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2021年12月10日 MicrosoftNews PRESIDENT Online「「大阪城内に若い娘を300人囲っている」宣教師が思わず書き残した豊臣秀吉の異常な性欲
© PRESIDENT Online ※写真はイメージです
国内では戦国時代の英雄とされる豊臣秀吉。だが、海外の文献をみると評判は散々だ。朝鮮の儒学者は「容貌が醜い」と記し、宣教師ルイス・フロイスは女性関係について手厳しく書いている。歴史学者の渡邊大門さんは「その根底には2度の朝鮮出兵や、キリスト教の布教を禁じた伴天連追放令に対する怒りがある」という――。
※本稿は、渡邊大門『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
海外における秀吉の評判はかなり悪い
秀吉が社会の最底辺から、関白そして天下人へと上り詰めた稀有(けう)な人物なのは周知のことである。かつて、秀吉は農民の子だったといわれていたが、それすらも疑わしいのではないかと指摘されている。父のことなどもはっきりとしない。
私たちが知る少年時代の秀吉は、いずれも二次史料に書かれた不確かなものである。いずれにしても、秀吉が裕福な家庭の家柄でなかったのはたしかである。
本書の内容に即して、秀吉が行ったことで特筆すべきは、天正十五年(一五八七)の伴天連追放令の発布、そして文禄元年(一五九二)にはじまる文禄・慶長の役である。そのような理由からか、海外における秀吉の評判は散々なものだった。
右手に6つの指が生えていた
外国史料にあらわれた秀吉は、どのように描かれているのだろうか。
秀吉に指が六本あったということはご存じだろうか。前田利家の伝記『国祖遺言』(金沢市立図書館・加能越文庫)には、次のように記されている(現代語訳)。
太閤様(秀吉)は、右手の親指が一つ多く六つもあった。あるとき蒲生氏郷、肥前、金森長近ら三人と聚楽第で、太閤様(秀吉)がいらっしゃる居間の側の四畳半の間で夜半まで話をしていた。そのとき秀吉様ほどの方が、六つの指(の一つ)を切り捨てなかったことをなんとも思っていらっしゃらないようだった。信長様は秀吉様の異名として「六ツめ」と呼んでいたことをお話された。
秀吉は生まれたときから右手の指が六本あり、それを切り捨てなかったことから、信長から「六ツめ」とあだ名されていた。
この情報を知っていたのか、朝鮮の儒学者・姜沆(きょうこう)の著書『看羊録』にも、「(秀吉は)生まれた時、右手が六本指であった。成長するに及び、「人はみな五本指である。六本目の指に何の必要があろう」と言って、刀で切り落としてしまった」と書かれている。
この記述で重要なのは、①秀吉の右手が六本指だったことが『国祖遺言』と合致していること、②一方で、余分な一本を切り落としたとあること、の二点である。『国祖遺言』の記述では、余分な指を切り落としていないようである。
「目が飛び出ていて、醜悪な容貌の持ち主」
実は、フロイス『日本史』十六章にも、秀吉の容姿について「彼(秀吉)は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。眼が飛び出ており、シナ人のように髭が少なかった」と記されている。
戦国時代の成人男性の平均身長は、百五十センチメートル台の半ばだった。肉食を主とし体格の良い欧米人から見れば、秀吉は小柄に見えたのかもしれない。同書には秀吉の指が六本あったと書かれているほか、容姿が醜く、眼が飛び出しており、髭が少なかったという記述がある。
フロイスがこうも秀吉をこき下ろすのは、伴天連追放令に対する怒りがあったからだと推測される。フロイスにとって、秀吉は邪魔な存在だった。
秀吉が「猿」と呼ばれたことは、よく知られている。それは、秀吉に多少の親しみを込めたあだ名でもあった。
この点について、姜沆の『看羊録』には、「賊魁(ぞっかい)(賊軍の長)秀吉は、尾張州中村郷(名古屋市中村区)の人である。嘉靖丙申(天文五年・一五三六)に生まれた。容貌が醜く、身体も短小で、様子が猿のようであったので(「猿」というのを)結局幼名とした」と記されている。
姜沆も文禄・慶長の役の際、朝鮮半島から日本に無理やり連行されたので、秀吉には良い印象を抱いていなかった。冒頭に秀吉を賊魁(賊軍の長)と記しているのは、そうした理由があったと考えてよい。
李氏朝鮮側の記録『懲毖録(ちょうひろく)』(十七世紀前後に成立)には、秀吉に謁見した朝鮮使節の「秀吉は、容貌は小さく卑しげで、顔色は黒っぽく、とくに変わった様子はないが、ただ眼光がいささか閃いて人を射るようであった」という感想を書き留めている。
背が低く容貌が卑しいというのは、フロイスらの感想と一致している。眼光が鋭いという感想は、敵ながらも秀吉を評価していたのだろうか。
秀吉が美男子ではなかった点については、秀吉自身がフロイスに対して、「皆が見るとおり、予(秀吉)は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予(秀吉)の日本における成功を忘れるでないぞ」と述べている(『日本史』一四章)。
この一文を見れば明らかなとおり、秀吉は自身の容姿が良くないことを自覚していたのである。同時に、秀吉は侮られないよう、フロイスを牽制(けんせい)したのだ。
兄弟姉妹でも容赦なく切り捨てたワケ
秀吉には弟の秀長らの兄弟姉妹がいたが、実はほかにも存在したという。フロイス『日本史』一二章には、次のような興味深い記事がある。
一人の若者が、いずれも美々しく豪華な衣裳をまとった二、三十人の身分の高い武士を従えて、大坂の政庁(大坂城)に現れるという出来事があった。この若者は伊勢の国から来たのであり、関白(秀吉)の実の兄弟と自称し、同人を知る多くの人がそれを確信していた。
これは天正十五年(一五八七)のことで、秀吉は五十一歳になっていた。この若者に関してはほかに史料がなく、史実であるか否かですら判然としない。秀吉はこの若者が実の兄弟であることを確認すべく、次のように母の大政所(おおまんどころ)を問い詰めた。
関白(秀吉)は、傲慢(ごうまん)、尊大、否それ以上の軽蔑の念をこめて、自らの母(大政所)に対し、かの人物を息子として知っているかどうか、そして息子として認めるかどうかと問い質した。
彼女(大政所)はその男を息子として認知することを恥じたので、デウスに対する恐れも抱かず、正義のなんたるやも知らぬ身とて、苛酷にも彼の申し立てを否定し、人非人的に、そのような者を生んだ覚えはないと言い渡した。
おそらく若者は、秀吉と面会した際に何らかの要求(金銭など)をしたのかもしれない。
大政所は秀吉の高圧的な態度での質問に対して、「若者のことを知らない」と答えざるをえなかった。大政所も後ろめたいところがあり、何かと不都合なことがあったのであろう。
最近の研究によると、大政所には三回以上の結婚歴があったと指摘されている(服部:二〇一二)。大政所は生活を維持するために、男性を頼るのは止むを得なかった。
秀吉が十五歳で家を飛び出して以降、大政所は不特定の男性と関係を持ったのは確実だったという。
大政所が知らないとなれば、若者は秀吉に虚偽を述べたことになる。その結果、若者には苛酷な運命が待ち受けていた。続けて、『日本史』を引用しよう。
その言葉(大政所が知らないと言ったこと)を言い終えるか終えないうちに、件の若者は従者ともども捕縛され、関白(秀吉)の面前で斬首され、それらの首は棒に刺され、都への街道筋に曝された。このように関白(秀吉)は己の肉親者や血族の者すら(己に不都合とあれば)許しはしなかったのである。
秀吉にとって、秀長ら以外に兄弟姉妹が存在することは「不都合な真実」だった。この若者のように、秀吉の知らない者が兄弟姉妹だったということは、決してあってはならないことである。
ましてや秀吉になんらかの要求(金銭など)があったとするならば、許しがたかったに違いない。秀吉が若者を斬首して、首を晒すのは常套(じょうとう)手段だった。以後、同様のことが起きないように、強く警告を発したのである。
己の賤しい血統を打ち消すために行ったこと
無残な最期を遂げたのは、この若者だけではなかった。秀吉は先手を打って、他にも類例がないかを探索していた。その結果、秀吉に姉妹のいたことが判明したのだ。フロイス『日本史』には、次のように書かれている。
その(若者が殺されてから)後三、四カ月を経、関白(秀吉)は、尾張の国に他に(自分の)姉妹がいて、貧しい農民であるらしいことを耳にした。そこで彼は己の血統が賤しいことを打ち消そうとし、姉妹として認め(それ相応の)待遇をするからと言い、当人が望みもせぬのに彼女を都へ召喚するように命じた。
秀吉が姉妹の存在を偶然に知ったように記されているが、実際には執拗(しつよう)な探索を行ったのだろう。あるいは、大政所に心当たりを尋ねたのかもしれない。「己の血統が賤しいことを打ち消そう」としたというのは、血のつながりのある兄弟姉妹を根絶やしにすることを意味する。
秀吉は、自分の知らない兄弟姉妹を抹殺したかったのである。姉妹がどうなったのかは、次のとおりである。
その哀れな女は、使者の悪意と欺瞞(ぎまん)に気が付かず、天からの良運と幸福が授けられたものと思いこみ、できるだけの準備をし、幾人かの身内の婦人たちに伴われて(都に)出向いた。(しかるに)その姉妹は、入京するやいなやただちに捕縛され、他の婦人たちもことごとく無惨にも斬首されてしまった。
この姉妹は、天下人の秀吉との面会が幸運をもたらすと有頂天になった。秀吉と面会するのにふさわしい服装を整え、来るべき輝かしい未来を信じて入洛したのだった。しかし、結果は史料にあるとおり無残なもので、おそらく首は晒しものにされたに違いない。
宣教師フロイスが驚いた秀吉の野望と肉欲
一説によると、その秀吉は女好きだったという。秀吉の女好きに関しては、フロイス『日本史』が次のように書いている。
(秀吉は)齢(よわい)すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取ったかに思われた。
この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、その全身を支配していた。彼は政庁内に大身たちの若い娘を三百名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また多数の娘たちを置いていた。
当時の五十代は老人だったので、フロイスは秀吉の精力ぶりに驚いたのであろう。また、当時のヨーロッパでは、一夫一婦制が基本だった。そのような事情と相俟って、フロイスには秀吉が不純で肉欲に溺れた野蛮人のように思えたのだ。では、秀吉が囲った女性はどのように集められたのか、『日本史』の続きを確認しよう。
彼(秀吉)がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的の一つとしたのは見目麗しい乙女を探し出すことであった。彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者とてはなく、彼は、国主や君侯、貴族、平民たちの娘たちをば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した。
このように記したうえで、秀吉の性格が尊大であり、この悪癖が度を過ぎていること、そして「彼(秀吉)は自分の行為がいかに賤しく不正で卑劣であるかにぜんぜん気付かぬばかりか、これを自慢し、誇りとし、その残忍きわまる悪癖が満悦し命令するままに振舞って楽しんでいた」と結んでいる。
ここまで記した秀吉の「黒歴史」は、ほとんど日本側の史料には見られない。史実か否か、にわかに判断できないのも事実である。フロイスがここまで秀吉をこき下ろしたのには、もちろん訳がある。
それは、秀吉がキリスト教の布教に理解がなかったからだが、むろん秀吉にも言い分はある。
当時、布教とセットでポルトガルの商人が来日した。彼らは貴重な文物を日本にもたらしたが、一方で日本人奴隷を売買していた。秀吉には、どうしてもそれが許せなかった。
---------- 渡邊 大門(わたなべ・だいもん) 歴史学者 1967年生まれ。1990年、関西学院大学文学部卒業。2008年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主要著書に 『関ヶ原合戦全史 1582‐1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)ほか多数。 ----------
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世界で蛇蝎の如く嫌われている日本人は、豊臣秀吉と人道貢献や平和貢献を行った昭和天皇と東條英機がいる。
豊臣秀吉が嫌われる理由は、隣人愛信仰のキリスト教を禁教として弾圧し、天地創造の絶対神と神の子であるイエス・キリストが語った福音の伝道師である宣教師を処刑した事、そして異教徒日本人を奴隷として売る事を禁止したからでる。
中世世界では、人を売り買いする事は罪ではなく普通に行われていた合法的な商売であったのに、豊臣秀吉はグローバルに逆らい世界ルールを否定し壊そうとした破壊者だからである。
現代日本の歴史教育は、グローバル基準に従い、豊臣秀吉が行った、歴史的犯罪行為である唐入り・朝鮮出兵を子供達に教えて罪の意識を植え付け、歴史的人道行為である世界規模の日本人奴隷交易を禁止した事を歴史的事実から抹消している。
グローバルな歴史認識では、アフリカ人奴隷交易は存在するが、日本人奴隷交易は存在しない。当然、日本の歴史にも、世界の歴史にも存在しない。
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庶民にとって、領主が誰であったも関係ない。
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戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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日本人は、悪人、悪党、罪人である。
故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏(阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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