🏯58)─1─江戸時代は大開墾で人口が増加した。百姓で専業は少数で兼業が多数であった。~No.109No.110 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 副業を持つ百姓は、兼業農家であった。
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 昔の日本人は、本業(本職)での収入が少なく増えない為に、現金収入が得る副業(内職)に精を出し、時間のやり繰りをして余暇を作り自分だけのオタク的趣味を楽しんでいた。
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 地方の特産品・物産品・名産品は、百姓と武士が共同副業で作られた。
 日本人の強み、底力は、ナンバー・ワンの本業というよりオンリー・ワンの副業と趣味である。
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日本の農地
 930年(平安末期)…『和名類聚抄』‥85万ヘクタール。
 鎌倉時代から室町時代にかけて二毛作が普及して、食糧不足が緩和されて餓死が減少した。
 1450年(室町中期)…『捨芥抄』‥94万ヘクタール。
 1600年(江戸初期)…162万ヘクタール。
 1720年(江戸中期)…294万ヘクタール。
 1874年(明治7年)…水田面積、265万ヘクタール。畑面積、190万ヘクタール。合計、455万ヘクタール。
 1912年(大正元年)…558万ヘクタール。
 1926年(昭和元年)…580万ヘクタール。
 1944年…水田面積、300万ヘクタール。
 1945年…573万ヘクタール。
 1961年…水田面積、339万ヘクタール。畑面積、270万ヘクタール。合計、609万ヘクタール。
 1969年…水田面積、317万ヘクタール。
 2006年…水田面積、254万ヘクタール。畑面積、213万ヘクタール。合計、467万ヘクタール。
 2008年…水田面積、162万ヘクタール。
 耕作地は、食生活におけるコメ離れで過剰となり減反政策によって急速に減少している。
 2012年…農業などの第一次産業は、GDP1.5%にすぎない。
 日本の食糧自給率は40%であり、穀物自給率は28%である。
 パンなどの小麦は86%で、醤油・味噌・豆腐などの大豆は95%である。 
 日本政府は、話し合いによっては、農業など24分野に影響を及ぼす恐れのあるTPP交渉参加を表明した。参加理由は、自国防衛能力の脆弱な日本が、急速に軍事力を増加して日本近海を領海化しようとしている中国に対抗する為に、アメリカの軍事力に頼る為とされた。 
 50年後には。世界は、人口の爆発に伴い食糧が不足して、人類は食糧と水をめぐる熾烈な争奪戦の時代に突入する。
 食糧安全保障体制が整備されていない自給自足率の低い国は、確実に大飢餓に陥り、多くの餓死者を出す。
 地球の食糧生産では、100億人を養うだけの生産力はない。
 同様に、日本には1億2,000万人を養うだけの生産力はない。
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 江戸の江戸、経済の大坂、宗教の京都などの都会は、地方の各大名達が持ち込んでくる特産品や名産品を消費し、その時々の新しい町人文化を地方に発信していた。
 中心が地方を搾取して富を蓄える上下関係ではなく、中央と地方は対等に近い水平関係であった。
 中央と地方は、対等であった。
 つまり。日本には、富を中央に集めて資本を蓄積するという資本主義が生まれる下地は存在しなかった。
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 明治政府は、人口統計を行い農業の中に林業と漁業を加えた。
 網野善彦「不当なほど農業に比重を置いて考える方向が、すでに江戸時代に始まっていた」 
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 明治。新田開墾できる好条件の土地がなく農地の拡大が不可能になった為に、西洋から新たな農業技術を導入して農産物の生産量を増やした。
 食糧の安定供給が可能になるや、人口は増加した。
 西欧の農業は、生産量を上げる為に窒素などの化学肥料を大量に農地に撒き、農作物を害虫から守る為に水中や土壌の中の微生物もろともに死滅させる強力な農薬を散布した。
 僅かな土地でも、化学肥料と農薬で収穫量を増やす事ができたが、同時に環境汚染をもたらし、土地は荒れ、水は汚された。
 現代の化学的農法は、自然を破壊する事で安定した食糧供給を確保している。
 2002年における化学肥料使用率。イギリス、114万トン。フランス、228万トン。中国、2,540万トン。インド、1,050万トン。日本、46万トン。
 日本は、化学肥料の使用を押さえる事で国内生産量を低下させ、食糧自給率を下げている。その食糧不足分を、外国に依存して輸入している。
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 マンガ「アシュラ」 原作 ジュージ秋山
 私は お前に教えられた。
 それは
 命喰らわずして生きられぬ人の性(さが)である。
 海に生まれた命を奪い
 野山に育つ命を奪い
 人は生きて行く。
 罪を背負い
 それでも与えられた命の限りを生きようとあがく。
 だからこそ 
 この世は美しい。
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 江戸時代の餓死地獄を智恵と勇気と助け合いで生き抜いた昔の日本人達。
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 日本人が日常で最も怖がるのは、怨霊の祟りではなく、神の天罰でもなく、地震・雷・火事・親父であった。
 そして持つとも恐怖に駆られたのは、山の神である女房の雷であった。
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 餓死の恐怖に怯えた日本民族日本人を支えたのが、稲作神話を伝えた日本天皇であった。
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 日本人にとって最も大事なのは、死んだ後のあの世ではなく、今生きているこの世である。
 命があるこの世でどう生きるかが、もっとも大事な事である。
 日本の死生観では、命ある今があって、死んだ後のあの世はなかった。
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 大地主や豪商の中には、元貧しい百姓で不毛に近い荒れ地を開墾して豊潤な農地に変えて財を成した者がいた。
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 徳川幕府は、日本人を鎖国政策で日本列島に閉じ込めた。
 自然災害で大凶作が起き、深刻な食料不足で夥しい餓死者が出ても、食料を海外から緊急輸入できなかった。
 天候不順は天任せの運次第である為に、自然を神として崇めて祈るしかなかった。
 日本の自然崇拝とは、安定した農作物を得る為の、生きるか死ぬかの瀬戸際での神頼みであった。
 自然破壊は人間が起こす悪行であるとして、森林を守るべきムラの掟として死罪を含む厳罰で乱伐を食い止めていた。
 ムラの定めに従わず禁令を破った者は、理由の如何に問わず「枝一本で腕一本」とし、村八分とした。
 日本の村八分は、ムラ人の生存を脅かした者に対してであって、現代のような好き嫌いによる差別ではなかった。 
 1666年 徳川幕府は、自然を保護し、持続的循環型社会を維持する為に「諸国山川掟」を発布した。
 島国における、自己完結の自給自足社会である。
 諸藩も、幕府に災害支援されると幕府の支配を受ける事になるとして嫌い、自己責任と自己救済で独自で自然災害と被災民の諸政策をとっていた。
 それを怠った藩では、不平不満を持った百姓による一揆が起き、百姓の怒りを鎮める為に家臣に詰め腹を切らせた。
 サムライにとって、百姓は御上の意向に刃向かう手に負えない不逞な輩であった。
 寒冷地で少量生産が乏しい北関東・東北・日本海沿岸の諸藩は、人口増加を抑えながら食糧増産に取り組んでいた。
 ただし。堕胎や間引きが広がって乳幼児が激減すれば、将来の労働人口が減少して年貢の激減になる為に、死産は仕方がないとしても堕胎や間引きを禁止し、出産に際しては報償金や育児手当を出した。
 諸藩は、人口爆発を起こさないように人口調整を行うと共に、生活の安定の為に食としての開墾と金銭的な殖産で一人当たりの所得水準を上げる諸政策を行った。
 江戸時代は、社会の停滞はなく、それなりにゆとりのある安定期であった。
 徳川時代は、技術革新によって、食糧と非農業の生産が大きく伸び、ヒトとモノとカネの流動性が高くなり経済活動が活発となり、中華経済圏に頼る事なく一つの経済圏を成しい。
 日本経済は、オランダを通じて世界とつながる事で、朝鮮などが参加する中国を中心の中華経済圏から独立し、中国に支配される事なく独自に発展した。
 人口爆発の抑制として、天災続きで飢饉と疫病に苦しめられ多くの犠牲者を出したが、子は宝として堕胎や間引きをしないように指導し、出産と子育てを奨励し、親孝行の徳育として姥捨てを諌め、人口調整を行った。
 サムライ日本は、百姓や町人の一人当たりの所得水準を上げながら産児制限を行い、「マルサスの罠」を回避して平和で安定した時代を作り上げた。
 武士には、主君・主家に対する絶対服従として、武士道精神で痩せ我慢の美徳を強制し、上意下達に従わねば厳罰に処し、御家断絶で家禄を没収して領内から無一文で追放するか、主君に対する叛逆として切腹を命じた。
 藩・大名家に使える武士の多くは、死の責任を伴う役職に就く事を恐れて、加増されようとも出世するの事を嫌がった。
 武士は、長く現役として働く事は命の危険が伴うとして、15歳になった子供に家督を譲って隠退した。
 仕方がなく仕事をするなら、如何なる死の責任も伴わない気楽な閑職を望んだ。
 武士・サムライも人の子として、死ぬ事を恐れ、先祖からの家を絶やす事を恐れて、物事を白黒付けず、全の人間の顔が立ち体面を傷付けないように有耶無耶として玉虫色に片付けるように腐心した。
 切腹せず、家を絶やさぬ方法は、出世して責任ある役職に就かず逃げ回る事であった。
 家臣等は、自己保身として、改革に意欲的な主君は御家のためならずとして強制的に隠居させ、家臣の言う事を素直に聞く真面目で操縦しやすい者を主君として担いだ。
 山の中の隠居屋敷に軟禁するか、さもなくば急死させた。
 日本儒教では、「君辱めらるれば臣死す」は死語であり、「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず」として主君より御家を守る事を第一としていた。
 大名も、命が惜しいから、家臣の意見に従って「そうせい」と物わかりが良さそうに言い渡して名君を装った。
 そうした馴れ合いが世間に知れ渡ると御家の恥であり、幕府に咎められると御家が断絶させられる為に、主君と家臣の馴れ合いを武家の作法として表面を誤魔化した。
 それが、日本儒教における「君君たり、臣臣たり」という理想的関係である。
 そこには、主君のリーダーシップは存在しない。
 それが、武士道における本音と建て前である。 
 貧乏なサムライと金持ちの庶民の対立が、大陸の様な絶対的権力者と絶望的に虐げられた人民による壮絶な血みどろの階級闘争とならなかった由縁である。
 いずれにせよ、江戸時代は町人・百姓の庶民文化が花開いた平和な時代であった。
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 徳川家康は、支配者の武士・サムライだけではなく、被支配者の百姓や町人にいたるで読み書きソロバンを覚え、読書をする事を奨励した。
 如何なる災害に見舞われようとも生き抜く為には賢くならなければならないとして、とにかく「本を読め」と。
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 半島国家の朝鮮は、中華帝国の属国として、自分で何かを成そうとする自立性が少なく、自分を誇るアイデンティティも喪失し、大国に依存する他律性しか持っていない。
 事大主義に於いて民族主義史観は、捏造であり、幻想でしかない。
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 日本は島国として物流は水上輸送が主で、港に陸揚げされた商品は河川を利用して内陸に運ばれた。
 その為に、城下町の多くが河川流域に集中していた。
 江戸、名古屋、大阪など主要城下町は、縄文時代は海で河川が運んで来た土砂が堆積した軟弱地盤の上に築かれ、災害に脆い都市であった。
 大陸の都市の多くは、内陸の固い岩盤の上に築かれた災害に強い都市であった。
 日本の都市は、自然災害が多い土地に建設されている。
 世界の都市は、正反対に、自然災害の少ない土地に建設されている。
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 日本民族日本人は、何があっても、何が起きようとも、民族としてまとまり、民族として団結し、民族として助け合い庇い合い励まし合い、民族として生き、民族として生き残る。
 それが、日本民族日本人の生き様である。
 その中心に揺るぎなく存在するのが、万世一系男系天皇(直系長子相続)である。
 日本民族日本人は、祭祀王・日本天皇と共に生き、そして自分を犠牲にしても神の裔・日本天皇を守る。
 日本民族日本人は、2600年の古い歴史を持つ人類最古の民族主義者である。
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 ヤマトタケル日本武尊。倭健命)「倭(やまと)は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまごも)れる 倭し美(うるは)し」
{倭の国は秀れた国である、畳み重なるように続いている青々とした美しい山脈(やまなみ)、山々に囲まれている国の美しさ}
 日本武尊(やまとたけるのみこと)は、第12代景行天皇の皇子である。
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 日本民族日本人は、飢えから逃れる為の戦争をした事はなく、食べ物を巡って殺し合った事もない。
 暴動も、強奪も、起こした事はない。
 飢餓難民として、食べ物のある海外を目指して日本を逃げ出した事もない。
 日本民族日本人は、生きるも死ぬも日本列島内で完結していた。
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 自然災害多発地帯の日本で重要なのは、原因ではなく、目的であった。
 岸見一郎「過去は変えられなくても、未来は変えられることができると説くアドラーの考え方が、生き辛さを感じる人の希望となっているのではないか」
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 百姓は、お握り3個と梅干しなどの栄養価に乏しいおかずで、一日働いた。
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 芋とは、平安時代までは山野に自生していた山芋の事で、ジャガイモは1598年にオランダ人が持ち込んで当初はジャガタライモと呼ばれていた。
 サツマイモは、江戸時代に青木昆陽が飢饉の非常食として日本全国に広めた。
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 日本の神社は、緑豊かな自然の中にあり、清らかな小川のせせらぎや風そよぐ音が聞こえていた。
 日本民族日本人は、無常と無慈悲な自然災害に襲われて泣き崩れ、逃げださず諦念(運命)と勇気(意志)で助け合って生活を再建した。
 日本民族日本人とは、相互補完共生の復興物語を共有する人間の事である。
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