🌏19)─1─伊勢暴動(東海大一揆)。真壁騒動。明治9年(1876)12月19日。〜No.64No.65 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 現代の日本人と昔の日本人は別人である。
 現代日本人は、武士の子孫ではなく、百姓の子孫ではない。
 現代日本人には、百姓が理解できない。
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 日本民族日本人は、漢族中国人や朝鮮人とは違う、お上の命令が理不尽と判断すれば竹槍を武器として政府軍と戦い勝利した。
 百姓一揆とは、理屈に合わない、道理が通らなければ、「ご無理ご尤も」と、「はいそうですか」と受け入れる事を拒絶して力尽くで抵抗する事であった。
 ムラ意識とは、村人が村八分で団結する事であった。
 百姓根性とは、よく、泣き言を言い、愚痴を言い、ぼやき、悪態を付き、言いたいことを言い、口汚い言葉で言い争う事である。
 百姓は、反天皇マルクス主義共産主義を憎悪し、おらが鎭守様(神社)を否定して破壊するキリスト教を嫌った。
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 日本民族日本人の誇りは、武士の日本刀ではなく、百姓の竹槍であった。
 百姓は、竹槍を武器として持てば、一本の竹槍を鬼に金棒、孫悟空の如意棒、無敵の武器と感じ、安心し、勇気百倍で怖いモノはなかった。
 故に、絶望的な太平洋戦争においても、竹槍で侵略してくるアメリカ軍のB‐29、戦艦、戦車に立ち向かって、命を捨てても、おらが故郷、おらが祖国、おらが天皇様を守ろうとした。
 日本の民族主義者、軍国主義者は、心で繋がっていた百姓であった。
 日本は、武士の国ではなく、百姓の国であった。
 そこには、武士道精神ではなく百姓根性があった。
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 1875年5月2日 日本とロシア帝国は、国境線画定の一環として千島樺太交換条約(サンクトペテルブルグ条約)を結んだ。
 日本は、正式に北方4島と千島列島は領土とし、樺太を放棄した。
 1876年 廃刀令の公布・俸禄の停止。 神風連の乱
 1877年 西南戦争
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 地租改正は、1873年明治6年)に明治政府が行った租税制度改革である。この改革により、日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立したことから、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。
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 地租改正反対一揆とは、1873年明治6年)7月より明治政府によって推進されてきた地租改正に反対する農民一揆である。
 基本的には「全国画一」の地租への統合を従来通りあるいはそれ以上の水準で農民に賦課しようとする明治政府と生活の維持・改善のために生産余剰の確保を求める農民側との対立ということになる。 大きな流れとしては、
 廃藩置県後より続く、石代納の高率に対する減免要求を地租改正の過程で求めるもの。
 地租改正のための地押丈量やその後の地券発行、石代納そのものの廃止(金納化)、田地の地位等級や収穫高の規定とそれに基づく地価の決定に対する反発など実際の地租改正作業を巡るトラブル。
 従来、入会地とされてきた土地や森林が、地租改正と並行して行われた官有民地区分事業において「持主不明」であることを理由に官有地や御料林に組み入れられて住民の自由な利用が禁止されたことに対する農民の抵抗。
 地価決定後の税率見直を求める運動や新地価に基づく小作料の改訂に対する小作争議。
が挙げられる。
 石代納減免を求める1874年(明治7年)の山形県ワッパ一揆や入会地の官有地編入に抗議して3万人が実力行使に及んだ明治14年1881年)の群馬県入会地騒擾なども著名であるが、大きな反対一揆は実際に地価の決定などの作業が進められた1875年(明治8年)から1877年(明治10年)にかけて相次ぎ、特に1876年11月から数ヶ月間において、茨城県三重県・愛知県・岐阜県・堺県(現在は大阪府南部と奈良県に分割)・熊本県で相次いで一揆が発生した。 これに対して明治政府は1877年1月に地租を3%から2.5%に引き下げる決定をしたものの、地租改正事業の中止には応じず、1881年6月30日の地租改正事務局の閉鎖に伴って地租改正の終了が宣言され、遅れていた山林などにおける官有民地区分事業も翌年7月に終了している。以後の反対闘争は、自由民権運動以後の「地租軽減運動」や初期帝国議会における「民力休養」論などに舞台を移すことになる。
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 真壁騒動(読み)まかべそうどう
 世界大百科事典 第2版の解説
 1876年11月末から12月初めにかけて茨城県真壁郡飯塚村ほか26ヵ村で起こった石代相場引下げ要求の一揆茨城県明治9年度貢租金納入に対し前年の米価によって年内に6割を納めさせ,次の納期の翌年2月になって過不足を精算する方針をとった。ところが1875年の石代相場1石5円15銭に対し,76年には3円23銭弱と下落し,農民は1875年の米価をもって貢納すれば76年の収穫米全部を要するほどであった。そこで飯塚村などの農民はしばしば石代相場の引下げを嘆願したが聞き入れられず,ついに蜂起した。
 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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 伊勢暴動は、1876年(明治9年)12月に三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)に端を発し、愛知県・岐阜県・堺県まで拡大した地租改正反対一揆である。受刑者は50,773人に上り、当時最大規模の騒擾(そうじょう)事件となった。
 現行の高等学校「日本史」の教科書では、茨城県で発生した真壁騒動(真壁一揆)と並び、地租改正反対一揆の代表とされている。この暴動を通して、地租が3%から2.5%に引き下げられたことから「竹槍でドンと突き出す二分五厘」とうたわれた。
 概要
 明治維新により新政府は次々と改革を進めていったが、その改革の中に、米の代わりに現金で納めるなどとした地租改正が含まれていた。従来の税収を維持するように地租が定められたため、農民の負担は軽くならず、その他の要因もあって農民の不満は高まっていた。そして1876年(明治9年)12月18日、翌日に控えた租税取り立ての延期を現在の三重県松阪市に相当する地域の農民が戸長らに申し入れた。この農民と戸長らの話し合いはもつれ、松阪の農民は北と南に分かれ集団で行進を始め、各地で新政府に関係する施設の破壊・放火を行った。特に北へ展開した一揆三重県を越え、愛知県や岐阜県にも広がった。こうした動きに対して新政府は鎮台や警視庁の巡査を派遣して農民を抑え込んだが、結局地租を引き下げざるを得なくなった。多くの犠牲を払いながら、民衆が政府に勝ったのである。
 
 暴動の萌芽
 1876年(明治9年)11月27日、茨城県真壁郡吉間村(現在の筑西市)に約300人の農民が結集、副区長に強訴する事件が発生、同月30日には同郡飯塚村(現在の桜川市真壁町飯塚)で民衆蜂起が起きた。これらの動きは真壁一揆と呼ばれ、164名の捕縛者を出した。県南で起きた真壁一揆は県北にも波及、12月8日から12月10日にかけて那珂郡小舟村や上小瀬村(現在の常陸大宮市小舟、同市上小瀬)の村人を中心に小瀬一揆が勃発、死刑3名を含む1,091名の処罰者を出した。茨城県で起きた一揆は地租改正に反対するだけでなく、学校課賦金廃止なども掲げていた。小瀬一揆の直後、伊勢暴動が勃発することになる。

 暴動後の社会情勢
 伊勢暴動の鎮圧のため、三重県に名古屋鎮台から2中隊、大阪鎮台大津営所1中隊、警視庁から巡査が200名派遣された一方で、旧津・上野・神戸・久居の各藩士が約4,400名集められ、鎮台兵到着前の政府側の武力行使は主に士族によってなされた。江戸から明治に時代が変わり、近代軍事制度が整いつつある中でも、緊急時には慣例的に士族の徴用が行われているという当時の状況があった。伊勢暴動や茨城県での一揆にあっては、県令が鎮台に派遣要請をせず、士族に召集をかけたことが鎮台側より抗議がなされ、1877年(明治10年)2月から3月にかけて「各鎮台長官への内愉」・「騒擾につき内達」が出され、鎮台と士族徴用の併用状態を解消し、武力行使の権限が鎮台に一義的に与えられることになった。

 名称について
 「伊勢暴動」の名は大正時代に出現し、三重県内務部がまとめた『伊勢暴動顛末記』の出された1934年以降は伊勢暴動で統一されている。「伊勢暴動」の語の定着以前は、「藁焼き暴動」・「伊勢農民暴動」・「伊勢騒動」・「明治9年の農民暴動」などさまざまに呼ばれていた。三重県における郷土史研究の結果、伊勢暴動という用語が生まれ、それが定着したために、愛知・岐阜・堺の3県にも拡大したにもかかわらず、「伊勢」暴動となったと考えられている。しかし、「伊勢暴動」定着以降も「伊勢一揆」・「三重愛知岐阜堺四県下騒擾」などを使う研究者もいる。
 三重短期大学の研究者らは、伊勢暴動を「東海大一揆」という呼称に変更することを提案し、同学教授の茂木陽一が執筆した『百姓一揆事典』(深谷克己監修)では、「伊勢暴動」を「東海大一揆」として掲載している。これは、伊勢暴動とともに近代日本の農民闘争として取り上げられている秩父事件の指導者・田代栄介が英雄として扱われるのに対し、伊勢暴動で唯一死刑となった大塚源吉の名を知る者はほとんどいないのは、「伊勢暴動」という名称から国家に抵抗した国賊が引き起こしたはた迷惑な「暴動事件」という見方をされていると考えられることから、歴史を正しく捉えられるように提案されたものである。
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新政府を動かした「伊勢暴動」

 明治9年(1876)12月19日に三重県で起こり、愛知・岐阜両県にまで及んだ伊勢暴動についてお話しします。
 時の明治新政府は、財政の安定を図るために地租改正事業を行いましたがその内容は土地の価格を定めて、その地価に応じて税を課すこと、これまで現物で納めていたのをお金で納めさせるようにかえること、税率を地価の3パーセントととし、土地を所有している人を納税者とすることが主な点でした。
 さて、県下では明治8年頃から米の値段が下がりはじめたために、農民たちは米を安く売って、高い税金を支払わなければなりませんでした。特に、櫛田川が決壊して米の質が悪くなった飯野郡あたりの農民の不満には強いものがありました。
 なかでも、飯野郡魚見村ほか四ヵ村の戸長をしていた中川九左衛門は、農民たちの意を汲んで、県の役人であった桑原区長に地租の上納について嘆願書を出します。しかし、一向に聞き届けられないので、農民たちは、定例の戸長会が開かれる夜、早馬瀬の川原に多数集合して圧力をかけますが、役人たちに説得され帰ろうとするところへ、急を聞いた付近の農民たちが加わったことで事態が緊迫します。そんな中、たまたま一人の農民が寒さをしのぐために藁に火をつけると、それを見た他の農民が事を起こす合図と受けとり、騒ぎは一層激しくなります。
 その模様を聞いて県から派遣されてきた係官は、自ら農民を説得すると共に本庁へ連絡します。そうこうしているうちに夜が明けると、続々農民が詰めかけ、その数は数千にものぼり、農民たちは村の旗をおしたて、各自は竹槍をもって暴れはじめ、各地で役所・学校・銀行など公的な建物を壊したり火をつけるなどしました。その勢いは、松阪・一志・安濃・四日市・桑名、更には愛知・岐阜両県の北へ向かう勢力と度会・宇治山田方面へ向かう勢力伊賀方面へ向かう勢力に分かれながら、志摩・牟婁を除いた全県的な広がりをみせます。そこで、岩村県令は、この地域を管轄していた大阪鎮台に軍隊の派遣を要請するだけでなく、内務省へも警視庁の警官の派遣を、更には管轄違いの名古屋鎮台へも軍隊の派遣を要請して、やっとこの騒動を鎮めました。
 こうした騒動もあり、政府はその2週間ぐらいあとの翌年1月4日、地租をこれまでの3%から 2.5%に引き下げます。世の人はこれを称して「竹槍デドント突キ出ス二分五厘」と言ったものでした。
(昭和61年12月 山口千代己)

参考文献
三重県『伊勢騒動(明治9年) 顛末記』三重県図書館協会    昭和56年
三重県史』資料編 近代1(政治・行政I) 昭和62年
関連リンク
三重を語る・三重を知る 地租改正反対一揆関係書類
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