⚔37)─4・I─徳川家康は「調整型リーダー」多様な決断と統率の姿。~No.162 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2023年1月30日 YAHOO!JAPANニュース Wedge(ウェッジ)「徳川家康は「調整型リーダー」多様な決断と統率の姿
 「調整型」の姿も見せていた徳川家康
 英雄は、とかく「型」にはめられがちだ。織田信長は「直情径行型」、豊臣秀吉は「ひょうきん型」、徳川家康は「忍従型」とか、信長は「天才」、秀吉は「人たらし」、家康は「温情家」という具合だが、誰にも多面性があって、いつも同じ型とは限らず、ときには「意外」と思える一面を見せて驚かせることもあるのだ。
 たとえば、「姉川の戦い」の前日の軍議で、家康が信長の意見に忍従することなく、「第1陣(先陣)」に固執して譲らなかった場面もそれだろう。
 家康の生涯の合戦体験は、17歳の初陣から74歳の大坂の陣まで「大小含めて48戦」と『名将言行録』は書いているが、57戦という説もある。
 大合戦とされるのは、桶狭間の戦い(19歳)、三方ヶ原の戦い(31歳)、小牧・長久手の戦い(43歳)、関ケ原の戦い(59歳)などだが、「姉川の戦い」(29歳)もその一つだった。
 姉川は、北近江を流れて琵琶湖に注ぐ川幅約100メートル、水深1メートル前後(当時)の浅い川である。その川を挟んだ1570(元亀元)年6月の戦いを、参謀本部編纂『日本戦史』は「姉川役(あねがわのえき)」と呼んで、こう説明している。
 「桶狭間役(おけはざまのえき)の後十年にして姉川役あり。織田信長徳川家康とともに南軍を成し、浅井長政朝倉義景の将士とともに北軍を成し、江越(ごうえつ)、濃尾(のうび)、参遠(さんえん)等数州の兵、相会して一地(いっち)に対抗す。また著名の大戦なり」※江越は江州〈近江国〉・越州越後国〉、濃尾は美濃国尾張国、参遠は参州〈三河国〉・遠州遠江国
 姉川の戦いは、地理的には「南軍・北軍の戦」で、「織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍との合戦」をいうが、当初はそういう図式ではなく、「信長の妹(お市の方)の夫、浅井長政も信長側につき、朝倉を挟み討ちにするから南軍楽勝」との戦前予想だった。
 家康も、上洛中の信長から援軍を要請された2月(戦いの4ヵ月前)にはそう思っていたが、戦闘直前に状況が急変する。長政の父久政が「古い付き合いのある朝倉家に敵対することは許さぬ」と強弁し、長政が折れて寝返ったことで状況は一変、苦戦を強いられた。
信長との刎頸の交わり20年
 信長に越前の戦国大名朝倉義景を討つように求めたのは、足利義昭だった。
 義昭は、信長の助けを得て上洛を果たし、室町幕府の15代将軍になるが、それ以前には義景に足利家の再興を何度も命じたり上洛を促すなどしていた。しかし、義景がまったく応じず、無視し続けたので、義昭は立腹、信長に朝倉征伐を要請したのである。
 信長は、「甲州・越後は強く、美濃・近江は弱い。強いところと結んで弱いところを攻めれば、そこの領地が手に入り、京都への道も開けるだろう」と考えて朝倉義景との戦いに踏み切り、同盟関係にある家康に援軍を求めた。これが家康参陣までの経緯だ。
 家康が軍勢5000を率いて浜松を発ったのは3月7日で、4月20日には信長の軍勢3万とともに近江路から若狭に入った。桶狭間の戦いから10年後、軍事同盟を締結してから8年の歳月が流れ、信長は37歳になっていた。家康はというと、奇しくも同盟締結時の信長と同じ29歳だった。
 同盟締結から姉川の戦いに至るまでの家康の主な出来事は、次のようだった。
 21歳 信長と軍事同盟「清州同盟」を結ぶ
 22歳 元康を家康に改名
 23歳 前年に発生した三河一向一揆を平定
 24歳 東三河を入手 ※父が殺された年齢
 25歳 松平から徳川へ改姓。名実ともに独立 ※祖父が殺された年齢
 26歳 長男信康が信長の長女徳姫と結婚。織田家と姻関係に。
 27歳 武田信玄と条約を結び、大井川の遠州を入手
 28歳 今川氏真(義元の遺児。今川家の後継者)を掛川城から追放
 信長との契りは「刎頸の交わり」と評してよいほど強靭で、軍事同盟は信長が本能寺で横死する1582(天正10)年まで、20年もの長きにわたって続くのだ。
 姉川の戦いで落とせないエピソードがある。夕刊紙の見出し風にいうなら、「あの信長が敵前逃亡!?」ともいうべき逃走劇を演じた一件だ。のちに「金ヶ崎の退(の)き口」として語り継がれる「姉川の戦いの前哨戦」で、信長が信じがたい行動に走ったのだ。
 『松平記』や『三河物語』によると、姉川の戦いの2カ月前の1570(元亀元)年4月、「信長は、家康には何も告げずに27日の宵に撤退、そのことを家康は木下藤吉郎(秀吉)から知らされた」(拙著『家康の決断』より)
 その戦は激戦で、『三河風土記(ごふどき)』によると、戦死者は浅井・朝倉軍1700、信長・家康軍800となっているが、『朝倉家記』では信長・家康軍1353を数えた。
 姉川の戦いは、「信長が〝反信長同盟〟に与する朝倉義景の征討戦」という言い方もできる。
 反信長同盟とは、信長が奉じて上京し、将軍にしてやった足利義昭が、信長の傀儡(かいらい)にされるのを嫌って、利害が一致した武田信玄本願寺顕如朝倉義景らに裏で連携を働きかけて形成した信長包囲網を指す。
 信長は、仕切り直しをした。再び江北に攻め入り、大軍にものをいわせて朝倉・浅井連合を葬り去ったものの、長政や久政への信長の怒りは尋常ではなく、彼らの髑髏(どくろ)を盃にして酒を飲んだというホラーエピソードが伝わっているほどだ。
 〝調整型リーダー〟家康の一言
 信長は、姉川の戦いの前日に開いた軍議で、翌日の役割分担を告げた。
 「1番合戦(第1陣)は柴田勝家明智光秀、森右近。家康殿には2番合戦(第2陣)をお願いしたい」
 家康は援軍、いわば客分なので、信長が気をつかったこともあり、妥当な扱いといえたが、家康は不満を表明した。
 「是が非でも、第1陣を仰せつかりたい。先陣は我ら徳川勢にお任せあれ」
 信長は、家康の決意のほどがわからなかったから、こう告げた。
 「1番も2番も同じではござらぬか、徳川殿。2番といっても、合戦の推移にともなって1番になることも多いのだから、ここはひとつ、2番をお頼み申す」
 信長にそこまでいわれても、家康は承知せず、「加勢を仕る以上、末世まで2番と語り伝えられることは迷惑至極でござる。とにもかくにも、1番陣を仰せつけくだされ。そうでなければ、明日の合戦には出陣いたしませぬ」。
 まるで駄々っ子のような言い草だが、「愚直に生きる」を信条とする家康は、死を覚悟して参戦していたのだ。
 家康が1番にこだわるので、信長の家臣のなかには「家康殿の1番は迷惑」と異を唱える者が出たが、信長は「推参者ども、何を知った風なことを抜かす」と一喝、家康の1番陣が決まったと『三河物語』は記している。
 ところが、『三河風土記』によると、一夜明けた決戦当日の朝になって、信長は豹変、家康に使いを送って、心中の変化を伝えさせたという。
 「昨夜、軍議で決めたものの、わが怨みは浅井長政にあるので、この信長自身が浅井を討たねばならぬ。徳川殿は朝倉を討ってくだされ」
 そばにいた徳川四天王の一人、酒井忠次は、ひらめき重視の〝臨機応変型リーダー〟信長の朝令暮改を知って、不満たらたら。思わず泣きを入れた。
 「殿、わが方の兵はすでに浅井勢に向っております。それを今になって急に陣備を変えたりすれば、隊伍が乱れてしまいます」
 すると家康は、涼しい顔で、こういって酒井をなだめたという。
 「よいか、忠次。浅井は小勢、朝倉は大勢だ。大勢へ向かうのが勇士の本領ではないのか。ここは黙って織田殿の仰せに従うのだ」
 家康が「調整型リーダー」としての本領を発揮した瞬間だった。
 いうべきときは、とことんいう。いうべきことは、はっきりいう。だが、相手の言い分にも聞く耳をもち、場合によっては自説を曲げる。そういう融通無碍(ゆうずうむげ)な生き方も家康は是としていたのである。
 家臣を「一枚岩」に束ねる
 WEDGE Online(ウェッジ・オンライン)
 酒井忠次に家康がいった言葉を拡大解釈し、噛み砕いていうと、こうなる。
 「お前の言い分はよくわかる。だが、ここはぐっとこらえ、信長殿の言い分を通してやれ。考えてもみろ。浅井のような小勢を相手にするよりは、朝倉のような大勢を相手にする方が武士としてやりがいがあるというものだ。特にお前のような剛の者に何の不足があろう。天は見ているぞ。ありったけの勇気をふるい、目にものを見せてやれ!」
 酒井忠次は感激し、自分にこう誓ったに違いない。
 「この殿の喜ぶ顔が見たいから、わしは死に物狂いで戦うぞ!」
 不屈の闘志は、時空を超える。
 「オヤジさんの喜ぶ顔が見たくて、必死で頑張った」
 目を輝かせてそういったのは、不眠不休で頑張ってモータースポーツの最高峰F1の頂点をきわめた頃のホンダの技術者たちだった。
 筆者がかつて勤務していたソニーの創業者井深大も、「オヤジ」ではなく「名字」で呼ばれていた点こそ違うが、本田宗一郎と同じくらい社員に慕われていた。
 「井深さんの喜ぶ顔が見たくて、この商品を開発した」
 そんな言葉を宣伝部や広報部にいた頃の筆者は、耳にタコができるほど聞いた。
 井深大本田宗一郎は仲がよく、あるとき本田宗一郎ソニーの大講堂で管理職を集めて講演したことがあったが、そのときの会場がものすごい熱気で包まれていたことは今も鮮明に記憶している。
 ソニーやホンダに限らず、「あの人の喜ぶ顔が見たい」と部下に思われる役員や上司が何人もいる企業は強いのではないか。
 家康の心にあったのは、不遇を囲った人質時代の〝忍耐体験〟に加えて、祖父も父も内紛が原因で家臣に殺されたという〝痛切体験〟である。
 家康は、祖父清康の顔を知らない。家康が生まれる7年前に25歳の若さで死んでいる。
 父広忠は、家康が8歳のときに24歳で死んでいる。幼少期から青年期にかけての人質暮らしに象徴される「悲しみや苦悩や屈辱にまみれた負の境遇」を、「正の境遇」へと変えようとしたのだ。それが家康という英傑の一面である。
 編集部からのお知らせ:城島明彦氏が家康の人生に訪れた大きな「決断」を読者が追体験しつつ、天下人にのぼりつめることができた秘訣から、現代に通じる教訓に迫っております。詳細はこちら。
 城島明彦
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 日本民族は日本列島の中で数万年生きてきた採集漁労農耕狩猟民族で、理想的な指導者は調整型リーダーであった。
 欧米の遊牧狩猟農耕民族は、能力主義個人主義・契約主義によるの理想的指導者はリーダーシップ型であった。
 中華人(漢族系中国人・朝鮮人)は、日本民族とは違い草原の農耕牧畜民族であった。
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 昔の調整型リーダーは、現代の調整型リーダーとは違い、伝承と継承、破壊的イノベーションとリノベーションで時代を作り時代を動かしていた。
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 揺るぎのない唯一絶対の調整型リーダーは、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲を正統とする万世一系の男系父系天皇である。
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 天皇家・皇室は、数千年前の弥生時代古墳時代に、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻し、幸せと豊かさを求めたムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として「天皇下駄論」・「天皇人身御供説」・「天皇生け贄説」で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
 その神聖不可侵の裁可者・天皇という地位を護る為に考え出されたのが、「政治的無答責の君主」、つまり政治権力も宗教権威も持たない天皇の権威つまり「天皇の御威光」である。
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 2月19日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「徳川家康三河一向一揆で予想外「裏切り続出」の訳 松平元康から改名後に起こった衝撃の事件
 真山 知幸 の意見
 三河一向一揆の中心となった勝鬘寺(写真:Jun-Ju/PIXTA
 © 東洋経済オンライン
 NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送が始まり、「徳川家康」に注目が集まっている。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた徳川家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性を紐解きながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第9回は、家康の人生における「三大危機」の1つである「三河一向一揆」を解説する。
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 家康が築山殿の奪還に成功した背景
 人生がうまくいきはじめたときこそ、注意が必要である。家康は「桶狭間の戦い」を契機に、今川氏のもとでの人質生活に終止符をうち、岡崎城で独立。織田信長と同盟を組むことで、三河の平定も現実味が帯びてきた。
 駿府に置いてきた妻子のことだけが気がかかりだったに違いないが、それも家康は見事に解決へと導いている。
 永禄5(1562)年2月、家康は西郡上之郷城(蒲郡市)を攻めて、鵜殿長照を討つと、長照の息子である鵜殿氏長と氏次を捕らえることに成功。今川氏と取引をして、この2人を引き渡す代わりに、正室の築山殿、息子の竹千代、娘の亀姫を奪還したといわれている(ただし、『当代記』では、築山殿と亀姫の女性2人は、家康が岡崎に帰還した時点で、岡崎に移ったとされている)。
 なぜ今川氏がこんな取引に応じたかといえば、今川義元の妹が、鵜殿長照の母だった。つまり、長照と今川義元の息子である氏真は、従兄弟関係にあった。そのため、氏真は長照の息子2人の命と引き換えに、家康の妻子を引き渡すことにしたのである。
 あとは、このままの勢いで、三河を平定してしまうだけ……のはずが、家康は、大きな困難に巻き込まれることになる。三河での「一向一揆」の勃発である。「家康三大危機」(ほかは「三方ヶ原の合戦」「神君伊賀越え」の2つ)の1つにも数えられるこの一揆は、なぜ起きたのだろうか。
 一向一揆とは「一向宗」(浄土真宗)の信徒たちが起こした一揆のことだ。といっても、浄土真宗のすべての宗派が一揆に参加したわけではない。主に本願寺派門徒によって、一向一揆三河でも引き起こされることになる。
 『松平記』によると、事の発端は永禄6(1563)年、家康の家臣である菅沼藤十郎が上宮寺に踏み入ったことにあったらしい。兵糧として千もみを奪ったという。
 家康勢は永禄3(1560)年の「桶狭間の戦い」以降、戦続きだった。「永禄の飢饉」も重なったため、兵糧米の確保は大きな課題となった。そのため、寺院からも強引に徴収が行われたようだ。
 「守護使不入」の特権を侵害して一気が勃発
 これに対して、本證寺、上宮寺、勝鬘寺の「三河三ヶ寺」が反発。奪われた兵糧を取り戻したため、対立が本格化していく。その後、家康の家臣である酒井政家(正親)が使者を送ったが、三ヶ寺側が使者を斬ってしまったため、家康が検断、つまり逮捕したともいわれている。
 一説には、酒井政家が謀反人を捕まえるために本證寺に入ったともされているが、いずれにしても「守護使不入(しゅごしふにゅう、課税や外部権力の立ち入りを拒否できる権利)」が侵害されたことで、一揆が引き起こされることとなった。
 しかし、家康が寺院から反発必至の政策に踏み切ったのは、食糧事情だけではない。当時の三河では、浄土真宗本願寺派の有力寺院が水運や商業を掌握していた。三河の支配にあたっては、そんな現状を変えなければならなかった。
 家康には早かれ遅かれ、寺院勢力と対峙しなければならないという考えがあったのではないだろうか。
 家康の強硬な姿勢への反発は大きく、一揆は各地で勃発。一向門徒だけではなく、家康の政策に反対する国人や土豪、農民も加わって、一揆は永禄6年(1563)9月から翌年3月まで続くことになる。
 永禄7(1564)年の正月には、土呂・針崎・野寺の一揆勢が、大久保一族の守る上和田砦に攻撃を加えた。その様子について『三河物語』では、次のように描写されている。  「永禄6年正月に、あちこちの門徒衆が集まって、土呂、針崎、野寺、佐崎にこもって一揆をおこし、家康の敵となる」
 主君に忠実なはずの三河武士たちの裏切り
 家康への抵抗が強まるなか、こんなときこそ、頼りになるのが家臣たちだ。なにしろ三河武士たちは、主君に忠実なことで知られている。後年、家康は全盛期にある豊臣秀吉にこう言ったという。
 「私は殿下のように名物茶器も名刀も持ちません。しかし、私にも宝があります。それは、私のために命を賭けてくれる500ほどの家臣です」
 真偽はともかく、そんな逸話が残るほど、三河の地で苦楽をともにした家康の家臣たちは結束が固いことで知られていた。
 だが、この三河一向一揆において、家康の家臣からも裏切り者が続出。家康を苦しめることになった。
 一揆勢が大久保一族の守る上和田砦を攻撃したことについて、『三河物語』では、こう続けられている。
 「そのとき、義諦をそそのかして、主君とするというと、義諦はその話に乗って敵となり、東条の城へ急いでこもって戦いをしかけた」
 まずは吉良義諦(義昭)が、三河一向宗と手を組んで、東条城に入ったという。義昭はもともと今川氏の忠実な家臣で、「桶狭間の戦い」後、家康に攻められて降伏した経緯がある。機とみれば、家康に反旗を翻すのも無理はないだろう。だが、その後も一揆側につく者が次々と現れている。
 家康の妹婿も一揆側についた
 「荒川(義広)殿もはじめ味方であったときは、家康の妹婿になられたが、今度は裏切られて、義諦と行動をともにした。それだけでなく、桜井の松平監物(家次)殿も荒川殿としめしあわせて、裏切った。上野の酒井将監(忠尚)殿も裏切る」
 荒川義広は、家康の異母妹にあたる市場姫をめとっており、家康にとっては妹婿にあたる。東条城主の吉良義昭攻めに協力したことが、家康に認められたきっかけだった。それにもかかわらず、義昭にそそのかされて一揆側についている。
 また、松平家次は、桜井松平家3代当主である。家康に命じられて、品野城に迫る織田軍を撃退したこともあったが、一揆が起きると、荒川義広と歩調を合わせてやはり裏切っている。さらに、酒井将監(忠尚)も裏切ったと『三河物語』では記されている。
 当時、20歳だった家康にとっては、リーダーとしての求心力を試される大きな試練となった。戸田忠次のように、家康との関係性の悪化から一時的に敵側についた者もいる。
 「戸田三郎右衛門尉は家康の機嫌を損ない、寺側に味方したので、心からの離反というわけではなかった。寺を攻略しようと計略を立てているとき、現れて、外構を焼いてでてきたので、家康の機嫌もなおって、再び味方となった」(『三河物語』)
 そのほか松平一門からは、大草松平家の松平昌久や、松平信光の末裔にあたる松平信次らが、一向一揆側に味方した。さらに家康の家臣からは、渡辺守綱石川康正、夏目吉信、本多正信らが一向一揆側についている。
 家康はこれまでも時には織田氏、時には今川氏と戦いながら、多くの難局を乗り越えてきた。しかし、内部から次々と自分の反発者が現れたことによって、これまでにない苦悩を味わうことになっただろう。
 もっとも、家康の家臣たちのなかにも一向宗門徒は多かった。家康につくか、一揆側につくか。難しい選択に迫られて葛藤することになったのである。
 家臣に勧められて和議を結ぶ
 一揆が本格化してから1カ月後の永禄7(1564)年2月には、家康が優勢になった状態で和議が結ばれることになる。当初、家康は和議に積極的ではなかったが、家臣たちに勧められて決断を下している。一揆側についた家臣についても、場合によっては水に流す寛大さも見せたという。
 自分あっての家臣ではなく、家臣があっての自分である――。
 一向一揆における内部分裂から、家康はそう実感したのではないだろうか。家臣の離反という苦い経験は、下の者の立場に立った組織マネジメントとして、その後に生かされることになる。
 【参考文献】
 大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫
 宇野鎭夫訳『松平氏由緒書:松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
 平野明夫三河 松平一族』(新人物往来社
 所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館
 本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館
 柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書
 二木謙一『徳川家康』(ちくま新書
 日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
 菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書
 大石泰史『今川氏滅亡』(角川選書
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