人抵抗を続けたのは昭和天皇であった。
 昭和天皇の孤独な抵抗のお陰で、日本は今日の日本を残す事ができた。
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 負けた武士・サムライには、遮る者は手当たり次第女子供に関係なく殺して逃げ延びるか、落ち武者狩りに捕まって辱めを受けながら殺されるか、の2つしかなかった。
 捕虜となって生き残る道はなかったのである。
 武士・サムライにとって百姓・町人とは、勝てば面従腹背で従うが、負けると豹変して襲いかかってくる恐ろしい敵であった。
 それ故に、武士・サムライを自称する者は「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」を肝に銘ずる必要があった。
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 日本人は、中国人や朝鮮人とは違い、状況を主体的に判断し、結果はどうであれ納得して行動していた。
 それが、同じ日本国籍を持った、万死のカミカゼ特攻を選んだ日本人であり、万生の徴用工を選んだ朝鮮人である。
 日本民族日本人は、死ぬ意味も生きる意味も知っていた。
 朝鮮人は、死ぬ意味はおろか生きる意味も理解できなかった。
 その意味で、近代化と高度経済成長は、日本では成功したが、朝鮮では失敗した。
 だが、現代日本人は朝鮮人に似てきている。
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 日本民族日本人は、死を強要された自由のない一等国民であった。
 朝鮮人は、生と死の選択が許された自由のある二等国民であった。
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 日本人は教えられた事以上の事を自分で考えて行動した。
 朝鮮人は教えられて事以外はやらず、教えられた事を自分解釈で勝手に行った。
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 日本民族日本人とは、無知で低能で無能で愚鈍で救いようのない愚かな馬鹿なのか、それと賢く優れた有能なのか。
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 日本民族日本人であれば靖国神社は理解できる。
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 昔の日本民族日本人と現代の日本人とが一緒とは限らない。
 むしろ、昔の日本民族日本人と現代の日本人は別人と見た方が正しい
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 出典 三省堂大辞林 第三版について 情報
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 葉隠(はがくれ)
 江戸中期の教訓書、武士の修養書。正しくは『葉隠聞書(はがくれききがき)』、別名『鍋島(なべしま)論語』。書中の「武士道(ぶしどう)と云(いう)は、死ぬ事と見付(みつけ)たり」という一句はとくに有名。肥前(佐賀)鍋島氏の家臣山本神右衛門常朝(じんえもんつねとも)(1659―1719)が武士の生きざまについて語った談話をベースに、門人の田代陳基(たしろのぶもと)が歴代藩主や戦国武士たちの言行録や聞き書きから採録したものを加えて整理し、前後7年をかけて書冊にまとめたもの。常朝は、藩主光茂の御側(おそば)小姓に召され、御書物役に進んだが、1700年(元禄13)光茂の死にあい、追腹(おいばら)にかわるものとして出家した。しかし、元禄(げんろく)以降の鍋島武士の御国(おくに)ぶりが急速に失われていく現状をみて深く慨嘆し、1710年(宝永7)ついにこの物語を始めたという。儒教的な士道論からみれば、極端というべき尚武思想に貫かれているので、藩中でも禁書・奇書の取り扱いを受け、公開を禁じられた。明治中期以降、再認識され、広く一般にも読まれるようになった。[渡邉一郎]」
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 百科事典マイペディアの解説
 葉隠【はがくれ】
 正しくは《葉隠聞書》。《葉隠論語》《鍋島論語》とも。佐賀藩士山本常朝が口述し,田代陣基(つらもと)が筆録した武士の修養書。11巻。1716年成る。武士の生活意識と死の覚悟を藩公の言行等をかりて説く。〈武士道といふは,死ぬ事と見付けたり〉は広く知られる。
 →関連項目山本常朝
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 出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
 世界大百科事典 第2版の解説
 はがくれ【葉隠
 代表的な武士道論書。編著者は不詳であるが,山本常朝の思想的影響下に成立。成立年代も不詳であるが,11716年(享保1)完成とする写本もある。全11巻。巻一,二は,山本常朝が語った武士たる者の心構えを田代陣基が1710年(宝永7)以降に聞書きしたもの。巻三〜九は歴代の鍋島藩主および鍋島武士の言行,巻十は他藩の武士の言行を記す。巻十一は補遺。《葉隠》のほか《葉隠聞書》《葉隠集》の異称があり,写本の系統のちがいを示す。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 武士道(新渡戸稲造の著作)
 新渡戸稲造(にとべいなぞう)の英文著作。原著名『Bushido, the Soul of Japan』。1899年(明治32)アメリカのフィラデルフィアで出版され、翌年日本でも刊行された。彼は武士階級の道徳的あり方を律してきた武士道を「日本の魂」としてとらえ、道徳体系としての武士道が説く義・勇・敢為堅忍の精神、仁・礼・誠・名誉・忠義・克己等々の徳目は、単に武士階級にとどまらず広く人間形成における普遍的規範として西欧におけるキリスト教的な個人倫理に比肩されうるものであると強調している。本書は英語圏国民の間で愛読されたのみでなく、ドイツ語版、ポーランド語版をはじめ7か国語に翻訳された点で、日本人の著作として希有(けう)なものであった。[田代和久]
矢内原忠雄訳『武士道』(岩波文庫)』


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