🌏44)─2─世界史から見て明治維新は血の革命ではなく流血が少ない変革であった。~No.147No.148no.149 @ ⑩

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 2018年4月号 中央公論「誤解だらけの明治維新
 世界史 
 鼎談 世界は明治維新をどう見ていたか
 アジアの異端児ニッポンの不思議な〝革命〟  君塚直隆×岡本隆司×飯田洋介
 18世紀の世界情勢を見る
 岡本 明治維新は19世紀の後半の話ですが、それを考えるためには、少し前の時代から見ていかなければいけないのではないか、と私は考えています。例えば、18世紀末から19世紀初めのヨーロッパではナポレオン戦争があって、ウィーン体制でその後の国際政治の枠組みが定まってきます。日本を含めた東アジアでも、18世紀までと19世紀とは大きく異なってきており、明治維新はその一連の動きの帰納という面があります。
 君塚 アメリカの軍事史のシミュレーションによれば、1570〜80年代の織田信長軍がそのままヨーロッパにワープしたら、数年でヨーロッパを制覇していたのではないかと言われているそうです。つまり1575年の長篠の戦いというのは当時としてはもすごく画期的だった。ヨーロッパであれに近い戦い方をするようになったのは、約60年後の30年戦争のグスタフ2世アドルフの時代ではないかと。
 それと並ぶように中国も強かった。17世紀になれば清も登場する。清、オスマン帝国ペルシャムガール帝国などの巨大なアジアの国ほうが、よほど文明的にも軍事的にも進んでいたけれど、これが逆転していくわけです。結局、俗に『長い18世紀』と呼ばれる。1688年のルイ14世の野望の戦争から1815年にナポレオン戦争が終わるまでの130年くらいの間、ヨーロッパは、同じような力のもの同士で戦う弱肉強食の世界でした。それに比べるとアジアは巨大な帝国ばかりで安定していたので、力の拮抗した相手と戦わなくなっていく。そうすると強かったチャンピオンもどんどん力が衰えていってしまうので。ヨーロッパで『長い18世紀』が終わったあとの幕末に、当時のヨーロッパに比べたら田舎国だったアメリカのペリーが黒船でやってきただけで、日本はびびってしまう。だいたい、あのとき来たのがイギリス海軍じゃなくてよかったですよ。イギリス海軍の軍艦がきたら植民地化される可能性もあったかもしれないと思います。
 飯田 いわゆる『長い18世紀』のドイツは、30年戦争によって神聖ローマ帝国の枠組みは残るものの、実質的な国家主権が認められた諸邦が数多く分立している状態でした。そしてルイ14世に端を発する一連の戦争、オーストリア継承戦争七年戦争に見られるように、常に戦争の連続でした。そのため、アジア進出では、個人レベルは別として英仏に比べてどうしても後れを取ってしまうのです。ちなみに、その中で台頭し、ヨーロッパの大国の仲間入りをしたのがプロイセンでした。
 転機となったのが、フランス革命ナポレオン戦争でした。革命の影響を受け、ナポレオンによる占領を経験して、中央ヨーロッパではナショナリズムが覚醒・高揚し、ドイツでは統一を求める機運が生じるのです。ナポレオン戦争後にウィーン体制が成立すると、ナショナリズム運動は弾圧されますが、ヨーロッパでは(約40年ほどでしたが)平和の時代がようやく到来したのです。
 民間と権力の一体化
 岡本 きみさんは『衰えたチャンピオン』とおっしゃっていましたが、アジアでは平和を保っている地域が大多数でした。インドも中東も、中国を始めとする東アジアも。小競り合いはありますが、安穏と暮らしているのが普通だったのです。日本も『鎖国』をしていましたし。
 ヨーロッパのように、内部でゴチャゴチャやって『進歩』ばっかりしているのがむしろおかしい。でもそのおかしい人たちが突出して強くなってしまったためにその方向に世界が変わっていきます。
 だから、アジア諸国からすれば、ヨーロッパはなんて変なやつらなんだ、我々のほうがむしろ正しい、と。
 それなのに、黒船がきたら上下あげてびっくりして『俺たちもこうならねば』と思った日本人は、もっとおかしい。明治維新は日本史、世界史的に言うと順当なコースですが、アジア史から見るとおかしい。そこに歴史認識のズレがあるのです。
 そもそも、民間と権力が一体化になる構造というのはアジア諸国にはないんですね。権力は上から降ってくるもので、民間はその権力からいかに身を守るか、という考え方。中国人って中国共産党の言うこと聴かないでしょう。あれが中国です。インドもそうですよね。
 君塚 インドは完全な分権です。1877年までインド帝国というまとまった国はなかった。ムガール帝国と560ぐらいのマハラジャ、ラージがいた。1857年からの大反乱のあとイギリスが20年かけて外交で交渉して一つの国家にしたのです。
 岡本 例えば、日本の場合、16世紀の鉄砲やキリスト教の伝来、19世紀の開国にしても、国全体で影響を受けている。しかし、中国の場合それはないですね。ごく一部の民間で貿易している、宮廷も外国のものを取り入れますが、でもそれはバラバラに行われていることで、中国全体でとか、清王朝全体でということには決してならない。例えばアヘン戦争も、日本の明治維新のように上下ひっくり返るぐらいびっくりすることはない。辺境で起こっている貿易のトラブルに過ぎない。
 君塚 アヘン戦争は、よくイギリスと清王朝の戦争だと言われますが、これは誤解です。イギリスにとってみれば、アヘン戦争はイギリスの東インド会社対清軍の戦いなんです。だから国はバックアップするけれど、正規の陸海軍ではありません。東インド会社は、今で言う三井物産とか三菱商事伊藤忠のような商社に軍隊と官僚のような人がいて、半分国家みたいな存在だった。その会社が、インド統治を政府から委任されていたわけです。統治は会社にやらせて、手に負えなくなったら政府が出てくる、と。インドの場合は、大反乱のあと20年かけてインド帝国を作る段階で、ようやくイギリス政府が表に出てきましたけれど。インドですらそうですから、さらに東の中国なんてイギリスから見たらもっと遠い。
 薩英戦争にしても、イギリスでは『鹿児島問題』という言い方をしていて、イギリス議会の議事録を見てもほんの数行で終わってしまう。
 飯田 国家同士の全面戦争じゃないですからね。
 君塚 そうです。藩の一つと戦っていただけですから。日本は、1853年から1868年の15年間に相当がんばって諸外国に追いつこうと新しい技術とか知識をすごい勢いで消化していきました。実は、日本にとってタイミングもよかった。まず、イギリス、フランス、ロシアによるクリミア戦争(1854〜56)がありました。少し説明すると、ロシアはずっと不凍港が欲しかった。だからオスマンが弱体化したこともあり、南下してバルカン半島に出てきた。これに困ったのが地中海に一大勢力を作ろうと出てきたナポレオン3世。それにインドへの道を阻止されたくないイギリスが乗っかった。
 飯田 プロイセンは、クリミア戦争では、どちらに味方するか意見がまとまらず、結局どっちつかずになってしまいました。
 君塚 それまで仲の良かったロシア、オーストリアプロイセンが仲間割れしてしまった契機の一つがクリミア戦争です。それを待っていたのがナポレオン3世で、その隙に東に進出していきます。
 また、この戦争ではイギリス軍の弱さが露呈しました。今までは『パックス・ブリタニカ』といって、イギリスがヨーロッパの平和を維持していると言われていたけれども、実はそうでもないと。ここから一挙に1859〜61年のイタリア統一戦争にはじまって、63年のポーランド反乱、64年のデンマーク戦争に繋がる。飯田さんのご専門のプロイセンは、66年に普墺戦争、70〜71年は普仏戦争。ヨーロッパがそういう状況だったため、日本にはかなり時間的余裕があったと思います。
 飯田 当時のドイツでは、確かにアジアに進出を求める声もありましたが、それ以上にこの時期においてはドイツを統一してネーションステートを作ることが最大の関心事でした。極東のことよりも、まず自分たちの国をまとめなければ、という気持ちのほうが強かったと思います。
 先ほど、イギリス東インド会社の話がありましたが、いくらそこに植民地経営を任せているといっても、何かあれば最後に出てくるのはイギリス本国です。フランスも同様。それに対してドイツは、まだ統一されていなかったこともあって、アジア進出や現地のドイツ人保護の問題で英仏のように動けませんでした。だからドイツ統一ドイツ帝国成立)後に今までの後れを取り戻そうと躍起になっていくのです。その歯車が世界政策の下でどんどんおかしな方向に行ってしまい、その行き着いた先が第一次世界大戦だったのです。
 日本は中国の〝ついで〟
 岡本 1850年代というと中国は内乱の時期。太平天国の乱が1851〜64年で、数千万人が死にましたからね。そういうものすごい反乱が起きていたときにクリミア戦争が終わってわっとヨーロッパ勢がやってきて、日本史で言うところの安政五ヵ国条約という通商条約を結ぶわけです。不平等条約という。しかし、この安政五ヵ国条約は、もともと中国に来た列強が、ちょっと日本にも足延ばしましょうか、と言って結んだ条約なんです。日本が結んだ条約だけを切り取って見るのはもってのほかです。
 飯田 プロイセンを始めドイツ諸邦にとっては対日と対中はワンセットでした。例えば1861年に日本と最初に通商条約を結び、その後に清朝中国やタイとも同様の条約を結びます。あれは一つのパッケージであり、日本、中国の順になったのはたまたまです。日本が特別ということではありません。そもそも、日本との提携にどのようなメリットがあつたのでしょうか。市場や資源を考慮すると、やはり狙いは中国ですよね。
 岡本 日本は〝ついで〟です。
 飯田 もし日本に重要性を見出すとしたら、地理的なものでしょうか。やってくる軍艦や商船が補給・修理できる港があるとか。
 岡本 ヨーロッパの国々は日本に圧倒的な武力を見せておいて、安政五ヵ国条約を結ばせた。それで60年代にヨーロッパが自分たちのことで忙しくなると、日本も中国もその間にヨーロッパとうまくつきあえる体勢──構えを整える。その構えを作るために、日本のほうは、本気でヨーロッパ化せんといかんというので、明治維新になってしまうのです。
 君塚 日本には外敵を退ける『攘夷』という考え方がありましたが、岡本さんは、中国には夷狄を撫でてあげる『撫夷(ぶい)』があると書いていらっしゃいますね。
 岡本 野蛮人というのは、禽獣と一緒ですからね。だから撫でてやったら喜ぶ。撫夷狄です。そうやって外夷をおとなしくさせるのです。
 君塚 中国は何千年も夷狄に対応してきましたからね。『撫夷』を知らない日本は攘夷が駄目だとわかったら開国にワーッと行ってしまった。
 岡本 中国の場合は、それだけ伸縮性があるというか、大きな社会なんです。日本のほうは余裕がないというか。たぶんそれは江戸時代からなんでしょうけど、非常にカチッとした制度。社会構成をいうものを作ってしまった。『鎖国』がひっくり返されて、外貨のレートがグチャグチャになって、ハイパーインフレーションが起こったのを見て、もう『幕府はお払い箱だ』となってしまう。
 その点、中国はみな好き勝手なことをやっていて、外国人とつき合っている人もいるし、つき合っていない人もいる。それで80年代までは問題なかった。ヨーロッパ各国から見て、本命の中国は動じなかったのに、ついでだった日本のほうが過剰反応した。それが明治維新の姿です。
 日本は、アジアが全然変わらないことに焦って台湾出兵とか琉球処分を起こし、中国と日本は戦うようになっていくわけです。つまり、ヨーロッパの規範を真似しているうちに本モノよりも厳格になってしまった・・・。エピゴーネルのほうが熱くなってしまうということはよくある。
 日本は強引に台湾出兵に行ったけれど、国際社会から見るとそれは突出していて、イギリス公使だったパークスも『台湾は中国のものだからゴチャゴチャ言うのはおかしい』と言っています。
 君塚 1870年代のグラッドストンとかグランヴィルの書簡などを見ていても、日本の中国や朝鮮に対する主張は行き過ぎじゃないかと書いていますね。
 岡本 日本はきちんとしたヨーロッパ化を達成したいので、隣国である朝鮮半島と大陸との関係も、きちんと国際法に沿って、ヨーロッパに見せても恥ずかしくないようなものにしたい。でも中国も朝鮮も寄ってこない。しかし、アジアでは彼らの方がスタンダードなんですよ。
 存在感を増したドイツの影響
 飯田 ドイツが明治維新におよぼした影響についてよく言われますけれど、あの時期、日本に影響を与えたのはドイツだけではありません。憲法にしてもそのまま取り入れたわけではありませんから、ドイツの影響だけを強調するのはどうかと思います。
 岡本 しかし、普仏戦争に勝利したことで、ドイツの存在がすごくクローズアップされてアジアに映ったのではないでしょうか。
 飯田 確かに、普仏戦争でフランスを破ってドイツ帝国を創建したのですから、大きな存在感を示したのは間違いないです。
 君塚 伊藤博文などの政治家たちは将来的にはイギリス流の立憲君主制政党政治を行いたいのだけれど、すぐには無理なので、とりあえず中間のプロイセン型がいいんじゃないかと考えていました。
 飯田 法制度もさることながら、ドイツの軍事技術には幕末から関心が高かったようです。幕府の留学生としてオランダに派遣されていた榎本武揚は、デンマーク戦争観戦後にドイツのクルップ社を訪問しています。
 岡本 中国も、役立つところはいいとこ取りしました。ドイツの軍需産業には注目していたようですね。
 飯田 清の軍艦『鎮遠』と『定遠』はドイツに発注したものですよね。当時、駐清ドイツ公使館に勤務していたシュテルンブルクという外交官の日清戦争に関する詳細な報告を読むと、この二隻をベタ褒めしています。こんなにいいものを追っているのになぜ負けたんだと。
 岡本 動かす人、ソフトの問題だと思います。
 飯田 確かに、ソフトを変えることが中国を改革する唯一の方法であると彼は述べていましたね。
 岡本 李鴻章はきちんと調べて当代一流のものを買っている。ただ、そういうものを動かすための教育とか制度の部分を変えていかないと。要するに中国には科挙の受験制度はあっても、教育システムはない。それで学校を遅ればせながら作るんですけど、間に合わなかった。
 勝海舟も書いていますが、中国は戦争をする国ではない。みんなで一丸となって戦うお国柄ではないと。システム的に。日本の明治維新はそこを目指し、成功するのですが、そもそもそれまでの日本のシステムが富国強兵に剥いていたんです。
 飯田 いっぽうで、日清・日露戦争を見て必要以上に恐れてしまったのがドイツです。黄色人種を警戒する『黄禍論』が登場します。
 岡本 中国で義和団の乱が起きてそこに火が付いてしまった。
  日英同盟前夜
 君塚 イギリスの日本への関心は、日英同盟までは薄いです。例えば日英同盟を結んだときのイギリスの首相はソールズベリー。そのハットフィールド・ハウスという屋敷に李鴻章が1896年に呼ばれて二人でたぶん長時間話し合っている。
 その翌年、1897年にヴィクトリア女王の在位60周年で、伊藤博文がイギリスに行く。慶賀なので世界中から代表団が来ているということもありますが、ソールズベリーが伊藤のために使った時間は3分です。ようやく伊藤がハットフィールドに呼ばれるのは、日英同盟を結ぶ直前なんです。
 岡本 イギリスにとってはロシアが重要なんですね。19世紀後半は、ロシアを止めてくれるのは中国だろうというのが常識でしたから、中国との関係のほうが重要だった。中国は日本に負けて馬脚を現しますけど、1880年代ぐらいまで、李鴻章たちががんばってロシアから少しだけ領土を取り返したりています。日清戦争で中国が負けたことでロシアが入ってきて三国干渉になってしまう。イギリスはそれを予想していたから、日清戦争も本当は止めさせたかったと思います。そのあたりからイギリスは、中国が頼りにならないから、と日本に関心が出てきたのではないでしょうか。
 飯田 イギリスが日本に本格的に目を向けるのは、ドイツがあてにならないと分かったからですよね。それまではロシアの動きを牽制する役割をドイツに期待していました。揚子江協定(1900年)まではそうでした。しかし、当時のドイツがどっちつかずの態度をとっていたために、見切りをつけられてしまいました。
 君塚 日露戦争が決定打ですね。日露戦争であれだけ善戦して。第二次日英同盟で、ようやく対等というか、ある程度対等ということになった。
 飯田 その時代になってくると、ドイツが中国市場にさらに乗り出そうとするのですが、この頃には、日本とイギリスとフランスとロシアが協商を結んで立ちはだかっていました。そのため、ドイツはアメリカ合衆国や中国に接近してそこに割り込もうとするのです。20世紀に入ると、そのような図式が東アジアに現れてきます。
 中国で採用された日本漢語
 岡本 中国は日清戦争でベールが剥がれて、実はバラバラだったのがモロ分かりになってしまう。国外から見たら中国分割というふうに捉えられますし、国内でも俺たちバラバラにされるという危機感が出てきますが、客観的に見たらそんなに変わっていなくて、そこが中国の分かりにくいところでもあるんですけど。
 ただ、日本が株を上げたのは中国人から見ても明らかなので、中国でも『日本モデル』というものができはじめ、それが中国革命に繋がっていきます。そもそも、中国人がヨーロッパの文物を取り入れるのは難しい。その点で、日本の実績と翻訳は中国にものすごく寄与しています。中国人にしてみるとイギリスの立憲制を英語で読んでも分からないけど、立憲制とか憲法の書籍を日本語の漢語で読めば分かる。大日本帝国憲法をそのまま写して憲法大綱を作りますからね。今でも中国の社会科学の用語の多くが日本漢字由来。そもそも『中華人民共和国』という国名のうち『共和国』『人民』が日本語ですからね。
 飯田 中国では、太平天国の乱がかなり長期化しますね。それが中国の相対的な力をダウンさせたのと同時に、諸外国にはいろいろなチャンスに見えたのではないかと思うのです。日本の場合、幕末の動乱や戊辰戦争は外国から見たときにそういうチャンスだったのではないでしょうか。しかし戊辰戦争は意外と早く終わってしまった。最新の研究によれば、当時日本に駐在していたブラントというプロイセンの外交官は、もっと戊辰戦争は長引くだろう、そうすれば会津・庄内両藩からの売却の申し出を受けて蝦夷地を植民地を植民拠点として確保できるだろうと(ビスマルクの思惑とは関係なく)見込んでいたようです。
 岡本 この鼎談は海外から明治維新がどう見ているかがテーマでしたが、その答えは、重要ではなく、ほとんど『吹けば飛ぶよな』ものだったということでしょうね。
 飯塚 明治維新を『革命』と呼ぶ人もいますが、果たしてそれでいいのでしょうか。定義が必要です。
 岡本 昔はMeiji Restorationと言っていましたね。王政復古ですから。
 飯田 今日はお話を伺っていて思ったのは、ヨーロッパにはヨーロッパの論理があって、中国には中国の論理があって、この二つがぶつかったとき、どちらがまかり通るのかということです。日本は両者をはかりにかけたときに、ヨーロッパのほうがインパクトが強かったからそちらに行こうとしたということになるのでしょう。
 岡本 結局、中国には中国の体制があり、論理があり、日本には日本の体制があり、論理がある。そして、その内法(うちのり)から両方とも外れていない。内法に合わせて日本は西洋化したけれど、内法にそって中国は西洋化しなかったという話だと思います」
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 日本の伝統的外交政策は、対等関係を求める「攘夷と開国」である。
 中華の儒教外交政策は、上下関係を明らかにする「撫夷(ぶい)」であるがゆえに、上から目線の微笑み外交となる。
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 日本が明治維新を行い近代化できたのは、政教分離を行い信仰の自由を認めた上で、天皇制度を岩盤とした中央集権国家を建設したからである。
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 何故、日本の近代化に協力したドイツ国防軍が、日本と戦う中国(清国、ファシスト中国)に軍事顧問団を派遣したのか?
 何故、ドイツの保守派や軍需産業死の商人)や金融資本が、日本と戦うファシスト中国軍に軍事力強化に積極的に協力したのか?
 何故、ヒットラーナチス党が親中国反日派となったのか?
 何故、欧米世界に親中国反日派が多いのか?
 何故、中国の利益の為に日本の不利益に行動する人々が多いのか?
 何故、国際世論が反日親中国になりやすいのか?
 ドイツは、ビスマルク亡き後のドイツ帝国ヒトラー率いるナチス・ドイツの頃から反日強硬派であった。
 日本が戦った外国勢力の背後には、ドイツ、ナチス・ドイツがいた。
 何故、欧米諸国が親中国反日派に成りやすいかというと、人口によって巨大市場に成長する可能性があるというより、西洋の価値観で中国は理解しやすいが日本は理解しづらい点にある。
 イギリスは、表面的に日本との友好関係を演じていたが、裏では日本と戦うファシスト中国に大量の武器弾薬を売って巨万の富を得ていた。
 反日強硬派のルーズベルトは、中立国を装いながら、巨額の軍事費をファシスト中国に提供し、戦闘機や爆撃機などの軍用機を売り、正規兵士を退役兵士と偽って日中戦争に参加させていた。
 西洋世界で、全ての時代を通じて、日本が中国に比べて嫌われるのはそのためである。
 「日本が世界で愛されている、信頼されている」とは、幻想である。
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 中国・中国共産党が、日本の優位性を否定し、日本を併呑して領土に組み込むか、それが出来なければせめて保護国・属国としたいという強い願望を抱くのは、日本製漢語が社会の隅々まで蔓延しているからである。
 神聖な漢字文化の唯一の保護者を自任する中国にとって、明るい未来を切り開く近代学実用語の多くが日本の造語・新語である事が癪に障ってならないのである。
 日本が地球上から消滅すれば、日本製漢語は晴れて中国語の一部となる。
 それを望む反天皇反日的日本人が存在する。
 韓国・北朝鮮は、日本製漢語を消し去る為に文字をハングルに統一して漢字の使用を止めた。

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