🌏49)─1─明治時代。イスラム教の日本伝来。イスラム1・0時代。イブラヒム。~No.168No.169No.170 ⑮

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 奈良時代、アラブ人や中央アジア人がシルクロードを利用して日本を訪問し、一部は日本に住み着き朝廷から官位と役職をもらった。
 彼らは、イスラム教徒ではなく、自分の宗教を広める意志はなかったが聞かれれば教えた。
 日本神道は、そうした外来宗教を排除せず取り込んでいった。
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 歴史力のない現代日本人には、日清戦争から日露戦争迄の人類史的意義が理解できない。
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 右翼、民族主義者は、ロシア・キリスト教ソ連共産主義からイスラム教徒を助けていた。
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 2020年5月号 WiLL「永栄潔の今月の一冊
 『イスラム2・0』 飯山陽 著  河出新書 
 『イスラムの道徳が日本人には自然に備わっている。清潔さ、羞恥心、忠誠、信頼。特に慈悲の心、寛大さと勇気』。日露戦争後の1909年来日、イスラム教誌に熱く日本を紹介したイスラム系ロシア人、アブデュルレシト・イブラヒムの『ジャポンヤ』(小松香織・小松久男訳)の一説だ。読後のモロッコやトルコの旅で私も心やすかった。後に彼は東京モスク初代指導者(イマム)となり、井筒俊彦前嶋信次らにアラビア語を教える。両教授の講義や著作が長閑(のどか)に思えたのは師の感化だったのだろうか。
 が、本書が説くイスラムは苛烈だ。〈自分が今この瞬間になすべきこと〉は人が考え決めることでなく〈神の思召{おぼしめ}し〉とする教理は不変でも、今やインターネットが聖典コーランの解釈を主導する時代となったためだと言う。著者の謂(い)うイスラム2・0だ。
 確かに今はインフォメーションで大抵の事はすぐ調べられる。ブログ、SNS、動画サイトも無数。たとえアラビア語でも自動翻訳で縦覧(じゅうらん)できる。前著『イスラム教の論理』は後藤健二さんらを殺害したイスラム国(IS)がネットで流すフォトリポートや多言語メッセージの質の高さに触れていたが、新著によると、ネット作用率は益々上昇、インドネシアではネットに1日8時間以上割く国民が6割、1億5,000万人。法学者が信徒を制御できたイスラム1・0から、舞台はこの20年で一転、ISも浸透した。
 その影響を著者はインドネシアに測る。イスラム教徒が国民の87%だが、キリスト教徒も仏教徒憲法で定める〈信教の自由〉のもと、平穏に共生してきた。が、イスラム法学者評議会(MUI)が05年、『宗教的多元主義自由主義世俗主義イスラム教に反する』との見解(ファトワー)を出すと空気が変わる。上級公務員やトップレベルの高校生・大学生が過激化、ISへ走る者も出、18年には裕福なビジネスマン一家6人が3組に分かれ、3つのキリスト教会で自爆するような〝家族テロ〟が続く。
 エジプトやサウジのイスラム法学者団が過激な啓示解釈を避けるのに、非アラブのMUIが原理主義的なのは妙だが、〈啓示について知れば知るほど、ジハード主義者の主張がコーランに沿うことが分かるからだ〉と著者。近年は『努力』『奮闘』が本来の意味と説かれる〈ジハード〉だが、啓示を忠実に読めば、『イスラム教の支配を拡大させるための戦い』の意で、ISが『戦線に加われ』と呼びかけるのもそのためだとする。
 前出イズラヒムは伊藤博文ら歴々をふらっと訪れ、宗教談義を交わす。歓談は興趣(きょうしゅ)に富むが、日本人のイスラム教改宗の見込みを訊(き)かれ、大隈重信は答える。『日本人の信仰は神聖で信心は固いものです。その拠り所はただ一つ。大和魂です。(略)日本人の利益は民族精神を守ることにあり、これを失うことは日本人を失う』。〝日本教徒〟大隈に、『同感です』とイブラヒムも声を弾ませている。
 インターネットが真面目なイスラム教徒を思い詰めさせるのはそうなのだろう。ただ、ホメイニ師賛仰一色で染まったかに見えた往時のイランでも、『イスラムを野蛮で時代遅れで一片の思想性も無い国にしよとする策謀だ』と憤る人々が結構いたようだ(『イスラム革命の虚像』柿崎崇著)。四種のコーラン邦訳を脇に、本書に大いに教わった。叶うものならイスラム1・0時代に戻りたい」
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 ウィキペディア
 日本のイスラム社会
 この項目では日本のイスラム教社会(にっぽん/にほんのイスラムきょうしゃかい)について記述する。
 概要
 古来、イスラム世界において、日本は「ワクワク(アラビア語: الواق واق, 英語: al-Wāqwāq、諸説あるが、倭国の中国語発音が由来とされる)」として知られていた。
 歴史的には、奈良時代イスラム圏から玻璃器などの宝物が、シルクロードを通り、中国などを経由して日本にもたらされ、正倉院に保管されている。また、元のクビライが日本に送った使節には、2人のムスリムがいたことが確認されている。また、江戸時代にはオランダなどのヨーロッパからの情報として、イスラム圏に関する断片的な情報が日本にもたらされた。安土桃山時代には、中国やアラブからイスラム商人が訪日していたとも言われており、南蛮貿易などで東南アジアに渡った日本人商人の中には、イスラム教に改宗した者もいたとされる。
 日本に最初に入ってきたムスリム集団は、1917年のロシア革命によって国を追われた中央アジアタタール人たちである。第二次世界大戦では、日本はインドネシアやマレーシアなどのイスラム教徒が多数を占める地域を占領、3年程度であるが、軍を主体とする占領統治を行った。明治以降は、多くの日本人が移民として世界各国に渡る時期でもあり、その中には谷豊などのように、マレーシアなどのイスラム教の勢力が大きい国に移住し、イスラム教に親しむ日本人もいた。ジッダにあったイギリス公使館から本国に宛てた報告には、1938年に7人の日本人が巡礼に来たとの記録が残っている。記録に残る限り、日本人で初めての改宗者は山田寅次郎、あるいは1891年(明治24年)の野田正太郎が最初とされる。
 2010年現在の日本に住むムスリムは、1980年〜1990年代、パキスタンバングラデシュ、イランなど、東南アジアや中東から労働者として来日した者と、その家族(日本人配偶者も含む)が中心となっている。
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 アブデュルレシト・イブラヒム(タタール語: Габдрәшит Ибраһимов、シベリア・タタール語. Әптрәшит Ипрағимов (Äpträšit Ibrahimov)、トルコ語: Abdürreşid İbrahim Efendi (Abdürreşid İsker)、ロシア語: Абду-Рашид Гумерович Ибрагимов、1857年4月23日、オムスク州 – 1944年8月17日)は、帝政ロシア出身のタタールウラマー、ジャーナリスト、旅行家。明治末期に日本を訪問したことや、東京モスクの初代イマームを務めたことでも知られる。
 経歴
 アブデュルレシト・イブラヒムは、シベリアのトボリスク県タラ郡にて、ブハラ系タタール人のウラマーの家に生まれた。カザンのマドラサで学んだ後、帝政ロシアにおけるイスラム教育に絶望して1879年8月にメッカ、メディナに留学し、その後オスマン帝国の首都イスタンブールに渡った。
 1885年にロシアに帰国し、故郷のタラ郡でマドラサの教師を務めた。1892年には、その学識を買われてオレンブルク・ムスリム宗務局のカーディー職(イスラム法の裁判官)に任命されたが、1894年には、ロシア政府による抑圧的な対ムスリム政策に反発し、宗務局の保守的な風潮を批判してカーディー職を辞任した。その後、オスマン帝国イスタンブールに移住し、ロシア帝政を批判する論説活動を展開した。
 日露戦争や1905年のロシア第一革命によりロシア政府が弱体化したのを機に、イブラヒムはロシアに戻り、ムスリム民族運動のために首都ペテルブルクにてタタール語紙『ウルフェト Ülfet』の刊行を行い、ロシアのムスリム住民の政治参加の必要性を訴えた。また、アリー・メルダン・トプチュバシュやイスマイル・ガスプリンスキーらと共に、ロシア・ムスリム連盟の設立の際にも中心的役割を果たした。しかし、1906年にストルイピン政権が、非ロシア人の政治活動への取り締まりを強めると、イブラヒムも国外への脱出を余儀なくされるようになる。
 1907年末に、イブラヒムは中央アジアのブハラ、サマルカンドセミレチエを旅行し、さらに、1908年から1910年にかけて、シベリア、モンゴル、満州、日本、韓国、中国、シンガポールインドネシア、インド、ヒジャーズを巡る大旅行を行った。この旅行の内容は、イスタンブールやカザンの雑誌にも掲載された他、イブラヒムの著作『イスラーム世界 Âlem-i İslâm』(1巻:1910年刊行、2巻1913年刊行)にて紹介された。中でも約半年間滞在した日本での見聞は特に詳細に記述されており、日本に対して一貫して肯定的な評価を与えた。これはその後のイスラーム世界での日本観に大きな影響を与えたといわれる。
 イブラヒムは、この旅行の後、終着地のイスタンブールに活動の拠点を移した。第二次立憲制期のオスマン帝国で、イブラヒムは『スラト・ミュスタキム Sırat-ı Müstakim』などの雑誌に汎イスラーム主義的な論説を投稿し、同誌主筆のメフメト・アーキフや、サイード・ヌールスィーらと親交を持った。1912年にはオスマン国籍を取得し、イタリア・トルコ戦争やバルカン戦争にも従軍。第一次世界大戦中には、ヨーロッパにて反ロシア宣伝活動に従事し、ベルリンでは、ドイツ軍の捕虜となったロシア兵の中からムスリムを募集して「アジア大隊」を編成する任務に当たった。イブラヒムが組織したアジア大隊は、オスマン帝国に派遣され、メソポタミア戦線にてイギリス軍と戦った。
 1917年のロシア革命によりロシアで帝政が打倒されると、イブラヒムはロシアへ帰国した。当初イブラヒムは、ソビエト政権との連携を図ったが、後にこれをあきらめ、トルコのコンヤに移った。共和政下のトルコでは冷遇されたが、1933年に日本から招聘を受けて、再び日本を訪れた。日本では、東京ジャーミイの初代イマームを務めるなど、イスラームの普及に尽力した。1944年8月17日に東京にて死去。その死は日本のラジオでも放送された。イブラヒムの墓は、現在でも多磨霊園外国人墓地にある。
 日本での活動
 アブデュルレシト・イブラヒムは、その生涯で2度来日し、日本におけるイスラームの普及に大きな役割を果たした。1度目の来日は、1908年に始まる大旅行の途中で日本に立ち寄った際である。イブラヒムは、1909年2月から6月まで日本に滞在し、伊藤博文大隈重信、松浦厚ら要人と会見しただけでなく、学校や文化団体などで講演を行い、イスラームの紹介、ムスリムと日本人の関係強化を訴えた。各地で行った講演の内容は、『報知新聞』などの媒体で報じられた。
 日本のアジア進出を目指すアジア主義者の活動家らは、ロシアからの政治亡命者であるイブラヒムに関心をもち、イブラヒムもまた、自身の目的である汎イスラーム主義の宣伝や、反ロシア帝政運動に利用するために、日本の右翼、陸軍関係者に接近しようとした。イブラヒムは、日本滞在中に、頭山満内田良平ら、アジア主義団体黒龍会関係者と接触。1909年に東亜同文会会員で初めてイスラムに改宗した日本人と呼ばれる大原武慶陸軍中佐を会長に、アジア主義団体亜細亜義会が設立された際には、犬養毅頭山満河野広中、中野常太郎らと共に設立発起人に名を連ねた。
 また、イブラヒムは、ムハンマド・バラカトゥッラーら在日インド系ムスリムと共に、東京にモスクの建設を計画した。亜細亜義会の中野らから建設用地の提供申し入れを受けるなど支援を受けたが、結局モスクの建設計画は立ち消えとなった(その後モスクは1938年に別の場所に建設された)。
 一方、陸軍幹部の福島安正は、イスラーム世界の情報収集のため、部下で陸軍でロシア語通訳官を務めていた山岡光太郎をメッカに派遣することを決定し、イブラヒムにも協力を求めた。山岡はイスラームに改宗し、離日したイブラヒムを追ってメッカに向かった。イブラヒムは、ボンベイで山岡と合流し、共にメッカへの巡礼を行った。山岡は日本人で最初のメッカ巡礼者となった。
 イブラヒムは、1933年に再訪日し、イスラームの普及活動に尽力した。1938年に、日本政府の援助で東京代々木に東京回教学院(東京ジャーミイの前身)が設立されると、イブラヒムは学院併設モスクの最初のイマームとなった。イブラヒムは、東京で発行されていたタタール語の雑誌『新日本通報 Yaña Yapon Möxbire』に、イスラーム世界と日本との連携を謳う論説を投稿するなど、晩年も盛んに文筆活動を行った。同じくタタール人亡命者であるムーサー・ビギエフと共に、井筒俊彦の個人教授を行ったことでも知られる。
 イブラヒムの日本人評
 イブラヒム著『ジャポンヤ―イスラム系ロシア人の見た明治日本』(小松香織、小松久男訳)によると、日本到着後敦賀から汽車で移動中ばらばらに預けた荷物が一つも紛失せずに手元に戻ったことに驚き、日本国民の信頼性を高く評価、案内をしてくれた労働者階級の青年の面倒見のよさ、車中の人々の紳士的な態度にも感激し、非常によい第一印象を持った。横浜では人々のせっかちさに驚き、小銭の釣銭をわざわざ追いかけて渡してくれた店員や両替をしてくれた本屋などのエピソードを挙げてその誠実さを評価し、日本人の勤勉・誠実・清潔な国民性といった特質はイスラムの教えと合致していると述べている。
 再評価
 イブラヒムの名前は、1917年のロシア革命によるソヴィエト政権の成立、オスマン帝国の滅亡とトルコ共和国の成立、大日本帝国の滅亡といった時代の変化により長く忘れられていたが、ソ連末期のペレストロイカ時代に再評価の動きがあり、大旅行記の現代トルコ語版が1987年に刊行されたのはじめ、ソ連の解体によりタタール人など旧ソ連領内のトルコ系諸民族への関心が高まるとともに、日土関係や日本近代史への関心も高まり、イブラヒムに関する研究が急速に進展した。
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 2017,02,25
日本人はイスラームとどう向き合ってきたか
 イメージから知識へ、知識から理解へ
 小村 明子上智大学アジア文化研究所客員所員
 プロフィール
 イスラームに抱く戦闘的なイメージ
 一昨年以来、ISIL(イラクとレバントのイスラム国)によるテロがヨーロッパを震撼させ、イスラームに対するネガティブなイメージが増幅されることとなった。
 またアメリカ合衆国ではトランプ大統領によるイスラーム圏7ヵ国の入国禁止措置が実施されて以来、あちこちで抗議のデモが起きるなど国内が分裂する状況になっている。
こうしたイスラーム関連の出来事は異国の地で起きていることであり、日本では関係のないことのように思われている。そもそもこの国において、イスラームという宗教は異文化であり、これまで特に意識しなくとも日常生活を送ることができた。
 しかしながら、日本社会も、東南アジア地域を中心としたムスリム留学生の増加、2020年開催の東京オリンピック、年々増加している訪日ムスリム観光客への「おもてなし」対応等を考えれば、イスラームがもはや遠い存在ではなくなりつつある。
 実をいうと日本人のイスラームに対するイメージは一昔前と全く変わっていない。すなわち、「戦い、テロ=イスラーム」であるのだ。言い換えれば、戦闘的なイメージが強いのである。
 拙著『日本とイスラームが出会うとき―その歴史と可能性―』でも日本人のイスラームに対するイメージについて述べたが、「厳しい戒律」などといったネガティブなイメージばかりつきまとう。
 なぜか。
 ジャーナリズムがセンセーショナルな面に注視して報道しているだけでない。十数億ものムスリムがいるにもかかわらず、ごく一部の過激な行動を起こす者ばかりが注目され、それ以外の穏健で平和に暮らしているムスリムたちが無視されているという現実もあるからだ。
 だが、こうしたネガティブなイメージが先行する状況においても、イスラームに積極的に関わり、あるいはまた自らの宗教として選択する日本人が存在する。それはグローバル化が進み、インターネットが普及して情報が容易に入手できる現代に限らず、過去においてもまたいえることであった。
 ここでは、日本におけるイスラームの歴史の中で、日本人がいかにイスラームを知り、理解していったのかを明らかにしたいと思う。
 日本人とイスラームの歴史
 まずは過去における事例のいくつかを見てみよう。
 日本人とムスリムとの直接的な邂逅をもたらしたのは、戦前および戦中時における大陸政策および南方政策が展開されていた時期にあたる。
 この時期から、日本政府が大陸政策を推進するためにイスラーム(当時は「回教」と呼ばれていた)が調査研究されるようになった。
 一方で日本政府は中央アジア出身のムスリムたちを招聘、あるいはロシア(当時はソ連邦)からの弾圧を受けていたムスリムの亡命を積極的に受け入れた。それは、日本国内でイスラームを擁護する動きへとつながるのである。具体的には1938年の東京モスクの開設、亡命ムスリムの子弟のための回教学校の開校等である。
 このように、日本国内にイスラーム的な環境が生まれていった。
 一方、回教政策に従事する中で、ムスリムになる日本人が幾人か存在した。彼らに共通しているのは、ムスリムとの直接的な出会いである。中国西北部、いわゆる満蒙は回族と呼ばれるムスリムが居住する地域であり、中央アジアの出入り口ともなっている。
 もちろん、調査活動という職務に従事するためにムスリム接触し、あるいはイスラーム研究をしているのであるが、彼らと直接的に出会い、そして友情を育むことによって、イスラームに共感を覚えて改宗した人びとがいた。
 では彼らは本当にイスラームを理解して改宗したのであろうか。彼らのイスラーム理解は如何なるものであったのだろうか。
 日本の大陸政策を反映する、イスラームの宗教教義を説明した当時の文献資料がいくつか存在する。それらを読み解いていくと、どのような経緯でムスリムイスラーム)と出会い、その知識を得て、理解に導いていったのかを垣間見ることができる。
 例えば、日本人で初めてメッカ巡礼をした山岡光太郎は、道中のインド・ムンバイでイスラームに改宗した。それ故かイスラームの宗教教義を同行者のタタールムスリムから突貫工事的に習って、メッカの地に及んだのである。その山岡は改宗当初イスラーム唯一神アッラーを「天照大神」と同一視することで理解しようとした。
 また貿易業を営む中でイスラームに触れて改宗した有賀文八郎は、日本国内でイスラームを広めようと活動をした。彼は、その中で唯一神アッラーを「天之御中主神」と同一視して布教活動を行っていった。
 このような改宗者の考えは、神道の神々と同一視することで唯一神の本質を理解しようとしたことをうかがわせている。
 だが、全ての改宗者が他の慣れ親しんだ神々と比較、同一視することで理解に導いていったわけではない。改宗者であろうがなかろうが、ムスリムとの直接的な出会いと友好関係を重ねることによってイスラームの本義をよく理解していた日本人もいる。
 例えば、大陸政策に携わり、複数の著述もある須田正継や瀬川亀は、唯一神アッラー神道の神々に例えることなくそのまま理解し、かつイスラームの本質についても正確に記述していた。
 しかしながら、彼らの著述のいくつかを詳しく分析・考察すると、やはりより身近な「日本的なもの」と比較することで理解を深めようとしているのである。
 例えば、仏教など先祖代々からの慣れ親しんだ宗教との比較、あるいは日本人の道徳観に類似性を見出すこと――いわば、日本人としての宗教的および文化的背景に即してイスラームを理解していったのである。
 この理解への道程は回教政策が終焉した終戦以降にも見られた。
 それが、当時は難しかった海外留学、あるいは石油や投資ビジネスに従事する中でイスラームに共感し理解を示した日本人である。というのも、戦後の焼け野原から復興して高度経済成長期を迎えて先進国と呼ばれる国々の水準に到達した頃であっても、ムスリムとの直接的な邂逅は難しい時代であった。
 例えば、1970年代の日本国内のムスリム人口は公称で3万人程度とされていた。人口が少ないのだから、ムスリムとの直接の出会いの場は、おもに海外にあったといえる。
またその上で、日本国内でのイスラームについての主な情報源は、ニュース報道を媒体としていた。中東戦争や各地の内戦などである。ときには、イスラーム美術や建築などのオリエンタルなイメージをもたらす報道もあったが、やはりインパクトがあるのか、ネガティブなイメージが強く、誤解をもたらしていたことがいえる。
 すなわち、日本国内のムスリム人口が少ない上にこのようなネガティブなイメージが定着している中で、イスラームを積極的に知り、理解していこうとするきっかけは学問の習得や職務の従事にあったのである。
 知識から理解へ――これからの課題
 日本人にとって遠い宗教文化であるイスラームの理解に限らず、異文化を理解するには、ビジネスがきっかけとなることが多々ある。現地に出向し、あるいは現地の人と折衝する機会を得るためには、当然のごとく、現地の文化を知り理解しなければ円滑なビジネスが推進できないからである。
 それゆえ、あくまで戦前にみられたような神道の神々と同一視するということとは異なり、現地の文化や慣行を知るという点から、イスラームの教義を正確に理解することが重視されるようになった。日本人改宗者においても、その理由は何であれ、より正確に教義を知り理解していくようになっていった。
 だが、やはり異文化の地でイスラームの教義を実践するにあたり、社会がイスラームの教義に見合っていないことに疑問を持ち、言動などの形式によるものではなく、唯一神アッラーを心から敬えばそれでよいとする「日本的イスラーム」を試みるような改宗者も現れた。
 信仰心はもちろん重要であるが、心があるからこそ教義を忠実に守ろうとする言動があるのであって、この試みは成功することはなかった。
 その後、1980年代後半から日本は好景気となり、外国人労働者が押し寄せるように来日し、そのまま長期にわたって滞在するようになっていく。彼らの中には当時ビザがなくとも日本への渡航が可能であった国、すなわちイラン、パキスタンバングラデシュといったムスリムが多数派である国々からやってきた人びとがいた。
 その彼らと出会い、結婚した日本人がイスラームに改宗するケースが増加した。結婚をきっかけとして改宗した日本人のイスラーム理解は千差万別である。というのは、配偶者の信仰心の程度によって、改宗者に求められる宗教的行為が違うからである。
 例えば、スカーフの着用。日本においては着用しなくとも良いと考える人もいれば、配偶者によっては、アバーヤやニカーブといった全身を布で隠す衣装の着用を日本国内でも求める人がいる。あるいはイスラームに改宗したのだから宗教教義は守らなければならないとして、配偶者よりも厳格に実践している人もいる。
 そして現在、冒頭でも述べたようにムスリム留学生の増加と、東南アジアからの訪日ムスリム観光客の増加が見られるようになった。
 とりわけ注目すべきは、訪日ムスリム観光客への「おもてなし」対応である。空港や観光地、ショッピングモールなどの集客のある施設では簡易礼拝施設を完備し、レストランではハラール対応食を提供するようになっている。それはそれで多文化共生社会の構築への一歩となる。
 しかしながら、あくまでビジネスを成功させるための知識の獲得に目的があるので、何が良くて何が悪いのか、ビジネスツールとしての知識にとどまり、理解に導くまでには至らない。
 だがその一方で、大学生たちがコンパやゼミの打ち上げの席でムスリム留学生の食事に気を使っている場を見ると、イスラームについての知識のみならず、配慮する姿勢を垣間見ることができる。学生たちはムスリムとの友情を育んでいる中で、自然と理解していくのであろう。
 以上、過去から現在に至るまで、日本人のイスラーム理解について述べてきた。時代を下るごとに、より正確に知識を得ていくようになっている。日本人改宗者は宗教教義を実践するために他の宗教と比較することはあっても、イスラームそのものをそのまま理解するようになっている。
 だが、非ムスリムの日本人はイスラームについての知識は十分に獲得しているが、様々な目的があるため、あくまで一歩引いたものであることがいえる。またそのために、正確な理解にまで至っているのかどうかは疑わしい。
 多文化共生社会を構築するには、ただ異文化を知識として知っているだけでは不十分である。そこから直接体験を伴った理解にまで発展させていかねばならない。その意味では、多くの日本人のイスラーム理解はまだ知識を獲得している段階に過ぎないのである。
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 日本神道は、閉塞・閉鎖されたローカルな民族神話宗教で、信者はなく、教祖・教団、教義・教理、戒律・律法はなく、そして布教がない。
 日本の信仰と世界の信仰は違う。
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 日本民族日本人は、キリスト教に改宗してもユダヤ教イスラム教には改宗しない。
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イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観 (河出新書)
日本のイスラーム 歴史・宗教・文化を読み解く (朝日選書)
日本とイスラームが出会うとき