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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
『「海国」日本の歴史 世界の海から見る日本』 著者・宮崎正勝。 原書房。
はじめに
海から読み直す東アジア
日本文明のユニークさの根源は、『海』と『陸』が織り成す絶妙なバランスにある。しかし、政治史を中心とする従来の日本史は内向きの歴史で、対外関係も大陸と朝鮮半島にほとんど限定されてきた。しかし、それでは世界史の一部として、日本の歴史を描くことが難しくなる。中国史の枠組みは、言うまでもなく世界史の枠組みではない。そこで本書は、『陸』の視点と『海』の視点を一体化した東アジアを想定し、『海国』日本の歴史を浮きあがらせようとする試みである。『海』の視点から東アジア史の時期区分を考えてみると、大凡以下のように整理できる。
①ローカルな交易圏の併存の時期
②五胡の進出、漢人の大規模な移住により黄河・東シナ海域が一体化する時期
③隋・唐帝国の黄海への進出期
④ムスリム商人の南シナ海域への進出期
⑤宋のジャンク交易の拡張期
⑥モンゴル帝国の進出と『東アジアの大交易時代』
⑦明の海禁と朝貢による交易の縮小期
⑧大航海時代と『密貿易ネットワーク』の伸張期
⑨東アジアの『シルバー・ラッシュの時代』
⑩オランダの進出と鄭氏政権の時代
⑪清の海禁解除と日本の海運による『陸地自給圏』の成長期
鳥瞰的に見ると日本の歴史は、東アジア海域のそうした変化に概ね連動してきたと言える。
そこで、日本を取り巻く東アジア海域の舞台を俯瞰することから始めてみることにする。
東アジアにおける太平洋の付属海は、北のカムチャツカ半島から南のスマトラ島に至る南北8,500キロにわたる広大な海域に広がる。ユーラシア大陸中央部を東西に連なる大草原が8,000キロなので、ユーラシアの『草原の海』よりもかなり広大な空間と言える。
海域のユーラシアの大陸側は、北のロシア、北朝鮮、韓国、中国、ベトナム、カンボジャ、タイ、マレーシアの諸国に区分され、太平洋側には千島列島、日本列島、南西諸島、台湾、フィリピン諸島、ボルネオ島、スマトラ島、ジャワ島が連なっている。そうした海域が、オホーツク海、日本海、東シナ海、南シナ海に区分されることは周知のことである。
……
四つの海のうち世界史に頻繁に登場するのが、台湾海峡を境界とする東シナ海と南シナ海であり、そのふたつの海域が東アジアの中核海域ということになる。両者は対照的であり、北部海域(黄海・東シナ海)が中華帝国の意志が強く表れる『政治の海』だったのに対し、南部海域(南シナ海)は『夷狄(いてき)の海』(つまり多様な民族の共存の海)であり、『経済の海』だった。
日本人は、ローマ帝国・ギリシア、地中海・エーゲ海などの海に、情熱と呼んでいいような強い関心を持っているのに、なぜか東アジアの海には余り関心を示さない。地理的には『海国』だが、『海国』の民としての意識が低いのである。しかしそれは、歴史学や教科書の視点が列島内に偏りがちなためであり、東アジアの海の世界に蓄積がないからである。
昨今、中国が強引に東シナ海、南シナ海への進出策で、東アジア海域はわが国でも注目を集めるようになったが、その海域は、決して中国が『核心的利益』を主張できるような歴史の積み重ねを持つ海域とは言えない。東アジア海域の歴史に、目を向ける必要がある。
中華帝国は、典型的な内陸帝国である。モンゴル高原、ゴビ砂漠、チベット高原などの自然の障害に北と西を塞がれ、『万里の長城』という大建造物によりユーラシアから自らを閉ざしただけでなく、2年から3年に1度起こる黄河の大洪水により長い間海の世界から隔離されてきた。エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明が沖積平野で展開されたのに対し、黄河文明は黄河流域の中流域で展開されたのである。
しかし、鳥瞰的に考えてみると、海側から東アジアの歴史と世界史の融合されることが可能になることが分かる。『内陸帝国』とその周辺という閉ざされた歴史認識を世界史の一部に転換させるには東アジアの海域からのアプローチが必要なのである。
海は、根強い日本の『ミニ中華思想』を転換させ、『海国』日本として日本史を相対化することを可能にする。世界がひとつにつながるグローバルな現代には、中華帝国と朝鮮半島と日本列島の狭い枠組みではなく、東アジアの海域世界の枠組みが必要になる。『海国』日本の発想が必要なゆえんである。
日本は、その地理的環境から中華帝国の周辺とされることもあるが、周囲を海に囲まれた6,852の島々からなる群島国家、つまり『海国』である。……そうした事実は、国を成立させている地理的条件が、中国、韓国とは全く異なっていることを示している。現在の中国が強引な海洋進出は、日本、東南アジア諸国との間に大きな軋轢を生じさせているのが、それ自体が海から切り離された『内陸帝国』の道を歩んできた中国の歴史性の何よりの証左である。
近代を牽引してきた『環大西洋世界』に代わり『環太平洋世界』が21世紀を主導しようとしている現在、群島国家の日本はいまだかつて見られなかった世界史上の位置を占めようになってきている。最近、森と海が織り成す独特な景観や食文化、近代的都市景観などが見直され、観光がアジアの成長を日本に取り込む役割を果たし得ると評価されている。東アジア海域世界の活力と交流を急速に力を増しているのである。台湾、フィリピン、ブルネイ、インドネシア、マレーシア、シンガポールは、日本の『海の隣国』なのであり、広大な太平洋はアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、はるか離れたインド、西アジア、アフリカ、ヨーロッパにつながる。中華帝国と朝鮮半島の狭い史的枠組みを組み換えると、新しい歴史世界のイメージが広がることになる。
近年、高校の世界史と日本史を統合せよという声が強まっいるが、旧来の陸の視点に立つ日本史が中心になるならば、統合により鳥瞰的な世界史の視点が失われかねない。日本列島に視点を固定する歴史はあくまでも『拡大された日本史』なのであり、客観的な日本史にはなり難いことを意識しておくことが必要になる。
⦿『海洋史観』が結び付けた世界と日本
『海洋史観』は、地表の7割を占める海洋世界を、従来の陸地中心の歴史認識に積極的に組み込む歴史理論である。東アジアに関していうなれば、既に『世界の近代』と『日本の近世』の起源をアジアの海洋世界に求める川勝平太氏の『文明の海洋史観』(中公叢書)がある。
川勝氏は、1997年、アメリカの社会経済史家ウォーラースティンの『世界システム論』をより所に、『近代はアジアの海から誕生した』とする当時としては斬新な見解を提示された。ご存じのようにウォーラースティンは、大西洋海域を一体化した空間とみなし、『長期の16世紀(1450年~1640年)』に、西ヨーロッパを中核とする『中核』・『周辺』・『半周辺』の三層構造からなる世界システムが形成されたと説いた。川勝氏はウォーラースティンが説いた『長期の16世紀』が、日本史の画期をなす近世の成長期にあたっていることに着目し、ヨーロッパ近代と日本の近世を海洋アジアを媒介にすることで統一的にとらえることを試みた。銀などの貨幣素材を輸出し、海洋アジアから『東洋の物資』を輸出することで形成された日本の近世と、ヨーロッパの近代の類似する構造に着目したのである。
川勝氏は、海洋アジアとの貿易と結び付くことで、ヨーロッパの大西洋三角貿易が成長して『海洋自給圏』が形成されたのに対し、日本列島では海運により結び付く『陸地自給圏』形成され、ヨーロッパの産業革命、日本の『勤勉革命』という対照的な経済の変革が引き起こされたと説いた。
『勤勉革命』というユニークな発想だが、日本人の勤勉さの源が江戸時代にあると説く経済史家速水融氏の『勤勉革命』説を引き継ぐ考え方である。川勝氏は『勤勉革命』について、『資本節約・労働集約型の産業革命であり、これによって(日本の)土地生産性が世界一の水準になった』と説明している。
世界が帆船で結び付いていた時代に、『海洋アジア』を世界システムが形成された『長期の16世紀』の大西洋と直接的に結び付ける氏の説にはkなりの無理があるが、『海洋史観』が従来の『陸の世界史』を一変させる新しい見方であることは間違いない。『海洋史観』を取り入れることで、中華帝国の下で一貫して『夷狄』ともなされてきた東アジア海洋世界の評価が劇的に転換し、近代以降の歴史の動向との整合性が獲得されることにもなる。
中華帝国の同心円世界認識は明らかに時代錯誤的であり、海洋世界で育った『異質性の共存』の認識こそが未来につながる発想なのである。
⦿東アジ海域世界とは
『もうひとつの東アジア世界』を構成する海の広さを確認しておくと、以下のようになる。
①オホーツク海域(面積158万3,000平方キロ)
②日本海海域(面積103万平方キロ)
③渤海(7万8,000平方キロ)・黄海(面積38万平方キロ)・東シナ海(面積75万2,000平方キロ)の3つの海域(全体で121万平方キロ)
④南シナ海域(面積350万平方キロ/地中海の面積の1.4倍)
海域世界を考える際には、勿論その周辺の陸地も含める必要がある。海域世界は、東アジアのもうひとつの大きな世界なのであり、その先には世界の全陸地とアフリカを飲み込む太平洋がある。
海はただ茫漠と広がっているように見えるが、目に見えない歴史性、構造性を持っている。沿海で海と陸が結び付くローカルな小海域、小海域を複合する小交易圏、小交易圏を結合させた黄海・東シナ海のような大海域、複数の大海域をつなぐ東アジア海域というように、空間が連続的に拡大しているのである。
東アジアの主要なふたつの海は、歴史的に見ると対照的である。中華帝国の影響の強い渤海・黄海に接続する『東シナ海』は『政治優位の海』、タイランド湾、ジャワ海、マラッカ海峡につながる『南シナ海』は『交易の海』である。異質なふたつの海域を結ぶのが、台湾海峡ということになる。本書は、『海洋史観』に基づき、東アジア海域とそこに横たわる巨大な群島、日本列島の歴史(「海国」日本の歴史)を鳥瞰的に叙述しようとする試みである。
第一章 玄海灘交易圏と日本列島
1『原鉄』がとりもった小交易圏
⦿古代の日本列島を世界とつないだ海域
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……そのひとつが、鉄器の材料になる『原鉄』の交易により結び付く玄海灘交易圏だった。……
……距離的にみると、博多湾から壱岐が約30キロ、壱岐から対馬が約70キロ、対馬から朝鮮南部までが約60キロというように、程よい間隔で陸地が配されていたのである。しかし手漕ぎ船が用いられていた古代では、10日程度のかなりハードな航路だった。
⦿広範に取り引きされた『原鉄』
最初に航海で用いられていたのは丸太をくりぬいた刳(く)り船だったが、4世紀後半になって波除けの側板を取り付け、波を乗り切るように舳先と艫(とも)を反らせた半構造船が登場するようになる。……
……当時は、タタラを使う製鉄技術が朝鮮半島南部の加耶(かや)地方(加耶諸国、任那、現在の慶尚南道)に限られていた。そこで、北九州や山陰ではその地で生産される『原鉄』をもとに、鍛造(たんぞう)により諸々の道具がつくりだされた。1世紀には北九州で鉄器が普及し、3世紀には農具の鉄器への転換が進んだ。
『原鉄』の生産地が限られたことが、北九州と洛東江を逆上る加耶地方との交易を盛んにした。しかし加耶地方では政治的分裂が続き、後に百済と新羅に分割されてしまう。
……
加耶地方は、夏の時期に日本海経由で出雲、丹後、敦賀地方とも交易した。富山県の姫川流域で産出されるヒスイ(青玉)と原鉄の交易が行われたのである。古代の中華世界では金よりも玉が重んじられ、軟玉のヒスイも貴重な商品になった。後に述べるように航海技術が未熟で瀬戸内海航路が拓かれていなかった時期には、原鉄は出雲、丹波を経由して大和地方に至ったと推測された。
『魏志』東夷伝には、弁韓(加耶諸国、後の任那)の貴重な鉄を韓・濊(わい)・倭が争ったこと、その海域でモノをを買う際に中国の銭のように、鉄が用いられていたと記されている。……
しかし、青銅器の原材料となる銅・錫・鉛については、日本列島が豊かだった。加耶諸国には、前1世紀後半に楽浪系の漢鏡、貨幣、帯鉤({たいこう}バックル)などとともに倭系の青銅器「が」大量に流入し、後1世紀後半には、倭製の小型仿製(ぼうせい)鏡までもが出回っていたとされる。
教科書でも明らかだが、銅・錫を豊富に産出する日本列島西部では青銅器が大型化・形式化して首長の権力のシンボルになった。……
同様に、銅剣、銅矛、銅戈(どうか)などの青銅製の武器も、日本では大型の祭器となった。……
……
2 海が見えなかった中華帝国
⦿陸地に偏った中華世界
中華帝国と海の関係は、どうだったのだろう。秦・漢帝国(前212~前220)は、内陸部に閉じ込められた『井のなかの蛙帝国』だった。2、3年に1度繰り返される黄河の大洪水が、中華帝国と海を遠く隔てていた。山東半島と廟島(びょうとう)群島、遼東半島で黄海から隔てられた渤海が、古代における唯一の海だったのである。
中華世界はもともと『中原』という黄河中流域の極めて狭い範囲であり、『同化』により広域化した。しかし中華世界では海が視野に入っておらず、世界は限界のない万里(無限の広さ)四方の茫漠たる陸の空間(天下)としてイメージされていたのである。
周(前1046頃~前256)以降になると天下(世界)の支配が、全天の星がその周りを回る北極星の近くのかすかに見える紫微宮(しびきゅう)に住まう唯一神(天帝)が地上の天子(王、後に皇帝)に委ねられたと考えられた。天子は、その取り巻き(王族、貴族、官僚、軍人)とともに、人民を思いのままに支配する権限を持つと説明されていた。天帝(神)が主権者で、皇帝は天帝にのみ責任を負い、人民を思うがままに支配できるというのである。
他方で天帝が皇帝を見限ると帝国が崩壊し、新たな皇帝が選ばれて帝国が再建されるとも考えられた。『天命が革(あらた)まり、(皇帝の)姓が易(か)わる』という意味から、王朝の交替は『易姓革命』と呼ばれていたのである。それ故歴代王朝は、天帝の意志の説明と自らの正統性にこだわり続け、天帝の委託を受けていることを示す証拠(歴史)作りに専念した。そうした権力の性向は今も変わらず、独特な『歴史問題』の主張として現代に引き継がれている。
中華帝国の宗教的世界観は、空間的には同心円的な『華夷秩序』として具体化された。『中華の地』を中心に周辺諸地域の格付けし、異質な価値認識は認められなかった。……」
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東アジアは日本・中華帝国・朝鮮半島諸王国の3国とは違う、3つの世界、3つの文化、3つの価値基準、3つの歴史観、3つの歴史風土が存在する。
ただし、言語・文字・宗教は3つ以上で複雑多岐であった。
1つ目が中国(黄河流域・揚子江流域)・朝鮮・ベトナムなどの農耕内陸で、2つ目が満州・モンゴル・チベット・ウイグル・中央アジアなどの遊牧草原で、3つ目が千島列島・樺太・蝦夷地・日本・琉球・台湾・フィリピンなどの漁労海洋である。
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乗り物は、農耕内陸は馬車・戦車で、遊牧草原は馬で、漁労海洋は舟であった。
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西洋やオリエントと繋がる道は、農耕内陸は絹の道で、遊牧草原は草原の道で、漁労海洋は海の道であった。
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歴史風土とは、農耕内陸は儒教・道教・法家などの諸子百家、遊牧草原はマニ教・イスラム教・他、漁労海洋は自然・精霊の崇拝とインド由来仏教であった。
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歴史観とは、儒教・道教による天帝の内陸史観、マニ教による天の草原史観、神話による神の海洋史観である。
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東アジアの大地・海原・天空そして人から生物・有機物や無生物・無機物までの森羅万象の全てに、多種多様の宗教が存在する。
現代科学風に言えば、東アジアの宗教とは、宇宙に存在する目に見えない暗黒物質(ダークマター)と暗黒エネルギー(ダークエネルギー)である。
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三竦みを個々にまとめて秩序と治安を与え安定させているのは磁石のような儒教的中華思想である。
その意味で東アジアには、2つの大きな磁石(農耕内陸と遊牧草原)と1つの複合磁石(1つの中規模な磁石{日本}と幾つかの小規模な磁石{琉球・アイヌと東南アジア諸国}の寄せ集め)が存在する。
世界の核となる中華主義・中華思想は、一つしか認めないという独裁では間違いで、複数が同時に共存共生するにおいては正しい。
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農耕内陸には、南船北馬といわれる北の黄河文明と南の長江文明の2つがあった。
遊牧草原には、馬の草原文明とラクダの砂漠文明の2つがあった。
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徳川幕府は鎖国をする事で、国内に対立・反発する異質な海の世界・内陸の世界・草原の世界を縮小して移植し、混ぜ合わせながら必要なモノは取り入れ必要のないモノは容赦なく切り捨て排除し、安定・落ち着くように改良・改善を繰り返して根付かせた。
それが、江戸時代、日本の近世であった。
つまり、日本は見た目は小さな島国であったが、国内には地球規模の世界と数多くの国と地域の要素を内包している。
それを例えるなら、日本は全てを兼ね備えた「箱庭」である。
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日本が、中国や韓国・北朝鮮と全然違うのはこの為である。
端的にいえば、農耕内陸の中国や韓国・北朝鮮は2000年まで海には興味も関心もなかった、あるいは少なかった。
故に、南シナ海は中国の領海ではないし、尖閣諸島・沖縄・沖ノ鳥島は日本の国土であり、日本海は東海ではなく縄文人の海である。
その事さえ理解できない日本人が現代日本で急増し、それも高学歴な日本人に多い。
その代表的な日本人の集団が民主党政権であった。
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日本が、開国して「短期間」で近代国家となって五大国の一員となり、敗戦後の焼け野原から「短期間」で復興し経済大国になれたのはこのためである。
が、1990年以降の現代日本には、その強さ、底力が消えている。
それを個人として持っているのが安倍晋三と数人であり、家族・一族として受け継いできたのが天皇家・皇室である。
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現代の日本人は、昔の日本人に比べて民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、そして現実の地政学が分からず、現実に起きていた歴史が理解できず嫌いである。
現代の日本人が好きなのは、子供でも分かりやすく細かくかみ砕かれた物語としての時代小説・時代劇である。
学校のリベラル系左派系歴史教育とは、子供たちに歴史を理解させる為ではなく歴史を嫌いにする為に行われている。
伝統的な日本の歴史には、神話・伝説・伝記・寓話・民話・伝承・言い伝え・物語などが混在し、その代表的が「古事記」「日本書紀」である。
「古事記」「日本書紀」は、統一国家大和王権(日本国)を造り、ヤマト大王(日本天皇)に正統性を与える為に書かれた創作と寄せ集の歴史書である。
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海の世界とは、安倍晋三元首相が言うように「開かれたインド・太平洋地域」である。
現代日本の政治家や官僚、学者、メディア関係者で、安倍晋三元首相に匹敵するような歴史認識を持っている者はほんの一握りの、ごく僅かに過ぎない。
得に、リベラル派や革新派、左翼・左派・ネットサハ、過激派、反天皇反民族反日的日本人、他は絶望的である。
それは、保守派や右翼・右派・ネットウハでも同様である。
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3つの世界を1つにまとめる、戦前日本の大東亜共栄圏も日本民主党政権の東アジア共同体(アジア版EU構想)も中国共産党の中華共栄圏も失敗する事は当然の事であった。
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日本民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)に、主に揚子江流域から朝鮮半島を経ての渡来人と乱婚した弥生人、主に南満州から朝鮮半島を経ての帰化人と乱婚した古墳人と、雑多な人々と乱婚を繰り返し混血して生まれた雑種民族である。
日本に流れ着いた人々とは、敗者・亡命者・逃亡者・難民達である。
朝鮮半島とは、モノ・ヒトが内陸と草原の大陸から日本列島に行く為に通過する回廊に過ぎず、それは一方通行で行きはあっても帰りがなかった。
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渡来人による、天皇暗殺と関東での反乱。
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ある意味、現代日本では外国人移民(主に反日的中国人移民)という歴史的な民族大移動が起きている。
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東アジア世界は1の農耕内陸国と2の遊牧草原国との興亡で動き、3の漁労海洋国は東アジアの興亡に巻き込まれる事はなかったが逃げ出してきた敗者や弱者を無条件で受け入れていた。
3の漁労海洋国は、1の農耕内陸国の侵略を受ける事はあっても逆襲して攻める事はなかった。
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農耕内陸国の主役は漢族中国人・朝鮮人・ベトナム人で、遊牧草原国の主役は匈奴以降の遊牧諸民族で、3の漁労海洋国は日本人・琉球人・その他など島嶼の少数民族である。
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3の漁労海洋国である日本は、1の農耕内陸国と2の遊牧草原国に近接する為に、戦乱に次ぐ戦乱で多くの敗者や弱者が難民・亡命者・逃亡者が逃げ込んでいた。
在来種の縄文人(日本土人)は、逃げ込んだ外来種の農耕民・遊牧民を排除せず、その度に受け入れて乱婚し混血を繰り返し弥生人・古墳人・倭人そして日本人へと変貌していった。
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