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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現代日本に残る歴史的建造物と世界の歴史的建造物とは違う。
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殿様商売、士族の商法が近代化の起爆剤となった。
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2020年9月3日号 週刊新潮「極みの館は残った。
模範になった人 立花寛治邸 福岡県 1910(明治43)年
明治から大正期、富裕層は好んで和・洋の館が連なる邸宅を建てた。
だが残念ながら両方の館が共に現在も残されているケースは極めて少ない。両館とも解体された〝跡地〟になっていたり、和館しかのこっていなかったり、その逆であったり、と。
ところが両館が今も実際に使われ、しかも泊まれる館がある。その一軒、柳川藩主の屋敷を利用した宿・御花(おばな)……。
設計者については諸説あるが、どの人物も著名ではない。にも拘わらず和洋館共にこうして100年以上もの間残された理由を、やはり殿様の屋敷だったからだと私は勝手に結論づけていた。
ところが、訪ねる前に調べ、現地で過ごすうちに、そんな単純には言い表せないことがわかってきた。
農業試験と教育支援
家主は柳川藩主の二男だった立花寛治。1857(安政4)年生まれ。寛治が12歳の時に、兄が夭折(ようせつ)したため父の隠居に伴い17歳で家督を相続、華族となる。
と、書いてみたが、正直に言うと、華族について私は『とにかく偉い人』という程度の認識しかなかった。調べて初めて、旧公家と元大名に与えられた身分であり、実は様々な制約が設けられていたことを知った。
そう、華族には東京での居住が義務づけられていた。それが徐々に緩和され、地元で産業をもりたてることで国力の増強を図る華族には東京以外の居住が認められるようになる。寛治の場合、その産業が農学だった。
寛治は農学に関心を抱き農学校に入塾。東京からリンゴをはじめ様々な果樹の苗木を故郷に送り、邸内に植えるように指示を出す。30歳で我が国最初となる民営の農業試験場を開場。32歳で柳川に移住。蜜柑等の品種改良や水田農作の普及に尽力する。
一方、地元の中学校設立に多大なる寄付をし、学生を対象とした奨学金団体の設立にも尽力。設立後はそこにみ寄付を継続した。
小学校校長が、地元に献身的で勤勉な寛治の生活態度を模範として学ぶという文章を書き上げている。
その寛治が、邸宅を完成させたのは1910(明治43)年、53歳のことである。
……
国民の模範に
……
滞在するうちに印象に残ったのは、ここで働く人びとが、立花寛治について私が調べて知り得たことなど頭に入っていたことだ。
明治の初め、華族は国民の模範となるべき存在だった。教育に熱心であり、試験場で品種改良に尽力する姿も地域の人びとに目撃され、まさしく華族として模範となって、立花寛治。
その人物像が地元の人のこころに受け継がれている限り、建てた邸宅もまた生き永らえるのであろう」
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殿様商売
デジタル大辞泉の解説
商品知識や客とのかけひきなど、もうけるための努力・工夫に気を使わない商い方を皮肉っていう語。「あんな殿様商売じゃ、いずれ倒産するよ」
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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士族の商法
デジタル大辞泉の解説
明治初期、特権を失った士族が慣れない商売に手を出して失敗したこと。急に不慣れな商売などを始めて失敗することのたとえ。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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マルクス主義の階級闘争史観は、明治後半までは無縁であった。
が、それ以降はマルクス主義の階級闘争史観が高学歴出身知的エリートに蔓延し、皇族・華族の間にも信奉者が増え、各方面で天皇制度否定の赤化事件が起き始めた。
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庶民(百姓や町人)は、家業・定職を持っているが蓄えが乏しかった為に、幾ら儲かると言われても、近代的西洋産業に一か八かの博打的に挑戦する事はしなかった。
家業・定職を持たないが資金・時間・知識がある華族や士族だけが、無謀にも近代的西洋産業に飛びつき事業を起こしたがその多くは失敗した。
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技術があって知識のない庶民は、現実的保守的消極的で変化・変革を嫌った。
技術がないが知識のある華族や士族は、理想的革新的積極的で変化・変革を恐れず実行した。
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地方・地元・地場のローカルな伝統継承のメイド・イン・ジャパンを生み出したのは、庶民であった。
中央・都市のグローバルな時代先取りのメイド・イン・ジャパンを生み出したのは、華族や士族であった。
近代のメイド・イン・ジャパンは、庶民のローカルと華族や士族のグローバルが融合し触発されて生まれた。
新たな時代に突然する現代日本では、成功モデルであった昔のメイド・イン・ジャパンは時代遅れで役に立たず魅力がなく目が肥えた消費者は買わない。
現代日本に必要なのはいい意味での殿様商売、士族の商法であって、悪い意味での殿様商売、士族の商法は排除しなければならない。
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物好きな庶民は、殿様・士族が失敗して諦め打ち捨てた西洋近代産業に好奇心から興味を持ち、金を出し伝統技術を利用し考え工夫しながら取り組んだ。
それが、面白いかどうかであった。
日本民族の特徴は、「奇抜で珍奇な新しい物好き」と「趣ある古い物を愛でる」の多面性である。
日本民族日本人の楽しみとは、相手が大金を使い努力し苦労しても成功させられず諦め止めた事を、相手が目標とした事よりもさらに数段良い物にして成功させて相手に自慢する嫌味な悪趣味であった。
あ例えるなら、パチンコ思考である。
日本民族日本人は、嫌味な悪趣味で嫌われ、信頼され愛されるとはウソである。
日本の精神修行は、嫌味な悪趣味を業・煩悩・我欲・本能・本体として否定せず受け入れて鎮める事である。
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ウィキペディア
華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級。
概要
公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。1869年に華族に列せられたのは、それまでの公卿142家、諸侯285家の計427家。1874年1月(明治4年)に内務省が発表した資料によると華族は2891人。
爵位制度以前
華族の誕生
明治2年6月17日(1869年7月25日)、岩倉具視の政策による版籍奉還と同日の太政官達54号「公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム」により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた。公家137家・諸侯270家・明治維新後に公家となった家5家・維新後に諸侯となった家15家の合計427家は新しい身分層である「華族」に組み入れられた。当初は華族に等級はなかったが、本人一代限りの華族である終身華族と、子孫も華族となる永世華族があった。
またこの後も新たな華族が加えられた。奈良興福寺の門跡や院家だった公家の子弟が還俗して新たな華族となった26家は奈良華族と総称された。また、大久保利通の功により大久保家が、木戸孝允の功により木戸家が、広沢真臣の功により広沢家が、それぞれ明治天皇の特旨によって華族になったが、華族令以前に華族に列した元勲の家系はこの3家のみである。さらに歴史上天皇に対して忠節を尽くした者の子孫も天皇の特旨によりこの時代に華族となっている。
華族令発布による爵位制度の発足
明治17年(1884年)7月7日、華族令が制定された。これにより華族となった家の当主は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された。
爵位の基準は、明治17年(1884年)5月7日に賞勲局総裁柳原前光から太政大臣三条実美に提出された「爵制備考」として提出されたものが元になっており、維新期の勲功を加味された一部の華族を除いては、実際の叙爵もおおむねこの基準に沿って行われている。公家の叙爵にあたっては家格はある程度考慮されたが、武家に関しては徳川家と元対馬藩主宗家以外は江戸時代の家格(国主、伺候席など)が考慮されず、石高、それも実際の収入である「現米」が選定基準となった。しかし叙爵内規は公表されなかったために様々な憶測を産み、叙爵に不満を持つ者も現れた。
また華族令発布と同時期に、維新前に公家や諸侯でなかった者、特に伊藤博文ら維新の元勲であった者の家29家が華族に列せられ、当主は爵位を受けている。叙爵は7月中に3度行われ、従来の華族と合計して509人の有爵者が生まれた。これらの華族は新華族や勲功華族と呼ばれている。また、終身華族はすべて永世華族に列せられ、終身華族が新たに生まれることもなかったため、全ての華族は永世華族となった。これ以降も勲功による授爵、皇族の臣籍降下によって華族は増加した。
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皇族・華族・貴族にもいろんな人間がいて、特権意識が強く権力志向が旺盛で庶民を差別する嫌味な人間が3割、真面目な人間が2割、親の七光りで無気力に酒と女に溺れて自堕落な生活をする人間が5割。
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旧武士階級であった華族や士族の祖先は、領民を権力・武力・暴力で支配するのではなく、百姓と一緒に汗水垂らし泥に汚れ糞尿に塗れながら土地を耕す土豪であった。
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初期の近代化は、地方・農村から起きてきた。
日本の近代化である、殖産興業・富国強兵・近代教育を推進したのは地方出身の華族であった。
特に、新しい地方の特産品・名品は華族や士族などの旧武士階級が生み出した。
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何故、華族や士族が近代化を牽引したのか、それは庶民(百姓や町人)と違って家業を持たない無職者であったからである。
華族や士族が庶民と違った点は、西洋語の読み書きができないくせに西洋に対する基礎知識があり、西洋語の会話ができないのに好奇心から西洋渡航を行い、西洋産業に興味を持ち、西洋語の説明書が読めないのに西洋技術を見様見真似で学び、基礎技術を身に付け日本に持ち帰り、地元に西洋技術を伝え家内工業的生産から初めて地場産業に育てた。
庶民が、都市に出て近代化の原動力=労働力になったのは、地方で近代教育を身に付けてからである。
地方の近代教育を普及させたのは、華族や士族である。
貧しい家庭の子供たとえ百姓の子供であっても「向学心があり優秀である」との噂を聞けば、資金援助をしコネを使って都市部の大学や専門学校に進学させ、本人が希望すれば欧米の大学や研究所への留学に金を出し、会社・商店を始めたいと言えば活動資金さえ惜しまず出した。
金は本人が努力して成功すの為に提供したのであって、出世しての見返りは求めなかったし、成功してからの利子を付けての返金も求めなかった。
成功する子供はほんの僅かな為に、資金援助した多くの華族や士族は資産を失って没落した。
が、彼らは後悔はしなかったし、逆恨みをし復讐・報復などしなかった。
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昔の日本の資産家・お大尽は、現代日本の金持ち・富裕層とは違うのである。
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日本の近代化を成功させたのは、洋行帰りの華族や士族が西洋語の専門用語を日本国語に翻訳したからであって、日本人が西洋語を日常会話レベルまで習得したからではない。
日本が近代化に成功したのは、日本国語にこだわってしたからである。
西洋語を公用語として近代化を目指した国のほとんどは、近代化に失敗した。
つまり、自国語・民族言語に愛着を持たず野蛮な言語として捨てた国は、例外なく裕福な国になれず極貧国に転落し不幸になった。
それ故に、日本は華族や士族によって豊で幸せな国になった。
が、新たな階級が生まれ貧富の格差によってブラック化したのは、特権階級である華族や士族ではなく、強欲で私利私欲に走りやすい庶民が西洋社会を真似て資本家と労働者に分離したからである。
つまり、華族や士族は公利を優先したが、庶民には私利があって公利がなかった。
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明治は華族や士族の時代でったが、大正・昭和初期は庶民の時代であった。
明治時代は真っ当であったが、大正以降は真っ当ではなくなった。
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天皇・皇室とは、貧しく差別され虐げられた哀れな下層民の心の支えであった。
下層民とは、下級武士、身分低い庶民(百姓や町人)、芸能の民(歌舞伎役者・旅芸人・傀儡師・曲芸師・落語家・講談師)、異様の民・異形の民(身体障害者・病人)、賤民(非人・穢多・河原乞食)、部落民(山の民・川の民・海の民)、異能の民(匠の職人・修験者・山伏・渡り祈祷師・占い師・虚無僧・力士{相撲取り})などであった。
故に、命を捨てても天皇・皇族・皇室を守ろうとした勤皇派・尊皇派とはそうした下層民であった。
下層民こそが国體護持を願っていた。
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日本の皇族・華族・貴族は、世界の王族貴族とは違い、中華(中国)や朝鮮の王侯貴族とも全く違う。
日本の武士は西洋の騎士は違い、ましてや中華の読書人でもなく朝鮮の両班でもない。
武士道と騎士道は違う。
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皇族・華族・貴族は、天皇の藩屏と言われた。
華族・貴族になった、旧公家や元大名は少数で、その多くは身分低く貧しい出身者であった。
明治時代は、下剋上社会とまではいわないが実力次第の成り上がり社会であった。
実力とは、個人の我欲・私利私欲ではなく天皇・国家・社会・国民・民族・会社・商店・文化・芸術・その他の為に功績を挙げたかである。
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現代日本人は、武士・サムライではないし、武士・サムライの子孫でもなく、ましてや華族や貴族とは縁も所縁もない。
現代日本で、華族や貴族になる様な才能・教養・素質・気品・人格・品位のある日本人はいない。
ましてや、現代日本人に明治の元勲や重臣、政治家や軍人、経済人や学者など望むべく、鹿鳴館を嘲笑う現代日本人はなおさらでる。
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