💄30)─1─将軍や老中さえも恐れた大奥の政治力。~No.62 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の最高神は、天皇家の祖先神である女性神天照大神
   ・   ・   ・    
 大奥は、宦官が支配する中国帝国・朝鮮王国の後宮ペルシャ帝国・アラブ帝国・エジプト王国などのハーレムとも違っていた。
   ・   ・   ・   
 同じ儒教を学んだ日本では、中国の四大悪女(妲己・呂雉(呂后)・武則天則天武后}・西太后)のような女性・女帝・女王・妃は天皇の宮中や武士の大奥から出現する事はなかった。
   ・   ・   ・   
 2023年2月13日16:00 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「老中さえも恐れた「大奥」の政治力
 写真・図表:歴史人
 春日局により「大奥」が誕生
 男子禁制の空間である大奥が江戸城本丸御殿(ごてん)に誕生したのは、2代将軍秀忠(ひでただ)の時代と推定される。後述する五箇条の大奥法度(はっと)が元和4年(1618)に出されているからだ。大奥に出された最初の法度ではないかとされている。
 江戸時代に入ると、上は将軍から下は豪農・豪商クラスまで、家内部は「表(おもて)」と「奥(おく)」のふたつで構成されるようになる。大まかに言うと、「表」は将軍が仕事をする場で、「奥」は女性や男性の家族が生活する場だ。そして外部の者が「奥」に出入りすることは厳格に制限された。
「奥」は閉じられた空間だったが、江戸城の御殿の場合は「奥」がさらにふたつに分けられる。将軍が日常生活を送る「中奥(なかおく)」と、将軍の家庭を支える女性たちだけが住む「大奥(おおおく)」のふたつである。
 すなわち、秀忠から3代将軍家光(いえみつ)の時代にかけて、江戸城が将軍のお膝元(ひざもと)にふさわしい偉容(いよう)を持つ巨大城郭に変身するのに合わせ、御殿は「表」「中奥」「大奥」の3つに分かれていった。
 表では幕府の政務のほか、諸大名が将軍に拝謁(はいえつ)する行事が執(と)り行われた。中奥では将軍が日常生活を送り、出入りできるのは原則として側近や身の回りの世話をする近習(きんじゅう)に限られた。そして大奥では御台所(みだいどころ)、側室、将軍の子女、勤務する奥女中が生活し、将軍を除いて外部からの出入りは禁じられた。
 奥が中奥と大奥に分かれる過程で大奥への出入りは厳しく制限されたわけだが、将軍の世継ぎが生まれ育てられる空間である以上、閉じられた空間にならざるを得ない。こうして、大奥は謎の空間としてのイメージがたいへん強くなるが、家光の世継ぎ誕生に奔走(ほんそう)した乳母(うば)の春日局(かずがのつぼね)がそこで果たした役割は大きかったとされる。
 表や中奥に出入りする将軍の家臣たちからみると、立ち入ることができない大奥とは将軍のプライベートな空間に他ならなかった。まさに将軍の家庭なのであり、将軍と一体化していた大奥に気を遣わざるを得ない。
 言い換えると、大奥に勤める奥女中たちの機嫌を損じることをたいへん恐れた。特に奥女中のトップである「御年寄(おとしより)」は、将軍の威光をバックに、幕政のトップたる老中もその威を恐れる存在となる。
 実際、将軍は大奥を代表する御年寄の意向に左右されがちであった。よって、御年寄に嫌われてしまうと、老中であってもその地位を保つことは難しい。任命権者である将軍に御年寄が直接働きかけることで、老中職を解かれてしまうからだ。逆に御年寄の将軍への口添えにより、老中を筆頭とする幕府の役職を得ることも可能であったが、その裏で莫大な金品が動いていたのは言うまでもない。賄賂(わいろ)である。
幕府の人事や政務利権獲得を目指す商人に大奥が口添え
 将軍の意思を左右できたことで、御年寄を頂点とする大奥は隠然(いんぜん)とした政治力を持つようになった。将軍に人事権を握られている家臣たちからすると、人事に干渉してくる伏魔殿(ふくまでん)のような存在に映っていたかもしれない。
 大奥が干渉したのは人事や政務だけではない。利権の獲得を目指す商人も口添えを期待した。幕府に出入りする御用商人となることで利益を得ようと目論む商人が、大奥に口添えを期待したのである。その結果、大名から商人まで、その口添えに期待して金品を贈ってくるようになるが、これが大奥での絢爛豪華(けんらんごうか)な生活の最大の原資となる。
 しかし、幕末に入って幕府つまり将軍の権威が低下していくと、大奥の威光も低下していく。最後の将軍慶喜(よしのぶ)の大政奉還(たいせいほうかん)により幕府が消滅すると、大奥は歴史の闇に消えていくのである。
 監修・文/安藤優一郎
 (『歴史人』2021年10月号「徳川将軍15代と大奥」より)
 歴史人編集部
   ・   ・   ・   
 東洋経済ONLINE
 江戸城「大奥」は、本当にハーレムだったのか
 「男子禁制、女性1000人」知られざる実態は?
 山岸 良二 : 歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師
 2017/07/01 8:00
 将軍以外の男子禁制の場、大奥の理想と現実とは?(写真:KIMURA SOUGO / PIXTA
 「大奥」と聞いて「快楽の園」をイメージする人は多いだろう。
実際、大奥は将軍以外に男子禁制の場であり、そこには数百人の女性が将軍とその家族のために奉公していた。
 こうした環境のなか、はたして将軍はその権威をかさにどこまで快楽に満ちた生活を享受できたのだろうか。
 「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計20万部のベストセラーになっている。
 本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「将軍と大奥」を解説する。
 美女100人と船遊びに興じる将軍様
 『いっきに学び直す日本史』は「教養編」「実用編」合わせて20万部のベストセラーになっている(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)
 江戸幕府第6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)が生涯を通じて愛好した趣味は、「船遊び」でした。
 幕府が所有する軍船で東京湾を周遊したり、時には江戸城吹上御殿の庭園にある池に小舟を浮かべて宴遊会を催したりするなど、多くの船に関する記録が残されています。
 そして、彼の船遊びに欠かせない存在だったのが、将軍の正妻である「御台所(みだいどころ)」をはじめとする、その数百人以上といわれる美しい女性たちでした。彼女たちは、江戸城「大奥」に所属する将軍寵愛の者たちです。
 「大奥」には、さらに大勢の女性が奉公しており、その数は「幕末の最大時には1000人を超える規模だった」ともいわれています。大抵の場合、将軍の側室は、この女性たちの中から選ばれました。
 将軍以外の男性が足を踏み入れることが許されなかった「大奥(おおおく)」では、夜ごとどのような「酒池肉林の世界」が繰り広げられていたのでしょうか。
 今回は、江戸城「大奥」をテーマに、将軍の「大奥」生活における理想と現実について解説します。
 将軍以外「男子禁制」、まさにハーレム?
Q1. そもそも「大奥」って何ですか?
 「江戸城内で、将軍の妻子や母親などが暮らすエリア」です。
 一般的な武家住宅は、室町時代頃から、主人が対外的な実務に使う「表(おもて)」と、家族と日常を送るための「奥(おく)」とで分けられていました。
 江戸城も同じように御殿が区画され、幕府の実務が行われる「表」、将軍個人の執務と居住の場を兼ねた「中奥(なかおく)」、将軍の正妻である「御台所」が取り仕切る「大奥」に分かれていました。
Q2. 「大奥」はどこにあったのですか?
 江戸城の中心である「本丸(現在の皇居東御苑)の北側」にありました。
 本丸御殿の敷地は約1万1000坪(約3万6000平方メートル)で、そのうち「表」と「中奥」が約4700坪(約1万5000平方メートル)なのに対して、「大奥」は約6300坪(約2万1000平方メートル)と、本丸の中で「大奥」が最大の割合を占めていました。
Q3. なぜ「大奥」だけそんなに広いのですか?
 大勢の人が住んでいたからです。
 おもに日中に実務や行事が行われる「表」や、将軍個人が執務や居住に使う「中奥」に対し、「大奥」は「御台所」をはじめ将軍の生母や子ども、さらには側室の居室、「長局向(ながつぼねむき)」と呼ばれる2階建ての長屋などが何棟も立ち並び、部屋数は軽く100を超えていたといわれています。
Q4.「大奥」には、何人の女性が暮らしていたのですか?
 「幕末の最も多いときで1000人ほどいた」といわれています。
 それ以前の時期は、引退した前将軍や「御台所」に仕えた女性たちも含め、幕府から正規に給与を得ていたのは300人ほどです。
 これに加えて、彼女らが自らのサポート要員として雇い入れた私設の女性たちがさらに約300~400人おり、全部合わせると600~700人が大奥で生活していたようです。
Q5. 大奥にも身分制度はあったのですか?
 はい。大奥で働く女性たちは、「御目見(おめみえ)以上」「御目見以下」「部屋方(へやかた)」の3つに大きく分類されます。
 職掌によって将軍に接触できるのが「御目見以上」、そうでないのが「御目見以下」で、さらにこれらの女性たちが自らのサポート役として私的に雇っている女性が「部屋方」です。
 出世すれば城下に屋敷、副業も
 「御目見以上」と「御目見以下」は、それぞれの中でもさらに細かく分類され、定員も設けられていたようです。
 【1】御目見以上 計18職種〔84人〕
・上臈御年寄(じょうろうおとしより)〔1人〕:大奥の最高位で将軍・御台所の相談役。名誉職で実権はなかったといわれる
・御年寄(おとしより)〔4人〕:大奥全体を取り締まる実質的なトップ
・御中臈(おちゅうろう)〔7人〕:将軍・御台所の身辺の世話係。通常はこの将軍付中臈から側室が出る など
 【2】御目見以下 計6職種〔95人〕
・御仲居(おなかい)、御火之番(おひのばん)、御末(おすえ) など
 【3】部屋方 〔数百人〕
 御目見以上の奥女中が、私的に雇ったサポート役
Q6. 給料はもらえたのですか?
 はい。ベースとなる基本給のほか、衣装手当、自分が雇った「部屋方」の雇用手当、薪や炭など暖房手当、味噌や塩といった食費補助など、諸手当も充実していました。年金制度(勤続30年)もありました。
 ちなみに、各役職の年収を現在の貨幣価値に換算すると、「上臈御年寄」で約2700万円、「御年寄」で約1500万円、「御中臈」で約700万円です。
 また、御年寄になると城下に屋敷がもらえ、それを貸店舗など副業に活用できたりと、「御目見以上」はかなり裕福でした。
Q7. 「御目見以下」の給料は?
 残念ながら、「御目見以下」の給料はグンと低く、御末で年収約90万円と現代のパートタイマーなみです。
 それでも、この金額は当時の町家で働く住み込みの女性の倍以上だったといいますから、大奥で働くことは当時の女性たちにとって憧れの的でした。
Q8. 高い地位への昇進は可能だったのですか?
 もちろん、可能です。ただし、昇進のスピードや狙える地位は、「大奥」内に存在する各派閥のうち、どの派閥に属するかで結果が大きく異なりました。 
Q9. 「大奥」は、完全な「女の園」だったのですか?
 はい、将軍以外は「男子禁制」で、勝手に男が入れば死罪です。
 そのため、「大奥」へのアクセスは、本丸御殿中奥にある「御錠口(おじょうぐち)」という将軍専用の出入り口が1カ所あるのみでした(後に防災上の観点からもう1カ所増設)。
 ただし、「御台所」が城外へ外出するときに使う玄関や、「大奥」の女たちが出入りに使う通用口は別途設けられており、将軍以外の訪問者はこちらの入り口を利用しました。
 「お相手」を自由には選べない
Q10. 将軍は「大奥」に毎晩通っていたのですか?
 それはまず不可能です。
 たとえば、将軍が毎月行う公務のひとつに、徳川歴代将軍の月命日の墓参りがあります。
 毎月決められた日に上野寛永寺や芝増上寺などへ参拝に訪れるのですが、その前日は身を清める意味で「大奥」での宿泊は禁止でした。
 このため、江戸後期の将軍は代が進むほど日程が窮屈となり、「大奥」へは月のうち半分ほどしか泊まれなかったようです。
Q11. 将軍は、相手の女性を自由に「選り好み」できたのですか?
 タテマエはそうですが、実際はほぼ不可能でした。
 広大な敷地に何百という女性がいた「大奥」ですが、将軍が行き来する範囲は限られていました。
 彼と日ごろ接触する女性も、若い者は将軍付の「御中臈」くらいしかおらず、「添い寝役」も大抵はその中から選ばれるのが一般的でした。
Q12. 「夜の時間」は2人きりを満喫できたのでは?
 そんな時にも将軍に自由はありません。
 「大奥」での将軍専用の部屋である「御小座敷」には常時、隣室に夜勤の女性が複数控えていました。
 当日「御添寝」する女性が部屋に入ると、さらにもうひとり別の女性が彼女のすぐ隣に敷かれた布団に背を向けて横になります。
 将軍があとから部屋を訪れて「夜の時間」が始まっても、横の女性はそこを離れずじっと「聞き耳」を立てていました。隣室からも気配を感じたままですから、ムードもへったくれもありません。
 同室には、「おねだり」防止の監視役がいた
Q13. なぜ、同室に「別の女性」がいたのですか?
 将軍への「おねだり」防止の監視役です。初期の頃には、こうした「監視」は行われていませんでした。
 ところが、添い寝の女性が将軍とのプライベートな時間を過ごすにあたり、将軍に直接自分の親族縁者の異動昇進を頼んだり、日頃付き合いのある御用商人から賄賂を受け取って御用達指定をあっせんするなどの不正が横行しました。
 そのため、こうした行為の対策として、添い寝の女性に対する監視が厳しくなったのです。
Q14. 将軍の「お手」がついた女性はどうなりますか?
 「御手付中臈(おてつきちゅうろう)」と呼ばれ、「準」側室として扱われました。
 さらに、将軍の子どもを懐妊すると専用の「個室」が与えられ、その後、男子を出産すると「御部屋様(おへやさま)」、女子を出産すると「御腹様(おはらさま)」と呼ばれて、正式に「側室」と認められました。
Q15.一度気に入られると、ずっと安泰だったのですか?
 いいえ。たとえ将軍がどれだけその女性を気に入っても、当時は「御台所」も側室も、30歳を区切りに「御褥御断り(おしとねおことわり)」といって、将軍と「夜」を共にすることを辞退するのが一般的でした。
 このように、はた目には恵まれた境遇に見える将軍であっても、日々の生活での制約は多く、思ったほど「享楽」に浸る生活を送ってはいなかったというのが現実です。
 歴代将軍の中には、こうした面倒から「大奥」通いを苦痛に感じ、むしろ「中奥」でひとり気ままに過ごすのを好んだ者もいたようです。
 「幕府の財政を圧迫する」要因だった
 江戸時代、幕府は財政再建のためにたびたび倹約令を出しています。「大奥」の維持費は、将軍が代を経るにつれて膨張の一途を続け、幕府の財政を圧迫する要因のひとつでもありました。
 そこで、8代将軍・徳川吉宗のときには、「大奥」から選りすぐりの美女50人を「嫁のもらい手に困らない」として一斉にリストラしました。
 また、14代将軍・徳川家茂の時には、彼の妻である和宮(かずのみや)の1カ月当たりのたばこ代約105両(約1260万円!)を10分の1まで減額し、10両2分(約126万円)に抑えるなど、断続的に「大奥」の改革を行いました。
 しかし、その成果を見ないまま明治維新となり、「大奥」は幕府とともに終焉を迎えます。
 私たちが時代劇等で目にする「ドラマの中の歴史」は、「史実としての歴史」とは大きく異なっていることが多々あります。何も知らずにドラマの世界を「史実」と鵜呑みにして人前で話すと、思わぬ恥をかいてしまうこともあります。
 歴史の知識は、いったん身に付けてしまえば一生、応用が利くものです。ぜひ「大奥」など身近な題材から日本史を学び直し、大人に必要な「知識と教養」をいっきに身に付けてください。すると、日頃見るドラマの世界も、もっと楽しめるはずです。
 山岸 良二さんの最新公開記事をメールで受け取る(著者フォロー)
   ・   ・   ・