🌈6)─1─梅棹忠夫と文明の生態史観。日本は群島文明国でゴミ溜め場。~No.10No.11 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本は2流の群島文明であらゆるモノが漂着するゴミ溜め場であった。
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 日本に個性・自我が弱い若しくはない為に、知らず知らずのうちに馴染みにくい欧米化が薄れ馴染みやすい中国化・韓国化が濃くなってきている。
 つまり、衣の下の鎧、化けの皮が剥がれてきた、紛いなメッキが剥がれてきた、と言う事である。
 古代から、日本の運命は「中華に吸収されて消えてなくなる」である。
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 メディア・報道機関による、日本人の子供化・幼児化も進んでいる。
 その証拠が、コロナ禍に対してさらに多くの公助(給付金・支援金)を求め、自助・共助を同調圧力・空気圧、場の力で潰そうとしている。
 それは、日本否定である。
 メディア・報道機関が求めているのは、働かなくてもいいように金・札束・紙幣をさらに大量に印刷して平等に公平に配れという事である。
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 ブラックな時代に生きていた江戸時代の庶民は、幕府・御公儀や寺社仏閣の宗教などを当てにせず・期待せず、自分の事は自分で何とかしていた。
 何故なら、生きているのは自分だからである。
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 2020年12月号 Voice「『群島文明国家』が果たすべき使命
 後手に回り続ける日本の新型コロナ対応。とはいえ、韓国のような一律的な統治は望むべくもない。それは、日本が『群島文明国家』だからである──。
 日本でも西洋でもなく、ともに東アジアをフィールドとする気鋭の研究者2人による文明論。
 小倉紀蔵岡本隆司
 梅棹文明論と群島文明
 小倉 岡本先生が2008年に著(あらわ)された『世界のなかの日韓関係史』(講談社選書メチエ)を拝読して驚いた記憶があります。戦後、東洋史研究の世界から朝鮮半島が外され続けたこともあり、中国史をご専門の方が朝鮮史に関心をもつこと珍しいように思います。
 岡本 おっしゃるとおりです。研究者も大陸の中華思想に影響されてしまっているかもしれない。
 小倉 だからこそ、岡本先生が日本と清国、そして韓国の関係史を正面から書かれたことに『なんて勇気のある方なんだ』と感嘆したのです。東洋史に限った話ではありませんが、それぞれの専門を横断することでみえてくる歴史の捉え方がありますから、岡本先生のような方が朝鮮史を語ってくれることを嬉しく感じたものです。
 岡本 私も小倉先生の近著『朝鮮思想史』(ちくま新書)のあちこちに線を引きながら勉強しています。思想史の神髄です。この度刊行された『群島の文明と大陸の文明』(PHP新書)も深く読みました。今日はご新著の内容を含めて、小倉先生がお考えになる文明論をレクチャーいただくつもりでおります。
 小倉 レクチャーだなんて、とんでもない。私は思想史が専門ですが、比較文明も一つのテーマとして取り組んでいます。個人的見解ですが、ここ最近、一時期顧(かえり)みられなくなった梅棹忠夫の『文明の生態史観』(中公クラシックス)が再注目されていると感じています。彼の文明論の骨子(こっし)を整理すれば、ユーラシア大陸は東西の周辺部『第一地域』(西ヨーロッパ及び日本)と、中央に位置する『第二地域』(中国・インド・ロシア・イスラム)にわけることができる。第一地域は封建制を経験し、主として共同体の内部からの力によって歴史が発展してきた。第二地域では歴史は共同体外部からの力に動かされることが多く、文化は自成的ではなく他所から伝播(でんぱ)し、アロジェニック(他成的)に成長してきた、という考えです。
 とはいえ、ここで論じたいのは梅棹文明論の是非(ぜひ)ではなく、梅棹が第一地域と呼んだ地域が、私が提唱・定義する『群島文明』と重なることです。詳細は小著を参照いただきたいのですが、たとえば日本は多くの島から構成される群島国家で、古来、中国という巨大な文明圏と近接しています。大陸から完全に分離されるのではなく、文明を移入しながら島の力で相対化し、分解しつつ、自分たちの風土や文化に合わせて再構築してきました。たとえば、中国から儒教などの普遍思想を受け入れる際も、朝鮮半島と比べても全面的に受け入れるというかたちをとらなかったわけです。
 古代から現在までのわが国の社会に目を向けると、帰納(きのう)的思考、経験主義、反超越主義の傾向がみてとれるでしょう。これこそが群島文明の特色で、演繹(えんえき)的思考、理念主義、超越主義を基盤とする大陸文明とは一線を画(かく)します。
 岡本 梅棹が日本と同じ第一地域に分類した西ヨーロッパについては、どうご覧になりますか。
 小倉 イギリスは日本に非常に近いですが、西ヨーロッパ全体でいえば大陸性も群島性も備え、両者がせめぎ合う地域といえるでしょう。かつてはデカルトスピノザが大陸合理論(経験より生まれつきの理性を重んじる思想)を定義しましたが、スコットランドの哲学者・歴史家であったヒュームは『人間は知覚の束(たば)である』として大陸合理論と正反対の立場をとり、われわれが因果関係だと思うのは慣習にすぎないと看破しました。彼の群島的世界観はドイツのカントを哲学的に刺戟(しげき)し、ニーチェへと継承された。ヒュームらは、この世界には確固たる実体など存在しないという方向性で、ギリシア以降の哲学史を解釈し直したのです。
 大陸文明の特徴は、一つに普遍的な理念への統合をめざすことです。それ以外の世界観は撲滅されたり駆逐されたりする。一方、群島文明あるいは梅棹のいう第一地域には、各地の世界観が『ゴミ』のように流入して蓄積されています。大陸文明・第二地域からはゴミ溜まりだとバカにされますが、しかし群島文明にも果たすべき役割があるというのが私の基本的な考えです。
 一つの普遍的思想へと向かう大陸文明
 岡本 私も先般、『教養としての「中国史」の読み方』(PHPエディターズ・グループ)という小著を世に出しましたが、そのなかで『中国は一つになろうとするエネルギーが強いように映るかもしれない』と記しました。この見方は小倉先生がご指摘された『一つの普遍的な理念への統合をめざす』という大陸文明の特徴と合致(がっち)しますね。
 『群島』に着眼された点は、梅棹を含む東洋史を研究するわれわれでは出てこない発想で、感銘を受けます。東アジアでは日本、西ヨーロッパではイギリスのような島国は切り離された存在として例外的に扱われ、その解釈の仕方については充分には語られませんから。
 梅棹文明論については、私も京都の東洋史学という系譜を引く者としてその見直しには取り組んできたつもりです。それはたとえば、梅棹が『破壊』『暴力』『悪魔の巣』だと切り捨てた草原地帯や遊牧世界への着眼であったり、経済史からの見方を用いたりといった具合でしたが、小倉先生は思想史の立場から着手されている。梅棹のいう第一地域と第二地域にしても、そもそも前提となる社会組織が異なりますから、その考え方を丹念に批判することは、やがては文明の理解へと繋がるはずです。
 小倉 いまのお話に補足すると、文明とは思想だけでも説明できない。ご指摘されたように各地域の人びとの生業(なりわい)に目を向けることも重要な営(いとな)みです。たとえば、中央大学の妹尾達彦先生は、イスタンブールとローマ、長安の三都市は、緯度がほとんど同じで、加えて北では遊牧、南では農耕が盛んで双方の産物が集まるベルト地帯である点で共通すると指摘しています。ジャレド・ダイアモンドは『東西』に着目しましたが、妹尾先生は『南北』にも目を向けているのが面白い。岡本先生は妹尾先生の研究はどうみていますか。
 岡本 妹尾先生は都市史や環境史をご専門に、とくに遊牧と農耕の接壌地帯の現地調査を重ねてこられた方ですね。長安シルクロードの東の終着点ですが、イスタンブールローマ帝国は西の端で地中海に突き当たる。その地中海が凋落するのが大航海時代で、それからインド洋と大西洋が世界のメインストリートになるとシルクロードはただのローカル線になる。このようにシルクロードと地中海を一本の線で捉えれば、隆盛したエリアが大陸から海洋へ移ったことが説明できます。
 小倉 いま岡本先生は西への展開をお話しされましたが、長安のさたに東に位置するのが日本であり、大陸の文化や技術を移入していった。こうして群島国家や地域は自分たちの文明を変化させていったのです。
 北京ではなく江南に注目すべき
 岡本 小倉先生のご新著で印象的だったのは、長江以南に広がる江南は、中国のなかでも大陸文明的ではなく海洋活動を活発に行ったと記されていたことです。江南は多くの中国史研究者がその重要性を指摘してきた地域ですが、小倉先生の文明論ではどう解釈しますか。
 小倉 春秋戦国時代の中国には、北の孔子がいて、南に老子がいたという話があります。私はこの説に与(くみ)しませんが、そう考えたくなる思想的な傾向は理解できます。というのも、老子道家を紐解(ひもと)くうえでは『水』という概念が重要だからです。
 今年も江南では大洪水が起きましたが、水浸しになれば、それまで家が建ち、店が開かれ、花が咲いていた世界は一つの景色に染まる。その驚きが、人間の価値観による世界区分を嫌った道家思想を生んだ。孔子帰納的な世界観とは異なるもので、だから私は中国という国家のなかにも大陸文明と群島文明の二つが共存していると考えるべきだと思うのです。もちろん前者の文明の色彩のほうが濃いのは間違いありませんが。
 岡本 江南は中国史では経済発展の話ばかりが語られがちなので、じつに興味深いお話しです。中国では『東南(=江南)半壁』という言葉もあります。すなわち、江南は完全な存在とは捉えられません。中原が中心ならば、江南とは所詮は辺境・地方にすぎないとみられています。
 人間は古(いにしえ)より水に悩まされてきましたが、しかしコントロールできればこれほど恵みを与えてくれるものはない。ですから水が豊富な江南は、東アジアを動かしうるポテンシャルを秘めていたといっても過言ではありません。実際に10世紀以降には発展を遂げましたが、そのころには中国の思想は固まっていた。その後の江南は一貫して中央から下にみられましたが、歴史を紐解くと経済的文化的に中国を牽引してきた存在だと評価できます。
 小倉 朝鮮半島は中国に比べれば狭い地域ですが、地理的あるいは風土的にいうと、やはり西南部には水があり、海の文化があり、広大な穀倉地帯があり、そして人びとが中央からバカにされていて、官僚より芸術家になる人間のほうが多いという特徴がある。この構図はスケールの差はあれども中国とまったく同じです。
 岡本 まさしく『小中華』ですね。
 小倉 中国の文明の純粋化としての小中華という意味だけではなく、むしろ大陸の風土が朝鮮半島に凝縮(ぎょうしゅく)されているといってもいい。韓国の文明を考えて見大陸性も群島性も混沌(こんとん)していると考えるべきだと思いますが、韓国ではそういう考えはされませんね。
 岡本 『群島文明』というネーミングが腑(ふ)に落ちるのは、中国ではとくに6朝時代に、江南の南朝は『島夷』、すなわち島の夷(えびす)と北方から蔑(さげす)まれました。現在の中国では島といえばやはりアイランドの意味ですが、その昔は水が近くにあれば『島』であり、その住民は『水浸しの連中』だとみられていた。そう考えると島国である日本は、中国から相当な辺境とみられていたはずです。しかし、その水浸しの地域こそが、小倉先生がいうところのゴミ溜め場であり、さまざまな世界観や文化が交差する場所だといえるわけですね。
 小倉 島というのはそれほど高い価値を与えるべきなのか、という問題もありますよね。確固として陸の上に立つ人びとからすれば、島だろうが沿岸だろうが水が近い地域は不安定で、アンチコスモス(反秩序的)な世界です。しかし、江南のような地域がなければ中国文明はもっと貧弱だったでしょう。
 岡本 その意味では、日本は同じ群島文明的である江南に目を向けるべきですね。しかし中国を絵画的にイメージする際、多くの日本人は万里の長城を思い浮かべます。そのように北京ばかりに目を向ける風潮に対して、私は宜(よろ)しくないと言い続けています。
 香港と韓国の民主化運動の違い
 ……
 小倉 中国のような大きな国で人びとをバラバラにしないためにはやはり一つのシステムが必要ですが、新王朝が生まれても、統治者が変わっただけで同じシステムが用いられることも珍しくない。領土や王朝が変わっても基本的な一つの理念で統治されるというわけで、これが大陸文明の特性です。
 もちろん、そうした統治の手法は良い・悪いという観点では評価できません。ただし、人びとの『慣れ』の問題はあるでしょう。日本でいえば明治時代以降につくられた、『末は博士か大臣か』という画一的な価値観に拠(よ)る人材吸い上げシステムや、隅々までの中央集権が国民を魅了しましたが、1930年代にそのネガティブな面が表れました。一つの理念で統治されることに慣れない日本人に対して、あまりにも強度の高い統一性を求めてしまった。自分たちが群島文明だという自覚を失ったからこそ、そんな悲劇が起きたわけです。
 『自助・共助・公助』で何が悪い
 岡本 今回のコロナ禍における日本政府の対応については、小倉先生はやはり群島文明的だと感じましたか。
 小倉PCR検査充実の遅れが典型例でしたが、『後手後手』『ぐずぐず』『行き当たりばったり』の対応に終始しましたね。これが群島文明の悪いところであり、同時に良いところでもある。……群島文明の日本人は一律的な統治に慣れていない。ならば、ある程度の犠牲を覚悟してでも、帰納的なやり方を甘受すべきです。イギリスも当初は集団免疫路線を採(と)ろうとましたが、早々に社会封鎖路線に方針転換してロックダウンを行いました。この動揺こそが誠に群島文明的です。
 岡本 私は日本のぐずぐずした対応を『庄屋政治』と表現しているのです。天皇という存在を戴(いただ)きながら、それぞれの村のなかで『ああでもない、こうでもない』と言いながら、自分たちなりの方針をつくる。少なくとも平等という価値観が守られている点で、私は良い社会だと思います。ただし、コロナ禍のような非常時には素早い対応は望めません。どんなシステムにも功罪両面あることを認識しなければなりませんね。
 小倉 おっしゃるとおりです。私は今回、自粛があまりにも画一的に実施されたことに強い違和感を覚えました。私が住む近所の商店街には、自粛期間中にカーテンを閉めていてもじつは営業している店もありました。いわば生きていくための智慧でもあり、一概に否定するべきものではないでしょう。しかし、何でもかんでも道徳の問題に関連づけて目くじらを立てる風潮は、日本が韓国化しているように感じてしまう。
 日本の韓国化については10年ほど前から感じていることです。日本人も中国の台頭で余裕がなくなっているのか、大陸文明のような『効率的』なほうがスマートで頭が良く見えてしまいうでしょう。
 岡本 グローバル時代ですから、情報の洪水のなかで自分を見失いことは、どこの国も表れる現象です。とはいえ、日本人はそのなかでもとくに他国を羨(うらや)む傾向が強うのかもしれません。
 小倉 もちろん、日本的な手法に脆弱な面があるのはたしかで、より毒性が強いウイルスが現れたときにどうするか、さらには自然災害や戦争にいかに備えるかは議論し続けなければなりません。
 ここで留意すべきなのは、国家が瀬戸際に立たされたとき、国民が何の代償も払わずに成果だけを得ようとしても、それは難しい話だということです。私には、菅義偉新首相が唱えた『自助・共助・公助』という言葉がなぜあれほど叩かれるのか、本当に理解できない。どの国民も自由を保障された一人の自立した人間である以上、最初に『自助』がくるのは当たり前ではないですか。国民がそんなメンタリティでは、将来の危機に対処するのh非常に難しいと暗澹(あんたん)たる気持ちになりました。
 岡本 自助への反発は一部のメディアが無節操に騒いでいるだけだと信じていたのですが、いずれにせよリスクに対する議論は重ねておくべきでしょう。
 ……
 群島文明である日本が果たすべき役割
 小倉 今日はそこまで話が及びませんでしたが、西洋の概念を万歳(ばんざい)して有難がる風潮をまず改める必要がありますね。そもそも文明という言葉自体、フランスで生まれた普遍主義的な考えです。
 ……
 岡本 日本の知識人のなかにみ、もちろん『西洋中心ではいけない』と話す方はいます。そのとおりなのですが、じつはその言葉こそが西洋人の口移しだと感じてしまう。具体的な話はせず西洋文明の反省の弁を並べる姿勢こそ、西洋中心の価値観の表れではないか、と。小倉先生にしても私にしても、東アジアという非西洋を研究のフィールドにして居ますから、その欺瞞に気付くことができるのでしょう。
 文明の比較でいえば、西洋と日本だけをみているようではとても危うい。梅棹理論に話を戻りますが、日本と西洋は同じ第一地域であり似ているところが多いからです。少なくとももう一つ、別次元の座標軸・比較軸が必要で、それは中国や朝鮮半島、あるいはイスラム世界でもどこでもいい。小倉先生は群島文明と大陸文明という非常に印象的な概念でまとめておられますが、そうした俯瞰(ふかん)した視点こそが最終的には日本理解へと繋がるのだち思います。」
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 『文明の生態史観』は、1957年(昭和32年)に『中央公論』に発表された梅棹忠夫の論考。『知的生産の技術』と共に梅棹の代表作。1967年(昭和42年)に中央公論社から叢書版が出版され、1974年(昭和49年)に中公文庫から文庫版が出版され、1998年(平成10年)に同文庫の改版が出版された。また1989年(平成元年)に『梅棹忠夫著作集』〈第5巻〉に、2002年(平成14年)に中公クラシックスに収録された。

 文明の生態史観
 日本を地理的な座標で考えれば確かにアジアに属するが、日本の文明(ここでは経済、生活水準などを基盤にどの程度高度化しているかということ)を考えると特異に高度化した文明で、東洋という枠組みには到底おさまらない。 そこで新たな視点を筆者は提示する。どの程度発達した文明国であるかということを主軸に世界を第一地域、第二地域という名称を与え、大きく二つに分けるのである。それは西ヨーロッパの数カ国と日本という高度に発達した文明国家である第一地域、それ以外のユーラシア大陸全土を第二地域とした。著者は社会の変化、発展には法則があるのではないかと考えている。そのことを生態学の言葉から引用して遷移(サクセッション)と呼ぶ。サクセッションの理論一種の発展法則で、それを人間に当てはめて考えれば人間発展の法則をある程度つかもうということである。よってこの理論では 社会主義のような単一的な発展は考えず、 遷移は環境とその社会自体の変化によって起こり、地域により違った発展がありうると考えている。
 第一地域の特徴
 第一地域は、第二地域の古代文明や帝国にとって辺境の存在であった。第一地域は第二地域の文化を吸収し、国家を作りはじめる。第一地域ではその後、封建制が成立していった。また、第一地域は辺境の地域に位置していたため、第二地域が砂漠の民に脅かされるような危険がない。(これについては後に記述)これらの好条件がオートジェニック・サクセッション(文明内部からの変革)を起こさせるのである。つまり第一地域がブルジョアを育てた封建制度を発展させ、資本主義体制へと移行したことはそれの現れである。それはたとえば宗教改革のような現象であるとか、中世における庶民宗教の成立、市民の出現、ギルドの形勢、自由都市の発展、海外貿易、農民戦争などである。近代化の後も類似点は多数ある。日本とドイツのファシズム政府、植民地争奪への遅れた参入、また戦後には急速な発展などである。また、日独に限らず、第一地域はみんな資本主義国家であり、過去に植民地争奪戦を行った国家である。
 第二地域の特徴
 第二地域では古代文明が発達したり、巨大で力をもった帝国が成立したりする。それらは何度も成立と崩壊を繰り返してきた。中国の数々の帝国やイスラーム帝国がそれである。そこでの専制帝国にも類似点は多い。壮大な宮廷や、非常に大きな領土、複雑な民族関係、辺境の存在、衛星国をもつことなどである。 また第二地域の中には乾燥地帯があり、高い武力をもった遊牧民が出現する。そしてそれが文明や帝国を襲うのである。それらによって常に政治を脅かされるため、高度な政治体制を築けない。第二地域においては外部に大きな力が常にあるため、アロジェニック・サクセッション(外部からの影響による発展)が起こる。そのため第二地域では専制政治のためブルジョアが発達せず、資本主義社会を作る基盤ができていなかったといえる。そのため大戦中は大きな軍事力を備える事が出来ず、植民地となってしまう。第二地域においては戦後に独立、革命、内戦などが頻発している。逆に第一地域において一つもそれらが起こっていないことと対照的である。
 まとめ
 第一地域と第二地域にはそれぞれ共通点があり、それらはその共通点を元に似たような発展過程を経ている。よって西洋と東洋という見方は現在の世界を見る時に有効性は限られており、第一地域、第二地域というように見るのがよりよい見方である。
 第二地域では砂漠の嵐のため、文明が瓦解し、遷移をやりなおすと言う原理が文明の生態史観の原理である。この原理は、今西錦司生態学的遷移理論(山火事や、河川氾濫で遷移が振り出しに戻る)と対応している。文明の生態史観が、梅棹の共時的理論になり、情報文明論が通時的理論になっている。生態学的環境が、制度群・装置群に置き換わったのが情報文明である。
 砂漠の嵐が中心だが、海の影響も強調している。また、宗教ウイルス説を提唱し、文明要素の遷移を具体的に扱っている。
 文明の生態史観に対する反応
 文明の生態史観が出版されたとき、大きな反響が起こった。他の観点から応用発展させた論考が、中央公論社で1990年代以降、『文明の~~史観』として多数発刊された。川勝平太『文明の海洋史観』、安田喜憲『文明の環境史観』、村上泰亮『文明の多系史観』、森谷正規『文明の技術史観』などである。
 いっぽう、生態史観に対して反論も多くある。第一地域の発展を梅棹自身はオートジェニック・サクセッション(自生的発展)を起こした結果と述べたわけだが、それらが本当に自生的であったとはいえない(日本近代化を例に取れば、西洋列強の圧力を受けて明治維新をしたといってもよい)という反論がなされた。地域に関しても大雑把過ぎる記述であり、アメリカが言及されていなかったり、東南アジアを梅棹氏は第二地域に入れているわけだが、それは上記の第二地域の特徴に当てはまらない場合が多く、もう一つの独立した地域ではないかという議論も出た。川勝平太『文明の海洋史観』では生態史観が海の存在を考慮に入れていない点を指摘し、新たに海上交流を加えた発展した史観を唱えた。こうした議論が様々に行われており、文明の生態史観が与えた影響の大きさをうかがわせる。ただし、文明の生態史観には、海の形態による文明の相似の記述や、海と文明に関する梅棹とそのグループによる多くの研究がある。
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 日本国・日本民族の存続意義とは、日本天皇を奉じて中華皇帝のに支配されない存在で、黄河文明(中国・朝鮮)とは違う価値観の日本文明を東アジア世界の中に創り継承する事であった。
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 中国は海を嫌う大陸国で、日本は大陸に馴染まない島国で、朝鮮は大国に媚び諂う半島国であった。
 朝鮮半島は中国大陸と日本列島とを繋ぐ回廊であったが、中国大陸から日本列島への流れは黄河流域からではなく揚子江流域からの方が多かった。
 朝鮮半島と同じ地政学を有しているのは、メソポタミア文明とナイル文明をつないだ地中海東沿岸部のカナン(パレスチナ)である。
 朝鮮は往来が激しすぎる為に落ち着いて文明を作る暇がなかったが、流動性が高かった事から芸能に優れた才能を持っていた。
 その象徴が、多芸な妓生(キーセン)であった。
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 中華文明の特徴は、北高南低の意識が強い事である。
 朝鮮文化も、北高南低の地域差別が強い。
 日本文明は、西高東低である。
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 中華世界においては、飢えた人民が歴史を動かしていた。
 食料や人口において、揚子江流域は黄河流域より豊かであったが、中原を統一した黄河流域系漢族は揚子江流域を侵略し占領し、揚子江流域民を江南の山岳地帯に追放して土地を奪った。
 北方や西方の遊牧民は、豊かな中国を侵略し占領し征服帝国を樹立し、漢族を奴隷の如く使役し搾取した。
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 儒教価値観による中華思想では、世界の中心は中国であり、皇帝の玉座黄河流域の都市にあった。
 絶対不変の上下関係である華夷秩序の中心は、中国・中華帝国、中華皇帝・中国人である。
 中華の毒である儒教は、数千年かけて周辺諸国・地域・諸民族を汚染していった。
 儒教の毒は、日本儒教である論語儒教など異端の諸派儒教とは無縁である。
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 罪は、日本では水(浄き水)で流したが、大陸では火(聖な火)で燃やして消し去った。
 日本神道は、清流で身を浄める沐浴を神聖儀式としている。
 キリスト教は、サクラメントの一つであるバプテスマ(洗礼)では水を使い、預言者は香油を使う。
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 大陸の中華の膨張は、歩いて行ける大陸・陸地のみで、船に乗って海を越えなければならない群島にはおよばなかった。
 それ故に、敗者や虚弱体質者・病弱者・障害者などの弱者は追い出されるようにして日本列島に逃げ込み、閉鎖と排他で閉塞社会をつくって閉じ籠もった。
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 日本民族日本人・アイヌ民族琉球民族は、大陸系漢族中国人や韓国人・朝鮮人とは別種の東アジア人である。
 日本民族日本人・アイヌ民族琉球民族の共通の祖先である縄文人は、日本列島を中心に南は琉球、北は蝦夷地・南樺太北方領土4島・千島列島そして遠く北アメリカ西海岸、西は朝鮮半島南半分に広く住み、縄文の海(日本海)を手漕ぎ丸木舟で行き来していた。
 一部の縄文人は、太平洋沿岸をも行き来し、中には伊豆大島などにも渡っていた。
 縄文人は、高度な航海術を持っていた。
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 朝鮮半島の、北半分の山岳地域は黄河の影響を受け、南半分の平野地域は揚子江の影響を受けていた。
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 日本民族日本人は、縄文人が弥生系渡来人、西方草原民系帰化人、中国大陸系帰化人、朝鮮半島帰化人などと数多くとの乱婚を繰り返して生まれた混血度の高い雑種である。
 琉球人は、縄文人が南方系揚子江流域民などと乱婚して生まれた混血度の中くらいの雑種である。
 アイヌ人は、縄文人が北方系オホーツク人などと乱婚して生まれた混血度の低い雑種である。
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 縄文人が食文化として受け継いだのは、黄河流域の麦肉食文化ではなく、揚子江流域の水稲魚介食文化であった。
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 縄文人は、古代ローマがアルプス以北の西ヨーロッパ全体に版図を広げる前に住んでいたヨーロッパ・ケルト族に似ている。
 ヨーロッパ・ケルト族は、侵略してきたローマ人やゲルマン民族との生存競争に負け、生活圏を奪われ、北の不毛な極寒地に追いやられて子孫を残せず消滅した。
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 太古のホモ・サピエンスは、アフリカから中東に出てネアンデルタール人らと乱婚を繰り返して北上し、地球の寒冷化に追われて南下してギリシアやエジプトなどの東地中海沿岸からチグリス川・ユーフラテス川のメソポタミア地域に広く定住し、国家をつくり、文明を起こした。
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 日本民族と大陸系漢族中国人、韓国人・朝鮮人とは、血の繋がりが薄い異質なアジア人で、同種同族でもなく、兄弟の関係でもない。
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 日本に影響を与えた揚子江流域とは、夏・殷・周の黄河文明時代の頃の長江であって、戦国春秋時代以降の現代中国に繋がる中華世界とは直接関係ない。
 もし、あえて現代中国との関係をたずねれば、大陸系漢族中国人ではなく江南の険しい山岳地域に住む少数民族である。
 日本民族とは、中国共産党の迫害を受けている少数民族と血の繋がりがある。
 中国共産党が支配する現代の中国人は、夏・殷・周の古代を生きていた漢族中国人とは血が繋がらない別人である。
 同様に、夏・殷・周の古代文化は現代の中国文化に引き継がれていない。
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 一度たりとも、日本国は中華帝国に軍事占領された事はないし、日本民族は中国人の恐怖支配を受けた事はない。
 日本が独自性を守ったのは、平和な文化力ではなく戦争の軍事力と外交力であった。
 日本に中華の毒を持ち込んだのは、弥生系渡来人であった。
 縄文時代には殺し合いはなかったが、弥生時代に入ると戦争が起きた。
 日本を汚染した中華の毒のせいで、日本民族アイヌ人や琉球人とは違って血を好む凶暴な人間に変貌してしまった。
 が、その好戦的な性格ゆえに日本は、残虐な中華(中国・朝鮮)の侵略を拒否し、日本独自の非中華社会をつくり発展を成し遂げていった。
 日本は中華の猛毒を中和し無力化して必要な部分のみを抽出し利用する事に成功した。
 つまり、社会を蝕み人を害する中華の毒を、社会に役立ち人の為になる薬に変えたのである。
 それは、日本社会と中国社会・朝鮮社会を比べれば一目瞭然である。
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群島の文明と大陸の文明 (PHP新書)