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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
明治維新による近代化とは、外国と友情を持って平和に交流する事ではなく、強力な武器で武装して外国と戦う軍事国家を作る事であった。
日本を侵略してくる敵国とは、西の中華帝国(清国=中国)と北のロシア、そして反天皇反日本の共産主義勢力である。
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江戸時代は過酷で非情なブラック社会であった。
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西洋のマルクス主義(共産主義)階級闘争史観では、日本の歴史は説明できない。
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江戸時代には、日本人・国民はいなかったし国家もなかった。
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信じられている江戸時代は嘘とは言わないが、多くは大正時代から面白おかしく作られた物語である。
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百姓や町人は、反日派敵日派外国勢力が侵略してきても日本を守る事なく逃げ出した。
武士は、忠誠を誓った大名・主君のために領地に攻めて来た侵略軍と戦ったが、他藩に攻め込んでいる侵略軍を攻撃し救援には行かない。
サムライも、金にならない戦争には参加しなかった。
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落語などで語られる人情話・長屋話・廓話には、庶民の隠された実生活がある。
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2018年5月号 新潮45「ニッポン全史
第五回 『国民国家』の作り方
明治政府は『国民国家』プロジェクト結果、『日本人』が誕生した。
今年2018年は、ちょうど明治150周年にあたる。官邸のウェブサイトでは『明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要』と述べられ、様々な明治150年関連施策の実施が宣言されている。
たとえば、毎年開かれている国民体育大会に無理に『明治150年記念』と冠したり、明治期に温泉地が発展したことを根拠に温泉PRをしたり、国がかなり無理して『明治150年』を盛り上げようとしていることがわかる。
残念ながら、それほど持ち上がっているようには思えないが、日本政府が国を挙げて明治150年を祝おうとしていることは重要だ。なぜなら、2018年の日本国が、公式に1868年成立した大日本帝国と地続きにあると宣言しているようなものだからである。
たとえば2010年には平安遷都1300年、2003年には江戸幕府開府400年のイベントがあったが、いずれも音頭を取ったのは中央政府ではなく地方自治体や民間企業だった。この数十年、自民党政権では伝統の重要政策とされてきたが、明治よりも古いはずの平安時代や江戸時代にはそこあでの関心はないあしい。それほどに明治維新は別格なのか。
江戸後期はほぼ近代
前号ではお伊勢参りを例に挙げたが、江戸時代の半ばともなれば、この国の庶民生活は相当程度の成熟を見せていた。
わかりやすい例が、教育機関の増加だ。各藩が設置した藩校と呼ばれる公的教育機関に加えて、大衆教育施設である寺子屋が全国に普及した。文字通り寺院が開設することもあれば、地方の名家が経営することもあった。城下町には数百人規模の大型寺子屋も珍しくなかったという。
戦争のない世では経済が発展する。経済活動が活性化すると、村や家も市場に組み込まれる。商品の出荷、田畑の売買や、金銭の貸借にも証文など書類が幅を利かせる。つまり、読み書きや計算ができないと大変な不利益を被ることになる。
古代から、『文字の時代』は始まっていたが、それは一部のエリート層だけの話。多くの庶民は、文字を学ぶ必要性など感じなかっただろう。しかし、文字を知らないと損をするとなれば話は別だ。
19世紀になるといよいよ教育熱は高まった。国の認可などは必要なかったため、寺子屋の正確な数はわからない。明治16年に文部省が実施した調査では1万1,237ということになっているが、調査漏れも多く、実態はこの数倍に及ぶと推定されている。とにかく、列島中に膨大な数の教育施設が生まれたのだ。
人口100万人を超える巨大都市・江戸では、木版刷りの『私塾・寺子屋番付』が発行される有様だった。あまりにも多くの寺子屋が誕生したため、子どもをどこの寺子屋に入れるべきかというガイドが必要だったのだ。
教育を受ける人が増えると、識字率が上がる。結果、読書という習慣も民衆に広がった。
1696年発行の『増益書籍目録大全』という目録がある。当時、書籍市場に出回っていた本のカタログだが、そこには合計8,000点近いタイトルが収録されていた。それぞれの本の発行部数を500部としても、全国で400万部ほどの本が流通していた計算である。しかも発行部数が1万部を超えるベストセラーも現れ、江戸の『情報洪水』に対して書評本までが人気を博した。
江戸幕府は、積極的に識字率を上げようとはしていなかったが、それを妨害しようともしなかった。18世紀のイギリスのエリートは、貧民が読み書きを学んだら、自分の境遇に不満を持ったり、治安を乱すのではないかと心配していたようだが、日本にはそれは当てはまらない。
社会の成熟度を測るには、暴力に注目してみる方法もある。一般的に『暴力が少ない社会、死ぬ確率が少ない社会は、成熟した社会である』と言えるだろう。
その意味で、江戸時代に一揆のスタイルがだいぶ洗練されたことは注目に値する。『一揆』というと、農民たちが武装蜂起し、権力者階級を攻撃するイメージが一般的だと思う。中世ならあり得ただろうが、江戸時代の百姓一揆はもっと平和的だ。
{注、もちろん、一揆の例だけで江戸が暴力とは無縁の時代とはとても言えない。たとえば現代に比べると当然ながら治安は悪く、また刑罰も厳しかった。数え年で15歳未満の少年が追い剥ぎをしただけで、死罪になった例などもあった。詳しくは氏家幹人『子文書に見る江戸犯罪考』(祥伝社新書、2016年)}
百姓一揆の目的は、年貢の軽減や悪徳代官の罷免などだが、いきなり一揆を起こすのではなく、まず訴状を作成し、合法的なロビーイングを繰り返した。
それでもダメだった場合、彼らは違法行為である一揆に訴えたわけだが、それも多くの場合、暴力には頼らなかった。蓑笠、野良着に農具という『百姓ルック』に身を包み、領主の門前などへ集団で押しかけるだけで、基本的に武器は持たない。その意味で、現在でいうデモ行進に近かったのだろう。
実際、江戸時代に起こった1,430件の百姓一揆を調査したところ、武器の使用や家屋への放火を伴ったものは、わずか1%程度だったという。
食糧自給率100%の恐怖
教育水準は上がり、読書人口が増え、一揆まで平和的になった江戸時代。中には『江戸時代、人々は〝和〟という連帯意識のなかで泰平の世を謳歌していた』とか『江戸時代はまったくの日本人の知恵と経験、感性で作り上げたもので、結果として日本の歴史の中で最も長く豊かで平和な社会を作り出した』という評価もある。
ただし江戸時代が現代よりも素晴らしい時代だったかちうと、それも違う。
確かに自由で血なまぐさい中世に比べれば、江戸が平和で安定した時代だったことは事実だろう。しかし『素晴らしい時代』の定義にもよるが、少なくとも江戸時代には幾度かの大飢饉が発生している。
特に18世紀に起きた大飢饉では、全国に大量の餓死者が出ている。{注、『気候で読み解く日本の歴史』日本経済新聞出版社、2013年。1782年から1783年のエルニーニョ現象による冷夏に、1783年の浅間山噴火による日傘現象が重なり、全国で凶作が相次いだ。特に東北地方での米の収穫量は例年の1割から2割程度だったという}。1783年秋から翌年春までに、弘前藩だけで10万人以上、八戸藩でも約3万人が飢饉の影響で命を落としたという。
当時の資料には、ひもじさゆえに自分の指を食べる幼児、墓地を掘り起こして死骸を食べた人、子どもを殺して食用にした母の話などが残されている。全国的にも100万人以上の人口減少を招いたと推測されていて、江戸時代最大の飢饉だった。
もし現代で同じ気候条件が再現されても、大飢饉が発生することはないだろう。なぜなら、現代日本が食糧自給率の低い、食べ物を貿易に依存する国になっているからだ。
戦争に備えて食糧自給率を上げようと主張する人がいる。しかし食糧自給率がほぼ100%の江戸時代は、天候不順に極めて脆弱な社会だった。同じ年、世界のどこかが豊作で、作物が余っていたとしても、それを輸入する手立てがなかったからだ。
『食糧自給率100%』というと、非常にいいことのように期超えるが、実際は相互に依存し合った世界のほうが、よっぽどピンチに強いのである。{注、それは日本に限ったことではない。17世紀のフランスでは、不作が2年間続くと、人口の15%が死ぬ可能性があったという(スティーブン・ピンカー『人類は絶滅を逃れられるのか』ダイヤモンド社、2016年)。一方、江戸時代の飢饉は東北の凶作が大坂の米相場の高騰を招いており、その意味で市場の失敗の事例とも言える}。
また、江戸時代がどれだけ持続可能性のある『エコな社会』だったのかも怪しい。列島では17世紀に新田開発が劇的に進行し、耕地面積が倍増し、人口も増加した。しかし18世紀になると、新たに開墾できる土地も減った上に、既存の耕地の存続すら危うくなってしまったのだ。
それまでは土地が枯れたら、とりあえず別の場所で農業をして、1年か2年、土地を休ませておくということができた。しかし、土地不足となるとそうもいかない。さらに、肥料となる草を得るため、野山を改造した結果、土砂が流出して、田畑を荒廃させるというような事件も起こっていた。いまでいう『自然破壊』である。
18世紀の日本は、明らかに『成長の限界』を迎えていた。事実、その100年間で列島の人口はほとんど増えていない。1721年に3,128万人だった人口は、1822年になっても3,191万人だった。ほぼ横ばいだ。
{注、1600年の人口は1,227万人と推定されている。詳しくは鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫、2000年)}
どのように人口増加はストップしたのか。歴史人口学者の鬼頭宏は、都市が『人口調整装置』の『蟻地獄』であった説明する。
要は、土地を増やせないので、農村では長男にしか家を継がせない。次男以下は、都市へ働きに出ることになる。しかし当時の都市は非常に危険な場所だった。治安という意味でもそうだし、コレラやインフルエンザなどの感染症も定期的に大流行した。健康保険も失業保険もないから、身体を壊して命を落とすというケースも多かっただろう。都市へ奉公に出た若者のうち、実に4割が奉公の終わる前に死んでいたというデータもある。
農村で増えすぎた人口が、都市という『蟻地獄』に吸収された結果、日本の人口は均衡状態を保っていたのだ。中々そのような時代に生まれたいとは思わない。
江戸時代に『日本人』はいなかった
さて、いよいよ明治維新である。この連載、時代的にはついに『西郷どん』まで追いついてしまった。
なぜ江戸幕府が終わって、明治時代がはじまったのか?『ペリーが開国を迫ったから』『江戸幕府の耐用年数が切れたから』『幕府に対する下層エリートの不満が爆発したから』といってように、様々な答えがあり得るだろう。
しかしこの問いは本質的ではない。
重要なのは日本が、西洋で生まれた『国民国家』というシステムを採用したことにある。言い換えれば、仮に江戸幕府が現代まで存続していたとしても、どこかで『国民国家』に近い仕組みを採用していけば、2018年現在、この国の姿や、人々の日常生活はそれほど変わりがなかったかと思う。
もちろん、『国民国家』を採用する以外の近代化の方法もあったはずだが、その場合、日本の発展はより緩やかだっただろう。
その『国民国家』とは何なのか。日本の研究書でよく参照される定義を見てみよう。
『国民国家とは、国境線に区切られた一定の領域から成る、主権を備えた国家で、その中に住む人々(国民)が、国民一体性の意識(国民的アイデンティティ)を共有している国家のことをいう』(注、木畑洋一『世界史の構造と国民国家』歴史学研究会編『国民国家を問う』青木書店、1994年……)
持って回った言い回しだが、現代日本や、多くの先進国は程度差こそあれ、この『国民国家』に当てはまる。逆に『国民国家』という概念がわかりにくいとすれば、それが僕たちにとって、あまりにも当たり前のものになってしまったからだ。
たとえば、次のような考え方をする『国民』によって成立するのが『国民国家』だ。
『日本で、日本人の親から生まれたら、日本人。日本人は日本語を話し、オリンピックではもちろん日本人選手を応援する。海外から成田空港や羽田空港に着くと日本に帰ってきたと感じる、万が一戦争が起こったら、日本に味方する』
何て当たり前の発想なのだと思われるかもしれない。しかし、この考え方は江代時代には極めて特殊だった。
明治になるまでの日本は、普通『国民国家』とは呼ばれない。なぜなら、江戸時代には『国民』、つまり『日本人』はいなかったからだ。
もちろん列島に3,000万人以上の人間は住んでいた。エリート層はもちろん、庶民も何となく自分たちが住む列島の形を想像し、それが『日本』という名前だということくらいは知っていただろう。また読書という習慣が普及していたということは、少なくとも書き言葉の上では、日本語共同体が存在したことを意味する。
だが彼らは現代の『日本人』とは少し違う意識を持っていたはずだ。
江戸時代、庶民は『村』か『町』に所属し、その藩主の支配を受けていた。
{注、江戸時代の基本的な構成単位は村と町である。村と町は、石高1万石以上の所領を持つ大名、それ以下の所領を持つ旗本、幕府など領主の支配下にあった。しかし現代の都道府県制のように、機械的な境界線で帰属する『県』が決まるのではない。領主が急に変更さえることもあり、1人の領主がモザイク状に複数の村や町を支配することも当たり前だった。(松沢裕作『町村合併から生まれた日本近代』講談社選書メチエ、2013年)}
自分たちの納税先という点で『藩』の名前は知っていたはずだし、その『藩』に愛着を持つ人もいただろう。しかし彼らが『日本人』というアイデンティティをどこまで持っていたかは怪しい。
たとえば、幕末に欧米連合艦隊と長州藩の間で起こった下関戦争では、農民や町人が戦争に協力することはなかったという。彼らは協力どころか、『非常に迷惑をしました』と『被害者』として文句まで言っている。戦争はあくまでも『自分たちのもの』ではなかった。
対外戦争ではなかったが、戊辰戦争では会津城下の商人、職人など各地の民衆がさっと戦場から逃げ出したという。どうやら日本という国どころか、『藩』に対してもそれほどの愛着を持っていない人も多かったようだ。
20世紀半ばに起こったアジア太平洋戦争で、多くの若者たちが『日本のため』という遺書を残して死んでいったことと比べると、あまりにも対照的だ。下関戦争からアジア太平洋戦争までの間には1世紀もない。この秘密を解く鍵が『国民国家』なのだ。
『国民国家』という人類の大発見
現代日本に住む日本国籍保有者の多くは、自分が『日本人』であることを疑わない。そして実際、ある程度は共通の能力や思考を持っている傾向にある。おそらく『日本人』は、日本以外に住む人々と比べて、日本語が上手に話せ、衛生観念が高く、……といった人物に対する造詣が深い。
国境内に住む人間を、ある一定のスペックに育成しようとしてきたのが、『国民国家』というプロジェクトの要である。
寺子屋の話をしたが、教育に例に出すのがわかりやすいだろう。いくら日本中に寺子屋があったとはいえ、共通カリキュラムはなかった。また義務教育ではないから、地域や身分によって教育レベルは大きく違った。
明治時代に実施された調査では、地域、身分、性別によって識字率に大きな差があったことがわかっている。たとえば1884年の鹿児島県では自分の名前を書けない人が約8割にものぼったが同じ年に滋賀県でその割合は3割を切っている。特に女性の識字率は低く、鹿児島県では96%の女性が自分の名前を書けなかった。
6歳以上の男女に対する義務教育が開始されたのは1872年だが、それから10年以上が立っても、全く読み書きのできない人が多く存在したことを意味する。江戸時代の非識字率はより高かったはずだ。識字率は、2割程度だったいと推計もある。
そこで明治政府は『日本人』を生み出すために、全国一斉義務教育を開始した。もちろん善意でそうしたわけではない。『日本人』を生み出す切迫した事情があったのだ。いわゆる富国強兵である。
馬より早い乗り物がなかった時代
明治日本の最大のミッションは、経済力をつけ、戦争に強い国家を作ることにあった。当時の世界情勢は中々緊迫したものだったからだ。少なくとも明治政府の言い分はそうだった。東アジアに限っても、清国(中国)がイギリスとのアヘン戦争に負け、不平等条約を結ばされている。列島の北に目を向ければロシアが南下政策を進めていた。実際、欧米の列強に、アジアやアフリカが続々と支配されつつあった。
明治政府は、国力を増強しないと、日本が植民地化されるという恐怖を煽った。
もっとも、本当に当時の日本に他国から侵略される危険性があったかは専門家の間でも評価がわかれている。清国もアヘン戦争に負けたが、それで王朝がつぶれたわけではない。
しかし江戸幕府が継続していたとしても、結果的に社会は大きな変化を迫られていたと思う。なぜなら19世紀は、技術革新という意味で、世界が劇的に変化した時代だったからだ。
たとえば19世紀初頭、世界には馬よりも早く地上を走る乗り物は存在しなかった。人間も、工業製品も、手紙や情報でさえも、馬より早く移動することができなかった。{注、地上に限らなければ、伝書鳩や旗振り通信。腕木式通信による情報伝達は存在した。日本で旗振り通信が開始されたのは1743年。大阪から広島まで27分で通信されたという}。
しかし1837年に電信技術が発明され、情報のやり取りが瞬時に行えるようになる。1858年には大西洋横断海底ケーブルが敷設され、アメリカとヨーロッパの間でメッセージが送られるまでになった。海底ケーブルの設置は進み、世界は『19世紀版インターネット』によって一つになりつつあった。
同時期には、蒸気船の輸送量が増大し、鉄道網も整備されていった。かつてないほど世界が小さくなったのだ。そんな時代にいつまでも『鎖国』を続けることは現実的ではない。どうしても海外の情報や、プロダクトが国内に入ってきてしまうからだ。
もっとも江戸時代にあっても、西洋文化は着々と流入していた。1788年発行の『女郎買之糠味噌汁』という洒落本では、深川の遊郭で遊ぶ客同士のこんな会話が出てくる。
『わっちゃあフロウよりウエインがいい』
『わっちゃあロード・ゲシクトになりやしたらうね。ゴロウトにせつなうござんす。もうウエインは止めにして、ちっとヒスクでも荒らしゃそう』
『フロウ』は『女』、『ウエイン』は『ワイン』、『ロード・ゲシクト』は『顔が赤い』、『ゴロウト』は『大いに』、『ヒスク』は『魚』という意味で、全てオランダ語だ。洒落本だから誇張はあるとしても、ルー大柴もびっくりなレベルで外国語を使っていた江戸人がいたとしても不思議ではない。
だから、明治になって一気に日本が『開国』したというよりも、19世紀に発生した技術革新の波に日本も取り込まれたという表現のほうが正しいのだろう。
戦争に強い国を作ろう
実は、日本が戦争に強い国を作ろうとしたのはこれが初めてではない。
まだ『日本』という国号さえ存在しなかった7世紀、白村江の戦いで手痛い敗戦を経験した大和朝廷は、軍事大国を作ろうとした。そのために戸籍や徴兵制を導入したり、明治日本と類似した政策を試みている。
しかもどちらも、日本が現実的に侵略される脅威に加えて、その脅威を権力者が利用したことまで含めてそっくりだ。現代でも政治家が『北朝鮮の脅威』をことさら語りたがるのは、それが国をまとめる方法として効果的だからだろう。
だが古代日本は、理想半ばで崩壊してしまった。やはり電気も鉄道もない時代に、中央集権国家w維持するのは困難だったのだろう。
一方の明治日本には西洋の最新技術という強力な武器があった。電話や電信を使えば列島中に瞬時に情報を伝達することができたし、鉄道や車のおかげで列島の体感的面積は非常に小さくなった。
こうして日本を戦争に強い『国民国家』にするためのプロジェクトが始まったのである。最大の障害は、身分差と地域差だった。当時、福澤諭吉は『学問のススメ』の中でこんな主張を残している。
人口100万人の国があり、知者が1,000人だけで、残りが無知の小民だった場合、国内の支配だけ考えればそれでもいいだろう。しかし、いざ戦争となったら、小民は逃げ出してしまうだろう。名目上は100万人の国でも、1,000人しか戦わない国では独立もままならない。
この日本『国民国家』化計画は果たして成功したのか。ある意味で大成功し、ある意味で大失敗した。」
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江戸時代。大飢饉が発生しておびただしい餓死者や病死者が出ても、誰も助けてくれない自己責任・自力救済であった。
つまり、誰も助けてはくれない、それどころか油断すると食べ物や衣服まで盗まれてしまう、血も涙もない酷い社会である。
それ故に、百姓・町人は留まっていると死ぬかも知れないと思ったら、自由に家や田畑を捨てて食べ物があって助かりそうな町や地域へと逃げ出した
離散は珍しい話ではなく、何時の時代でも、如何なる地域でも起きていた。
百姓・町人は、一生懸命であって一所懸命ではなく、土地や田畑には愛着はなかった。
災害被災者は、非人・エタ・河原乞食・無宿者=浮浪者などが住む町の部落・貧民窟に流れ込んだ。
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日本には、西洋のような困窮者・被災者・難民・弱者を進んで救済するキリスト教の教会・修道院・病院がなかった。
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百姓・町人が剣術を習ったのは、武士・サムライに憧れたのではなく、いつ何時襲われるか分からない物騒な社会であるがゆえに自分の身や家族や財産を守る為であった。
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土地にしがみついて一所懸命であったのは武士であった。
武士は、主君の許可なく他藩へ逃げると脱藩として処刑された。
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百姓・町人は、合戦が起きれば領主を見捨て家や田畑を捨てて逃げ出し、合戦が終わればハイエナやハゲタカのように戦場に転がっている死体の身包みを剥ぎ取り落ち武者を襲撃し褒美を貰い、新しく領主となった大名に媚びへつらった。
大名にとって、百姓・町人など領民は信用ならない存在であった。
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百姓・町人にとって、領主が誰であれ関係なかった。
真っ当な日本人は、我が身大事として、命を危うくする愛国心はもちろん郷土愛も祖国愛も、さらにはムラ意識すら持ってはいなかった。
その好例が、戦後のGHQやマッカーサーの支配に対する抵抗運動が起きなかった事である。
百姓・町人にとって、自分を支配する領主が日本人でなくても構わないのである。
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日本人にとって、国民や民族といった団結や一丸となる共通認識は上っ面だけの事で内実は希薄である。
いざとなったら、「我が身可愛さ」から他人など助けず自分一人で逃げ出した。
その傾向が強いのが、現代日本の共産主義者(マルクス主義者)や反天皇反日的日本人である。
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相互扶助の日本人の美徳とは、生まれ持った特性ではなく意図的恣意的に作られたものである。
日本人の特性は、弱者を見ても「見て見ぬふりして、我関せず」を決め込む薄情さである。
それ故に、西洋的なボランティアは日本にはない。
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大名は自分の領地の民百姓は助けても、同じように苦しんでいる隣の大名の領民は助けず見捨てた。
江戸時代は、中央集権国家ではなく、諸藩連合国家であった。
自藩は自藩、他藩は他藩で、自藩がよければ他藩などうなっても構わなかった。
江戸時代とは、恐ろしい時代であった。
もし、ロシアが南下して日本を侵略した時、諸藩が幕府の命令で一丸となって戦ったかは甚だ疑問である。
ムガル帝国の滅亡とマハーラージャ(藩王国)の存続が、好例である。
そして、ビルマ王国も滅亡した。
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百姓・町人は、ロシアや清国(中国)が侵略してきても戦わず逃げだし、アメリカ人やイギリス人さらには朝鮮人が新たな領主となっても受け入れた。
それが、日本人の本性である。
戦後教育は、明治の国民教育を臣民教育と否定し、江戸時代までの「戦って守らずに逃げ出す百姓・町人」に日本人を先祖返りさせる事である。
その象徴が、第九条の日本国憲法精神である。
外国軍が侵略してきても武器を取って抵抗せず、友人として歓迎し一緒に酒を飲んで談笑し、外国人を新たな支配者として受け入れ一緒に生活する、という絶対平和主義である。
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日本は、中華儒教の科挙制度でなかった為に、庶民が大金を出して勉強しても官吏に登用される事もなければ出世・昇給に役立たなかった。
江戸時代に人材として重視されたのは、儒教の教養や学識ではなく武士としての家柄・身分であった。
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武士は、主君(将軍や大名)の命令に背いて失態を演じたり不覚を取るなどで体面を汚すと、言い訳無用で処断され、運が良ければ家禄没収の上で追放、運が悪いと切腹を命じられ家族は領外に追放された。
武士は、隠居(引退)するまで何時如何なる時でも「死」を覚悟して生きていた。
現役で働き続ける限り切腹を覚悟しなければならないという発狂したいほどの重圧から、武士の生活は自堕落で荒れていた。
同じ支配階級といっても、日本の武士は、中国の士大夫・読書人や朝鮮の官吏・両班さらには西洋の王侯貴族・騎士とは違っていた。
上流階級の使命といっても、武士が持っている使命と士大夫・両班・騎士などが持っている使命とは根本的に違うのである。
命を大事にする真面な感情や常識的な思考があれば、何時理不尽な上意(主君の命)で切腹させられ家族を路頭に惑わせるような武士になりたいとは思わなかった。
つまり、生きたければ武士にならない事であった。
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藩財政が赤字となっり財政再建の為に質素倹約令が出されるや、1600年代に定められた家禄・俸禄が強制的に削減された。
ただでさえ貧困生活を強いられていた下級武士は、身分が低い百姓や町人に頭を下げて仕事を分けて貰い、家族総出で内職・副業で僅かな金を稼いで糊口のしのいでいた。
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武士が何故人気があるのか、確実に死ななければならないという定めに甘美な魅惑に取り憑かれた日本的な「滅びの美学」があるからである。
故に、武士は総人口の5%前後で増える事はなかった。
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日本で、西洋や中華(中国・朝鮮)のようにキリスト教や反宗教無神論のマルクス主義(共産主義)が支持され広がらなかったのは、この為である。
西洋のキリスト教価値観及びマルクス主義価値観や中華の儒教価値観などの世界的常識では、日本は理解できない。
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西洋には、日本を植民地にし、日本人を奴隷にする意思はなかった。
西洋の「大いなる使命」は、汚れた日本の大地を絶対神の恩寵で祝福し清め、日本国に絶対神の福音・絶対神のみ言葉で神の王国を築き、日本人を絶対神の隣人愛でキリスト教徒に改宗させ、日本列島に絶対神に捧げる事であった。
それは善意であって侵略ではなかった。
西洋は、日本に行った行為すべてにおいて「善意であった。日本人のためだった」と確信し「悪事を働いた。日本人に悪い事をした」と思ってはいない。
それが、「西洋の正義」の源泉である。
西洋のお節介が、日本に良い面をもたらし日本を発展・進歩させた事は事実である。
進歩・進化史観において、古い時代・古い文明・古い文化を破壊し新しい時代・新しい文明・新しい文化を創造し発展させ定着させる為には、「必要な犠牲」が伴うたれている。
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日本には、西洋・世界の支配階級・上流階級・富裕層が持っている「ノブレス・オブリージュ(富裕層の義務)」は無い、というより無縁であった。
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