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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
自然災害とは、不道徳な生活で自堕落な生き方をする日本人に対して神々が下す天罰であった。
日本民族は、理不尽に自分の命を災害で奪う神々を怖れ、祀り、祈り、敬っていた。
日本民族には、キリスト教が言うような生まれながらの原罪はないが、生きる上での天罰があった。
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慶長三陸地震・慶長奥州地震は、1611年12月2日(慶長16年10月28日)、現在の青森県、岩手県、宮城県を襲った地震。慶長奥州地震とも呼ばれる。震源や地震の規模については諸説ある。
規模 M8.1
津波 あり
1611年(慶長16年11月13日)- 三陸地方に大地震の後津波3回。伊達領内溺死者5000名
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日本経済新聞
慶長三陸津波はM9地震か 海底断層、最大80メートルずれ
2017年5月24日 13:58
江戸時代初期の1611年に東北地方の太平洋岸を襲った「慶長三陸津波」を起こしたのは、従来の想定より大きいマグニチュード(M)9.0の超巨大地震だったとする研究結果を、北海道大の谷岡勇市郎教授(地震学)らのチームがまとめた。東北沖で長さ250キロの海底断層が最大80メートルずれたとしている。
2011年のM9.0の東日本大震災は「想定外」といわれたが、東北沖では400年前にもM9地震があったと指摘する内容。谷岡教授は「慶長は思ったより規模の大きな地震のようだ。断層が特に大きくずれた岩手沖にはひずみがあまり残らず、東日本大震災でも大きく動かなかった可能性がある」としている。
慶長三陸津波の浸水域は東日本大震災と同程度か上回っていたとされる。ただ原因となった地震についての詳細は分からず、規模もM8.1と評価されていた。
チームは、以前東北大の研究者らが古文書などを基にまとめた慶長三陸津波に関する16地点のデータに注目。津波が▽岩手県山田町の海抜約28メートルの峠を越えた▽現在の海岸から7キロほど内陸の宮城県岩沼市の神社に到達した――などの記録に最も整合するような津波を起こすプレート境界の地震と震源断層を推計した。
その結果、地震の規模はM9.0、断層は幅約100キロ、長さ約250キロと推定。断層は北側の100キロと南側の150キロに分かれ、北側は最大80メートル、南側は40メートル程度ずれたと判断した。南側は東日本大震災の震源域で最も動いた領域と同じで、大震災では最大50メートルずれたと考えられている。
慶長三陸津波の地震は比較的揺れが弱かったとされる。断層がゆっくりとずれ、地震の規模が大きい割に揺れは弱い一方で津波が大きくなる「津波地震」に当たり、揺れが強く津波も大きい東日本大震災とは異なるタイプとされている。〔共同〕
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日本大百科全書(ニッポニカ)「慶長三陸地震」の解説
慶長三陸地震 けいちょうさんりくじしん
1611年(慶長16)10月28日(グレゴリオ暦12月2日)に発生した地震。揺れは江戸を含む広い範囲で感じられ、東北地方では揺れがやや強かった(震度4~5程度)。福島県北部から北海道東部までの広範囲で津波の被害があり、その犠牲者は伊達(だて)領(仙台藩)だけでも1783人、北方の宮古(みやこ)まで広げると、わかる範囲で合計2913人とされる(『譜牒(ふちょう)余録』などによる)。津波の高さは三陸海岸で10~20メートルに達し、仙台平野では内陸深く浸水し、現在の海岸から2.5キロメートルほど内陸にあった集落(現、仙台市荒浜地区)でも大きな被害を生じた。当時、日本沿岸を測量中であったスペインの探検家セバスティアン・ビスカイノの一行は、現在の岩手県大船渡(おおふなと)市付近でこの地震と津波に遭遇し、その記録を残している。地震の揺れが小さいわりに津波が大きい点で1896年(明治29)の明治三陸地震と似ているが、慶長三陸地震は北海道と仙台平野周辺で津波が大きかったことで違いがある。
震源については不明な点が多い。地震の揺れが感じられたのが午前8時から10時ころであるのに対し、宮古での津波の到達はその数時間後の午後2時ころとされる。震源が三陸沖の日本海溝周辺にあれば東北沿岸には30分ほどで津波が到達するはずであり、このことから慶長三陸地震の震源が日本海溝ではなく、より遠方にあることが示唆される。北海道東部太平洋岸の津波堆積(たいせき)物の研究から、17世紀前半に千島海溝西部で連動型巨大地震(推定規模は少なくともモーメントマグニチュード(MW)8.4)が発生したことが知られており、この地震が慶長三陸地震であるとする考えもある。
[藤原 治 2017年6月20日]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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東北沖「最大級」か 17世紀の慶長三陸地震 国の評価上回り、改称提案
東日本大震災
地震
耐震化
社会 | 神奈川新聞 | 2017年7月16日(日) 16:56
東北巨大地震
江戸時代の1611年に東北沿岸に大津波をもたらした「慶長三陸地震」の規模を巡り、新解釈が相次いでいる。国の評価ではマグニチュード(M)8・1だが、歴史の専門家が各地に残る古文書を再検討した結果、被害範囲は「三陸」では収まらず、地震規模も国の評価を上回るとして「慶長奥州地震」への改称を提案。この研究成果を基にした津波研究者の試算では、東日本大震災に匹敵するM9・0の超巨大地震だった可能性が指摘されている。東北の沖合で繰り返す「最大級」の再来間隔の見直しにつながる可能性もあり、注目されそうだ。
政府・地震調査委員会は慶長三陸地震について、海底がゆっくりとずれ動くことで震度が大きくならないまま津波が卓越する「津波地震」だったとみている。津波の襲来状況を書き留めた古文書が多く残る一方、揺れの被害に関する記録がほとんどないためだ。1896年の明治三陸地震も同じタイプだが、慶長については震源を北海道沖とする見方もあり、実態は詳しく分かっていない。
こうした現状を踏まえ、各地に残る史料を再検討した東北大災害科学国際研究所の蝦名裕一准教授は「従来の史料解釈に問題があり、地震の規模が過小評価されてきた」と定説に異議を唱える。
津波来襲直後に訪ねた岩手・大船渡の集落の描写などに関し、信ぴょう性に疑問が投げ掛けられていたスペイン人探検家ビスカイノの報告などを東日本大震災の被害状況と比較検証し、「記述は不自然ではなく、信頼性が高い」と判断した。三陸沿岸を調査中に海上で偶然、津波に遭遇したビスカイノの報告には、伝聞として三浦半島の浦賀でも若干の海面変動があったことをうかがわせる記述もあるという。
当時の被害記録は岩手や宮城だけでなく、福島にも残る。こうしたことから、蝦名准教授は「被害は(青森から宮城にかけての地域を意味する)三陸よりも広い範囲であった。福島なども含む『奥州』に改称すべきだ」と提唱している。
また、史料に記された津波到達点まで実際に浸水したと仮定し、北海道大の谷岡勇市郎教授らが震源などを試算した結果、岩手・宮城沖合の南北方向に約250キロ、東西方向には約100キロの断層が推定された。東日本大震災の震源断層より狭いが、谷岡教授は「断層は南北で二つに分かれており、北側が大きくずれることで地震や津波が巨大化した」とみる。
東北沖の最大級を巡っては、869年の貞観地震(M8・3以上)が東日本大震災に匹敵する規模だったとされる。このため、震災のような超巨大地震は「おおむね千年に1度起きる」との見方が定着しているが、谷岡教授は「少なくとも発生間隔は千年よりも短いのではないか」と指摘する。地震調査委は震災級はほかにも複数回あったとみているが、具体的な地震名は挙げていない。
歴史地震 解明の道半ば
歴史上の巨大地震を解く試みが、東日本大震災を機に広がりを見せている。発生の周期などを見極め、再来に備えるためだが、史料の記述を過大評価していたとして過去の発生に疑義が生じるケースもある。地震計のなかった時代にさかのぼり、
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AERA
あの伊達政宗も地震被害後「復興事業」を行っていた
地震
2013/03/14 07:00
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3.11の東日本大震災により、海岸部が津波の直撃を受けた宮城県仙台市。海沿いの仙台市若林区は約6割が浸水している。伊達家18代目の当主の伊達泰宗さん(54)は伊達政宗が復興に尽力したと言われる「慶長三陸地震」と東日本大震災とを重ね合わせる。
「政宗公の時代、今回の地震のちょうど400年前、慶長の大津波に襲われています。仙台領の沿岸地域は広く、いまの岩手県南半分から福島県の沿岸部までありましたが、このとき、数千人が亡くなっています」
1611(慶長16)年の「慶長三陸地震」については、わずかな史料しか残されていない。伊達家が編纂(へんさん)した「貞山公治家記録」には、「御領内二於テ千七百八十三人溺死シ、牛馬八十五匹溺死ス」とあり、幕府の「駿府記」には、「溺死者五千人」と書かれている。
「政宗公は事態を幕府に報告するとともに、いちはやく復興にとりかかっています。奥州街道を一部内陸側に移し、米を安全かつ早く運ぶ物流ルートとして運河『貞山掘(ていざんぼり)』を造り、北上川河口の石巻を集積地として整備しました。また、沿岸地域の新田開発によって、江戸中期には、伊達62万石は実質100万石を超えるほどになりました。私も震災で人生観が変わりましたが、政宗公にとっても大きな転機であったのでは。慶長の復興事業は、未来を見据えた一大プロジェクトだったと思います」
そのプロジェクトが実を結び、現在の仙台、宮城県があるのかもしれない。
※週刊朝日 2013年3月22日号
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JAMSTEC BASEって?
がっつり深める
東日本大震災から10年
<第6回>伊達政宗は「巨大地震」を見たか?(後編)
戦国武将の中では、トップ3クラスの人気を誇る伊達政宗(1567~1636年)。「独眼竜」という、いかにも勇猛そうな異名で知られていますが、仙台藩の初代藩主として政治にも辣腕をふるいました。スペイン国王やローマ教皇に対しては「奥州の王」として使節も送っています。
その政宗は1611年「慶長(けいちょう)奥州地震」という大地震に遭遇しました。津波が広く東北沿岸を襲い、5000人規模の人命が失われたと言われています。この地震は、従来の研究では1933年の昭和三陸地震くらいだったとされていましたが、最近は2011年の東北地方太平洋沖地震(以下、東北沖地震)に匹敵する規模ではなかったかと議論されるようになりました。一方で近年、新たに確認された1454年の「享徳(きょうとく)地震」も、東北を襲った巨大地震ではないかと注目され始めています。
私達はこうした過去の(巨大)地震をどうとらえ、何を学べばいいのでしょうか。今回は前編と後編に分けて、地質学と歴史学の両方から考えてみることにします。
目次
聞き流してしまった大津波の伝説
過去の地形を復元して伝説を検証する
日本で被災したスペイン人探検家
地震の名前が過小評価につながった?
まだ慶長か享徳かは判断がつかない
逆転の発想と洞察力による復興事業
よみがえりつつある防潮林、だが……
聞き流してしまった大津波の伝説
前編で貞観(じょうがん)地震や享徳地震については史料の話をしましたが、有史以降に起きた過去の地震については、自然科学ばかりでなく人文科学的な研究も重要です。東北大学災害科学国際研究所准教授の蝦名裕一さんは、地震を専門とする数少ない歴史学者の一人です。
実は東北沖地震が起きるまで、蝦名さんは地震の研究をほとんどしていませんでした。もともとの専門は日本近世史、江戸時代の藩政史や政治思想の研究でした。
「当時は、地震のことは自然科学の分野だから、人文社会学である歴史学の範疇ではなく、地震の学者さんたちがやるんだろうと考えていました」と蝦名さんは振り返ります。
2009年ごろ、蝦名さんは仙台空港がある宮城県岩沼市の市史編纂室で、調査の仕事をしていました。ある時、そこに市の要職にある人が現れて「伊達政宗の時代に、岩沼に大津波が来たという伝説があるんだけど、そういうことは知っている?」というように聞いてきたそうです。当時の蝦名さんは専門とする時代が若干ちがっていたこともあって、あまり関心がわかず「そのうち調べておきます」程度で話を済ませました。それっきり、ほとんど忘れていたのです。
プロフィール写真
蝦名裕一(えびな・ゆういち)
1975年、青森県生まれ。東北大学大学院国際文化研究科修了。博士(国際文化)。専門は日本近世史。東北大学東北アジア研究センター教育研究支援者、東北大学災害科学国際研究所助教を経て、2015年より東北大学災害科学国際研究所災害文化研究分野准教授、現在に至る。主に東北地方を中心とした歴史災害の研究、特に歴史資料を活用した文理融合型の学際的歴史災害研究に取り組んでいる。著書に『慶長奥州地震津波と復興―400年前にも大地震と大津波があった』蕃山房、2014年。撮影/藤崎慎吾
そして2011年3月11日、東北大学の川内北キャンパスにいた蝦名さんを、巨大地震が襲いました。東北アジア研究センターという施設で、史料の整理や保全についての原稿をまとめているところでした。停電した研究棟から避難し、携帯のワンセグで東北沿岸に押し寄せる津波を目にした時、2年前に岩沼で聞いたことが脳裏によみがえりました。「このことだったのか!」と思ったそうです。
学生時代、古文書の調査で何度も通った岩手県の大船渡市や気仙沼市、そして半年間、中学校の教師をしていた福島県双葉町など、思い入れのある場所が軒並み大きな被害を受けました。「津波が昔このあたりに来ていたと聞いていながら、その研究に取り組もうとしなかったことをすごく後悔しました」と蝦名さんは言います。「もし震災前に研究して、史料に残された先人の警鐘を見いだせていれば何かできたのではないか――そういう思いは、今でもどこかでありますね」
過去の地形を復元して伝説を検証する
さて、岩沼で蝦名さんが聞いた「伝説」は『駿府政事録』という史料に載っています。これは徳川家康(1542~1616年)の側近だった後藤庄三郎光次(1571〜1625年)か、儒学者の林羅山(1583~1657年)によって書かれたとされています。
『駿府政事録』の津波について書かれているページ。
撮影/藤崎慎吾 東北大学附属図書館所蔵
まず、この史料には伊達政宗から家康への(家康側近を介した)報告として「政宗の領地に大波が押し寄せて、沿岸の人家がことごとく流され、5000人が溺死しました。これが世に言う津波です」と書かれています。さらに政宗の使者からの伝聞として、おおむね次のような話が記されています。
――津波が起きた日、肴がほしいと思った政宗は、2人の家来を漁村に派遣した。家来たちが漁師たちに釣舟を出すよう命じたところ、今日は海の色が異常で天気もよくないと渋られた。それを聞いて家来の1人はあきらめたが、もう1人は政宗の命にそむくことはできないと強引に舟を出させた。すると数キロ沖に出たところで、大津波に襲われた。幸い舟は沈まず波に運ばれ、漁師が住む里の山に生えている松の近くに漂着した(これを「千貫松(せんがんまつ)」という)。家来たちは、その松に舟をつないで逃げ、波がおさまってから戻ってみると、舟は松の梢まで押し上げられていた。
ここで語られている津波は、1611年12月2日の慶長奥州地震によって発生したものと考えられています。その日、政宗は仙台に滞在していたので、実際に地震や津波を体験したでしょう。「千貫松」というのは、現在の岩沼市にある千貫山にあったと見られます。海岸線から千貫山までは、7〜8kmの距離があります。
東北沖地震の時でも津波の浸水範囲は、内陸に5kmくらいでした。『駿府政事録』の記録をそのまま受け取れば、慶長奥州地震の規模は東北沖地震を上まわっていたことになります。この点に疑問を持ち、『駿府政事録』の話は「政宗の創作」だったのではないか、とする研究者もいるようです。
写真
宮城県岩沼市と亘理町における東北沖地震時の浸水範囲(赤い斜線)および千貫山の位置。 仙台河川国道事務所ホームページ (https://www.thr.mlit.go.jp/sendai/kasen_kaigan/kasenfukkou/image/201703_torikumi.pdf)を加工して作成
ただ津波というのは河川に入ると、かなりの距離を遡上します。東北沖地震の時、北上川では約50kmも遡上しました。岩沼市と亘理町の間を流れる阿武隈川でも約10km遡上し、海岸線から6km余りの阿武隈大堰にまで達しています。これだけでも千貫山にだいぶ近づきます。
そして蝦名さんが当時の絵図を調べてみたところ、阿武隈川の本流はかつて今より内陸に大きく蛇行し、千貫山の近くを流れていたことがわかりました。つまり慶長奥州地震が東北沖地震と同じくらいの規模だったら、津波が昔の阿武隈川を遡上して、少なくとも千貫山の麓には達していた可能性があります。
絵図をもとにして阿武隈川の旧河道を現代の地図に描き加えた。かつてはこちらが本流で、慶長奥州地震の津波が東北沖地震並みだった場合、千貫山の麓まで達していた可能性がある。
提供/蝦名裕一 氏
同様な例は宮古市の閉伊川にもあります。やはり慶長奥州地震の津波によって、現在の地図からすると、ほぼありえない場所に舟が漂着したという記述や伝承が残されているのです。これについても蝦名さんは昔の絵地図を探しだし、それを撮影して現在の地図データと重ね合わせ、さらに3次元化するなどして検討しました。このような手法を「地形復元」と呼んでいます。
その結果、閉伊川も昔は今より蛇行していたり、二股に分かれていたりして、かなり姿が異なっていたとわかりました。また現在は暗渠になっていて見えない支流が存在し、東北沖地震の津波がこれに沿って市街地に及んでいたこともわかりました。これらの流路を東北沖地震の時と同規模の津波が遡上したとすれば、記述や伝承を否定することはできなくなります。
蝦名さんが行っている地形復元の流れ。時には幅が5〜6mもある絵図などを撮影し、それを現在の地形データに重ね合わせる。特徴的な場所は手作業で描いていくこともある。最後は現在の地形を3次元化した上で、そこに過去の地形や河川の流れなどを描きこんでいく。
提供/蝦名裕一 氏
地形復元された前近代の閉伊川。現在より大きく蛇行しており、今は暗渠化されている支流や中洲があった。慶長奥州地震については、東北沖地震規模の津波では到達しないと思われる場所に、被災を伝える伝承や史料がある。しかし、この図を見れば川を遡上した津波が到達しうるとわかる。
提供/蝦名裕一 氏、作成/東北大学 菅原大助 氏
日本で被災したスペイン人探検家
歴史的な地震や津波の研究をする時、蝦名さんは史料に何が書かれているかばかりでなく、その史料の成立過程や背景なども調べます。なるべく同時代の史料、信頼のおける史料を使いたいのはもちろんですが、それだけでは情報が限られてしまいます。たとえ後年に書かれた史料、あるいは記述に混乱があるような史料でも、その背景をひもといていくことによって、有用な情報を得られる可能性があります。
「地震の記録だけではありません。地震が発生した時期の史料を広く見ることで、当時の時代状況を再現し、地震や津波の被害があった時に、どのような人々の営みや社会の動きがあったのかを見出していくのが、我々、歴史研究者の仕事になっていくと思います」と蝦名さんは言います。「地形復元」で記録や伝承を検証したのも、そうした手法の延長にあると言えるかもしれません。
慶長奥州地震については『駿府政事録』以外にも、多くの史料が残されています。重要かつユニークなものとしては、スペイン人探検家のセバスティアン・ビスカイノ(1548〜1616年)が残した『ビスカイノ報告』です。何と外国人が、日本で津波に遭遇していました。
写真
スペイン人の探検家、セバスティアン・ビスカイノ。1609年に上総(千葉県)海岸で遭難した当時のフィリピン総督(スペイン人)が、江戸幕府によって無事に送還されたことへの謝意を表する使節として来日。1611年から翌年まで日本沿岸の測量を行ったが、本国への帰途に暴風雨で船を失った。1613年、伊達政宗がスペイン国王やローマ教皇のもとに派遣した慶長遣欧使節の船に同乗し、帰国した。
ビスカイノは日本との通商交渉や、当時、日本近海にあるとされていた伝説上の島を探すといった使命を帯びていました。来日すると家康の許可と政宗の支援を得て、仙台藩の沿岸を調査することになりました。彼はスペインと日本の交易に使える良港を得ようと測量をしていたのですが、越喜来(現在の岩手県大船渡市三陸町)という村の沿岸で奇妙な光景を目にしました。村人たちが大声で叫び合いながら、小山の方へ逃げていくのです。やがてビスカイノらは、その理由に気づきました。
「海水が1ピカ(1picaはおよそ3.89m)を越える高さになっていたのが原因だったのである。これは、この土地(越喜来)で発生した大地震によってもたらされたものだった。(この津波は)一時間も続き、非常に強力な勢いで流れ込み、村落、家々、稲の束を水浸しにした*」
蝦名裕一・高橋裕史「『ビスカイノ報告』における1611年慶長奥州地震津波の記述について」歴史地震(2014)より引用
ビスカイノらは大波に飲まれそうにはなりましたが、辛くも越喜来村に漂着しました。そこで難を逃れた家々に歓待してもらえたと書いています。この点が不自然だとして、『ビスカイノ報告』の信憑性を疑う研究者もいるようです。大津波で混乱している村に歓待されるはずがない、というのが根拠です。これについても蝦名さんは周辺の史料等から検討しました。
まず三陸のようなリアス式海岸では、同じ集落内でも居住地に高低差があります。東北沖地震でも川沿いの低地は被害が大きかった一方、高台の家屋は比較的、残っていました。歴史的に肝入(きもいり)や網元(あみもと)といった地域の有力者は高台に住んでいることが多く、慶長奥州地震の時も無事だった可能性があります。
また1761年に成立したとされる『気仙風土草』という史料によると、越喜来村で代々、肝入を務めてきた旧家の先祖には、関ヶ原の合戦で伊達政宗と共に戦った人物がいるようです。こうした縁があるので、ビスカイノの調査航海に際しては、越喜来村の肝入や村役人にも物資の補給や歓迎の用意が政宗から命じられていたでしょう。以上のことから被災地でビスカイノらが歓待を受けたとしても、不自然ではないと蝦名さんは考えています。
実際、他のより甚大な被害を受けた村(現在の岩手県陸前高田市気仙町)では、仙台への帰途にあったビスカイノらも、泊まる場所さえ見つけられなかったと記録しています。こうした状況は日本側の史料でも裏づけられ、『ビスカイノ報告』の信憑性に問題はないようです。むしろ地震や津波の状況を伝聞ではなく、実際に体験した外国人が書いているという、非常に貴重な史料だと言えるでしょう。
地震の名前が過小評価につながった?
『駿府政事録』や『ビスカイノ報告』を含めて、慶長奥州地震に関連した史料や記録は、北海道から三陸、仙台平野を経て福島県の沿岸にまで分布しています。江戸でも大地震が起きたとする記録が残されています。
慶長奥州地震に関しては、各地に史料が残されている。このうち『駿府政事録(駿府記)』と『ビスカイノ報告』は地震と同じ時代に成立した貴重な史料である。
提供/蝦名裕一 氏
「史料上、少なくとも岩手県宮古から福島県沿岸にかけては大津波が襲って、かなりの人が亡くなっています」と蝦名さんは言います。「仙台藩で1783人、福島県の相馬で約700人、それから岩手県の津軽石とか大槌とか、その辺りでだいたい2000人くらいの死者が出ているということで、合わせていくと5000人くらいの死者になります。江戸時代の日本の人口は3000万人程度ともいわれていますので、生命の喪失という点からみれば、東日本大震災と変わらないぐらいの被害規模というイメージになります」
20世紀前半に活躍した地震学者、今村明恒(1870〜1948年)も「慶長津波」が明治三陸地震(M8.2)の津波より30〜40%大きかったとしています。となると貞観地震や東北沖地震の津波と同程度だった可能性があります。ところが近年は、なぜか昭和三陸地震(M8.1)の時と同程度とされるようになっていました。
この原因ははっきりしないのですが、蝦名さんは名前にも問題があるのではないかと考えています。本記事ではずっと「慶長奥州地震」としてきましたが、実は一般的には「慶長三陸地震」と呼ばれることが多いのです。今村明恒はその言葉を使っておらず、誰がいつそう呼び始めたのかはわかりません。
いずれにしても「三陸」という地方名自体、明治時代以降に成立したもので、江戸時代以前にはありませんでした。また、その地域に福島県沿岸部は含まれていません。したがって歴史的にも、被害範囲を示す意味でも、不正確な名称だと蝦名さんは言います。そして、その「三陸」という言葉のイメージが、過小評価につながったのではないかというわけです。
「奥州」という言葉は江戸時代以前からあり、現在の青森県から福島県までの東北地方太平洋側を示しています。つまり史料に示される1611年12月2日の被災地が全て入ります。そこで今後は「慶長三陸地震」ではなく「慶長奥州地震」にするべきだと蝦名さんは主張しています。それが功を奏してか、最近、過小評価の認識は改まりつつあるようです。
一方、享徳地震については本記事前編で述べた通り、今のところ史料があまりありません。最も詳しい『王代記』でも数行で、この点は慶長奥州地震と対照的です。それでも貞観地震並みの規模ではなかったか、とされることがあります。東北の巨大地震が500〜600年周期で起きるという見方との関係で、過大評価されている可能性はないのでしょうか。
まだ慶長か享徳かは判断がつかない
ここでまた地質学的な見地に戻ってみます。津波堆積物の中に慶長奥州地震の痕跡は、残っているのでしょうか。地震調査研究推進本部のホームページには、次のように書かれています。
「宮城県から福島県にかけての太平洋沿岸では、東北地方太平洋沖地震を除くと過去3,000年間で4回の巨大津波による津波堆積物が見つかっています。このうちの1回は869年の貞観地震によるものとして確認され、1回は1611年の慶長三陸地震(Mw8.4~8.7)または1454年の享徳地震(Mw8.4以上)によるものと考えられます。他の2回(4~5世紀、紀元前4~3世紀)についてはその津波堆積物の分布から同様の地震である可能性があります**」
*https://www.jishin.go.jp/regional_seismicity/rs_kaiko/rs_tohokuoki_eq-type/より。引用文中「Mw」はモーメントマグニチュードのこと。
つまり東北沖地震と貞観地震との間に津波堆積物はあるものの、それが慶長奥州地震(上では慶長三陸地震)と享徳地震のどちらによるのかは特定できていないようです。また蝦名さんも参加した岩手県沿岸の津波堆積物調査(2016年)でも同様な結果を得ていますが、やはり地層そのものから慶長奥州地震か享徳地震かを特定してはいません。史料上、三陸に津波が来たのは確実だということで、慶長奥州地震に比定しています。
宮城県岩沼市教育委員会の調査によって発見された津波堆積物のある地層。いちばん上の白っぽい第1層は東北沖地震で堆積した。第4層と第8層も津波堆積物の可能性がある。放射性炭素年代測定などの結果から、第4層の年代は16〜17世紀ごろ、第8層は8〜9世紀ごろと推定している。
提供/岩沼市教育委員会
「新菱沼津波堆積物地層」
(https://www.city.iwanuma.miyagi.jp/kanko/bunkazai/documents/sinnhisinuma.pdf)
本記事前編でお話しした通り、海底の地層でも東北沖地震と貞観地震に比定されるタービダイト層の間に、もう一つタービダイト層があります。それを海洋研究開発機構(JAMSTEC)海域地震火山部門地震発生帯研究センター上席研究員の金松敏也さんは、地磁気による年代測定から享徳地震によるものではないかと考えました。しかし「実は1400年だか1600年だかは、このレベルだと判断がつかないというのが、本当のところだと思います」と金松さんは言っています。
「このレベル」というのは年代測定の精度です。もともと地磁気による年代測定は、琵琶湖の調査で得られた「物差し」を利用しています。その物差しに使われている放射性炭素年代測定は現在、最も信頼されている年代測定法ですが、それでも100〜200年の誤差が出ることはあります。津波堆積物でも慶長奥州地震か享徳地震かを区別できていないのは、その問題があるからです。
一方、タービダイトの磁気も、マグネタイトが海底に溜まってから、きちんと同じ方向を向くまでに100年ほどかかる場合があります。途中で生物などにかき乱される可能性があるからです。さらに、その磁気の向きを物差しに当てはめる時に、ずれが生じるかもしれません。このように大きな誤差を生む要因は、いくつもあるわけです。年代測定の精度を上げていくことは、金松さんの主要な研究テーマの一つです。
もし東北沖地震と貞観地震との間にある津波堆積物やタービダイトが慶長奥州地震によるものだとしたら、貞観と慶長との間は742年、慶長と東北沖との間は400年なので、巨大地震の周期が500〜600年ではないかという予想はぐらついてきます。
また慶長と享徳、どちらも起きていて、どちらも巨大だったが、たまたま地質学的には一方の証拠しか得られていないのだとすると、さらに複雑なことになります。貞観と享徳との間が585年、享徳と慶長との間が157年、慶長と東北との間が400年ですから、そもそも周期というものがあるのかどうかもわからなくなってきます。一方で金松さんが見出した「巨大地震の間隔が短くなっている可能性」も頭をよぎります。
「自然というものを、自分たちが予測できるものだと考えた結果が、東日本大震災につながった面は否めません」と蝦名さんは言います。「東日本大震災では、我々が自然をまだまだ理解しきれていないことを思い知らされました。東北地方各地に残る慶長奥州地震津波を記録した史料は、いわば先人からのメッセージなのです。そこに記された警告を謙虚に受け止めて、色々なパターンを想定しうると考えたほうがいいでしょう」
逆転の発想と洞察力による復興事業
最後に慶長奥州地震の後、どのような復興事業が行われたかについて、少しだけ触れておきましょう。といっても現在の私たちから見て「復興事業」と思えることです。当時の人々がどう感じていたかは、わかりません。
私は2011年4月に宮城県亘理町へ行った時、農家の人が荒れ果てた田畑を眺めながら「ここがまた使えるようになるのは、土を全部入れ替えたりしても5年後だ」とつぶやくのを聞きました。津波による塩害のためです。
同じことは慶長奥州地震でも起きたはずですが、それを逆手にとって復興につなげた人物がいました。伊達政宗に仕えていた武将の一人、川村孫兵衛重吉(1574〜1648年)です。優れた土木技術者で北上川の治水工事や、阿武隈川と名取川を結ぶ水路の開削など、多くの実績を残しました。もともとは長州(現在の山口県)出身で、初めは毛利家に仕えていたようです。
孫兵衛は知行地として政宗から名取郡早股村(現在の岩沼市玉浦)を与えられ、自分で湿原などを開発して水田に変えていました。そこが津波に襲われたときは、さぞがっかりしたことでしょう。土を全部入れ替えたとしても5年ですから、何もしなければ再び水田として使えるまでに何年かかるかわかりません。
そこで孫兵衛が始めたのは、塩田開発でした。つまり塩害で農業には適さなくなった土地を、塩づくりに転用したのです。しかも、その時には「入浜式塩田」という効率のいい製塩法を導入しました。瀬戸内海沿岸で始められた当時の最新技術ですが、長州出身ということで知識があったのでしょう。これが大成功しました。
赤穂市立海洋科学館(兵庫県)で、見学・体験用に復元された入浜式塩田と釜屋。入浜式の前に行われていた揚浜式では、人が浜で汲んだ海水を塩田に運び、広げた砂の上に撒いていた。入浜式では潮の干満差を利用して塩田に海水を引き入れ、毛細管現象で砂を湿らせる。このため手間を大幅に減らすことができた。その後の工程はどちらも同じで、天日と風で砂が乾いたら「沼井(ぬい)」と呼ばれる濾過装置に集め、上からさらに海水をかけて、濃度の高い塩水(かん水)をつくる。それを塩釜で煮詰めて、塩の結晶を得た。
663highland, CC BY-SA 3.0
(http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/), via Wikimedia Commons
それまで仙台藩では塩をほとんど生産しておらず、他領から買い入れていました。つくっていたとしても「藻塩焼き」という昔ながらの、大量生産には向かない方法でした。
孫兵衛は同じく長州出身の浪人らとともに、仙台領内の各所で塩田開発を進めました。同時に製塩法や、それに必要な道具のつくりかたなどを人々に広め、そこから生活の糧が得られるようにしました。その中には津波で農業ができなくなっていた人もいたことでしょう。こうした「復興」事業が功を奏し、やがて塩の生産は藩の主要産業に育ったのです。政宗も「これこそが仙台藩の宝である」と喜び、孫兵衛らの功績を讃えました。
「津波で被害を受けた沿岸部は、塩害でしばらく農業ができません。それならば海を利用して塩を生産してしまおうという逆転の発想です。そこには現代の我々が、ともすれば忘れてしまっている自然に対する深い洞察力が生かされていると思います」と蝦名さんは言います。
孫兵衛の婿養子である二代目・孫兵衛も優れた土木技術者で、仙台藩内の堀や堰などの整備に活躍する一方、海岸林の植樹事業を進めました。津波から数十年を経て再び農業は可能になっていましたが、海浜の水田が潮害に苦しんでいるのを見て、数千株のクロマツを植えたのです。いわゆる防潮林で、海からの潮風や砂による被害を和らげてくれます。
蝦名さんが絵図でその場所を調べたところ、名取郡と亘理郡の海岸線だったらしいことがわかりました。クロマツという樹種は海岸林としては最適で、潮害に強く、痩せた土地のほうがよく生育し、深く根を張ります。また松脂を多く含んでいるため、燃料にも適しています。人々の生活にはもちろん、塩田の釜で塩水を煮詰めるのにも使われたことでしょう。これも広い意味で、震災後の優れた産業振興策だったのではないでしょうか。
元禄14年(1701年)の「仙台領国絵図」には、沿岸に松林が描かれている。
提供/宮城県図書館
よみがえりつつある防潮林、だが……
この防潮林は東北沖地震が起きる前まで、黒々とした森のように広がっていたはずです。亘理町ではその森に守られて、イチゴのビニールハウスなどが並んでいたことでしょう。しかし津波で防潮林は8割ほどが失われました。
私は地震の約1ヶ月後に、たまたまその現場を訪れています。多くの木々がなぎ倒されている一方、傾きもせず踏みとどまっている木々もありました。その向こうには、誰もいない砂浜と海が広がっていました。これはおそらく、それまであった堤防が津波で流失・破壊された結果、見通しがよくなっていたのだろうと思われます。
現場にいた時には恐怖しか感じていませんでしたが、今、改めて自分が撮った写真を眺めてみると、遠く江戸時代にまで時間を遡った気分にもなります。堤防が築かれる前の砂浜と森しかなかった海岸が、頭に思い浮かぶのです。そこには、そぞろ歩きに最適な美しい眺めがあったのではないでしょうか。
2011年4月8日に、宮城県亘理郡亘理町吉田砂浜で撮影した。津波で防潮林の多くはなぎ倒されているが、真っ直ぐに立っている木もある。
撮影/藤崎慎吾
2015年からボランティアによる植樹が進められ、亘理町の防潮林は復活しつつあります。長年、親しんできた風景や生活という「宝」を、地域住民が自発的に取り戻そうとしているのです。
東北大学で蝦名さんを取材した後、私は駆け足で亘理町の海岸を再び訪れました。確かに森は蘇りつつありました。しかし木々の間を海岸の方へ抜けていくと、突然、真新しいコンクリートの堤防が高々と立ちふさがりました。
現在の亘理町吉田砂浜の防潮林。堤防の上から撮影した。植えられた若木が手前に並んでいる。
撮影/藤崎慎吾
砂浜や海は、もうどこにも見えません。階段を上って堤防の上に立つと、ようやく打ち寄せる波が目に入ってきました。かつては一体だったであろう浜と森は分断されています。この風景を眺めたとしたら、川村孫兵衛は何を思うでしょうか。私はいささか複雑な思いを抱きながら、夕闇の迫る森と海を後にしました。(次回に続く)
藤崎慎吾(ふじさき・しんご)
1962年、東京都生まれ。米メリーランド大学海洋・河口部環境科学専攻修士課程修了。科学雑誌の編集者や記者、映像ソフトのプロデューサーなどを経て、99年『クリスタルサイレンス』(朝日ソノラマ)でデビュー。同書は早川書房「ベストSF1999」国内篇第1位となる。現在はフリーランスの立場で、小説のほか科学関係の記事やノンフィクションなどを執筆している。近著に《深海大戦 Abyssal Wars》シリーズ(KADOKAWA)、『風待町医院 異星人科』(光文社)、『我々は生命を創れるのか』(講談社ブルーバックス)など。ノンフィクションには他に『深海のパイロット』、『辺境生物探訪記』(いずれも共著、光文社)などがある。
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現代の日本人は昔の日本人とは別人のような日本人である。
現代の日本人は、キリスト教価値観とマルクス主義価値観による戦後民主主義教育で、日本列島が甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である事を忘れてしまった。
地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
現代の日本人には、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がない為に災害に対する生き方が分からなくなっている。
キリスト教価値観とマルクス主義価値観には、日本のような同時多発的に頻発する複合災害多発地帯という認識が含まれていない。
それを象徴する自然災害の事故が、東日本大震災で発生した大津波による福島第一原子力発電所事故で、欧米には日本のような津波被害がない。
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助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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日本の自然は、数万年前の石器時代・縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境を生きてきた。
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