⚔35)─1─なぜ徳川家康は弱くても天下人になれたのか。弱者の戦略。~No.144No.145 

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 日本民族が数万年前から日本列島で生き残ってきたのは、弱者の戦略であり、戦わない事であり、殺し合っても「禍根を遺さない」・「遺恨を遺さない」そして復讐をしない・報復しないつまり「水に流す」で、戦っても負けない戦術として「相手の機先を制す」と「後の先で、勝つ事ではなく負けない事」と「負けて勝つ」であった。
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 2023年3月19日 MicrosoftStartニュース 文春オンライン「なぜ徳川家康は弱くても天下人になれたのか? “本当の理由”を歴史学者と徳川家19代当主が暴く
 生き残り戦略、女性観、死生観まで語り尽くす——。国際日本文化研究センター教授の磯田道史氏、徳川記念財団理事長の徳川家広氏による対談「徳川家康を暴く」(「文藝春秋」2023年4月号)を一部転載します。
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 1月に放送が始まったNHK大河ドラマ「どうする家康」。松本潤演じる主人公の徳川家康は、従来の老獪なイメージを一新する「弱小国の青年城主」だ。織田信長武田信玄といった強敵に追い詰められて悩み、狼狽する情けない姿が描かれている。そんな家康は、いかにして天下人となったのか。
 今年1月、徳川家康から始まる徳川宗家を継承し、第19代当主となった徳川家広氏と、新著『徳川家康 弱者の戦略』(文春新書)で最新の研究から「弱い家康」を読み解いた歴史学者磯田道史氏の2人が、家康の実像について語り合った。
 徳川氏(左)と磯田氏 ©文藝春秋
 © 文春オンライン
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 「なぜ家康公は岡崎で幕府を開かなかったのか」
 磯田 このたびの徳川宗家の当主継承、おめでとうございます。
 徳川 ありがとうございます。
 磯田 ちょうど大河ドラマ「どうする家康」が始まったタイミングでしたね。普通の家の相続ではありませんから重圧も相当だと思います。家広さんも、ドラマの家康公のように「どうすればいいんだ」と悩まれたんじゃないですか。
 徳川 いえいえ(笑)。いまの日本は、家康が生きた時代に比べれば、平和な世の中ですから。ドラマは、愛知県岡崎市パブリックビューイングで初回を拝見したんですよ。
 磯田 それは岡崎の人たちは喜んだでしょうね。
 徳川 いま岡崎にある「三河武士のやかた家康館」の名誉館長をしているんです。さらに浜松市にある「大河ドラマ館」の名誉館長、「静岡市歴史博物館」の名誉顧問も務めていまして。
 磯田 どの町も、家康ゆかりの土地ですね。
 徳川 ですから、それぞれ地域の立場があって、今日も家康の前半生は語りにくい(笑)。たとえば、「どうする家康」の第2回で、岡崎に帰りたいと主張する家臣たちに、家康が「(生まれ故郷の)岡崎なんぞより(妻と子どもがいる)駿府がよっぽど好きじゃ」と言い放ったシーンがあったでしょう。駿府は今の静岡ですから、そういうときは私が岡崎に行った時にフォローするんです。「そんな家康公の思いを汲んで良い町にしたから、今の岡崎はこんなに素晴らしいんです」と。
 磯田 難しい立場だなあ(笑)。
 徳川 以前に岡崎で「なぜ家康公は岡崎で幕府を開かなかったのか」というテーマでお話ししたときには、地元の方が講演後にボソッと「みんな心の中では、その点を疑問に思っているんですよ」と呟かれた。今でも家康への思いが繋がっているのだと驚きました。
 磯田 家康のたてた徳川の天下は260年もの平和を保ったわけです。私は家康が暮らした東海地方に一度は住んでみたいと考え、4年ほど浜松に住んでみました。家康が最も長く拠点にし、静岡にも岡崎にも等距離で行ける町です。
 実際に住んでみると、「弱者としての家康」を思い知らされました。家康入城時の浜松(引間(ひくま))城は小さい。北方の武田軍を防ぐため急ごしらえで掘った堀と土塁だけの掻き揚げ城です。家康が生きた時代の感覚では、浜松は全くの他国でした。地元(遠江)の侍たちは、三河から来た“よそ者”の家康に付こうか武田に付こうか、じっと見定めていたのです。家康はよくこんな厳しい環境でやっていけたな、と思いました。
 徳川 そうでしょうね。
 磯田 住んでみて、それまでもっていた「圧倒的に強い徳川」という思い込みがガラガラと崩れました。では、そんな「弱っちい」家康と家臣が、なぜ、どうやって、天下を握り、永続政権を樹立できたのか。そういう目で史料を見るようになって、『徳川家康 弱者の戦略』という本に繋がりました。
 家康は「狸」ではなかった
 磯田 これからは、家康の人物像についてお話ししていきましょう。早速ですが、家広さんは「家康公」をどんな人物とみていますか。
 徳川 家康の実像は、私も「どうする家康」や、磯田さんが話された弱っちい姿に近かったと思っています。家康というと「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という歌が有名ですよね。ただ、これは「ジタバタせずに、地道に働けば良いことがある」と、江戸時代の民衆を教化するためのものだと思います。同様に、これまで語られてきた家康公についてのエピソードのほとんどは、そんな教育的な意味合いが強かった。
 ドラマも同じです。滝田栄さんが83年の大河ドラマで演じた家康はあまりに立派だったので、当時の私なんて外に出たらうつむいて歩いていたほどでしたよ(笑)。それと比べると、松本潤さん演じる家康は、情けなさが非常に心地よい。「この姿の方が正確かも知れない」と思いたくなるわけです。
 磯田 家康は、これまで「狸おやじ」というイメージで語られてきました。狸は、死んだふりで相手を騙す狡猾な動物とされていました。家康は、狸のように権謀術数を弄して敵を陥れる嫌なお爺さん、というわけです。
 徳川 私は、これも意図的に作られた家康像だろうと思っています。家康は、当時にしてはとても長生きで、75歳まで生きました。あの時代、そもそも「おやじ」は珍しかったんです(笑)。
 あと、狡猾だというのは、豊臣贔屓の人が言っていたのではないかと思いますね。
 磯田 そうかもしれませんね。家康は豊臣政府の年寄(家老)を律儀に務めていたのに秀吉死後は一転。仕えていた秀頼を攻め殺し、豊臣家を滅ぼしてしまう。豊臣の家臣であった連中にすれば「狸に裏切られた」と言いたい気分になった。それも分からなくはない(笑)。
 徳川 司馬遼太郎さんの小説『城塞』の中でも、家康が家臣たちと一緒に、秀頼を陥れるための謀略を練っているんですよ。ただ本当は、家康が自分の意思だけで豊臣を亡ぼしたとは考えにくいんですけどね。家康が徳川幕府を開いてからは、皆で話し合いをして決める「大名共和制」だったとみています。
 磯田 私はもう1つ、「狸おやじ」論が出てくる源泉を知っています。それは天皇や公家。彼らは豊臣家のことが好きでした。たとえば後陽成天皇は、気前の良いパトロンだった豊臣家のおかげで、豪勢に暮らしていた。家康が秀頼を攻めると、後陽成天皇が「なんてヒドいことをするんだ」と問い詰めたふしがある。こうした「家康嫌い」の感情が色んなところで積み上がって「狸おやじ」像を作り上げたのでしょうね。
 家来にズケズケ言われ……
 徳川 「どうする家康」では、家臣の三河武士たちからズケズケと意見を言われる「弱い家康」の姿が描かれていますよね。家康は鬱陶しそうにしますけど、家臣たちの声をしっかり聞いている。これまでの家康のイメージとは違うかもしれませんが、ずっと真実に近いと思います。
 磯田 そういう魅力のある人物だったのでしょうね。江戸時代の記録に残された伝説をみると、例えばこんな話がある。
 あるとき家康が自分の狩り場で勝手に狩りをした家臣に激怒して、土牢に閉じ込めたことがあった。すると、それを知った家康の家来が、家康がご馳走にとっておいた池の鯉と清酒を飲み食いしてしまった。家康は激高して薙刀を持ってその家来を追いかけ回すのですが、家来は言い返す。「殿は、人より獣を大事にするのか。もう殺されてもいいから盗んで飲み食いする」と。その言葉に打たれた家康は、牢屋にいた家臣を解放した、といいます。
 徳川 家康と家臣たちとの間に、強い信頼関係があったことが分かりますね。三河は、西の織田家、東の今川家、北の武田家と、強国に囲まれた弱小国でした。そういう環境で、同じ釜の飯を食い、同じ鍋の味噌汁をすすってきた経験が三河武士たちにはある。だから、家康への忠誠心も厚いんです。
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 国際日本文化研究センター教授の磯田道史氏、徳川記念財団理事長の徳川家広氏による対談「 徳川家康を暴く 」全文は、「文藝春秋」2023年4月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されている。
 (磯田 道史,徳川 家広/文藝春秋 2023年4月号)
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