⚔18)─4・A─ルネッサンス第2波は江戸日本でさざ波のように発生し世界に広がった。~No.74 

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 ルネサンス
 人間らしさを追求
 カトリック教会の権威低下により「神頼み」から解き放たれた人々は、人間らしい生き方への関心を持ち始めました。この、「人間らしさを大事にしよう」という考え方を「ヒューマニズム人文主義)」といいます。
 ルネサンスの影響
 前述のとおり、ルネサンスは「人間らしさ」に重きを置いた運動です。そこからは、神中心の価値観から解放されて人間性を尊重することで、基本的人権や民主主義の形成に発展したと考えられます。そういう意味では、ルネサンスは近代社会形成の原点とも言えるでしょう。
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 ルネサンス(仏: Renaissance)は、「再生」「復活」などを意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動。14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。
 日本では長らく文芸復興と訳されており、ルネサンスの時代を「復興期」と呼ぶこともあったが、文芸に限らず広義に使われるため、現在では訳語として文芸復興という言葉はあまり使われない。ルネッサンスとも表記されるが、現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。
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 大航海時代とは、15世紀半ばから17世紀半ばまでのヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代を指す区分である。主にポルトガルとスペインにより行われた。
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 東洋経済ONLINE 8月18日(木)
 当初は織田信長の政策を継承し、日本でのキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉。だが、後に「バテレン追放令」によって布教を禁ずるようになる。秀吉がキリスト教の布教を防ごうとした背景には、ポルトガル人による「奴隷貿易」があった。5万人の日本人が国外に連行されたという、その実態とは? 作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。
 日本にキリスト教が伝わったのは、戦国乱世まっただ中の天文18年(1549年)に薩摩、今の鹿児島・祇園之洲に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってであった。
 このザビエルからバトンを受け継ぐように永禄6年(1563年)、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが来日すると、ときの権力者の織田信長から布教活動を許されたこともあって、京都や西九州中心にキリシタンが急増した。信長が本能寺で斃れた天正10年(1582年)ごろには全国で約15万人の信者がいたと言われている。
 この数字は当時の京都の全人口のほぼ半数に匹敵するものだった。その後、信長の後継者となった豊臣秀吉は最初こそ信長のキリシタン保護政策を踏襲したが、天正15年になり、突然手のひらを返すかのように「伴天連(ばてれん)追放令」を発する。伴天連とはポルトガル語で宣教師を意味するパードレが訛ったものだという。・・・
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 ド田舎の足軽の子であった木下藤吉郎は、人間力、財力、武力で日本を統一し、天皇から天下人として認められ日本の統治権を拝受して関白に就任し、最上級貴族の身分に上り詰め、新たに「豊臣」の姓を拝領して豊臣秀吉と名乗り(創氏改名)、日本を支配した。それ故に、外国へ奴隷として売られようとした哀れな日本人を救い、人身売買に加担したキリスト教宣教師・修道士、キリシタンを非人道的な手段で宗教弾圧した。
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 『日本人が知らないアジア人の本質 旅行記・滞在記500冊から学ぶ』
 麻生川静男 著    ウェジ
 第一章 良くも悪くもアナログ的な日本
 外国人を驚嘆させた日本
 日本はユーラシア大陸の極東にあるものの南太平洋からの黒潮や台風のおかげで、大昔からさまざまな人たちがやってきている。古代の弥生時代あたりには、中国や朝鮮半島から数多くの人間が日本に流れ込んできた。『人口から読む日本の歴史』(X14、P.18)には、日本では過去1万年の間に4回の人口増加の波があったことがのべられているが、その一つが弥生時代であるという。
 時代は下がって、奈良時代には中国や朝鮮半島という近場の人のみならず、ペルシャ人とおぼしき人も日本に来ている。『日本書紀』の巻25の記述によると、孝徳帝の白雉5年(AD654)に吐火羅(トカケ)国の男女計5人が日向に漂着したという(……)。トカケというと中央アジア(現在の国でいうと、タジキスタンウズベキスタン)であるから、随分と遠くからきたものだ。この記述以外にも、『日本後記』にもこのような漂流者が一再(いっさい)ならずいたことが記録されている。ただ残念ながら、彼らの旅行記は残っていない。
 ……
 日本に多くの外人がやってくるのは、16世紀になってからだ、ヨーロッパの大航海時代ポルトガル人やスペイン人が組織的に来訪した。彼らのうち、とりわけイエズス会の宣教師が書き残した旅行記、滞在記が、江戸以前の日本文化を知る上では非常に貴重な資料である。イエズス会の宣教師たちは日本のみならず、インド、中国に関しても貴重な旅行記・滞在記を残してくれている(C04『イエズス会中国書簡集』など)。
 イエズス会士に続いて、オランダやイギリスの商人が積極的に日本を目指してやってきた。彼らの目的は、キリスト教の布教ではなく貿易による利益追求であったが、期せずして日本に新しい文明の風を吹き込んだ。イエズス会だけでなく、これらヨーロッパの商人は日本に来るまでに、アジア諸国(インド、東南アジア、中国)の各地を訪問しただけでなく、長期滞在していたので、アジア人はかなり劣等だとの認識を持っていた。
 ところが、日本に来て驚いたのは、日本人は他のアジア人とは異なり、彼らの新しい文物に限りない興味を示したことであった。それは、他のアジア諸国ではついぞ経験したことのない、高度に知的な興味と理解度の速さであったようだ。
 キリスト教至上主義を信じ、非キリスト教徒、つまり異教徒たちを人間扱いするに値しないと考えていた彼らも、日本人に出会って、初めて対等あるいは対等以上の文明の高さを感じたようだ。このことが、彼らをして真剣に日本ならびに日本人のことを研究しようと動機付けたのではないかと思われる。
 日本にとって幸運だったのは、これらの記録を書き残した人たちの大部分が、日本社会に対して冷静で批判的な見方をするものの、根底には日本に対して温かい愛情を持っていたことであった。それは打算を越えた、人間的(ヒューマニティック)な感情であったと思える。ただ、それはあくまでも『非キリスト教徒としては優秀』という限定句が付くことは、彼らの私的書簡の中に垣間見えることができる(例:F01『聖フランシスコ・ザビエル書翰抄』)。
 筆まめな彼らのおかげで、我々現代人は、当時の日本の社会の様子を事細かにすることができる。同時にヨーロッパの価値観との差を知ることで、当時の日本人の外面的な生活様式だけではなく、内面の様子が手に取るように知ることができるのである。
 ……
 概して言えば、来日した外国人にとっては、当時の日本、および江戸期の日本というのは、日本人が卑下するほど酷いものではなかった。むしろ、ケーベル博士のように、近代化されたヨーロッパの真似をすることに非を鳴らす人のほうが多かった。
 つまり、近代産業の隆盛を迎え、帝国主義の絶頂期にあったヨーロッパはヨーロッパ本来の美しい姿を失っていたと彼ら自身が考えていたのだ。その醜い姿をそのまま、日本人が『すごい!かっこいい!』と誤解して猿真似することを甚だ見苦しいと感じていた。
 ……
 こういった資料によって、当時の各国の生活レベルがよく分かる。現代の我々にとっては、ヨーロッパというのはメディアを通していろいろな情報に接しているので、心理的にはそれほどの距離感を感じない。……。ましてや、ヨーロッパ人などあたかも異星人であった当時の人々に与えた影響は甚大なものであっただろうことは、想像に難くない。
 これら欧米人による日本旅行記、滞在記と、逆に欧米を訪問した日本人の旅行記、滞在記から日本の文化のコアが分かり、ついでに逆写真として欧米の文化のコアを探ることができる。
 武士道の幻想と現実
 室町時代には、ヨーロッパからキリスト教の宣教師がかなり来日している。そのうちの一人、イタリア人のヴァリニャーノ(1539~1606)は、極東におけるイエズス会の布教を監督する立場にあったため、日本を3回訪問し、通算10年以上も滞在したので、日本の社会をかなり詳しく分析することができた。彼は日本でキリスト教を普及させるにはキリスト教の習慣に囚われずに日本の文化風土に合わせる必要があると考え、『適応主義』と呼べる布教方針を採った。彼らによると、当時(16世紀末)の日本社会はヨーロッパと比べて遜色がないどころか優れている面も多いと、次のように指摘する。

 彼等(領主)の間には通常戦争が行われるが、一統治権のもとにある人々は、相互の間は平穏に暮らしており、我等ヨーロッパにおけるよりもはるかに生活は安寧である。それは彼らの間には、ヨーロッパにおいて習慣となっているような多くの闘争や殺傷がなく、自分の下僕か家臣でない者を殺傷すれば死罪に処せられるからである。(F03『日本巡察記』P.10)

 また、ヴァリニャーノは日本以外にもインドや東南アジアで布教した経験から、これらの地域の住民と日本人を比較して次のように日本人を評価している。

 東洋のあらゆる人々の中で、日本人のみは道理を納得し、自らの意志で(霊魂の)救済を希望し、キリスト教徒になろうとするのである、東洋の他の人々は、すべてむなしい人間的な考慮や利益の為に我等の信仰を受け入れようとするのが常であることは、従来吾人が見てきたところである。(F03『日本巡察記』P.46)
 我等イエズス会員は、他の国民の間に住むよりも、日本人のもとで生活することを比べようもないほど喜ぶ。(F03『日本巡察記』P.47)

 その一方で、日本人の悪い点を次のように指摘する。

 この国民の第二の悪い点は、その主君に対して、ほとんど忠誠心を欠いていることである。主君の敵方と結託して、都合の良い機会に主君に対し反逆し、自らが主君になる。反転して再びその味方となるかと思うと、さらにまた新たな状況に応じて謀叛するという始末であるが、これによって彼等は名誉を失いはしない。(F03『日本巡察記』P.17)

 同様の感想は日本滞在が30年におよび、日本語の読み書きにも不自由しなかったと言われるルイス・フロイスも次のように述べている。

 われわれ(ヨーロッパ人)の間で叛逆は稀で大いに非難される。日本ではごくありふれたことなので、ほとんど非難を受けることはない。(F02『ヨーロッパ文化と日本文化』P.116~117)

 これを読むと、新渡戸稲造の『武士道』で称揚(しょうよう)されている武士のモラルとは随分異なることが分かる。新渡戸が理想化した武士道では、武士は主君に忠誠を尽くし、裏切ることがないように言われているが、室町時代においてはそうではなかったことが分かる。主君に忠を尽くすのが武士道の中心軸となったのは戦国時代が終わり、江戸時代以降、領土が固定化し、武士階級がいわば地方公務員となったあとのモラルなのである。

 数多く来日した宣教師の中では、フランシスコ・ザビエルが最も有名だ。彼は1549年に鹿児島に上陸し布教を開始した。そしてすぐに、日本人が他のアジア人より理性的で優れていると感じ、次のように述べた。

 此の国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。・・・日本人は、総体的に、良い素質を有し、悪意がなく、交って頗(すこぶ)る感じがよい。彼等の名誉心は、特別に強烈で、彼等に取っては、名誉が凡(すべ)てである。日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だとは思っている者は、一人もいない。(F01『聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)』P.26)
 此の国(日本)は、霊的に豊かな収穫をもたらす肥沃な土地で、今までの所では、人々がキリスト信者になることを、不思議とは思っていないようです。国民は理性的な人間です。彼等は無知の故に、多くの誤謬(ごびゅう)の状態に住んでいるけれども、理性が彼等の間では大切にされています。若し彼等を支配しているものが悪であるなら、こんなことのあろう筈(はず)がありません。(F01『聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)』P.84)
 日本人は、私の見た他の如何なる異教国の国民よりも、理性の声に従順の民族だ。非常に克己心(こくきしん)が強く、談論に長じ、質問は際限がない位に知識欲に富んでいて・・・(F01『聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)』P.108)

 ザビエルは、その高潔な人格から日本のみならずインドでも非常に尊敬された。ただ、この書翰抄を読んだ私の素直な感想は、ザビエルは日本人を評価しつつも、やはり心の底では『キリスト教徒でないものは、だめだ』と、日本人に対する蔑視を抱き、常に上から目線で日本人を見下していたように感じる。
 ザビエルは日本人は理性的だと評価したが、スウェーデンの植物学者で、オランダ商館の一員として江戸時代(1775~76)に長崎に滞在したツンベルク(ツュンベリーともいう)も同様の感想を次のように述べる。

 上りの旅をする者は左側を、下りの旅をする者は右側を行く。・・・
 里程を示す杭(くい)が位有る所に立てられ、どれほどの距離を旅したかを示すのみならず、道がどのように続いているかを記している。この種の杭は道路の分岐点にも立っており、旅する者がそう道に迷うようなことはない。
 このような状況に、私は驚嘆の眼を瞠(みは)った。野蛮とは言わぬまでも、少なくとも洗練されてはいないと我々が考えている国民が、ことごとく理にかなった考えや、すぐれて規則に従っている様子を見せてくれるのである。一方、開化されているヨーロッパでは、旅の移動や便宜をはかるほどの設備が、まだ多くの場所においてまったく不十分なのである。(F04『江戸参府随行記』P.106~107)

 日本人は理性的であるだけではなく、活発で、規律をよく守ると肯定的な評価は、幕末に日本を訪問したスイス人のエメェ・アンベールも次のように述べる。

 日本人の間に認められる表情の活発さと相貌(そうぼう)の多様性は、私の意見では、あらゆる他のアジア民族よりも、より自主的であり、より独創的であり、より自由である知的発育の結果である。 (F15『絵で見る幕末日本』P.116)
 日本の全職人には秩序と規律がよく保たれているのに、私はまったく敬服した。(F16『続・絵で見る幕末日本』P.302)

 ここでアンベールが表情が活発と言っているのは、職人・町人たちが活き活きと働いていることを指すのだろう。つまり、自分の身分に安んじ、腕に自信を持ち、プロ意識が高いということだ。この生き方は、下層階級の生活が投げやりであった東洋の他の諸国と大きく違っていたということになる。
 なぜ、日本は開国が上手く行ったのか?
 『西欧列強がアジア・アフリカを次々と植民地化したにもかかわず、なぜ日本だけが植民地にもならず、さらには短期間で近代化を達成できたのか?』この問題に対する考えはいろいろあろうが、私は一つの要因として幕末から明治にかけてイギリスの果たした役割が極めて大きいことを挙げられると考える。
 ……
 私は彼らの日記や滞在記を読むたびに、彼らの勇気に敬服すると同時に、日本人の高い素養という下地はあったものの、公正な観点から日本の美風を理解していた欧米人が少なからずいたからこそ、日本の開国およびその後の近代化がスムーズにいったのだと感じる。
 ヨーロッパより進んでいた日本の人権意識
 日本を訪問したヨーロッパ人は、日本の風習に戸惑いを覚えた。日本の風習の中には母国とまるっきり正反対のものもあったと、室町時代末期に来日したフロイスは『ヨーロッパ文化と日本文化(F02)』でいくつもの事例を挙げて説明している。

 ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは、貞操であり、またその純潔が犯されない貞淑さである。日本の女性の純潔は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失われなければ、結婚もできる。(F02『ヨーロッパ文化と日本文化』P.39)
 ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きな場所に行く自由をもっている。(F02『ヨーロッパ文化と日本文化』P.50)

 儒教的倫理観の厳しかった中国や、とりわけ李氏朝鮮では『忠臣は二君に事(つか)えず、貞女は二夫を更(か)えず』として、非のうちどころもない貞淑な女性でも再婚は厳しく禁じられた。日本人は、そのような非人道的で観念的な硬直した倫理観は、室町時代までは持っていなかったことが分かる。
 江戸時代に入り、長崎のオランダ商館に数多くのオランダ人とともに多国籍のヨーロッパ人が滞在した。その一人、スウェーデン人医師のツンベルグは日本人の持つ高い人権意識を次のように指摘する。

 日本人は、オランダ人の非人間的な奴隷売買や不当な奴隷の扱いをきらい、憎悪を抱いている。身分の高低を問わず、法律によって自由と権利は守られており、しかもその法律の異常なまでの厳しさとその正しい履行は、各人にふさわしい領域に留めている。(F04『江戸参勤参禁ず移行期』P.220)

 よく知られているように、豊臣秀吉ポルトガル商人が日本から人を買って売りさばいているのに立腹して、天正15年(1587)に国外への人身売買を禁じた。一方で、朝鮮侵略に際しては多くの朝鮮人が日本に連行され売買されるのを黙認した。
 この矛盾する政策に関して、そのどちらに秀吉の本音があったのかは私は分からない。ただ、ツンベルクが指摘するように戦乱がおさまった江戸時代においては、日本人本来の性情が表れていたと思う。オランダ人は出島で働く(黒人あるいはインド人)奴隷を酷(むご)く扱っていたが、それは彼らにとって当たり前のことであった。しかし、日本人には人を牛馬の如く扱う行為に対しては、強い義憤を感じたのだ。
 ……。
 ヨーロッパのみならず、アフリカ、インド、東南アジアと世界の多くの国々を回ってきたツンベルクは世界の至る所で、人間が人間らしく扱われないのが当然だった当時において、すでに日本人が西洋の近代思想を全く受けていないにもかかわず、現代用語で言う、基本的人権と財産権の不可侵の概念を持ち、厳格に運用していたことを驚異的なことだと感じたのだ。この点において、李氏朝鮮では奴婢(官奴婢と私奴婢)の制度が古代から近代(1894年)まで継続していた点と大いに異なる。

 近代になって、ヨーロッパでは産業革命が起こり、工業化、都市化が進展した。しかし、それは庶民の生活の質的向上には必ずしも貢献しなかったようだ。19世紀に日本に来た、ドイツ人医師シーボルトは、日本とヨーロッパの差を次のように指摘している。

 ヨーロッパの工業都市の人間的な悲惨と下品行をはっきり示している身心ともに疲れ果てた、あのような貧困な国民階層は(日本には)存在しない・・・しかも日本には、測り知れない富をもち、半ば飢え衰えた階級の人々の上に金権をふるう工業の支配者は存在しない。労働者も工場主も日本ではヨーロッパよりもなお一層きびしい格式をもって隔てられてはいるが、彼らは同胞として相互の尊敬と好意とによってさらに堅く結ばれている。

 ヨーロッパでは、人々の平等と博愛をを唱えるキリスト教は教義として発展したが、実際にはシーボルトが指摘するように、富と権力の極端な不平等と虐使(ぎゃくし)が公然と行われていた。
 このように、日本国内だけを見てみると江戸時代の士農工商は厳しい身分差別のように思われるかもしれないが、当時のグローバルスタンダードからいえば問題にもならないくらい、緩やかな格差であったことが分かる。
 ヨーロッパと日本とを公平な観点で観察したシーボルトは、日本の産業の活発な様子を次のように伝える。

 (兵庫)港内には絶えず非常に多くの船舶が停泊し、港外には数えきれないほどの船が大坂に向かって行くのが見える。私は思うのだが、いったい世界のどこにこの兵庫と大坂の間の湾内ほど、大小無数の漁船や商船が行き来している所がるのだろうか。・・・海岸への自由のな見晴らしのきくたいていの場所から、肉眼で数百の船を数えることができる。(F05『江戸参府紀行』P.247)

 日本人にとっては当たり前の光景も、シーボルトのような外国からの訪問者には驚くべきことに見えた。これによって、当時の盛んだった日本の海運の実態を知ることができる。海運だけではなく、さまざまな手工業も盛んでることにシーボルトは感心している。

 (紙製造)日本では製紙の簡単なことが、ヨーロッパにおける煩雑な工場にくらべて著しく対照をなしている。……。(F05『江戸参府紀行』P.178~179)

 日本(や中国・朝鮮)とヨーロッパの製紙の一番の差は、材料にある。……。また、日本が伝統的に識字率が高かったのは、本を広く普及できたためであるが、それは紙の製造コストがかなり安かったのも大きな要因である。
 幕末に来日した若きデンマーク人、エドゥアルド・スエンソンは、宗教対立が全く存在しない日本に驚いている。

 (日本人は)聖職者には表面的な敬意を示すものの、日本人の宗教心は生ぬるい。・・・(仏教の)諸宗派の間にも驚くべき寛容が成立しており・・・(F17『江戸参府紀行』P.206)

 ヨーロッパでは、宗教対立によってしばしば大虐殺が起こっている。それも異宗教間ではなく、同じキリスト教徒の間での虐殺だ。スエンソンは、日本では宗派間対立がほとんど見られないことに驚くとともに、その根源にある日本人の寛容さに敬意を払っているのだ。
 オランダ商館長ドゥーフが見た日本
 ……
 混浴から見える倫理観
 ……
 会議の長さは150年前から
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 欧米人が認めた技術の高さ
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 道具に技巧をビルトインする発想
 ……
 間違った日本人論に張り回されるな
 世の中には、『悪貨は良貨を駆逐する』ケースが数多くある。
 文明批評の観点で一番多いのが、『日本は農耕民族、ヨーロッパは狩猟民族なので発想が異なる』というものであろう。これなど、ちょっと考えればすぐに間違いであることが分かる。
 ヨーロッパは、北欧の一部を除いて伝統的に農耕民族である。フランスを見ても分かるが、ヨーロッパの大地には穀物が豊かに稔(みの)っている。ヨーロッパというのは正確には、農業と牧畜がセットになった農耕民族なのだ。しかし、一旦諺のように定着してしまった言葉は理性的には吟味されずに、つい反射的に口をついて出てきてしまい、最後には真理として定着してしまう。
 日本人論に関しても、同じような間違った認識が蔓延している。その筆頭が聖徳太子の十七条の憲法である『和を以て貴しとなす』であろう。
 この言葉は、明らかに中国の経書の文句の剽窃(ひょうせつ)である。礼記・儒行篇には『礼は和を以て貴しとなす』(禮之以和爲貴)とある。……
 改めて日本のアイデンティティを考えてみようとすると、日本人とは一体どの時代の日本人を指して言えばいいのだろうかと戸惑う。
 明治になって新渡戸稲造鈴木大拙がそれぞれ武士道や禅についての本を英語で出版したため、あたかも日本精神の精髄が武士階級にあったかのような誤解されがちである。確かに日本の国家としての歴史はせいぜい2000年であり、そのうちに武家社会が平安末期より台頭して以来1000年であるから、武家社会をもって日本人社会の代表とするのも一面では十分納得できる。
 しかし、どの民族も歴史が書かれるずっと以前から固有の民族的アイデンティティ(個性)を持っていたはずだと仮定するなら、武家社会をもって日本の代表とするわけにはいかないことは自明であろう。こう考えると、本来の日本、つまり原日本のアイデンティティを探るには武家が登場した時代よりも少し遡って考える必要がありはしないか。
 私は、原日本人は江戸時代の武士が尊重した『義』などという小難しいことを考えるような思弁的な民族ではないと考えている。それは、古事記の神代の卑猥さが満載の、未成年お断りの禁書すれすれの文章が出てくるいくつかの物語を読めば、説明するまでもないことが分かるであろう。
 義という言葉は『ぎ』という音はあっても、訓がないことから明らかなように、日本人には元来無縁の概念であった。これは、観念的かつ形而上的なことが大好きな中国人の政治的プロパガンダのために造られた単語だ。
 中国は本来的に異民族が熾烈な競争を繰り広げる社会であった。そういった混乱の中、集団をまとめていく指導理念として作り出されたのが魔法の小槌である『義』であった。『魔法の小槌』という意味は、この義を振りかざすかぎりで全ての行為が超法規的に是認されてしまうからである。人権無視、法秩序無視を国是としてきた中国の病巣は実は、この義という概念にあったのではないかと思う。
 世間では、日本と中国は『一衣帯水』あるは『同文同種』と言われ、あたかも同じ価値観を共有し、同じメンタリティを持っているように錯覚されているが、私は中国人・中国文明の本質はデジタル的であり、日本人の本質はアナログ的であると考えている。つまり、本質的には中国と日本は水と油の関係にあるのだ。私は現在の日中関係は、こういった本質論から見ていかない限り、正しく理解できないと考える。
 この意味で日本や日本人の特性を考える場合、中国と日本という二項対立の図式の枠内で考えるのではなく、西洋文明という第3のフィルターを通し、かなり客観的な立場から冷静に分析された日本人の原像を事細かく保存している欧米人の旅行記や滞在記は何に増して、我々日本人にとって、貴重な情報の宝庫であると言える。」
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旅行記・滞在記500冊から学ぶ 日本人が知らないアジア人の本質
謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点
本当に悲惨な朝鮮史 「高麗史節要」を読み解く (角川新書)
中国四千年の策略大全
世にも恐ろしい中国人の戦略思考(小学館新書)
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 ルネッサンスは、中世ヨーロッパ暗黒時代の中で「人の再発見」をもたらした。
 が、発見した「人」とはヨーロッパ人、つまり白人で、アジア人、インディオ、アフリカ人などの有色人種ではなかった。
 その証拠に、白人以外は「神の御名」によって奴隷とされた。
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 ルネッサンス第2波は、16世紀の交易と布教の大航海時代に、白人が世界の最果てに住んでいる日本人と出会う事で、世界には自分達白人以外にも人と認めるに値する人がいる事を世界に知らせた。
 日本に来て日本人に会った白人達、その報告書を読んだ白人達の心に、最果ての地で「人と認めうる自由人」と出会ったというさざ波が立った。
 ルネッサンス第2波から生まれたのが、カルチャー・ショックとも言える「ジャポニズム(身分低い庶民文化=江戸文化)」である。
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 同じ人間なのだから心の内を曝け出してとことん話し合えば必ず分かり合える、はウソである。
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 日本人と中国人・朝鮮人は別種のアジア人であり、昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
 そして、昔の日本に有った日本民族の気品、美風、美徳そして文化は現代の日本にはない。
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 中国人や朝鮮人に面子があるように日本人にも体面がある。
 日本人は自国と民族の体面を傷付け貶め国益に毀損させてまで、中国人や朝鮮人の面子に忖度し配慮し持ち上げ利益を進呈する必要はない。
 ましてや、中国共産党の党利党益など気にする必要はない。
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 生物「人間」という概念は、地域・宗教・文化そして自然環境によって日本、西洋、中東、中華(中国・朝鮮)、その他では違い、近代に生まれた非生物的非人間的な科学万能主義で反宗教無神論マルクス主義共産主義とは完全に違う。
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 日本の最高神は、天皇家・皇室の祖先神である女性神天照大神伊勢神宮祭神)である。
 天照大神は太陽の化身であり、日本民族が口にした「お天道様」とは天照大神の事であり、昔の日本人が朝起きて大陽を拝んだのは天照大神への感謝であった。
 昔の日本は寒冷期で凶作が起き餓死者を出していた為に、昔の日本人は命に恵を与え農作物を育てくれる太陽を崇拝していた。
 それ故に、不道徳で人の道に外れた犯罪を犯す事は「お天道様」の罰が当たると恐れ、「お天道様」の顔が見えない日陰者になら内容に気を付けた。
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 日本人と中国人・朝鮮人は別種のアジア人であり、昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
 昔の日本人と現代の日本人の違いは、
 昔の日本人は日本人が奴隷として海外に売られる事を止めさせる為に宗教弾圧という残虐行為を行ってまで国際問題化させたが、
 現代の日本人は北朝鮮に拉致された日本人を取り戻すと口先で言いながら実際の行動はしない。
 現代の日本人の中でも、アメリカなどの諸外国と国連を巻き込んで国際問題化させた安倍晋三元首相は昔ながらの日本民族日本人である。
 対して、反天皇反民族反日本の左派系メディアやアベガー勢力は縄文人弥生人・古墳人・倭人を祖先(帰化人は含み・渡来人は含まない)とする日本民族日本人ではない。
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 中世ヨーロッパは、ルネッサンスで狂信的西欧キリスト教原理主義支配から解放されたが、それでも神に愛される人間・隣人愛信仰の人間とは白人種キリスト教徒という宗教的人種差別主義派の残り、十字軍遠征などで宗教戦争を繰り返しているペルシャ人・アラビア人・エジプト人などの褐色人種イスラム教徒は敵であったも人間と認めていたが、ヨーロッパとオリエント両世界以外の暗黒大陸に住むキリスト教徒でもない黄色人種・黒色人種などの有色人種は人間ではなく家畜・獣と決めつけていた。
 その人間もない人間もどき家畜・獣が、中南米大陸やカリブ海島嶼インディオ、アフリカ大陸の黒人であった。
 インドや中国などのアジア人達は、帝国や王国を築いていた為に慎重に行動はしていたが、心の中では偏見で見下し、嫌悪感と蔑視が見破られないように笑顔で接していた。
 中南米インカ帝国ユカタン半島王国のインディオを虐殺し、アフリカ大陸の黒人を奴隷として新大陸に送って大金を稼いでいた。
 奴隷船では、病気になったり怪我をして者、子供を産んで弱った者は治療せず・介抱せず生きたまま海に捨て、口答えすして命令に従わない者・気が強くて暴れて反抗する者も海に捨て、船の水や食料が不足すると口減らしとして恣意的に選んで海に捨てた。
 売られてきたアフリカ人が大人しく従順でよく働いたのは、そうしたアフリカ人しか生き残れなかったからである。
 それは、欧米の仕付けられたペットでも言える事である。
 戦国時代の日本に押し寄せてきた西洋とは、そうした西洋であった。
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 中世キリスト教会・イエズス会などの修道士会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として輸出して金を稼いでいた。
 バチカンは、改宗した日本人キリシタンを奴隷する事は禁止したが、改宗を拒否する異教徒日本人は奴隷として売り買いする事を認めた。
 それ故に、敬虔な宣教師や修道士達は日本人を奴隷から救い上げる為に熱心に布教活動を行い数十万人の日本人をキリシタンに改宗させて助けた。
 その意味で、キリスト教は善意による人を助け、救済する宗教であった。
 天皇豊臣秀吉徳川家康徳川幕府は、彼らの前に立ちはだかった。
 異教国日本から見たときこれは異文化侵略・宗教侵略であり、民族宗教を守る為に未来永劫残る非人道的な宗教弾圧・キリシタン弾圧を行った。
 当時の日本は、最新兵器の火縄銃や大砲を装備した大軍団と外洋を越える巨艦の大艦隊を有した軍事大国の七大帝国の一つと数えられ、そして怖れられた。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 徳川幕府は、目の見えない視力障害者・検校が行う高利貸しを保護していた。
 検校の中には、御家人株を買って子供を武士にし、上司や同輩に賄賂を贈っていた幕臣にしていた。
 百姓や町人も、金を使って武士の身分を手に入れ、才覚で町奉行勘定奉行などの役職について出世した。
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