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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本の総人口は、江戸開府の1600年頃では約1,200万人~1,800万人で明治5(1872)年には約3,295万人(琉球人とアイヌ人を除く)に増加していた。
人口増加は、慢性的な乳幼児死亡率が高い中で起きていた。
人口増加を支えていたのは、破壊的イノベーション(変わる)と継続的イノベーション(変わらない)であった。
全国に多くいて刀鍛冶・鉄砲鍛冶・鎧職人達は、平和な時代には注文がなくなり、生きる為に腕の技術を利用して新たな分野に踏み出し、誰の助けもあてにできず自力でモノを作って金を稼いだ。
人生50年の人口増加時代では、若者が多く老人が少なかった。
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2021年11月1日 MicrosoftNews 東洋経済オンライン「戦国期の高度成長を生んだ「倭寇的状況」の背景 応仁の乱以後、日本を変貌させた明の経済復興
岡本 隆司
© 東洋経済オンライン 応仁の乱以後の戦国期、日本は空前の高度成長を遂げたという(写真:naoki/PIXTA)
応仁の乱以後の戦国期、空前の高度成長を遂げた日本。その背景には、中国を中心とする東アジア経済ネットワークの大発展があった。『中国史とつなげて学ぶ日本全史』を上梓した京都府立大学・岡本隆司氏が、「アジア史の視点」から日本史を捉えなおすことの意義を説く。
「14世紀の危機」後の世界と日本
日本列島は古来、荒海で隔てられた孤島です。それでも遣隋使・遣唐使に見られるように、大陸から文明・文化・文物をとりいれ、遅ればせながら自らの歴史を紡いできました。そんな受け身だった日本史は、しかし変化をきたして、いわゆる「中世」に入ります。
大陸との交流が断絶したわけではありません。むしろ往来そのものは増したでしょうが、かつての律令国家のような文化・国制の自発的なコピーには関心を失い、独自の路線が強くなります。摂関・院政をへて武家政治に至る政治史は、そうした動向を代表した流れでしょう。そこに大陸の動向も関わっています。
10世紀初に唐が滅亡するにいたった情勢の変化は、それまで寒冷だった気候が温暖化に転じたことを契機とするもので、ユーラシア全域の規模で大きな再編が起こりました。遊牧民の活動が活潑となって、遊牧国家の興亡が相次ぎます。片や農耕世界でも、生産力があがって、経済・文化に著しい発展がありました。それだけに政治情勢は、混沌として安定しません。日本がめまぐるしい動きをみきわめられず、コピーをあきらめたゆえんです。
そうした大陸では、モンゴル帝国がユーラシアを席巻することで、大きな統合に向かって動き出しました。しかし国情のあまりにもかけ離れた日本は、「蒙古襲来」を撃退し、その大統合に加わりません。温暖化という気候変動を共有し、地域開発の進展など、大陸と似た経験を有しながらも、やはり日本は異なる道を選択したことになります。
モンゴル帝国が君臨した14世紀は、世界史では一つの分水嶺をなしています。気候が寒冷化に転じたからです。不作に疫病も重なり、それまでの好況は暗転しました。不況に沈淪した各地は、そのドン底から脱却すべく模索をはじめます。ペスト蔓延に見舞われたヨーロッパが、被害では最も深刻でした。そのためにかえって最も大きな飛躍をとげます。
分水嶺という点では、おそらく日本史も同じでしょう。同じく寒冷化に見舞われた列島は、従来の鎌倉幕府という枠組みでは統治が難しくなり、にもかかわらず、新たな秩序体系の固まらないまま、社会変動が激化し、体制再編を模索する時代に入りました。南北朝の動乱から戦国乱世です。それもやはり大陸の動向と無関係ではありません。
大陸では寒冷化と不況の影響から、農業を重視し商業を忌避し、流通・交通を制限統制する明朝の体制が発足しています。すでに10世紀・中世から盛んになっていた日中の民間貿易も、これで大きな制限を受けまして「勘合貿易」となります。
しかし日本は明朝の思い描く体制・秩序に収まることは、ついにありませんでした。むしろ当時の世界情勢と呼応して、それを破壊する方向へ動くのです。日本史も中国史と大きく関わりながら、ここから新しい段階に入っていきます。
経済・産業の発展と通貨の必要性
15世紀から16世紀にかけて、その新しい段階として中国大陸で起こったのは、落ち込んでいた経済の復興、そして著しい発展でした。このときには産業構造も変わっています。
有数の米産地で穀倉地帯だった長江デルタ地域で、手工業の発達が顕著でした。新たに渡来した綿花の作付けが定着して木綿の生産がはじまり、また養蚕・生糸生産も盛んになります。いずれも世界有数の特産品であり、もちろん日本はじめ外国人の作れないものでしたから、内外の需要が高まります。中国内で商品作物の生産と遠隔地の流通が活潑になり、やがて海外ともその交易が盛大におもむきました。
ところが当時の中国には、通貨がありません。農業重視で商業に統制的だった明朝は、原則として物々交換で財政経済を回そうとしていたためです。しかし民間主導で商業流通が活潑になると、これはたいへん不便です。人々はそこで、独自に通貨を作り出しました。私鋳銭です。これで当面の用は果たせますが、その通用価値に限界があります。その価値を認め合える一定の範囲・集団の内部でしか通用しないからです。
その埒外との遠隔・大口の取引には使えないので、誰もが価値を認めることのできる貴金属との併用、いわば外貨のバックアップが必要でした。
そこで重宝されたのが金銀のような貴金属です。これも中国内にある分だけではとても足りないので、海外から持ってこなくてはなりません。ますます貿易が欠かせなくなりました。
金銀獲得の主なターゲットは、未開の新興地域です。ちょうどヨーロッパは大航海時代、「発見」されたばかりのアメリカ大陸があり、近くには日本列島がありました。海外貿易を禁じて物々交換を定めた明朝政権の統制を、こうして民間のパワーが覆していき、中国沿海の貿易は活況を呈します。
日本列島が中国大陸に銀を輸出するようになると、見返りに大陸から種々の商品・技術が入ってきます。それに刺戟されて列島各地の開発がすすみ、農業生産の増加と商業流通の発達をうながしました。
日本人も次第に贅沢に目覚め、いよいよ貿易を欲してきます。もはや「勘合貿易」だけでは賄い切れません。そこで明朝が認めていないはずの、民間による密貿易が横行します。
実は明朝の側も、それをある程度黙認しました。禁令どおりに取り締まったとしたら、たちまち経済が回らなくなることをわかっていたからです。もはや「密」貿易とは呼べないほど、その規模は大きくなっていきました。
ただし禁令無視をあまりに野放しすれば、政権の威信にかかわります。明朝政府は16世紀半ば、突如として密貿易に対する制限・弾圧に乗り出しました。南方では沿海の密貿易に従事していた貿易業者、つまり「倭寇」が槍玉にあがって、大きな騒擾が起こったのです。中国の内外を問わず貿易の関係者は、政府の弾圧にこぞって反抗します。明朝は結局それを抑え込むことができず、内憂外患を引き寄せることになりました。
沿海には貿易基地のような拠点が各所に生まれました。現存の都市でいえば、もともと「勘合貿易」の港・浙江省の寧波にくわえ、香港に近いマカオや、台湾の対岸の厦門などをあげることができます。国内と海外の業者がより多く集まり、かえって恒常的・積極的に取引が行われるようになって、ヨーロッパ人もそこに参入してきます。
ポルトガル・スペインのいわゆる「南蛮」渡来で、のちに「紅毛」、イギリス・オランダも加わります。こうしたありさまを現代の研究では、「倭寇的状況」と表現しています。「倭寇」とは一過的な事件でなく「状況」という常態だったとの意味です。
「倭寇的状況」で変貌する日本
16世紀ごろの日本は、このような「倭寇的状況」から多大な影響を受けました。すでに以前から地方が経済的に自立し、それぞれ力を持ち始めていましたが、その動きは海外の経済成長や社会変動によって、著しく加速したのです。
当時の社会の変化は、二つに大別できます。一つは、庶民が軒並み豊かになったこと。生産の増大はもとより、商業の発達にくわえ、海外からもたらされた技術や文化がそれを可能にしました。もう一つは、山間から低地へ人々が移ったこと。河口附近の沖積平野に治水を施して、低湿地を干拓して耕地に変え、稲作を拡大してより多くの人を養うことができるようになりました。
新田開発や住居建設のような土木工事をすすめるには、新しい技術はもとより、多くの人手とともに多くの資材や道具が必要になります。そうした動員・調達や加工のために商人や職人・人夫も集まってくると、衣食住をはじめとする生活インフラの整備も欠かせません。かくて沖積平野に都市ができ、やがて大坂や江戸のような大都市に発展していくわけです。
同じ時期、支配体制の再編成が始まるのも、おそらく根柢ではつながっていた出来事でしょう。それが応仁の乱に続く戦国時代の下剋上です。
下剋上は歴史が浅い日本社会では、構造的に起こりやすいものでしたし、当時の条件のもと、一挙に噴出したともいえます。「上」の存在感が希薄となったからです。武士も農民も商人も、当時の職能・身分の違いはさほどありません。まして中国との貿易によって庶民全般が豊かになり、経済的な格差も縮小していました。
東洋史学の草創者の内藤湖南は、ちょうど百年前の1921年、この動乱期を「日本全体の身代の入れ替わり」と表現しました。
「だいたい今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知っておれば、それで日本歴史は十分だといっていいのであります」(『日本文化史研究』)
応仁の乱自体は、単なるお家騒動です。乱そのものの経緯をいくら掘り下げても、あまり意味があるとは思えません。ですがその前後において、列島に暮らす人々はライフスタイル自体が一変するプロセスを経験しました。そしてそれが近代・明治の「今日の日本」に続いているという史観は、やはり鉄案というべきものでしょう。
江戸期の安定を生んだ「社会の分業化・序列化」
下剋上の戦国をしめくくるのが天下を統一した織田信長・豊臣秀吉で、ともに下剋上の最たる存在です。かれらは兵農分離を実施し、職業による身分の差別化・明確化を図ります。渾然一体となってしまっている社会をきちんと分業化・序列化して、秩序を生み出そうとしたわけです。
さらに江戸時代になると、幕府は有名な「士農工商」という身分制度を設けました。戦国までのように身分がフラットな社会では、豊臣秀吉のように農民から天下をめざす人物が多数出てきてしまう。それでは治安が保たれず、政治が安定しないからです。
また下剋上が簡単に起きたからこそ、領国経営・地方政治は安定したともいえます。戦国時代の領主の中には、出自のよくわからない人物が少なくありません。つまり地元で頭角を現したボトムアップ型のリーダーであって、そういう人々だからこそ、地元住民に密着した政治が可能となりました。
もちろん身分は厳然として存在します。しかし世界史的な視野・基準で見ると、その差はごく小さいものにすぎません。
たとえば同時期の明代中国では、やはり民間や地方が急速に成長し、庶民文化が開花しました。その典型が「陽明学」の発展で、たとえば「万物一体の仁」という教えが登場し、エリートと庶民を「一体」とみなす考え方が流行します。身分制を設けようという同時代の日本とは、ベクトルがまったく逆でした。
しかし逆にいえば、こんなに「一体」を強調しなければならないほど、社会はバラバラだったのです。歴史の古い中国では、もともと身分・階級の大きな格差があって、それに比べれば、列島社会のフラットさは際立っています。
戦国日本の変貌したありようは、こうしてみるとよくわかります。この時期におこった社会構造の変化は、やはりそれをもたらした中国史・世界史的な「状況」との関連で考えるべきことなのです。」
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日本民族は、目の前の事に夢中になって、昔の悪い事、嫌な事、辛い事、悲しい事、都合の悪い事などは綺麗サッパリ忘れてしまう事が多く、どう頑張っても正確に記憶できないぶん古文書に記録として残すか、神話・民話・逸話・祭りなどで後世に伝えた。
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豊臣秀吉と徳川家康の時代。日本経済は日本産の銀(カネ)と鉄(モノ)で西洋世界経済と繋がり、日本人(ヒト)の奴隷と傭兵による自由な移動で東南アジア世界の覇権争いに積極的に参加していた。
豊臣秀吉の唐入り・朝鮮出兵はその中でおこなわれ、世界は日本の強大・強力な軍事力を恐れて世界7大帝国の1つと認めた。
世界の歴史において、数十万人の大軍団を組織して対外戦争を行う世界的帝国は幾つもあったが、其の大軍団を大型軍船で大船団を編成して海を越して敵国に送り込んだのは日本だけであった。
つまり、日本の武士・サムライは難なく世界の常識・戦争史の定説を覆したのである。
現代の日本人と昔の日本人は別人のような日本人であり、昔の日本人の偉業は現代の日本人とは無関係である。
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前期倭寇。朝鮮半島や中国大陸を襲撃していた倭寇は対馬・壱岐・北九州の貧しい漁民で、彼らは2度の元寇で高麗・蒙古連合軍に虐殺された家族・親族の報復・復讐として中国人や高麗人を殺し強奪を繰り返していた。
後期倭寇。東アジアで暴れまわった倭寇は、中国人や高麗人が大半で日本人はほんの少数であった。
つまり、前期倭寇は日本人であったが、後期倭寇は日本人ではなかった。
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中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人、日本人から日本人を奴隷として買い外国に輸出して大金を稼いでいた。
ローマ教皇の教書に忠実な敬虔な宣教師や修道士達は、日本人奴隷をキリシタンに改宗させて自由人とし、改宗を拒絶する日本人異教徒は奴隷として売る交易を助け、その報酬を布教活動に使った。
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徳川家康と徳川幕府は、キリスト教禁止で日本人奴隷交易で金儲けするキリシタンを国外に追放し、鎖国令で外国頼らなくても暮らせるように国内開発・国内開墾、戦争放棄の破壊的イノベーションを断行し、多くの武士から殺し合う戦働きの場を奪い、身分を庶民に落とした。
日本経済は戦時経済から平和経済に移行し、モノ作り産業は軍需から民需に転換され、日本は短期間で激変した。
徳川家康の時代。職を失った武士・サムライは東南アジアなどに傭兵として出稼ぎに出たが、徳川幕府は鎖国令における棄民策として金で戦争をする傭兵化した彼らの帰国を禁止しした。
その結果、東南アジアに数多くあった日本町は、日本から日本人の奴隷や傭兵が来なくなって自然消滅した。
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庶民にとって、領主が誰であったも関係ない。
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戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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