🏞93)─5─文政5(1822)年、宮津藩の百姓一揆。百姓供養「平地地蔵」。義民の吉田新兵衛。~No.343No.344 ㉝ 

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 百姓は、お上である幕藩による理に適わぬ理不尽な重税・苦役などの圧政・悪政・苛政に対して泣き寝入りせず、命を捨ててまで異議申し立てを行い、犠牲を出す事を覚悟で抵抗を繰り返していた。
 江戸時代は、百姓にとってブラック社会であった。
 現代日本人は、百姓の血を引いていないし、百姓の根性・志・魂を持っていない。
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 一揆を起こしていた百姓たちは、熱心な天皇信奉者であり純粋な保守派であって改革派ではなかったし、現代風のリベラルでも革新でもなく、左派でもなく、むしろマルクス主義者とは正反対の存在であった。
 百姓は、日本民族の庶民であって非民族の世界人民ではない。
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 文政一揆義民、吉田新兵衛 辞世の句
 「櫻咲 さくらの山の櫻花 ちる櫻あれば咲く櫻あり
 (遺書に自画像地蔵を描く、その心は)
 散る桜の私は死して仏縁をいただき地蔵菩薩になりたい
 そして次の世に咲く人々をたすけたい」
※「石工 松助を語る」田中尚之著 清水印刷 より引用しています。 
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 丹後の伝説:19集
 農民一揆百姓一揆
 *「文政一揆」標柱立て替え*
 *与謝野の石川小6年*
 *歴史学び「古里に誇り」*新調なった木柱
 江戸時代の文政年間に丹後で起きた最大の百姓一揆の歴史を語り継ごうと、与謝野町立石川小学校(牧野公造校長)の6年生が「文政一揆蜂起の地」の標柱を、手作りで新しく立て替えた。9日に同町石川の嘉久屋橋近くの町道沿いで設置式があり、約50人が参加して完成を祝った。
 宮津市史によると、1822(文政5)年、重税を課す宮津藩に反発し、石川村の吉田新兵衛を首謀者に農民が蜂起、庄屋などを焼き打ちにして、宮津城下に押し寄せる勢いを見せた。結局、新兵衛らは捕まり、打ち首になったが、地元では一身を顧みず、犠牲になった義民と崇拝した。
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 2022年11月23日 MicrosoftStartニュース 毎日放送 MBSニュース「圧政に一揆を起こして処刑された農民供養『平地地蔵』みのを着せる伝統行事 冬の訪れ
 圧政に一揆を起こして処刑された農民供養『平地地蔵』みのを着せる伝統行事 冬の訪れ
 本格的な冬の訪れを前に、京都府京丹後市の寺で高さ約5mのお地蔵さんにみのを着せる伝統行事が行われました。
 京丹後市の常林寺にある高さ約5mの地蔵に、地元の有志らが畳6枚分で重さ約60kmのみのを竹竿を使いながら着せていきます。
 この「平地地蔵」は江戸時代に宮津藩の圧政に苦しみ一揆を起こして処刑された農民らを供養するために建てられたとされています。みの着せは雪にさらされる地蔵を哀れんで毎年この時期に行なわれています。
 「毎年近くを通るときは見るんですけど、みのを着させてもらっているところは初めて見たので。すごい、圧巻ですね」
 「これを見ると冬支度をしないとなと思います」
 厳しい丹後の冬はすぐそこまで来ています。
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 丹後3市2町公式サイト
 丹後観光 お助けツール
 「平地地蔵」は京丹後市与謝野町にまたがる平地峠に建つ平智山地蔵院の境内の一角にあります。府下の立像としては最大のもので、高さ5.3メートルあります。
 右の頬にあざの様な染みがあることから、「あざ取り地蔵」とも呼ばれ親しまれています。
 天保の頃、この地方に山賊が出没して通行人や、地域の人々を苦しめていた。
天保3年(一八三二年)当時の常林寺住職、月海龍吟は衆生を救うため、多くの信者から浄財を求め、近くの谷より仏相をそなえた石を見つけ、鱒留の石工松助に依頼し、蓮華座の上に身丈一丈六尺(約五メートル)の地蔵尊を建立した。爾来、その功徳により山賊残らず退散した。と伝えられてるが、実際は文政5年、この地を支配いていた宮津藩の重税や圧政に耐えかねた農民が起こした一揆の首謀者が捕えられ処刑されたため、その霊を慰めるため村人が浄財を集めて建てたものだか、当時の時代的な背景から、公に一揆の首謀者を弔う事が出来なかったため、山賊を仏の功徳で退散させるという名目に変えられたという説も地元に残っている。
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 日本経済新聞
 一揆の義民 そっと慰霊 平地地蔵(もっと関西)
 時の回廊
 関西タイムライン
 2018年12月26日 11:30
 京都府京丹後市の人目をしのぶような峠の一角に、冬の間、土地の人々が蓑(みの)と頭巾を着せる地蔵がある。「平地地蔵」といい、高さ5メートル強。わざわざ特製の防寒具を用意するほどの手厚い習俗が伝わるのは、一揆を主導した義民への思いが背景にあるからという。
 平地地蔵は冬の間、蓑と頭巾を着せられる
 11月23日。前日来の雨が上がり、一時的に虹まで見えたのもつかの間。晩秋の丹後地方特有の天気らしく、再び雨が降りだした。あらかじめ平地地蔵の周囲は掃き清められている。
 朝8時。常林寺の西村泰丈住職(69)が般若心経を読み上げると、世話役の男性5人は慣れた様子でかいがいしく蓑と頭巾を着せ始めた。見上げるような大きさなので、蓑と頭巾も特大のサイズだ。手分けして羽織らせるが、はしごや竹ざおが欠かせない。雨にぬれてやや重い。それでも30~40分で装着は終わった。
 江戸後期に蜂起
 蓑と頭巾の材料となる稲わらはもち米。コンバインで収穫すると丈が短くなるため、根本から手作業で刈る。約30年間世話役を務める村尾明さん(71)によると「手がかかって敬遠されがちなので毎年当番を割り当てて栽培し、わらの乾燥までしている」という。
 江戸後期の1822年、12月13日夜。農民の吉田新兵衛と義理の弟・為治郎が周到に計画した農民蜂起は、呼応する村が続出。2日後には宮津藩のほぼ全域に広がった。一揆勢は宮津城下に押し寄せ、5項目を要求。余勢を駆って53件の大庄屋のほか、貧農に高利貸しをしていた縮緬(ちりめん)問屋などが打ち壊された。
 人目をしのぶような峠道の一角にある高さ5メートル強の平地地蔵
 一連の経緯は歴史学者だった池田敬正氏が京都大在学中(1953年)、雑誌「歴史評論」に寄稿した「文政五年宮津藩一揆物語」に詳しい。一揆の前年、宮津藩は1人あたり日銭3文を徴収する人頭税を導入。これが以前からの重税に輪をかけて、領民を反抗に踏み切らせる引き金となった。
 一揆勢が藩にのませた要求には、召し捕られた者を釈放し、徒党の詮議(連帯者の割り出し)をしない、という項目もあったが、藩は翌年、執拗に調査。新兵衛・為治郎はついに捉えられ、処刑されてしまう。
 墓建立も許さず
 「一揆の詳細は公的記録に残りにくい」と常林寺の西村住職はいう。寺以外に文献や関連資料が多く伝わっていたが、事実関係の細部に異同があるらしい。そもそも藩は統治をしくじったと幕府に見なされるため、被害の大きさなどの記述に及び腰になる。
 一方、農民側も蜂起の首謀者は死罪に問われるので、計画段階の文書は最小限にとどめがち。「不服を申請するのも命懸けで、現代の価値観からするとずいぶん理不尽だが、それが当時の常識」(西村住職)
 蜂起した農民は、犠牲となった主導者をたたえる行事はもちろん、墓を建てることすら許されなかった。それでも新兵衛・為治郎への敬意と感謝の念はこらえ切れなかったようだ。
 平地地蔵が造立され、1833年に開眼供養が営まれた。造立にあたって、人々は新兵衛の名はあえて伏せ、単に礼拝対象として、また峠の往来安全を願ってとの名目にした。曹洞宗45カ寺、臨済宗3カ寺、日蓮宗1寺が超宗派で呼びかけると、丹後・丹波地方の7万5千人強から寄付が集まった。地蔵の大きさが、この事業に懸ける熱さを物語る。晩秋の手厚い蓑着せも、その余熱かもしれない。
 文 編集委員 岡松卓也
 写真 大岡敦
 《交通》京都丹後鉄道の京丹後大宮駅から丹海バス「与謝の海病院線」に乗
り約10分間。運転手にあらかじめ「フリー乗降区間の平地地蔵公園」と伝え、バス停「上常吉」と「幾地」の間で下ろしてもらう。ただ同路線の運行本数は平日で5本のみ。
 《ガイド》地蔵造立から5年後に庵寺が建てられたが、現在は常林寺が管理している。
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 ウィキペディア
 平地地蔵(へいちじぞう)は、京都府京丹後市大宮町上常吉の平智山地蔵院境内にある石造地蔵菩薩立像。下常吉の常林寺(曹洞宗)が管理している。蓮華座に立つ石像で高さ5メートル。立像の石仏としては京都府下で最大級のもので、常林寺八世勝音和尚が広く喜捨を仰いで江戸時代後期の1833年天保4年)3月に建立した。顔面の、口の右上に黒点があることから、「あざとり地蔵」としても信仰される。「石造地蔵菩薩像」の名称で京丹後市指定文化財に指定されている。
 由来
 平地地蔵祭2019年7月
 平地地蔵造立のための費用は、礼拝対象あるいは峠を往来するにあたり安全祈願のためとの名目で、曹洞宗45カ寺、臨済宗3カ寺、日蓮宗1寺が宗派を超えて呼びかけを行い、丹後・丹波地方を中心に約75,000人から寄付が集められた。開眼供養は1833年に営まれた。
 地蔵造立の由来は諸説ある。造立の中心となった常林寺(下常吉)には、寄付者等について記録した関係文書が約200ページ残されており、それによると、京都や大坂などの遠隔地や、約4,000人の旅人の喜捨が含まれている。この旅人の喜捨の多さに着目した郷土史家の安見幸八は、1987年(昭和62年)に、山賊・追剥に襲われないことを願って交通の要衝であった峠の頂上に平地地蔵を築いたという旅路平安祈願説を発表した。平地峠は、江戸時代には丹後ちりめんで隆盛を極めた峰山藩と、宮津藩加悦谷地域を結び、機屋から京問屋へ、生ちりめんを運び金子を持ち帰る飛脚が往来する街道筋であった。一方、常林寺古文書の解析に取り組んだ安田正明・千恵子夫妻は、1999年(平成11年)に、平地地蔵は文政5年の宮津藩の農民一揆で犠牲となった義民の吉田新兵衛を追弔するためのもので、藩に処刑された新兵衛の供養を公にできなかったことから、表向きは旅路平安祈願と称して造立したとする見解を発表した。
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