⛩58)─1─日本の古海洋民にとって入江・湾は子宮、河口と川は産道であった。〜No.133No.134 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 素人による根拠がない妄想。
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 古海洋民にとって、外海は死の世界であり、入江や湾は生の世界であった。
 入江や湾に漕ぎ入る事で、生きて無事に生の世界に辿り着いたと喜び、浜辺・渚の奥に広がる緑の覆われた大地の上に聳え立つ神奈備・神体山を見上げて安堵し、そこに神を見た。
 河口に漕ぎ入り、川を遡った先に目指す理想の神奈備・神体山があれば、その川は神に繋がる命の産道であった。
 神から授かった命は、神奈備・神体山の神から見えない神の道=臍の緒を通して精気と栄養を得て育つと信じられていた。
 それが、石器時代縄文時代から受け継がれてきた日本民族の歴史・文化・伝統そして宗教であった。
 民族中心神話・血の神話は、日本列島を神の島と伝え、日本国を神の国と讃えた。
 日本民族が崇拝した神とは、命を生み出す子宮と産道そして臍の緒を持った女性神・母性神であった。
 石器時代縄文時代の女性的母性的自然崇拝はこの中から生まれ、日本のローカルな民族宗教はこうして発展して今日まで受け継がれている。
 それが、日本神道であり、女性神の血を正統に受け継ぐ男系父系天皇が一子相伝として執りおこなう宮中祭祀である。
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 生活総研
 みらいのめ
 さまざまな視点で研究員が「みらい」について発信します
 2016.09.02
 第11回
 縄文からみえる豊かな女性多数派社会?
 from 北海道
 生活総研 客員研究員
 北海道博報堂
 山岸 浩之
 北海道へ東京から家族5人で移住して3年近く経ちました。3人の子供達も北の大地でのびのびと暮らしていて、すっかりどさんこになっています。
 ところで、札幌生活を始めたころにちょっと驚いたことがありました。長女は札幌市内の小学校へ転校したのですが、クラスの名簿を見ると、男女の人数差があまりに違っていたのです。クラス32名のうち、男子13名に対して女子がなんと19名!女子が圧倒的に多いのでした。これは、学年全体・学校全体ではこれほどではないにしても同じ傾向のようです。
 確かに北海道は、進学や就職の際に道外へ出て行く男性の若者が多いようです。人口の流入数より流出数の方が多い「社会減」と言われる状況です。こうした地域にとっては、大きな課題となっていますし、UIJターンの促進にさまざまな形で取り組んでいます。
それにしても、こうした社会減の若者より、更に若い小学生からして女子の比率が高いとは。長女の学校では、極端な例だと思いますが、あらためて男女数の差という視点から少し調べてみました。
 日本全体の人口性比で見ると、女性100に対して男性94.2と女性多数。実に男性より女性が348万人ほど多くなっていました(平成26年10月時点)。女性の平均寿命が長いことも影響しているかと思います。であれば、今後も女性比率が高まるのでは。そして北海道では、女性100に対して男性89.1と更に女性が多数な地域でした。これは、女性多数派社会の先進地域(?)とでもいえるのではないでしょうか。果たして女性が多数になるとどんな世の中になるのか?ぜひ想像してみて頂ければと思います。
 さてさて、唐突ですが話は約1万5,000年前の縄文時代まで遡ります。
 北海道は、その縄文時代が長かったことで知られています。本州が弥生時代奈良時代に入っても、北海道では続・縄文時代として続いていました。縄文時代というと、やはり竪穴式住居と土器が思い浮かびます。それまでの旧石器時代は、獲物を求めて洞窟などを移動しながらで暮らしていましたが、ようやく定住の地を見つけました。つまり、マイホームを手に入れて、キッチン用品を充実させ、いろんなアイデアで料理する、それが縄文ライフスタイルというわけです。
 自然の恵みを取り過ぎないようバランスのとれた生活を心がけ、小さなムラをつくって隣近所と助け合いながら次の世代、次の世代へとつないでいく。これが実に1万年以上も続いていたというのは驚きです。
 実は、女性中心の大家族と平等主義な社会であったことが長期安定を支えてきたと言われています。縄文のビーナスという土偶に象徴されるような、まさに女性が活躍していた時代だったのでは。ただ、縄文人の平均寿命は31才程度で、過酷な生活環境だったという研究結果もあります。その分、自然と同じように女性と子供、生命をコミュニティ全体で尊重し、大切にしていたようです。厳しいながらも、この時代ならではの豊かさがあったのではないでしょうか。
 また、縄文時代の初めから北海道と北東北は、津軽海峡文化圏と呼ばれる共通の文化基盤を持っていました。17箇所に及ぶ北海道・北東北の縄文遺跡群は圧巻です。そして今年、北海道と本州を結ぶ北海道新幹線が開業しました。時代を超えて新たな青函経済圏として活性化が期待されています。
 人口減少の波の中では、交流人口の増加こそが大事。これまでのハード・インフラの開拓を、ソフト・コミュニティの開拓へとつなげていかなければなりません。そこは、なんといっても女性の方が長けているはず。
 縄文時代には、みらいの女性多数派社会を豊かにするヒントがあるかもしれません。とても大きな研究テーマ。まずは縄文文化に触れてみないといけません。
 というわけで、冒頭の写真は、縄文時代の国宝土偶「カックウ」の顔のミニチュア(函館市縄文文化交流センター提供)。文様づけの体験が手軽にできるそうなので、今度家族で函館に行こうと思っています。レジャーではありません、研究です笑
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 東洋経済
 「東洋経済オンライン」
 日本人が知らない「縄文人」の意外な恋愛事情
 縄文人たちも恋をしていたのか?
 譽田 亜紀子 : 文筆家
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 2018/11/25 5:30
 縄文人たちも人を好きになったりしていたのだろうか(写真:夏泊 / PIXTA
 平成の終わり間際になって突然、縄文時代が注目を浴びていることで始まった本連載。前回(空前の「縄文ブーム」背後にある日本人の憂鬱)は、縄文人たちの世界観と、そこに惹かれる現代人について述べた。そこで今回は、彼らの暮らし、主に出産や子育てにまつわる話について具体的に紹介していこうと思う。
 ただし、ここに記載する内容は、発掘調査によって見つかった遺構、および出土物から「こうではないか」と考えられることである。つまり、遺物から想像すると、ということであり、どんなに高名な研究者であろうと、タイムマシンに乗って当時を確認しないかぎり正解はわからない。そのことを念頭にお読みいただければと思う。
 縄文人はどんな恋愛をしていのか
 講演会やトークイベントなどで、「縄文人たちも人を好きになったりしていたんでしょうか」と、聞かれることがある。これはなかなか衝撃的な質問だ。
 確かに縄文人は昔の人たちすぎて、自分の想像をはるかに超えてしまっているから、「恋愛していたかどうか想像できない」ということかもしれない。そこで、この質問がされたときには決まってこう答えるようにしている。
 「私たちと同じホモ・サピエンスですからね。きっと人のことを好きになったり、大事に思ったりしていたはずです」
 1万年以上前の人たちと、今の私たちをつなげて考えるのは難しい。あまりに環境も暮らしも違いすぎるから、同じ人間とは思えないのかもしれない。しかし、前回も書いたように、私たちの中には縄文人のDNAがおよそ12%引き継がれている(沖縄、アイヌの人々はもっと多い)。
 もっと冷静に考えてみれば、盛衰はあったにせよ、日本列島に人が暮らし続けたということは、今の私たちと同じように、男女が交わり、子どもをつくってきたからである。だから私たちが存在する。縄文人たち、1万年以上、ずっと交わってきてくれてありがとう、と心の底から私は言いたい。
 そもそも、男女が交わり子どもをつくり、次に命をつなげることが彼らの最大ミッションであったと言っていい。そう言うと「フリーセックスの時代だったんだよね? いいな、縄文人たちは」と言う人がいる。
 そんなことはない。
 いや、そういう人も中にはいたかもしれないが、それは縄文時代に限った話ではない。いつの時代にもそういう主義の人はいただろう。ただ、縄文時代の人々の多くがそうであったかと言うと、そんなことはないのではないか。
 集落内の恋愛はタブーだった?
 50人以上が一時期に暮らすような大規模な集落ならいざ知らず、一般的な集落はおよそ15~20人ほどで暮らしていたという。構成としては、縄文時代に限らず世界中の先住民でも同じであるが、血縁者を中心に営まれることが多い。その中で年頃の娘が恋に落ちようとすると、条件的にはかなり難しいだろう。
 もちろん禁断の恋、というのもあっただろうが、昼ドラも真っ青の血みどろの争いになるのは間違いがないから、そんな危険はそうそう犯さなかったはずだ。それと、彼らは、それまでに培われた多くの経験から、血縁者と交わることによって起こるさまざまな問題を把握していたはずだ。よほどのことがないかぎり、集落内の恋愛はタブーだったのではないか。
 年頃の娘はどうやって恋に落ちていたのか。
 縄文時代は私たちが思う以上に列島内での交流、交易が盛んに行われていて、伊豆諸島の八丈島にある倉輪遺跡からは、関東、東海、近畿を中心に、遠くは青森の土器も見つかっている。縄文人たちは小さな丸木舟に乗って荒波を越え、島に向かう旅をしているのだ。
 もちろん、陸路もある。70カ所ほどある黒曜石の産地のうち、縄文人たちにとって最高のブランド黒曜石は長野県産のものだったようで、数百キロ離れた遺跡から見つかることも多い。
 もちろん、物だけが移動するはずもなく、人が運んでいる。集落から産地に赴き、入手することもあれば、現在のように仲介人のような存在が運んでいたことも考えられる。つまり、集落以外の人間がやってくる機会がそれなりにあったということ。これは、年頃の娘がいる集落にとっては絶好のチャンスである。
 物も欲しいが、婿はもっと欲しい。
 集落のオサをはじめ、総出で旅人をもてなし、少しでも長く滞在させたことだろう。居着くこともあれば、娘と恋仲になって子どもだけをつくり、外に出ていってしまうこともあったはずだ。
 縄文人の初産は18~19歳くらい
 とはいえ、男性には申し訳ないが、集落としては子種さえあれば良かったのではないか。その観点から見ると、縄文時代に作られた男性器を模した「石棒」という遺物も納得がいく。女性や妊婦を表現した土偶に対して、男性は男性器だけを表現した石棒で、全体を表現されることがない。なんとも露骨な話である。
 ほかに、いくつかの集落が、拠点集落と言われる大きな集落に集まり、一堂で祭りを行うことがあった。今でもそうだが、一種独特な高揚感も手伝って、祭りの場は恋が芽生えやすい。祭りの際には、皆ハレの衣装で着飾って祈りの儀式を行い、若者たちはその後、森に消える……。
 一年に数度行われる大きな祭りも、縄文人たちにとっては大切な出会いの場だったのだ。
 そうして外から新たな血を入れて集落は維持され、時に大きくなった。
 古人骨の研究者によれば、現在の狩猟採集民の民族事例から考えて、縄文人の初産は18歳から19歳ではないかという。
 意外に遅い。
 今よりも栄養状態が悪かったことを考えれば、初潮は14歳から15歳ぐらいだったはずで、だとすれば、この初産はごもっともである。それに、初潮が来たところで、前述のようにうまく男女が恋仲にならなければ、身ごもるチャンスはない。
では、一生のうち、何人ほど産んでいたのか。
 これも民族事例から考えて4人から6人ほどだったのではないかという。もちろん、栄養状態が良くなり、人口がいちばん増えた縄文時代中期はこの限りではないだろう。平均して、このぐらいだったのではないか、ということである。
 平均寿命は40歳前後と考えられるから、人によってはずっと妊娠、子育てしていることになる。そんな子だくさん、お母さんが疲弊しきっちゃうじゃない!と思うが、一時期テレビでよく目にした大家族の暮らしを思い出してほしい。上の子が下の子の面倒を見て、母の代わりをしていた姿を。
 「子どもは集落の子ども」だったのではないか
 縄文時代も言うに及ばず、上の子だけでなく、集落全体が社会の子どもとして面倒を見ていただろう。同じ時期に子どもを産んだお母さんがいれば、時には母乳だって融通していたはずだ。父親は狩猟の時にイノシシにやられることだってあるし、黒曜石を求めて集落代表として旅に出てしまうかもしれない。そうなると父親には頼れないから、集落全体で子どもを育てていくしかない。誰の子でも、集落にとっては大切な子どもなのだ。
 そもそも縄文時代は女性によって支えられた時代だと私は考えている。祖母から母、そして子へと生活の知恵が伝えられていく。女性たちは皆で子育てをし、森の恵みを採集し、料理を作る。季節によって土器を作り(男性が作る場合もあったと思う)植物の繊維から糸をよっては、布を編む。カゴ作りは男女共にしただろうが、暮らしの大部分を彼女たちが支えていたはずだ。
 今は核家族化が進み、子育ても自助努力と言われるが、限度がある。子どもを育てていく社会的現状は依然として厳しく、仕事と子育ての両立をしている女性たちの奮闘ぶりを見ると、頭が下がる思いだ。もちろん、男性も子育てに参加している人が多いとはいえ、やはり女性の負担が大きいのは否めない。
 縄文時代のような、子どもは集落皆の子ども、という考え方を現代に落とし込んだ仕組みはできないものか。当時、壮年の男女は働くことに忙しく、子どもの面倒を見るのは集落の年長者だったとする研究者が多い。
 昭和30年、40年代までの日本はそうだったし、地方では、まだその流れがある。まったく同様にとは言わないが、都市部も横とゆるくつながり、お互いさまで連携が取れる社会の仕組みが今まで以上に求められている。
 縄文時代のリアル子育てを見てきたわけではないけれど、そこに何かヒントがある気がしている。
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 2021年6月30日18:13 MicrosoftNews ITmedia NEWS「3000年前の縄文人、サメに襲われていた 人骨に残るかみ跡などから判明 最古記録を2000年更新
 © ITmedia NEWS サメの襲撃にあった、約3000年前の縄文人の人骨(発表資料より)
 京都大学などの研究チームは6月30日、岡山県の津雲貝塚から発掘された約3000年前の人骨に残る傷が、サメの襲撃によるものと特定したと発表した。これまで見つかっていたサメ被害の直接証拠は、プエルトリコで見つかった約1000年前の人骨が世界最古だったという。今回の発見は、人類史に残るサメ襲撃事件の最古記録を2000年以上更新することになるとしている。
 この人骨は1919年に発掘されたもので、発掘元の津雲貝塚縄文時代の代表的な遺跡の一つとして知られる。人骨からは右足や左手が失われていること、骨に無数の傷があることは知られていたが、その理由については特定されていなかったという。
 人骨の傷に注目したのは、オックスフォード大学で生物考古学を研究している大学院生のアリッサ・ホワイトさん。京都大学に訪れ、縄文・弥生時代の人骨に残る傷を観察する中で「日本で遭遇しうる数少ない大型肉食動物であるサメによるものではないか」と考え、サメ襲撃に詳しいフロリダ大学の研究者や、京都大学東京大学東京都立大学東海大学、独マックス・プランク研究所とともに研究を進めた。
 人骨は35~45歳程度の男性。死亡時期は紀元前1370~1010年とみられる。全身には少なくとも790の傷跡が見られるが、治癒の経過は認められなかった。傷跡の特徴を見ると、サメのかみ跡に共通する特徴が複数観察された。同じ部位を複数回かむ、臀部や下半身に深い傷があるといったサメ被害の特徴にも一致するという。左手首には切断面があり、右手側には損傷がなかったことから研究チームは「サメに対し左手で防御し、かみ切られたのかもしれない」としている。
 研究チームは「装飾品としてサメの歯が使われていたことは知られているが、形が好まれただけではなく、危険な動物としての認識した上での価値があったのかもしれない」と考察している。
 研究成果は、米国の国際学術誌「Journal of Archaeological Science: Reports」のオンライン版に6月23日付で掲載された。
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 NATIONAL GEOGRAPHIC
 TOP ニュース 9000年前に女性ハンター、「男は狩り、女は採集」覆す発見
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 古代
 9000年前に女性ハンター、「男は狩り、女は採集」覆す発見
 狩猟採集民の食料調達、男女の異なる役割は生物学的か否か
 2020.11.09
 9000年前の南米アンデス山脈における狩りの様子を描いた想像画。この時代の墓を分析したところ埋葬されたハンターが女性だったことは考古学者たちを驚かせた。 
 2018年のある日。米カリフォルニア大学デービス校の考古学者ランダル・ハース氏の研究チームは、ペルーのアンデス山脈で発掘された約9000年前の墓の周りに集まった。墓の中には成人のものと思われる骨とともに、多種多様で見事な狩猟用の石器があった。大きな獲物を倒し、その皮をはぐ作業までの道具がそろっていた。
 「彼はきっと優れたハンターで、集団の中でとても重要な人物だったにちがいない」。当時、ハース氏とチームのメンバーたちはそう考えていた。
 だが、その後の分析によって意外な事実が明らかになった。石器のそばで見つかった人骨は、女性のものだったのだ。それだけではない。11月4日付けで学術誌「Science Advances」に発表された論文によれば、当時の南北米大陸では、女性のハンターは例外的な存在ではなかったという。
 論文の著者らはこの発見を受けて、米大陸全域で発掘された同時代の墓の調査結果も見直した。その結果、大型動物ハンターの30~50%が女性だった可能性が明らかになった。
 古代の狩猟採集社会における男女の役割については数十年にわたって議論が続いているが、今回の調査結果は、そこに新たな証拠をもたらすことになる。先史時代には男性が狩りをし、女性は採集と育児をしていた、というのが広く知られている考え方だ。だが一部の学者は、こうした「伝統的な」性別による役割分担は、19世紀以降の世界の狩猟採集民を調査してきた人類学者の記録に由来するもので、古代の人々にも当てはまるとは限らないと主張してきた。
 今回の調査結果は、ペルーの人骨が狩猟をする女性だったことを裏付ける確かな証拠だ。だがその他の多くの証拠は長い間見過ごされてきたと、米マイアミ大学の考古学者パメラ・ゲラー氏は指摘する。なお氏は今回の研究には関わっていない。
 「データはそこにあるのです。研究者たちがそれをどう解釈するかが問題です」と氏は言う。(参考記事:「有名なバイキング戦士、実は女性だった」)
 次ページ:現代の狩猟採集民から推定された通説
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縄文の女性シャーマン カリンバ遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」128)
見出された縄文の母系制と月の文化
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 現代日本人とは違って日本民族縄文人、南方系海洋民は、陸地から完全に離れ、海上或いは海中で生きる事はできなかった。
 日本民族縄文人、南方系海洋民にとって、現代の日本人とは違って「海とは」一切の束縛がない自由の天地ではなく死が支配する恐ろしい地獄であった。
 現代の日本人と日本民族縄文人、南方系海洋民とは違っていた。
 現代の日本人は、昔の日本人と違って、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がない。
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 マルクス主義共産主義)は科学で、キリスト教絶対神の福音で、中華儒教は教条的観念論で、日本中心神話・土着宗教を野蛮で害毒であると否定し破壊し崩壊させ消滅しようとしている。
 その現れが、宗教否定及び血筋・血統抹消の正当女系母系天皇問題である。
 それは、反宗教無神論・反天皇反日本の左翼・左派・ネットサハも人種差別主義の右翼・右派・ネットウヨクもかわりはない。
 そうした日本人が多いのが、高学歴な知的インテリや進歩的インテリであり、世代的にいえばリベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた有能・優秀な次世代である。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の情緒的な文系的現実思考はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の理論的な理系論理思考はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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