⚔16)─4─戦国時代の南蛮貿易は日本のシルバー・ラッシュ。国際金融を動かした石見産銀。~No.64 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 世界的なジパング(日本)は、黄金の島国ではなく銀鉱山王国であった。
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 ザビエルが来日した目的は二つあり、一つ目は神聖にして崇高な福音と隣人愛の信仰を日本に広める事と、二つ目は俗事の経済として石見銀山の情報を収集する事であった。
 宣教師は未開地の伝道者であると共に、キリスト教会への現地情報の報告者であり、白人キリスト教徒商人の商取引仲介者であり、侵略軍の従軍神父と従軍医師であった。
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 日本に伝来したキリスト教は、インド発祥の仏教とは違い、平和と愛と幸福をもたらす宗教ではなかった。
 日本民族の宗教観・死生観・人生観・道徳観において、キリスト教を必要としなかった。
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 大航海時代において、一攫千金の夢を野望でアジアに向かって船出した冒険者達が目指したジパングとは、銀鉱山王国(シルバーランド)であって黄金の島国(ゴールドランド)ではなかった。
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 島根県
 歴史を動かした、世界の中の石見銀
 大航海時代の16世紀、世界の注目を集めた石見銀山。一大産業遺跡として栄えた歴史は、今、緑深い山中に静かに眠っている。石見銀山遺跡は、7月2日、ニュージーランドで開催された世界遺産委員会で世界遺産に登録された。ユネスコの諮問機関・国際記念物遺跡会議(イコモス)の「登録延期」勧告を受けたが、関係者の粘り強い説得と働きかけが功を奏し、無事「登録」にこぎつけた。日本で14番目、産業遺産としてはアジア初となる石見銀山遺跡の世界的な価値とその魅力を、改めて探る。
 世界の海を渡り、東西の文化交流を生み出した石見銀
 ヨーロッパ諸国がアジアや新大陸諸国の産物を求め、海を渡っていた大航海時代。交易によって莫大な富を得られることを知ったヨーロッパ人たちは、遭難や海賊からの襲撃、病気の危険をかえりみず、競って海外進出を試みた。そして大量流出する日本銀を媒介に中国、朝鮮、日本間の交易が活発化しているという噂を聞きつけ、日本の沿岸にヨーロッパ人が乗る船が姿を現すようになった。目的は安価で高品位な日本銀。真っ先に日本に上陸したポルトガルは、日本と中国との中継貿易で得た銀を用いて東アジアで香辛料や絹織物を入手し、ヨーロッパ市場で巨利を得ていった。
 このような時代にヨーロッパ諸国で作成された日本地図には、石見の位置に唯一「銀鉱山王国」「銀鉱山」と記されている。数少ない情報を元に作成された地図ゆえ、いかに当時のヨーロッパ人が重要視していたかが推測される。
 平戸で英国商館長を務めたリチャード・コックスは、江戸初期の日本について記した日記の中で、良質な日本銀を「ソーマ」銀として度々記載している。石見銀は、銀山のあった佐摩村にちなんでこう呼ばれ、信頼性の高い銀ブランドとして流通していたのである。
 石見の銀を媒介にして、世界中の価値ある物資が流通するとともに、西洋と東洋の経済的、文化的交流が生まれたのである。
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 石見銀山を中心に日本で生産された大量の銀が、貿易を通じて16世紀から17世紀の東アジアへ流通していた。このころ、金銀や香辛料を求めて自らの文明圏を越えて世界に活動範囲を広げつつあったヨーロッパ人が東アジア貿易に参入し、東西の経済・文化交流を生み出したことは、世界的にも重要である。
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 石見銀山遺跡とは
 世界に知られた石見銀山
 海を渡った石見銀
 16世紀〜17世紀の約100年の間には大量の銀が採掘され、大内氏、尼子氏、毛利氏といった戦国大名の軍資金や江戸幕府の財源として使われました。また、石見銀山が佐摩村にあったことから「ソーマ(Soma)銀」と呼ばれ、海外にも数多く輸出され、中国や朝鮮半島などのアジア諸国ポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国を交易で結ぶ役割の一端を担いました。17世紀前半の石見銀の産出量は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約3分の1を占めていたといわれる日本銀のかなりの部分を産出していたと考えられています。
 16世紀の銀の流れ 1568年(永禄11年)、ポルトガル人の地図製作者フェルナン・ヴァス・ドラードが、インドのゴアで作った「日本図」。
 東日本の形が不明確で、列島がいわゆる「エビ形」をしている。石見の位置にポルトガル語で「R・AS MINAS DA PRATA(ミナス ダ プラタ)」=銀鉱山王国=と記載されています。現在、スペイン・マドリードのアルバ公爵家が所蔵しています。
 日本にキリスト教を伝えたスペインのフランシスコ・ザビエルは、インドのゴアからポルトガルのシモン・ロドリーゲス神父にあてた手紙に「カスチリア人はこの島々(日本)をプラタレアス(銀)諸島と呼んでいる。(中略)このプラタレアス(銀)諸島の外に、銀のある島は発見されていない。」(『1552年4月8日付けゴア発パレード/シモン・ロドリーゲス宛書翰』)と書かれており、当時日本が世界における銀の一大産地であったことがわかります。
 また、海外諸国の文献にも、「福建の唐人が銀を買うために日本へ行き、風に吹き流されて朝鮮にいたった」(『朝鮮中宗実録』)や、「インドのカンパヤの薬品やマラバル・南洋諸島の香料を積んでシナに向かう船は(中略)のちに日本銀を積むのが主要な目的となったため、ナウ・ダス・プラタス(銀船)と呼ばれるにいたった」(『フレデリチ航海記』)と書かれており、石見銀山などの日本銀が大量に海外へ運ばれた様子を知ることができます。
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 Blue Signal 西日本の美しい風土
 世界に輝いた銀鉱山への旅
 石見銀山——文化財世界遺産
 中世ヨーロッパの地図に記された銀山王国
 蘇る輝き、刻みつづける歴史ー石見銀山
 16世紀の大航海時代、東方の銀山王国石見の噂は遠くヨーロッパまで届き、航海図にはその地名が記された。そこで採掘、精錬される石見銀は戦国大名の財源を支え、ヨーロッパと東アジアをつなぐ世界交易の主役となるが、400年の鉱山の歴史の終焉とともに深い谷間で長い眠りについた。その銀鉱山が世界の産業遺産として、今ふたたび世界に輝きを放つ。
 石見銀山と大森の町の暮らしを訪ねた。
 仙ノ山中腹より要害山(標高414m)と日本海を望む。左手の山頂の丸い山が要害山で、かつて山吹城が築かれていた。戦国時代にはこの城を舞台に、大内氏、尼子氏、毛利氏が銀山をめぐる激しい争奪戦を繰り広げた。
 『ドラード/日本図(1570年影印本)』。ヨーロッパで最初の単独日本図。石見付近にポルトガル語で「R AS MINAS DA PRATA)銀鉱山王国群)」と記載されている。(島根県教育委員会蔵/元版:鹿島出版会)
 仙ノ山の頂につづく勾配の急な山道を登っていくと、不意に、山の斜面に要塞のような巨大な廃虚が現れた。高さ20m、幅60mの岩盤には大小無数の穴が穿[うが]たれ、岩盤をノミで削って造った長い階段が設けられている。発掘前にはうっそうと茂る雑木や竹林に覆われて谷間に埋もれていた廃虚は、石見銀山が最盛期だった江戸時代初期の「釜屋間歩[かまやまぶ](坑道・鉱区)」と、銀鉱石の選鉱施設の遺構である。
 山の稜線に出ると、幾重にも重なる山々の谷間に大森の町並みが見え、その先には日本海が青々と広がっている。世界遺産石見銀山遺跡は、仙ノ山の鉱山遺跡と、鉱山を経営管理した大森の町、銀を搬出した銀山街道、銀を積み出した港湾を含む一連の銀産業の総体を指して面積は442ha以上にもおよんでいる。稜線から一望する風景がほぼその範囲で、遺跡の全容を知るには歩いて3日は必要だ。しかし、石見銀山遺跡の本当の価値を理解するのには「世界史的な視野が必要です」と、石見銀山資料館館長の仲野さんは話している。
 江戸時代に著された『石見銀山旧記』によると、銀山の発見は鎌倉時代末期、「周防国守、大内弘幸が北辰星(北極星)のお告げに導かれて仙ノ山に登ると、自然銀が雪のように露出していた。しかし露出した銀を取り尽くした後は放置された」と記されているが、史実は不明で伝説とする説が有力だ。銀山として開発されたのは1526(大永6)年の室町時代である。博多の商人、神屋寿禎[かみやじゅてい]が仙ノ山の沖合いを航海中、山の相に鉱脈の精気を見つけ、後に博多から呼び寄せた宗旦[そうたん]・慶寿[けいじゅ]という2人の鉱山技師を伴い、山に間歩を拓いて採鉱し、灰吹法[はいふきほう]という技術で銀を精錬した。それが1533(天文2)年であり、以後、飛躍的な増産が始まり、その技術は他の鉱山にも伝えられた。
 技術革新をいち早く果たした石見銀山が日本のシルバー・ラッシュの幕を開いた。しかし、この宝の山を巡って、周防の大内、出雲の尼子、安芸の毛利の三氏による激しい争奪戦が展開される。銀山を我がものにすれば莫大な軍事資金が得られるからだ。ちょうどその頃、銅から銀中心の通貨体系に移行した明国では銀の需要が急増し、銀の価値は高まっていた。 そうして明国にもたらされた多量の石見銀の噂は大航海時代ポルトガルやスペインにまで遠く及んだ。大航海時代とは富の新たな発見と交易のための地理上の新発見の時代であったことはいうまでもなく、船先は自ずと東方海上の噂の銀山王国へと向かった。1543(天文12)年に種子島に鉄砲が伝来し、1549(天文18)年にはキリスト教の布教でフランシスコ・ザビエルが日本に来航する。日本がはじめて西欧世界と出会った日本史上のこれらの重大事に石見銀山が深く関わっているというのだ。
 ポルトガルの目的は銀の獲得であり、その際、鉄砲と交換した銀が石見銀であったとされる。後に日本にやって来たザビエルの目的もまた布教以外に石見銀山の情報を収集することだったともいわれている。いずれにしても石見銀はその後の南蛮貿易において極めて重要な役割を担い、16世紀ヨーロッパの航海図にも所在が記され、文献にも頻繁に登場する。中世におけるヨーロッパと東アジアとの交易の歴史は石見銀山ぬきにしては語れないのである。仲野館長が「世界史的視野で石見銀山の価値を考えてほしい」と語る真意はそういうことなのだろう。
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 島根大学
 第105回市民講座「石見銀山の開発とグローバル世界の誕生」を開催しました。
 公開日 2018年08月06日
 8月4日(土)、松江市市民活動センターで第105回島根大学総合博物館市民講座「石見銀山の開発とグローバル世界の誕生」を開催しました。この講座は、平成30年度島根大学総合博物館市民講座第1ステージ「石見学II-世界遺産石見銀山とその周辺-」(まつえ市民大学連携講座)の第3弾になります。
 今回の講師は、石見銀山資料館館長の仲野義文先生につとめていただきました。
 石見銀山は1526(大永6)年ないし1527(大永7)年に博多の商人・神谷寿禎が発見したと伝えられています。
 石見銀山が発見された16世紀は、コロンブスアメリカ大陸を、バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見するなど、まさに「世界が一体化」し、国際通貨としての銀の需要が高まっていた時代でした。このころ中南米では、ポトシ銀山サカテカス銀山、グアナファト銀山があいついで発見されており、石見銀山の開発も世界的な銀ブームの文脈の中でとらえる必要があるようです。また、中国の明でも、税の銀納化がすすんで、銀に対する需要が高まっていました。
 こうしたなか、石見銀山では、1533(天文2)年、灰吹法と呼ばれる精錬法を導入し、大量の銀生産が可能になったのでした。銀生産の拡大によって、大量の銀が朝鮮・中国に輸出されるようになります。さらに、1543年、ポルトガル人が種子島に到来して以降、始まった南蛮貿易では、日本から銀が主に輸出されました。つづく江戸時代になると、オランダやイギリスとの朱印船貿易が始まり、同様に銀が輸出されていきます。
 こうした銀を基軸とした国際貿易によって様々な文物が日本にもたらされました。例えば、南米原産のものとしては、トマト・じゃがいも・煙草・梅毒など、ヨーロッパ産のものとしては小麦・馬・ペスト・キリスト教などがあげられます。
 しかし、17世紀半ばになると日本の銀の産出は減少していき、江戸幕府は金銀の国外流出を抑制するようになります。徳川吉宗の時代になると、それまでの輸入品の代替として、朝鮮人参の国産化、顕微鏡・望遠鏡・眼鏡といった西洋由来の機器の国産化蘭学など西洋の学問・文化・技術の導入といった政策がおこなわれるようになります。こうした動きが明治以降の日本の近代化の基礎になったといえるのです。
 以上のように、16世紀以降、石見銀山の銀が基軸となって国際貿易が活発になり、様々な文物が世界を移動するようになりました。その流れは、銀の産出が衰退したあとも続き、日本の近代につながっていくのでした。石見銀山が単に銀を大量に産出した鉱山であったというだけでなく、世界の経済・文化などの様々な面に大きな影響を及ぼした、人類史的価値をもつ、まさに世界遺産にふさわしい鉱山であったということがよく理解できた講座でした。
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 黄金は、装飾品に使われる事が多く実用的ではなかった。
 当時の貨幣は、銀本位制であって金本位制ではなかった為に、銀を独占した者が国際金融経済を支配できた。
 地球上の銀を支配しようとしたのは、スペイン王国のフェリーペ2世であった。
 フェリーペ2世は銀独占の為に、軍隊とキリスト教と混血児を巧みに使った。
 その証拠が、現在の中南米諸国である。
 中南米諸国の特徴であるラテン‐アメリカとは、キリスト教徒と半白人種の混血民族である。
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 日本に来たのは、最初にポルトガルイエズス会であった、次ぎに来たのはスペインとフランチェスコ会フランシスコ会)・ドミニコ会などの各派修道士会、次に現れたのがイギリスとオランダなどのプロテスタントであった。
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 日本の戦国時代は、旧教・ローマカトリック教会と新教・プロテスタントの布教を巡る宗教戦争ポルトガル・スペインとイギリスとオランダの石見産銀を巡る経済戦争が加わって複雑になっていた。
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 南蛮貿易における日本の主要輸出品は、貨幣となる日本産銀、戦争の武器となる硫黄(火薬の原料)、そして労働力となる日本人奴隷であった。
 日本産金の輸出量は、日本産銀よりも少なかった。
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 徳川家康は、朱印船交易を続ける為に、経教分離の原則を受け入れるオランダ一国との貿易を選択し、日本産銀と日本産武器を西洋に輸出する事を認めた。
 徳川家康前田利家などの大名は、織田信長の経済戦略を見ながら生き残ってきただけに、領内経営の為には経済が重要である事を知っていた。
 徳川家康は、貨幣製造を幕府が一括支配する為に、貨幣の材料となる金・銀・銅を産出する鉱山地域を幕府領として諸大名から没収し、幕府公認でない偽貨幣を厳しく取り締まった。
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 日本が最も恐れたなは、ポルトガル王国を併合したスペイン王国であった。
 スペインは、徳川家康に対して南蛮貿易を続ける条件としてキリスト教の布教を要求した。
 スペインの隠れた意図は、日本人キリシタンを利用して日本をキリスト教国家に改造し、スペイン人と日本人の混血児に日本統治を任せ、日本産銀を独占する事であった。
 日本植民地支配の為にキリスト教は利用された。
 つまり、キリスト教は日本人を奴隷にする為の隠れ蓑であり方便でしかなかった。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人から日本人奴隷として購入し、日本人奴隷を中国・東南アジア・中南米アメリカなど世界中に輸出して大金を稼いでいた。
 日本人の命は金で買えた。
 奴隷として売られていった日本人達は、二度と日本には帰れず、貧しく惨めに死に、死体は手厚く葬られる事なくゴミのように捨てられた。
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 徳川幕府による、キリスト教禁制とキリシタン弾圧は起きるべくして起きた正当防衛であり、非人道的犯罪行為ではなかった。
 が、世界、特に欧米などのキリスト教諸国と韓国・中国は、日本を悪逆非道と口汚く罵り、日本人は平気で猟奇的残虐行為を行う極悪・凶悪の犯罪者と非難している。
 現代日本歴史教育は、「全て日本が悪い」という世界の常識で教えられている。
 国連も、ユネスコも、日本のキリシタン弾圧につながるキリスト教関連施設を後世に残す世界記憶遺産と認定している。
 バチカンは、棄教せず処刑された日本人キリシタン福者として祝福し、日本人殉教者を弔うミサを世界に発信している。
 いつの時代でも、世界は日本に同情せず、世界常識を無条件に拝受する事を強要している。
 日本のグローバル化とは、日本批判の世界常識を無条件で受け入れる事である。
 故に、日本人奴隷交易の歴史的事実は、日本史はおろか世界史からも、世界の宗教史・人道史・道徳史そして経済史・外交史など有りと有らゆる歴史から完全に抹消されている。
 世界は、アフリカ人奴隷交易は認めるが日本人奴隷交易は認めない。
 そして、現代の日本人もその世界常識を受け入れている。
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 オランダは、徳川幕府キリシタン禁制と鎖国策に協力し、日本からポルトガル・スペイン・イギリスそしてイエズス会などのカトリック教会勢力を排除して対日貿易を独占し、日本産銀を利用して新たな国際金融を造って支配し、優秀な日本産武器を戦場で使い国際的地位で優位に立った。
 日本人が知らない間に、戦国時代と江戸時代を通じて西洋に影響を与え、世界の発展に貢献していた。
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 徳川幕府は、キリスト教勢力の宗教侵略を警戒して、オランダに対して利益を与える見返りとして西洋や世界の情報提供を求めた。
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 江戸時代、全国的な銅貨流通、西日本の銀貨流通、東日本の金貨(小判)流通の三種類が流通した為に両替が必要となり、両替商間での金融手形・小切手が発達した。
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 石見銀山は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めたとされる。大森銀山とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)とも呼ばれた。明治期以降は枯渇した銀に代わり、銅などが採鉱された。本項では石見銀山の概要と歴史、および2007年に登録された世界遺産としての石見銀山についても言及する。
歴史
 大久保間歩の内部
 石見銀山の発見について『石見銀山旧記』は鎌倉時代末期の1309年(延慶2年)に周防の大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩北極星)の託宣により銀を発見したという伝説について記しており、この頃からある程度の露天掘りがなされていたと考えられている。
 その後、大内氏が一時的に採掘を中断していた石見銀山を再発見し、本格的に開発したのは博多の大商人、神谷寿貞(博多三傑・神屋宗湛の曽祖父。姓については神屋、名については寿禎・寿亭とも表記される)であるとされている。海上から山が光るのを見た神屋は、領主・大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て、1527年(大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。
 義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530年(享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪ったが、3年後に再び大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。
 1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法により精錬された。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され博多湊などで取引された。灰吹法が広まることにより、酸化鉛の粉塵を吸い込んだ作業員は急性または慢性の鉛中毒を発症した。鉱山での劣悪な環境も相まって、当時の鉱夫は短命であり、30歳まで生きられた鉱夫は尾頭付きの鯛と赤飯で長寿の祝いをしたほどであった。大森地内には若くして死んだ鉱夫たちの慰霊を目的として各宗派の寺院が多数建てられ、鉱夫たちの家族構成はその多くが独身もしくは夫婦のみであったと伝えられている。
 銀山争奪
 1537年(天文6年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が石見小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。
 義隆の死後、毛利氏が大内氏に代わり台頭すると、毛利元就尼子晴久との間で銀山争奪戦を繰り広げた。だが、1556年(弘治2年)の忍原崩れ、1559年(永禄2年)の降露坂の戦いといった戦いでは尼子氏の勝利に終わり、晴久の存命中に元就は石見銀山を奪取しえなかった。
 だが、1561年(永禄4年)に晴久が急死すると、後を継いだ尼子義久は家中の動揺を抑えるため、1562年(永禄5年)に毛利氏と「石見不干渉」を約した雲芸和議を結んだ。これにより、最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた。同年12月には石見銀山を朝廷の御料所として献呈する。
 1576年(天正4年)以降、毛利輝元足利義昭を擁し、織田信長との戦いを長期にわたり繰り広げたが、それを可能にしたのはこの石見銀山からの富のおかげであった。
 その後、1584年(天正12年)に輝元が豊臣秀吉に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた。
 1591年(天正19年)、輝元は豊臣秀吉の命により石見銀山を始めとする領国の銀山を治めるため、林就長および柳沢元政を奉行に任命した。
 1597年(慶長2年)には、輝元から秀吉に銀3,000枚(129貫、約480キログラム)が、関ヶ原の戦い直後の1600年(慶長5年)の割当では毛利家と徳川家の折半となり各々銀13,000枚ずつが、それぞれ運上されている。
 商業への影響
 石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。このため、製錬された灰吹銀はソーマ銀と呼ばれ、そのまま日本産銀の銘柄のひとつとして商取引に利用され、またこの灰吹銀を譲葉状に打ち伸ばし加工された石州丁銀およびその後の徳川幕府による慶長丁銀は基本通貨として広く国内(主に西日本、東日本の高額貨幣は金)で流通したばかりでなく、明(中国)、16世紀以降に来航するようになったポルトガル、オランダなどとの間の交易で銀が持ち出された。特に明は大口の商取引、兵士への給与などのため広く秤量銀貨が使用され、その経済規模の為に銀需要は大きかった。また、私貿易を禁止する明の海禁政策にもかかわらず、日明間の密貿易が活発となった。当時の日本の銀産出量は世界全体の三分の一(その生産量の平均は年間200トン程度、内石見銀山が38トン(10000貫)程度であったと推測されている)に達し、スペイン王国ペルー副王領ポトシ(現ボリビア)のセロ・リコと並ぶ銀産出地として西洋でも有名になった。石州丁銀は秤量貨幣(額面が無く重量で価値が決定。取引の際は必要に応じ切り分けて使用)のため、原形をとどめる物は希少であるが、島根県は2007年までに石見銀山の銀で製作されたとされる御取納丁銀(おとりおさめちょうぎん)、文禄石州丁銀、御公用丁銀を購入し、これらは島根県立古代出雲歴史博物館における企画展などで展示される。
 その殷賑ぶりは、当時のポルトラーノ地図にも記載されている。スペイン国王はイスラム圏から入手した地図を大量に持っており、自らも地図を作成した。銀山を手中にした大名家(大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣氏、徳川氏)の利益は大きく銀10000貫は米に換算すれば100万石を下らない収入となる。なお、イギリス船やオランダ船は日本で産出される銀を「ソモSomo」あるいは「ソーマSoma」と呼んでいたといわれるが、これは銀鉱のある大森地区の旧名である「佐摩」に由来するとされる。
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天下統一とシルバーラッシュ: 銀と戦国の流通革命 (歴史文化ライブラリー)