🕯112)─1─日本民族は死んだ敵の武将や兵士を供養していた。~No.241No.242 

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 ✨18)─2─鈴木貫太郎首相はルーズベルト大統領の訃報を知り深い哀悼の意を表明した。~No.77No.78 ⑭ 
 ヒトラー「運命の女神は史上最大の戦争犯罪人ルーズヴェルト‘の頭上に罰を下し、これを地上から消し去った。諸君らはこの恵まれた瞬間においてこそこの戦争の運命を決定的に転換しなければならない」
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 日本民族は、敵味方に分かれて殺し合った中でも死ねば同じ人間であるとして、差別せず供養していた。
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 鎌倉時代元寇で死んだ、無理やり連れられてきた南宋人は供養したが、虐殺を行った高麗人は供養しなかった。
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 日本人と中国人・朝鮮人とは違うが、現代日本は中国化しつつある。
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 2022年8月12日 MicrosoftNews 神戸新聞NEXT「秀吉の命令?平穏を祈願? 地元にとっての「敵武将」なぜ供養 三木合戦の地、住民が今なお管理
 8月1日、谷大膳の墓に手を合わせる近隣住民=三木市大村
 谷大膳の墓=三木市大村
 戦国時代に三木城主・別所長治と羽柴秀吉の間で争われた三木合戦。兵糧攻めの末、領民の命と引き換えに自害した別所長治の逸話は今も兵庫県三木市民に受け継がれ、さまざまな行事が行われている。一方、三木合戦で戦死した羽柴方の武将・谷大膳の供養も市内で続いている。地元にとって「敵方」の武将をしのぶ理由は何か。(長沢伸一)
 三木市大村の山裾に五つの墓が並ぶ。うち一つは石の門や石柱に囲まれ、立派なたたずまいだ。ここに三木合戦で戦死した羽柴方の武将・谷大膳が眠っている。
 大膳は美濃国(現岐阜県)の生まれで、斎藤道三織田信長に仕えた。三木合戦に出陣し、平田山のとりでを守っていた。
 三木城を落とすため、兵糧攻めに出た羽柴方に対し、別所氏や支援する毛利氏が補給路確保に向けて平田山のとりでを急襲した。攻め込まれた大膳は大なぎなたを振るって奮戦したが戦死。合戦後、秀吉は大膳を弔い、大膳と兄弟らの墓を大村に建てたとされる。
 墓は現在、地元住民でつくる「善友会」が維持・管理している。毎年8月1日には墓所を清掃し、手を合わせて供養している。だが、敵方の武将である大膳の供養が行われている理由は判然としない。同会の栗田恒男会長(80)は「私もなぜ供養されてきたのか不思議に思っている」と首をかしげる
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 大膳の位牌(いはい)は金剛寺(大村)にある。墓での供養も毎年、同寺の住職が読経している。
 供養の理由について、福岡心明住職(42)も「よく分かりません。金剛寺は三木合戦の時に羽柴方の手で燃やされているんです」と不思議がる。同寺は、合戦の際、焼き打ちで仏像数体以外は焼失したとされ、そばの平田山のとりでにいた大膳は、寺を焼いた実行役の可能性があるという。
 福岡住職は「私見」と前置きした上で、江戸時代の古文書などを基に解説してくれた。
 大膳の息子が初代藩主となった丹波・山家藩の資料には「『付近の人其(そ)の武勇を慕ひし焼香絶えず』とあり、江戸時代から多くの周辺住民が大膳の墓参を行っていたんです。合戦後に三木が復興していく過程において、戦死者の敵味方にとらわれず、供養して平穏を祈ったのではないでしょうか」
 では、寺を焼いたかもしれない武将の供養を金剛寺がなぜ担っているのか。福岡住職は、秀吉の命令▽宗派と祖先の関係(同寺の所属する真言宗御室派宇多法皇を祖とする。谷家も宇多法皇を祖先とする宇多源氏の支流)▽戦死した場所から最も距離が近い寺-の3点を挙げる。
 特に秀吉の命令に関しては、焼失した金剛寺を復興する際、同寺の塔頭(たっちゅう)寺院出身の大村由己(秀吉の右筆で、秀吉の活躍を記録した軍記物『天正記』の著者)が、秀吉に再興を願い出た書状が現代に伝わっている。福岡住職は「寺再建の条件の一つとして大膳公の供養が課せられたのではないか」と推測する。
 以降、江戸時代を通して、供養は命日に毎年営まれ、山家藩からも藩士が参拝した。その後も藩や筆頭家老の福田家と寺とのやりとりが確認できるという。
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 今年の8月1日。善友会のメンバー6人が大膳の墓を清掃した。草を刈り、花を供える。福岡住職の読経が響く中、墓に線香を供えて手を合わせた。福岡住職は言う。「正確な経緯は分かりませんが、敵味方を問わずに供養することを400年続けているのは三木が誇れることなのではないでしょうか」」
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 2021年9月1日 朝日新聞デジタル記事「終戦日に墜落死した英軍兵、供養を続ける寺 憎しみは仏心で乗り越え
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 伊藤繭莉 
 ボナス少尉の名前を読み上げ、追悼する光福寺の桂嶽和道住職=2021年8月18日午後1時35分、睦沢町、伊藤繭莉撮影
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 1945年8月15日、千葉県旧土睦村(現在の睦沢町)で、英軍兵が墜落死した。地元の寺では、戦後間もない時期から毎年8月、英軍兵を供養してきた。地元の反発があっても、世代が変わっても、1人の青年のために追悼を続ける。
 今年も8月18日、睦沢町の光福寺で、故人の供養をする「施食会」が開かれ、桂嶽和道(かつらだけわどう)住職(74)が檀家(だんか)らの前で読経した。故人の名前を読み上げる際、終戦の日に亡くなった英軍兵、ジョン・F・J・A・ボナス海軍少尉(当時22)の名前も読み上げた。
 連合国軍総司令部GHQ)の調査報告書や睦沢村史などによると、1945年8月15日早朝、ボナス少尉は東京周辺を攻撃するため、艦上攻撃機に乗り出撃。だが、空中戦の末、落下傘が開かないまま、水田に墜落して死亡した。住民が遺体を埋葬し、先代の住職で当時の区長だった、桂嶽住職の父、円応さんが墓標をたてたという。
 桂嶽住職によると、連合国軍により遺体が掘り起こされた後、円応さんは境内に墓標を移し、毎朝線香をあげ、毎年8月には供養していたという。三十三回忌の節目に古くなった墓標を取り除いたが、位牌(いはい)は境内に飾っていたという。
 周辺では、戦地で家族を失った人や、空襲で被害に遭った人もいた。敵兵の供養に対し、近所からの反発もあった。円応さん自身も、区長として出兵する人を見送っていたといい、「敵国への憎しみもあったと思うが、供養し続けたのは、人を助けるという仏心があったのではないか」と桂嶽住職は推察する。
 先代の思いを引き継ぎ、寺では今後も供養を続けていく。
 遺体は裸で道に放置、埋葬し直しは「戦犯逃れるため」との見方も
 睦沢町渡辺清さん(88)…
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 国指定史跡ガイド「宗麟原供養塔」の解説
 そうりんばるくようとう【宗麟原供養塔】
 宮崎県児湯(こゆ)郡川南町湯迫にある石塔。小丸川下流の左岸台地上の南端に所在する。九州の戦国時代の推移を示す遺跡として、1933年(昭和8)に国の史跡に指定された。1572年(元亀3)、木崎原(きさきばる)の戦いで島津氏に敗れた伊東義祐(よしすけ)は次第に勢力を失い、島津氏は日向のほとんどを手中に収めた。一方、大友宗麟(そうりん)は北九州を攻略し、一大勢力を築いていたが、1578年(天正6)に日向侵攻を図り、県(あがた)(延岡市)の土持(つちもち)氏を討ち、高城(たかじょう)(児湯郡木城町)で島津勢力と対峙。両軍は高城川原で激戦を交わし、島津氏の勝利に終わった。大友氏は敗走の途中、耳川の戦いにも敗れ、島津氏は九州随一の勢力となった。この戦いによる戦死者は、大友軍4000、島津軍3000を下らなかったといわれ、高城から耳川にかけての一帯は屍で埋まったという。島津氏は両軍の死骸を集めて供養塚を築き、大施餓鬼(おおせがき)を行い、卒塔婆(そとば)を立てて霊を弔い、七回忌の1585年(天文13)には島津の将、山田新介が敵味方の区別なく、戦死者を供養するために供養塔を建立。供養塔は、明治時代に谷に捨てられ、大正時代ごろに据え直した経緯があるが、現在の高さは約3.5m、六面に地蔵を彫った石灯籠式のものである。JR日豊本線川南駅から車で約20分。
出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報
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 河北新報
 <東北の本棚>戦乱の中 愛息守り通す
 2019年5月5日 10:42
 奥州藤原氏 清衡の母 堀江朋子著
 都から派遣された役人による蝦夷地侵略、在地勢力の内紛、と続く戦乱を収め古代東北に百年の栄華の礎を築いた藤原清衡。その生みの母の生涯を軸に、女性の視点で描いた歴史小説だ。「天与の命の大切さ」を問い掛ける。
 前九年合戦で、源頼義は敵将・安倍頼時に寝返った藤原経清を生け捕りにし、激しく責めた。「お前の先祖は源氏の従者だった。元の主人を蔑(さげす)むとは大逆無道」と錆(さ)びた刀で、首を切り落とした。鎮守府将軍・頼義は侵略者にほかならない。経清に後悔はなかった。妻の「亜加」は時に25歳、子の清衡7歳。「亜加、生き延びろ。清衡、大きくなったら戦のない世の中を創るのじゃ」-。
 愛息を連れて逃亡生活、しかし行く先々で待ち受けていたのは戦乱に続く戦乱であった。「男たちはなぜ土地や富を争って戦をするのか、なぜ殺し合うのか」、泣き続ける亜加。在地の中心勢力は、やがて頼義と組んだ清原氏に取って代わる。清原氏側から嫡男との縁談が持ち込まれた。「この子を守るために、敵将の妻になってでも生きる方を選ばなくてはならない」。再嫁を決意する亜加。しかし後三年合戦で清原氏は滅亡、亜加も炎の中で生涯を閉じた。
 戦史は男の世界の記録でつづられ、「女性たちのことは、文献資料にほとんど残されていない」と著者は言う。一大の英傑に成長、平泉に開府し、中尊寺を建立する清衡。落慶供養願文に「罪もなく命奪われたものたちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたい」と記した。壁に金色を塗り、らでんをちりばめた金色堂の創建には、多くの女性たちが関わったと伝える。「清衡は、命を守る女性こそ平和な世を創る力になると信じた。亡き母の思いを体現したのが金色堂だったのではないか」と著者は解釈する。
 1940年東京都生まれ。作家。2014年から北上市しらゆり大使を務める。
 図書新聞03(3234)3471=2160円。
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