🏞114)─4─オリッサ飢饉。開国による金融危機で百姓一揆が頻発した。薩長同盟。不平等条約と関税率問題。第二次長州征討。1866年~No.468No.469No.470 @ ㊷

幕末入門 (中公文庫)

幕末入門 (中公文庫)

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 1866年 オリッサ飢饉。イギリスの植民地・インドで飢饉が発生し、100万人のインド人が餓死した。
 白人の植民地支配は悲惨の一言に尽き、白人による救済は雀の涙ほどしかなかった。
 わずかに、キリスト教会が細々と被災者・飢餓民を助けていた。
 白人に植民地支配されていた非白人は、人間以下の家畜・獣として扱われ、使役されて救いはなかった。
 宣教師は、非白人をキリスト教徒に改宗させ、「隣人愛」を信仰していれば絶対神の恩寵で救われ、死後の世界で永遠の命が与えられるから、支配者の白人に逆らわず従う様に説いていた。
 キリスト教会は、地球上を白人が支配するキリスト教世界に生まれ変わらせる為に、植民地支配された非白人らによる暴力的独立運動を否定した。
 白人支配者は、独立を求めて反抗する非白人を、女子供に関係なく見せしめに処刑した。
 宣教師達は、処刑される反逆者達に懺悔を強要し、洗礼を施してキリスト教に改宗させ、死んでからの永遠の命を保障した。
 キリスト教会は、地元の民族宗教・民族言語・民俗文化・土着習慣など非西洋は野蛮行為として否定し消滅させていた。
 西洋言語を公用語とする地域は、教養がなく文化度が低い未開地であり、100年経っても搾取されるだけ貧しい貧困地域のままであった。
 民族宗教・民族言語・民俗文化・土着習慣を命がけで守った地域のみが、植民地化されず、独立国家を樹立できた。
 それが、日本とタイであった。
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 1866(慶應2)年 天気不順によって水害が発生して凶作となり、米価が異常に高騰して飢饉が発生した。
 全国的に百姓一揆が発生し、その件数は100件を超していた。世にいう、世直し一揆であった。
 食うや食わずの貧しい下層の庶民は、働き場所もなく日に日に生活が苦しくなった。
 大阪や堺の街に「貧窮組」なる数百人が、浮浪者の身なりで町中を行進して、豪商などから炊き出しや金を恵んで貰っていた。
 だが、ケチって何もしない豪商には容赦なく「打ち壊し」を行ったが、暴動ではない以上、家具や調度品を壊しても放火や掠奪はなかった。
 幕府は、街の治安を維持する為に、やむなくお救い小屋を建てて米を支給した。
 江戸や大阪などの街に浮浪者や非人が急増し、豪商は彼らが暴れるのを押さえる為に経済的支援を行った。
 打ち壊しは暴動ではなかったので、中国や朝鮮など大陸の様な略奪や放火はもちろん強姦や殺人などもはなかった。
 突然。異教徒外国人を嫌い開国に反対していた第121代孝明天皇が逝去した。
 幕府支持であった孝明天皇の死であった為に、討幕派による暗殺との噂が流れた。
 後に。伊藤博文を暗殺した安重根は、暗殺の理由の一つに取り上げている。
 古代からの天皇家・皇室の歴史は、皇位をめぐる陰謀が渦巻き、全員とは言わないが早死や怪死が数多くあった。
 そこには、キリスト教が嫌悪する様な「天皇は神」という信仰はなく、単なる「錦の御旗」という象徴でしかなかった。
 つまり、正統性を証明する「玉」という道具にすぎなかった。
 大日本帝国憲法は、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を「日本のカナメ」であるとして神聖不可侵と成文化して、天孫神話から続く皇統が血のつながらない赤の他人に移る事を防いだ。
 天皇とは、祖先を神と崇め祀る同族のみの祭祀王という神職であって、大統領や首相の様に人気のみで政治的に誰もがなれる俗職ではないと規定した。
 大統領や首相は円満引退や引責辞任があるが、天皇は善くも悪くも終身職として逝去するまで針の筵の上に座らされてた。
 ローマ教皇ピオ9世は、弾圧下にある日本人キリシタンに正しい隣人愛の福音を教え、洗礼を授け、魂を救済する為に、プチジャン神父を日本代牧司教に任命した。
 キリスト教会は、幕府との布教活動をしないという信教協定を無視し、居住地の外に秘密の教会を設置して隠れキリシタンを集めて宗教活動を始め、同時に布教活動を復活させた。
 バチカンは、相手国の国内法や宗教に関する協定よりも絶対神の神聖な教義を優先して、宗教活動を制限する如何なる俗的誓約も無視した。
 幕府は、伝統的国是である政教・経教分離の原則を主張した。
 キリスト教会は、信仰を社会全般から分離する事に猛反対し、布教活動を活発化させる為に信教の自由を強く求めた。
 その意図は、日本から全ての異教を排除して隣人愛で改宗する事であった。
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 幕府は、屈辱的な関税自主権を放棄する関税率改定条約をイギリスと締結した。フランス、オランダ、アメリカなどとも、同じ条約を結んだ。
 駐日フランス公使ロッシュは、財政難にある幕府に対して、長州など反幕勢力討伐にかかる巨額の戦費と武器弾薬の提供そして軍隊の派遣を申し込んだ。
 幕府内の親仏派は、フランスの第二帝政をモデルに幕藩体制を強化するべく、幕府の正統性を諸外国の新聞に訴え、国際世論の支持を取り付けて外債を募集すべきであると主張した。
 軍艦奉行勝海舟は、外国への借金は植民地の拡大を目論む欧米列強の内政干渉を許し、内戦を長期化して日本を滅亡に追い遣ると猛反対した。
 国際派と民族派は、日本の将来を賭けて激しく対立した。    
 イギリスは、フランスが幕府を支援する事で日本市場を独占することに警戒し、天皇を確保している薩摩や長州などに幕府を倒す為の援助を行った。
 明治維新とは、東アジアを中心としたイギリスとフランスの経済戦争でもあった。
 民族死滅の原因ともなりかねないフランスの借款供与計画は、幕府の瓦解で消滅した。
 国際社会では、強力な軍事力を持たない国家の正論は負け犬の遠吠えとして軽蔑された。
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 幕府は、海外渡航及び帰国を前面禁止という祖法を捨てて海外渡航を解禁し、欧米列強に有能な青年を留学させた。
 アメリカは、黒人奴隷にかわる新たな労働力をアジアに求め、中国や日本から苦力と呼ばれる労働移民(契約労働者9を輸入しようとしていた。
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 朝鮮王朝の権力者である大院君は、国際情勢を考慮する事なく西洋人を虐殺する攘夷を命じた。
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 イギリス公使パークスは、日本の関税で自国産業保護目的の介入を排除し、日本市場から日本商品を駆逐して西洋の商品を大量に流し込むべく、不法行為における幕府側の責任を追及して条約改正を強要した。
 イギリスは、アヘン戦争アロー号事件で清国を屈服させた軍事力を見せ付けて、日本に不利な条件を押し付けた。
 幕府は、関税を引き下げれば順調に輸出を伸ばして来た国内産業が打撃を受ける事を知っていたが、討幕派への対応で手一杯であった為に、やむなく改税約書に調印した。
1,関税率20%から一律5%に引き下げる。
2,従価税方式から従量税方式に変更。
3,兵庫港の代替地として、京・大坂より遠い神戸港の開港。
 幕府は、西洋諸国と不平等条約を結んだ。
 アメリカは、国益を優先して、ハリスの日本有利な外交方針を放棄し、日本に不利な不平等条約に参加した。
 日本の生糸などの輸出産業は打撃を受け、逆に、安い綿織物や毛織物が大量に輸入された。
 舶来好みの日本人は、外国産を一流品として憧れ、日本産を粗悪品として馬鹿にして外国産を購入して自慢した。
 支払いとして、国内の金が大量に国外に流失した。
 ロンドンのユダヤ系金融資本は、イギリス外交を利用して日本の金銀を手に入れる事に成功した。
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 玉松真弘(操)は、蟄居している岩倉具視を訪問し、倒幕の密議に参加した。
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 4月 久春内詰所の日本人役人が巡視の途中、ロシア兵を逮捕する事件が発生した。
 幕府は、北緯48度を国境とする箱館奉行小出秀実の建言を認めて、樺太における日露国境画定の為に箱館奉行小出秀実と目付石川利政をサンクトペテルブルクに派遣した。
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 6月7日〜8月30日(グレゴリオ暦7月18日〜10月8日) 第二次長州征討(幕長戦争)。幕府軍約10万人対長州3,500人。
 山陰の石州口。大村益次郎率いる700人は、幕府軍5,000人を撃退し、浜田城を攻略した。
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 6月9日 幕末の『人のうわさ』。大阪城内の堀に、不思議な生き物が出現したという噂が流れた。
 6月13日 武州一揆徳川幕府の瓦解を早めた百姓一揆。参加者10万人以上。
 身分が低い庶民(百姓や町人)は、西洋の民衆や中華の人民とは違って、大名や武士にとって恐ろしい存在であった。
 だが。百姓や町人は、革命や反乱を起こして権力者・支配者・裕福層を皆殺しにして自分たちが天下を取って、日本の新たな権力者・支配者・裕福層になろうという野心も欲望も持ってはいなかった。
 日本の無欲な庶民(百姓や町人)は、世界の常識的な革命や反乱は起こす意欲に欠けていた。
 日本のローカルなムラ常識は、都市を中心とする世界では非常識である。
 なぜ、日本で共産主義革命が起きなかったかといえば、身分低い庶民(百姓や町人)が現実離れした架空の理想主義的欺瞞を頭から信用しなかったからである。
 日本人が、ムラ意識の庶民でいるうちは共産主義革命は起きない。
 日本で共産主義革命を起こすには、ムラ意識の地方を徹底的に破壊し、庶民を都市の貧困階級・労働者へと意識改革する必要があった。
 {2016年5月31日 読売新聞「武州一揆 伝えたい
 幕末期の米価高騰をきっかけに、旧上名栗村(現飯能市)の農民たちが立ち上がり、幕藩体制に動揺を与えた民衆蜂起『武州一揆』から、今年で150年となるのに合わせ、記念集会や『しのぶ会』が来月11、12日、飯能市内で相次いで開かれる。地元関係者は『江戸幕府の瓦解を早めた一因になったとも言われる武州一揆が、もっと知られるきっかけになれば』と参加を呼びかけている。 」
 幕末に蜂起『世直し』要求
 武州一揆は1866年(慶応2年)6月13日、上名栗村正覚寺の信徒、大工の島田紋次郎とおけ職人の新井豊五郎の2人を中心に、上名栗村の農民たちが一斉蜂起して始まった。
 一揆指導者たちは、物価高騰に苦しむ人々を救う方策を正覚寺で話し合い、米価引き下げや質入れ品の無償返還などを求めて、蜂起を決断した。
 『世直し』(社会改革)を求める一揆は、幕府に鎮圧されるまで7日間に武蔵国(埼玉県、東京都など)の15郡に広がり、農民ら10万人以上が参加したとされる。捕らえられて獄死した紋次郎と豊五郎の墓は、寺の近くにある」}
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 オールコック公使は、尊皇攘夷で混乱し弱体化した幕府に対して不平等条約を強要し、武器商人を通じて薩摩や長州に武器弾薬を売っていた。
 その頃。横浜の外国人居留地に移り住んだ白人商人達は、宗教的人種差別主義者が多く、他のアジア植民地同様に日本人を人間以下の獣と見下し、徳川幕府が定めて法度は近代的法律ではないとして無視して傍若無人な振る舞いを繰り返していた。
 徳川幕府は、法度で白人を裁く困難さから領事に自国民を裁く権利を認めた。
 外国人領事は、領事裁判権を行使して、自国民の不法行為に対して有利な裁定を下し、被害を受けた日本人側に不利をもたらしていた。
 弱肉強食の市場経済思想を持つ白人商人らは、世界の主人としての特権が認められたとして、中国やインドで行った同様の横暴な行為を平然と行い始めた。
 御上の裁定に弱い町人は、泣き寝入りになる事を承知で、無気力に外国人領事の不法裁定に従った。
 喧嘩両成敗の裁定を守ってきたサムライは、礼節を欠いた白人の行為に激怒し、攘夷として外国人外交官や白人商人へのテロを行っていた。
 帝国主義地代。西洋列強は、地元民によるテロ行為に対する懲罰を理由にして侵略戦争を行っていた。
 西洋人が、侵略戦争を正当化する最有力な理由が宣教師の殺害であった。
 イギリス公使パークスは、徳川幕府が統治能力をなくしたと判断し、薩摩と長州に幕府を倒すように武器を販売した。さらに、倒幕を表明した佐賀や土佐にも大量の武器を売った。
 フランス公使ロオッシュは、幕府に戦費を融通し大量の武器を販売すると申し込んだ。
 イギリスとフランスは、意図的に日本人同士を戦わせ、内戦で混乱させ、抵抗できないほど疲弊したところで日本を植民地化しようとした。
 もし、幕府側にしろ倒幕派にしろ、勝利の恩義を感じて寸土でもイギリスやフランスなどに国土を租借したら、日本は確実に欧米列強の植民地となり、日本人は白人キリスト教徒の奴隷とされた。
 植民地拡大の国際社会では、無償の善意は存在しない。あるのは、「漁夫の利」という現実のみであった。
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 欧米列強の商人は、日本の内戦で大金を稼ごうとしていた。
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 欧米列強は、内戦で疲弊した日本を分割して植民地にするつもりであった。
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 8月 アメリカ商船の船員が、朝鮮の大同江で惨殺される事件が起きた。
 アメリカとフランスは連合を組み、朝鮮を懲罰する動きを見せ始めた。
 徳川慶喜は、朝鮮の危機は日本の危機に直結するとして、事件を穏便に解決し、開国を促す遣韓使節の派遣を始めたが、大政奉還で取りやめとなった。
 8月30日 廷臣22卿列参事件。
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 10月21日 横浜大火。エドゥアルド・スエンソン(デンマーク人)「日本人は何時になく変わらぬ陽気さ暢気さを保っていた。不幸に襲われた事を何時までも嘆いて時間を無駄にしたりしなかった。持ち物全てを失ったにもかかわらずである」「日本人の性格中、異彩を放つのが、不幸や廃墟を前にして発揮される勇気と沈着である」(『江戸幕末滞在記』)
 エドワード・モース「僅かな家具道具類の周囲に集まった人々(は老若男女みな)まるで祭礼でもあるかのように微笑みを顔に浮かべていた」(『日本その日その日』)



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物語 幕末を生きた女101人 (新人物文庫)

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  • 発売日: 2010/04/07
  • メディア: 文庫