✨36)─7・C─何故、欧州の王族・貴族は生き延び、日本の華族は滅びたのか。〜No.159  

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2023年2がT3日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「イギリスの貴族が生き延びて、日本の貴族が滅びたのはなぜか――そのメンタリティーの決定的な違い
 華族の集合写真 (出典:See page for author/Public domain/via Wikimedia Commons)
 イギリスでは現在も貴族院が存在し、貴族たちが政治に一定の影響力を及ぼしている。ところが日本では、敗戦によって貴族院が廃止され、華族はその地位を失い消滅した。
 【この記事の写真を見る】戦犯として捕らえられることを嫌い“服毒自殺”した、首相経験者でもある「貴族」
 さかのぼれば律令時代からおよそ1300年も続いてきた日本の「貴族」が滅んだのは、直接的には第2次大戦の敗戦が原因である。だが、おおもとをたどれば、日本が無謀な戦争に突入するのを防ぐ立場にあった華族たちが、その役割を果たせなかったことに起因する。
 欧米諸国を歴訪した岩倉使節団も訪問したイギリスの貴族の邸宅「チャッツワース・ハウス」 (出典:Flavio Ferrari, CC BY-SA 2.0/https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0/via Wikimedia Commons)
 なぜ華族たちは機能しなかったのか。貴族や王室の研究を続けてきた歴史家の君塚直隆さんは、「イギリス貴族にくらべて、日本の華族の多くは資産規模が小さく、また階級としての一体感も欠けていた。戦争の際には、イギリス貴族が率先して最前線に立ち、多くの戦死者を出すのに対して、華族の従軍者・戦死者は格段に少ない。また教養豊かなドイツ貴族に対して、華族は知識や道徳の面で見劣りするとの批判もありました」と語る。
 君塚さんの新著『貴族とは何か――ノブレス・オブリージュの光と影』(新潮選書)から、日本の華族の「貴族精神の弱さ」を論じた一節を紹介しよう。
 ***
 日本の「華族会館」の内装 (出典:See page for author/Public domain/ via Wikimedia Commons)
 華族研究の第一人者である小田部雄次は、日本の華族を「遅れてきた貴族」と表現している。欧米に比べて遅れて近代社会に踏み込んだ日本は、貴族と市民の階級構造がはっきりと確立する前に、すでに欧米で始まっていた資本家と労働者の対立が加わり、両者が混在したまま発展していった。それゆえ資産のない貴族=華族がいる一方で、資産のある平民も存在したのである。
 本来、貴族とは伝統的な名声だけではなく、土地・資産・人民を固有に持ち、独立した権力や経済力も持っていた。しかし華族はそうではなかった。明治維新後の華族では、有力大名出身の武家華族だけがかろうじて資産を有したが、あとの華族は財政的な基盤を決定的に欠いていた。
 それがまた「華族」という新たな階級を、出発時から分断を抱えたものにしてしまっていた。明治2年からの旧華族は、同17年に新たに叙せられた維新の功労者からなる「勲功華族」(新華族)を見下し、華族内のさらなる分裂まで生み出していく。それは日清・日露戦争での勝利により「軍功華族」が多数現れ、同時期に「財閥華族」まで登場したことで、ますます深まった。
 このような華族のさまざまな出自による多様性を補う機関として、華族会館学習院、そして貴族院といったものが造られ、78年のあいだに1011家も叙せられた華族をひとつにまとめていくことが試みられたのである。とはいえ、数百年以上かけてひとつにまとまっていたヨーロッパの「貴族」とは異なり、わずか1世紀足らずの期間では自ずと限界が見られたのであろう。
 それと同時に代を重ねていくにつれて見られたのが、日本的な「貴族」の弱さであった。近衛文麿(1891~1945)やその親友で内大臣として昭和天皇を支えた木戸幸一(1889~1977:侯爵木戸孝正の長男)などは、貴族的「先手論」と呼ばれる手法を得意とした。すなわち、ある時代の方向性を先取りすることにより、その流れに沿いつつそれを自分たちにとって好ましい方向に変えていこうとする手法である。彼らは華族のなかでも「革新派」と呼ばれ、平等主義を唱えるエリートたちだった。
 しかしこの日本的な「貴族」たちは、自分たちが時代の流れを作っていると信じてはいたが、その実、それは大衆とのあいだにあまり距離のない方向であった。日本の貴族エリート的世界は多くの日本人の進んだ方向とあまり変わりがなかったのだ。大衆がある極端な方向に流されているとき、それに大局的な視野からブレーキをかけうるようなよい意味でのエリート層の形成に、近代日本社会は失敗したのだと、筒井清忠は鋭く指摘している。
 こうした感慨は別の視点から、近衛や木戸と接した同時代の人物からも寄せられている。それは旧津軽藩士の子として生まれた元海軍軍人で、終戦時の昭和天皇侍従長(1944~46年)を務めた藤田尚徳(ひさのり)(1880~1970)である。藤田から見れば、戦犯として捕らえられることを嫌い服毒自殺した近衛も、戦犯として捕らえられた木戸も、戦前から戦中にかけての時期に「君側にあって百難を排しても正しきを貫」いて、天皇を支えなければならない立場にいたはずであった。それにもかかわらず、二人とも政府や世論に迎合し、最悪の事態を招いてしまったと、藤田は内心忸怩(じくじ)たる思いであった。
 「余りにも人間的に弱く〈中略〉気力に欠けた一貴族の姿」を藤田は木戸に見ている。ここで藤田が言う「貴族」とは、特権階級であることを鼻にかけ、独善的に動くという意味で使われているように思われる。
 藤田はこう述べる。「木戸内府については、やはり“貴族”であったと思う。当時の習慣として、何がなくても自然と他人に敬われていた“貴族”であったことが、木戸内府の性格、内大臣としての宮中での仕事に反映していたのだ。そのために陛下の周囲に垣をつくって、自由に参内もさせぬという譏(そし)りを招いたように思う」。
 このようにして、長い目で見れば律令時代からおよそ1300年にもわたり続いてきた日本の「貴族」は消滅した。
 ※君塚直隆『貴族とは何か――ノブレス・オブリージュの光と影』(新潮選書)から一部を再編集。
 デイリー新潮編集部
 新潮社
   ・   ・   ・