⚔13)─5─大航海時代は東の東南アジア産スパイスと西のジパング産黄金で起きた。〜No.47 ④ 

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 西洋の大航海時代は、前半はインドから東南アジアにかけて生産されるスパイスを求めた交易時代で、コロンブス以降の後半は黄金伝説のジパングを目指す欲望と野心の冒険時代であった。
 その副産物として、中世キリスト教会とイエズス会などの積極的戦闘的修道会による布教活動とアフリカ人・日本人奴隷交易が起きた。
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 奥州での金の発掘は1300年以上前の奈良時代から。
 最盛期は、奥州藤原氏が活躍した900年前の平安末期。
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 奥州・平泉は、金塊を宋やタイに輸出し、東南アジアの黄金文化を支えた。
 ジパング産黄金とは、奥州産金であり、倭金である。 
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 YAHOO!JAPANニュース
<歴史探偵>「黄金の国ジパング」を探せ! 東北に「モンスター金」が掘り出される“奇跡の地質”
 1/5(水) 17:30配信
 MANTANWEB
 1月5日放送の「歴史探偵」で特集される「黄金の国ジパング」 (C)NHK
 俳優の佐藤二朗さんらが出演するNHKの歴史番組「歴史探偵」(総合、水曜午後10時半)。1月5日の放送では、マルコ・ポーロの「東方見聞録」に登場する「黄金の国ジパング」の謎に迫る。
 【写真特集】東北で見つけた「モンスター金」の正体とは? 新年の「歴史探偵」は金だらけ!
 黄金の国ジパングは、西欧の冒険家たちが一獲千金を夢見て飛び出していったが、見つけることができなかった幻の国。
 今回の番組では、調査で浮かび上がってきた、東北地方・北上山地一帯に存在する“奇跡の地質”を追う。「ジパングには、すべてが金で飾られた『黄金の宮殿』が存在する」という記述を頼りに中尊寺金色堂へ。東北は「モンスター金」と呼ばれる重さ2キロほどの巨大な金塊がザクザク掘り出される、世界的にも珍しい「黄金であふれる土地」だった。
 「歴史探偵」は、佐藤さんと同局の渡邊佐和子アナウンサーが「探偵」として、歴史上の謎に挑む歴史番組。
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 世界史の発展と人類史の悲惨の発端は、マルコポーロの『東方見聞録』であった。
 世界史の発展とは、地球上に埋もれていた金銀銅など貴金属鉱石が大量に西洋に流入して富をもたらし、経済と金融を動かし国際市場をつくった事である。
 人類史の悲惨とは、西洋海洋諸国による植民地拡大、中世キリスト教会による布教という宗教侵略、白人キリスト教徒商人の金儲けによる非白人奴隷交易、などである。
 奴隷交易の商品とされたのは、非白人非キリスト教のアフリカ人、日本人、その他であった。
 が、それらは人類の発展、世界の文明、生活の文化の為の必要悪とされている。
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 ジパング黄金伝説。宋書平安時代に奥州を支配した藤原氏は、岩手県西部の山岳周辺で大量に採掘されていた黄金を奥州産金(倭金)として中国の宋王朝に輸出していた。
 奥州産金の輸出量は、年間370kgで、当時の世界で取引されていた黄金の15%を締めていたといわれる。
 この話がジパング黄金伝説を生み、マルコポーロは『東方見聞録』で世界に広めた。
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ウィキペディア
 ジパングは、中世・近世ヨーロッパの地誌に現れていた東方の島国。現在の日本という説がある。
 ジパング=奥州平泉説
 マルコ・ポーロが伝え聞いたジパングの話は、平安時代末期に平安京に次ぐ日本第二の都市として栄えた奥州平泉の中尊寺金色堂がモデルになっているという説がある。当時の奥州(現在の東北地方)は莫大な砂金を産出しており、奥州藤原氏によって国際貿易に使用されていた。
 マルコポーロ元王朝に仕えていた13世紀頃、奥州の豪族安東氏は十三湖畔にあった十三湊経由で独自に中国と交易を行っていたとされ、そこからこの金色堂の話が伝わったものとされる。

異説
 上記のごとく、マルコ・ポーロジパングが日本のことを指すという見方が現在一般的であるが、異説もある。
 中世の日本はむしろ金の輸入国であり、黄金島伝説と矛盾する。
マルコ・ポーロの記述やその他の黄金島伝説ではツィパングの場所として(緯度的にも気候的にも)明らかに熱帯を想定しており、実際の日本(温帯に属する)の位置とはかなり異なる。
 元が遠征に失敗した国は日本以外にも多数存在する。
 などの理由から、ジパングと日本を結びつけたのは16世紀の宣教師の誤解であるとする説もある。またジパングの語源としても、元が遠征した東南アジアの小国家群を示す「諸蕃国」(ツィァパングォ)の訛りであるとする。

 ワクワクとの関連
 地理学者イドリースィーの1154年製作の世界地図。上が南方向となっており、南方全体から東方にかけてをアフリカ大陸が覆う。地図の左端、アフリカ大陸東端に金泥で描かれた山があり、「ワークワーク」(الواق واق al‐Wāq‐Wāq)と書かれている。
 イスラーム世界(アラビア語・ペルシア語圏)において「ワークワーク(الواقواق al‐Wāqwāq)」というスィーン(al-Ṣīn、中国)の東方にある地域(または島)の記録があり、9世紀半ばに著されたイブン・フルダーズベのアラビア語最古の地誌『諸道と諸国の書』(Kitāb al-Masālik wa al-mamālik)によると、ここでは黄金を産出し、衣服から犬の首輪まで黄金が用いられ、輸出も行っているとされる。またシーラ (Shīlā) という国がカーンスー(Qānṣū、杭州か揚州)の沖にあり、ここも黄金に富むという。
 ワークワークは日本の旧称「倭国(わこく)」に由来するという説もあるが、スマトラマダガスカル、ボルネオ、フィリピンなどのアフリカや東南アジアという説もあり詳しいことは分かっていない。
 シーラは山が多い、多くの王がいる、環境が良いため入国者がそのまま居住するとされ、古代の日本に当てはまる記述もあるが詳細は不明である。
 イドリースィーの地図は1154年頃の知見を集めたものであるが、ポーランドにあたる地域の記述など資料の取り違えとみられる点もある。
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 玉山金山(たまやまきんざん)は、岩手県陸前高田市竹駒で金を産出した鉱山である。マルコ・ポーロの『東方見聞録』にある「東方に国あり、その名ジパングという。その国で特に驚くべきことは金の多いことである。その金は掘れども尽きず。」の主体が当山であるとされる。
 概要
 玉山金山は、氷上花崗岩中の金が異常濃集した熱水鉱脈を鉱石として採掘し、同時に美しい水晶を大量に産出したため、水晶(玉)の出る山という意味の「玉山」と名付けられたとされる。玉山金山は「陸奥の金」として日本で初めて金が発見されたと伝えられる金山のひとつで、天平の時代にはすでに砂金のかたちで金を産出していたとされる。その産金は奈良東大寺の大仏に使われたほか、奥州藤原氏の黄金文化を支え、中尊寺金色堂にその産金量の膨大さが見て取れる。藤原清衡が宋に10万5000両もの金を贈り、朝廷に年々四貫目の金を朝貢して殿上人を羨望せしめたといわれる。平重盛が唐の育王山に寄贈した3500両の金も当山産出とされる。戦国時代には豊臣秀吉が直轄として金山奉行を配し、その後は伊達氏の所有となり伊達政宗以降三代の栄華の源となったほか、慶長遣欧使節に要する費用はすべて当山の産金によるものといわれたが、江戸幕府に没収されることを恐れて坑口その他を破壊し廃坑に見せかけたとされる。千人坑は当山最盛期の主要坑道で、一時は「玉千軒余」と呼ばれ大いに繁栄したが1673年頃から次第に産金量が減少し、黄金のベコ(牛)とともに坑夫千人が落盤の下敷きとなって死んだという「オソトキ」(飯炊きの女)の伝説を残しながら、廃坑のみが現在も残されている。和右ェ門坑は1611年に小野寺源太郎が3ヶ月で140万両の金を掘り出したと言われており、当山で最も多く金を産出した坑道とされる。1904年(明治37年)には日本銀行副総裁の高橋是清が、当山を抵当にして日露戦争の軍資金に英米から8億円の借入をしている。
 令和元年5月20日(月)に「みちのくGOLD浪漫―黄金の国ジパング、産金はじまりの地をたどる―」の構成文化財のひとつとして日本遺産に認定された。
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 金・貴金属買取 >金の雑学 >黄金の国ジパングとは
 2016年08月30日 2021年08月23日
 黄金の国ジパングとは
 東方見聞録の影響
 日本がヨーロッパにおいて“黄金の国ジパング”と呼ばれていた時代がありました。
 それは、イタリア・ヴェネチアの旅行家マルコ・ポーロ(1254~1324)が著したとされている、世界の記述とも呼ばれている東方見聞録が元となっているようです。
 実際、マルコ・ポーロ自身は日本へは渡っておらず、13世紀末(1299年)伝聞によりジェノヴァの牢獄で口述筆記により書かれたと言われています。
 東方見聞録の内容には、「この国ではいたる所で黄金が見つかるため、国人は誰でも莫大な黄金を所有している」、「宮殿は、それこそ純金ずくめでできている」、「この国の宮殿の屋根はすべて黄金でできている」、「床には分厚い黄金が敷かれている」、「黒胡椒も白胡椒もきわめて豊富である」などと大袈裟過ぎるほどに豊かさが伝えられていたようです。
 そのゆえんは、12世紀初頭に奥州藤原氏が奥州平泉に建立した、中尊寺金色堂が話の元となったようです。記載内容の信ぴょう性については曖昧なところもありますが、これを読み黄金の国ジパングへ行き、自分も金を手に入れるのだ!と夢見る人々を生み出したことは確かだったようです。
 東方見聞録の影響は非常に大きく、かのコロンブスを始め、多くの航海士が日本を目指し、大航海ブームが巻き起こったと言われています。
 なぜ黄金の国といわれるようになったのか
 当時の日本の生産量の多さで黄金の国と呼ばれたというよりは、16~17世紀の世界生産量5~10t/年に対して、貨幣として200tを流通させていた点。
 さらに世界の産金量はもっと少なかった中尊寺が建立された12世紀末ころに、宋からの経典購入に105,00両(1.7t)もの金を支払った点。
 そして一番の影響力となった東方見聞録による財宝あふれる日本のイメージなどから、“黄金の国ジパング”が生み出されたようです。
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 中華皇帝は、朝貢に訪れた諸国の使節団に対して倭金(奥州産金)が下賜された。
 当時、タイなど金産出量が乏しい東南アジア謝国は、中国から輸入した倭金(奥州産金)を利用して黄金文化を築いた。
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 平清盛は日宋交易で、足利義満は日明交易(勘合貿易)で、富を築いた。
 江戸幕府までの日本で産出される金銀銅は、天皇・朝廷、幕府の富つまり国の富みではなく、その土地を支配する領主の私有財産であった。
 時の権力者であった平清盛足利義満も奥州の領主ではなかった為に、奥州産金を手にし自由にはできなかった。
 同様に、世界の経済・金融を動かした石見銀山佐渡金山などでもいえた。
 有望な鉱山を持たないが故に平清盛足利義満も、危険を冒して大陸との交易で富を築くしか方法がなかった。
 つまり、ジパング黄金伝説とは、日本と鉱山を所有する封建領主の話であって、天皇、日本国、権力者、日本人とは直接には関係がない。
 事実、歴史教育に於いて、人類史や世界史を動かしたジパング黄金伝説は子供達に教えられていない。
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