🎑39)─1─江戸時代の日本の教育水準は、実は「世界最高ランク」だった。〜No.96 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2023年2月17日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「江戸時代の「日本の教育水準」、実は「世界最高ランク」だった…!

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 歴史とは、人と物が時間軸・空間軸の中をいかに運動したかを記述するものである。話題騒然の前作に続き、日本史の「未解決事件」に「科学」を武器に切り込む! 
 【写真】「日本」を「世界一の鉄砲大国」にした「凄すぎる技術」
 本記事は播田 安弘『日本史サイエンス〈弐〉 邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵日本海海戦の謎を解く 』(ブルーバックス)を抜粋・再編集したものです。

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 日本の産業はなぜ急成長したのか
 PHOTO by iStock
 1868年、日本は明治維新によって、天皇を頂点とした立憲君主国家となりました。新政府は海外の各国に視察団を派遣した結果、日本の発展のためには殖産興業と富国強兵政策が必要であると判断しました。
 じつは江戸幕府でも、ペリー来航により危機感をいだいた勘定奉行小栗上野介忠順は、日本を守るためには海軍が必要であると考え、そのためにフランスの協力を仰いで、技師ヴェルニーの指導のもと横須賀に日本最初の製鉄所を建設していました。鉄を自国でつくることは、設計技術や製作技術への波及効果が大きく、国づくりに最適の産業です。また、小栗がつくった横須賀製鉄所では造船も計画され、維新後は明治新政府もそれを継承してのちに横須賀造船所、さらに20世紀に入って横須賀海軍工廠となり、多くの軍艦を製造するようになりました。
 造船は流体力学などをもとにした船舶設計や工程管理ができる大人数の工員や設計者が必要で、これらを育てることで日本でも工業全体が底上げされ、のちには巨大戦艦「大和」を建造するまでになるのです。小栗自身は大政奉還のあと隠居していたところを罪なくして捕らえられ、斬首されましたが、大隈重信は「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」とさえ語っています。
 また、新政府の渋沢栄一らは、日本が外貨を稼ぐには絹の輸出が最上と考えました。しかし、江戸時代以来の家内生産では品質が一定しないという問題があり、近代的な大紡績工場の設計をフランスに依頼し、技術者ブリュナの指導のもと、1872年、群馬県富岡製糸場を完成させました。製糸業は日本の重要な輸出産業に成長し、明治の終わりには輸出額の世界第1位となりました。
 200年以上も鎖国をしていた日本は、科学や技術という点では欧米と比べるまでもない後進国でした。ついこの間までちょんまげを結っていた国が、これほど急速に産業を成長させ、経済を大きく発展させることができたのはいったいなぜでしょうか。
 もちろん、アジアのほかの国々のような植民地化を避けたいという強い危機感から、新政府がなりふりかまわず列強の指導を仰いで殖産興業策を進めたことが奏功したというのが第一の理由でしょう。しかし、いくら指導されても受け入れる態勢ができていなければ、無から有は生まれません。
 それはやはり、ペリーが驚いたように、武士階級は藩校で、町民は寺子屋で学んでいた江戸時代の教育水準の高さがあったからでしょう。時代劇では町人たちがあたりまえのように瓦版を読んでいますが、江戸時代の識字率は世界でも最高ランクにあったと考えられ、武士は100%、一般男性は約50%、女性は約30%というデータもあるようです。
 教育水準ということでいえば、江戸時代の日本人は数学の能力も高かったのではないかと推察しています。1627年に刊行された『塵劫記』(吉田光由)により和算がブームとなり、武士も商人も農民も、競って問題を解いていました。また、自身でも問題を考案して神社に「算額」として奉納していました。一般大衆が競って数学の問題を解いている国というのは、かなり珍しいのではないかと思われます。また、このことからは、難しい問題に挑戦してみたいと思う好奇心、そして一つの問題をずっと考えつづける忍耐力も日本人には世界の平均以上にそなわっていたことを窺わせます。
 こうした特性は、日本人の「仕事好き」という傾向にもつながっているような気がします。ある問題に取り組み、努力して解決することに喜びをおぼえる民族性とでもいうのでしょうか。構造主義の提唱者として著名な20世紀フランスの民族学レヴィ=ストロースは、日本人の労働観を調査するために人形づくり、焼き物、漆塗りなどさまざまな分野の職人に会って話を聞いたところ、誰もが仕事をすることそれ自体が楽しく、うれしいと語ったので大きな驚きをおぼえたそうです。聖書では、労働は「苦役」として位置づけられています。
 太平洋戦争後にはGHQマッカーサー司令長官が、極東政策についての議会で「日本の労働力は量的にも質的にもいずれの国に劣らぬ優秀なものであるばかりか、労働者は働くことに喜びを見出し、労働の尊厳を見出している」と証言しています。日本人にとって仕事は生活のためというより自己実現の手段であり、そうした仕事観に由来する日本人の「ものづくり」の巧みさが、明治以降の急発展にもつながっていると思われるのです。
 「暗黙知」の効用
 しかし筆者はもうひとつ、明治維新後の日本に急成長をもたらした重要な要因があったのではないかと考えています。それは「暗黙知」によるコミュニケーションです。
 暗黙知とは、20世紀ハンガリーの物理化学者マイケル・ポランニーが提唱した概念で、簡単にいえば言語化するのが難しい知のことです。ポランニーは著書『暗黙知の次元』のなかで「人の顔を区別できること」や「自転車に乗れること」を暗黙知の例としてあげています。イメージとしては、長年の経験にもとづく「コツ」や「勘」といってもいいでしょう。反対の概念としては、言語化されている知、マニュアル化できる知などとしての「形式知」があります。
 島国であり、民族の多様性がほとんどない日本には、コミュニケーションにおいて話し手と聞き手との間の文化的背景の共通性が高いという特徴があります。このような文化をハイコンテクストの文化ともいいます。コンテクストは文脈といった意味です。反対に、異民族どうしが共存しあう国では、正確にコミュニケーションをとるためには曖昧さを排除して言語化する必要があります。これをローコンテクストの文化といいます。
 そして日本は世界で最もハイコンテクストな文化をもつ国といわれているのです。そうした文化だからこそ伝えられる、言葉にならない暗黙知が、たとえば職人や芸事の世界では師匠から弟子へ受け継がれていきました。芸は教わるものではなく見て盗むもの、といわれるのがそれです。
 たとえば蒔絵の硯箱は、漆塗りのみごとさもさることながら、蓋と本体の隙間から空気が漏れない緻密さは手作業でつくられたとは思えないほどです。しかし、一見すると粗末なのこぎり、鑿、鉋だけで職人がつくりあげているのを見て、外国人は一様に驚きます。これらの道具を使い込んで自分の手指のようにしていく感覚は、言葉では説明できないものでしょう。こうした技術が暗黙知として継承されることで長い時間をかけて醸成されてきた「ものづくり」の高いポテンシャルが、維新後の近代化を大きく後押ししたのではないかと思うのです。たたら製鉄で日本刀をつくる技術が鉄砲の複製に生かされたのに似ています。
 昨今では、暗黙知はノウハウを共有することができないとか、相手の顔色や場の空気をうかがいすぎて、「忖度」を過度にしてしまいがちになるなどと指摘され、暗黙知言語化して形式知に置き換えることが推奨されているようですが、情報には言葉だけでは伝えられないものも確実にあります。重要なのは、うまくバランスをとることではないかと思います。
 少し話がそれますが、卑弥呼邪馬台国を治めていたころの日本は文字というものをもたず、日本についての最古の記録は『魏志倭人伝』であることも、これと関係しているかもしれません。大陸とさかんに交易していたのに漢字も使っていなかったのは不思議に思えるのですが、暗黙知によるコミュニケーションが発達していた当時の日本人にとって、文字はそれほど必要なものではなく、漢字を見ても、さほどの利便性を感じなかったのではないでしょうか。
 さらに連載記事<なぜ「日本」は「世界一の鉄砲大国」に? その「意外な要因」>では、戦国時代の日本の「凄すぎる技術」について解説します。
 播田 安弘
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