🌈9)─1・B─弥生文化は戦乱の文化で、環濠集落は殺しあいの時代に築かれた。⦅1⦆〜No.18 

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 弥生時代は、弥生の大乱という戦乱の時代であった。
 弥生人の歴史とは、殺しあいの歴史であった。
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 日本で一番古い城は、2200~2100年前の弥生時代中頃に築かれた環濠集落である。
 日本の城のルーツは、日本であって中国や朝鮮ではない。
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 日本民族の祖先である平和な縄文人は、好戦的な弥生人に生まれ変わった。
 琉球民族アイヌ民族は、弥生人との血の縁が薄い。
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 朝日新聞
 なぜ人は争い、殺し合うのか 骨から探る「戦争の起源」
 有料記事
 中村通子2021年7月31日 12時33分
 頭部に激しい暴力の痕跡が残る骨もあった(福岡県筑紫野市教育委員会所蔵)=中川朋美・南山大人類学研究所博士研究員提供
 写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版
 人はなぜ争い、殺し合うようになったのか。「戦争の起源」を考古学から探ろうと、岡山大、南山大(名古屋市)などの研究者チームが挑んだ。分析に選んだ舞台は弥生時代の北部九州。「漢委奴国王印」の出土でも知られる当時の先進地だ。研究から見えた答えは――。
 狩猟採集から農耕への変化、武器の発達、社会の階層化……。人間が争い、戦争をするようになった原因には様々な仮説があるが、科学的な証拠に基づくものは多くない。
 岡山大文明動態学研究所の松本直子教授らの研究チームは、仮説の一つ「人口増加による資源の奪い合いや人間関係の複雑化などが争いを呼ぶ」に注目。縄文時代から一転、争いが急増したとされる弥生時代の人口密度と「暴力死」の関係を探ることにした。
 分析の対象は、弥生期の遺跡が多数ある福岡県と佐賀県の県境地域。ここは「甕棺(かめかん)」という大型の専用土器に死者を入れ、ふたを粘土で目張りをして葬る風習があった。密閉されていて人骨は良好な状態で残り、甕棺の形や模様、炭素同位体分析などから葬られた時期も正確に突き止められる利点もあった。
 チームは弥生中期の紀元前350年~紀元30年を6期に分け、遺跡分布などから区分けした6エリアごとに調査・検討した。
 「武器発達が原因説」については否定的
 まず出土した甕棺の数と区域…
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 栃木県埋蔵文化財センター
 Q 弥生時代の戦争について教えて?
 小学生11歳 ベリィーさん
 弥生時代には米のことでムラとムラの間で争ったの?
  12歳 みーさん
 争いが起きた原因の証拠を教えて?
  小学生11歳 里亜さん
 A 里亜さんの質問は、いつの時代の「争い」なのかわかりません。私どもの埋蔵文化財センターは、文字に書かれた歴史を研究するところではなく、土の中に埋まった、昔の人々が残した物を発掘調査して、どちらかというと文字に書かれていない歴史を研究する(考古学という学問をする)ところです。そこで、文字が使われる前(古墳時代以前)のことについてお答えします。みーさん、ペリィ~さんから弥生時代の戦争についての質問がありますので、ここでは弥生時代の戦争を取り上げることにします。
 縄文時代には、戦争があったとする説となかったとする説の両方があります。石のやじりが刺さった人骨が発見されていますが、戦争で傷をおったのか、殺人事件だったのかは区別がつきません。弥生時代になると、戦争をしていたという証拠がいくつか出てくるので、弥生時代に戦争をしていたことはほぼ間違いないと思われます。
 なお、文字が書かれている時代の戦争でしたら、他のところ(例えば奈良時代から江戸時代の展示をしている博物館など)にお問い合わせ下さい。
 《戦争があったことを示す考古学的な証拠》
 戦争の証拠といえるものは、いくつかあります。最も確実な証拠は、殺されたり、傷つけられたあとのある人骨が、大量に発見されることです。殺されたあとのある人骨が1体だけの場合は、戦争なのか殺人事件なのか区別がつきません。人を殺すための専門の道具(武器)が発見される場合も戦争の証拠となります。また、堀や壁などの防御(ぼうぎょ)する施設(しせつ)を持つムラや町がある場合も、戦争が起こったと考えられます。
 《弥生時代に戦争があったという証拠》
 弥生時代に戦争があったという証拠を次にあげてみます。
弥生時代になると、九州の北部から伊勢湾沿岸の地域では、非常に高いところにムラを作ったり、ムラに堀をめぐらせたりしています。これは、戦争で敵が攻めてきた時に、防御ができるムラと考えられています。
・ このようなムラとともに、縄文時代よりも大形の石のやじりが多くなります。これは、狩りに使う弓矢とは別に、人間を殺す武器としての弓矢があったことを意味しています。
・ 大陸から、銅剣(どうけん)、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)あるいは鉄剣(てっけん)など金属製の武器が伝わってきました。戦争によって傷ついた人骨が、一つの遺跡から大量に発見されてはいませんので、決定的な証拠とはいえませんが、武器の破片が刺さった人骨は、多くの遺跡から発見されています。
・ 「後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)」「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」といったこの頃の中国の書物にも、戦争がおこっていたことが書かれています。
 《弥生時代に戦争がおきた原因の証拠》
 「その原因で争い(戦争)が起きた証拠」というのは、考古学の発掘調査では、発見されていません。また、今後発見されるという見込みもあまりないと思います。しかし、考古学の発掘調査で判った様々な事実を組み合わせて、戦争が起こった原因を考えることはできます。弥生時代には、水田を作って本格的な米作りが始まります。米作りによって食生活が安定すると、人口が増えます。人口が増えるとさらに水田を広げる必要がうまれ、となりあったムラの間で土地のうばいあいが始まります。また、水田の場合は、土地のうばいあいだけではなく、水田に引く水のうばいあいも起こります。このような土地や水のうばいあいが戦争へと発展したと考えられます。また、農業をはじめると、作物のでき具合によって、富を多く持つ者とそうではない者の差が生まれます。やがて、富のうばいあいが起こり、戦争へと発展します。他にもいくつかの原因が考えられますが、おおよそここに述べたようなことが原因で戦争が起きたと思われます。
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 弥生ミュージアム

 第2章 弥生時代の集落と墓
1.弥生時代集落の分布の傾向
2.弥生集落の特徴
3.弥生時代の墓の変遷
4.クニの形成

 4.クニの形成
 弥生時代の集落と墳墓の変遷は弥生時代の社会がクニを成立させ、クニグニが連合して政治的社会を形成していく様子を表したものです。それは大きく四つの段階を経ると考えられます。
 第一段階 農業開始期
 農業開始期の社会的様相は一様ではありませんが、水田稲作の技術を携えた人々が渡来したと考えられる福岡平野等では、板付遺跡に代表されるようにこの段階から環壕集落が出現します。この段階の環壕集落は新しく渡来した人々のコロニーの戦略的拠点であり、これらの人々と縄文時代以来の土着の人々との間に、戦いがあったことを窺わせます。
 第二段階 クニの成立期
 農耕の広がりにより人口と集落数が増加し、土地の権益をめぐる戦いが顕著になっていったと考えられます。環壕集落の数が増加し、次第にそうした環壕集落を中核とした集落群(地域社会・クニ)が成立してきます。北部九州地方では銅剣を副葬する甕棺墓が現れます。戦闘では剣が武器の主流となったことが窺われ、戦闘の指導者が次第に社会の指導者として成長し、首長としての身分を確立していったと考えられます。新たな社会の統一原理として祖霊信仰も出現してきたと思われます。
 第三段階 クニの相互期
 墳丘墓など祖霊祭祀の対象となる墳墓と祭殿などの祭祀空間、居住区、工房などを備えた中核的大規模環壕集落が成立します。青銅製の武器が大型化し実用品から祭器となります。武器の祭器化は武器形祭器を用いた戦神・軍事的祭儀が祖霊祭祀と合わせて社会結合の重要な構成要素となっていったことの表れと捉えられます。この段階では、「クニ」の領土拡張、あるいは「クニ」の領土防衛といった戦略的戦いが行われるようになったと考えられます。
 第四段階 クニの連合期
 中核的大規模環壕集落は施設・設備を拡充し、頂点とも言える形態を整えます。しかし、その後、徐々に徐々にあるいは急速に解体し、やがて姿を消していきます。この段階では、交易の拡大・領土の保全を共通利害とした「クニ」の連合化がはかられ、一方でより広い領域の覇権をかけた戦いが行われるようになったと考えられます。恐らく『魏志倭人伝』に記されている「倭国大乱」はこの段階の戦いを示していると思われます。新たに拡大していく政治秩序のもと、中核的大規模環壕集落を構成した首長の墓、首長の館、祭殿、クニの戦略的物資を納める倉庫群などは再編され再配置されていったと考えられます。
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 弥生時代に初めて戦争が起こった原因とは
 弥生時代の歴史
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弥生時代に初めて戦争が起こった原因とその証拠
 弥生時代は、集団と集団の大規模な抗争が日本で初めて観測された時代です。戦争発生までのプロセスは、おおむね以下の通りです。
①農耕集団の成立
②農地の開発・拡大
③土地や水利を巡る他集団との対立
④政治的解決手段として戦争勃発
 1.農耕集団の成立
 大陸から日本に水田稲作が伝わると、効率的・安定的な稲の収穫の為に、人々は集団で暮らすようになりました。稲作の知識を持つものを中心とした政治的共同体(ムラ)が成立します。
 2.農地の開発・拡大
 食料供給が安定し、人口が増えてくると、既存の農地では足りなくなってきます。人々は農地の拡大・開発を進めました。
 3.土地や水利を巡る他集団との対立
 農地の拡大・開発を進める中で、稲の生育に適した土地や水利を巡り、他の集団と対立します。
 4.政治的解決手段として戦争勃発
 話し合いで問題が解決しない場合は、武力でもって解決したというわけです。負けた共同体は勝った共同体に吸収され、さらに大きな共同体(クニ)が出来ました。
 {水田稲作の伝来で、人々は自然に依存せず自分で食料を生み出す手段を得ましたが、副作用として戦争が起こるようになってしまったのですね。農耕社会が生んだ矛盾といえます。}
 戦争が起こった証拠
 争いが増えた痕跡は、弥生時代の遺跡に見ることができます。集落の周囲を溝(堀)で囲ったり(環濠集落)、集落を高い所に作ったり(高地性集落)など、明らかに外敵の侵入を意識した作りになっているのです。
 出土した武器を見ても、縄文時代の鏃(やじり)と比べ、弥生時代の鏃はかなり大きめに作られており、殺傷を目的とした利用が増えたことを如実に示しています。
 {日本最古の戦死者は、糸島氏新町遺跡の支石墓で見つかった男性の遺体です。16㎝もの石の鏃(やじり)が左大腿骨に突き刺さったことが致命傷となっていました。}
 縄文時代に戦争はなかったの?
 縄文時代の人骨には、明らかに殺傷されたようなものは希少です。狩猟採集が生活基盤だった縄文社会において、集団と集団が争うような事態は希だったと考えられています。(狩り場を巡る多少のいざこざはあった模様)
 関連ページ
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弥生時代に文字の使用はあったのか
弥生時代身分制度-奴隷も存在-
弥生時代に人口が爆発的に増加した理由
弥生時代の宗教の特徴
弥生時代の祭祀の特徴
弥生時代に結婚の風習はあったのか
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 環濠集落とは?なぜできた?わかりやすく解説
 環濠集落とは
 このページでは、「環濠集落(かんごうしゅうらく)」について、なるべくわかりやすく簡単に解説します。
 環濠集落とは、周囲を「濠」、すなわち堀で囲んだ集落のことです。
 日本史において、環濠集落という用語が出てくるのは、古代(弥生時代古墳時代)と中世(戦国時代)の2つの時期があります。
 この2つの時期の共通点はなんだと思いますか?
 答えは、戦乱の時代だということです。
 環濠集落は戦乱の時代に築かれるんですね。
 戦乱の時代になぜ環濠集落が築かれるのでしょうか?
 環濠集落は大学受験などでも重要な項目です。
 歴史の流れを理解するためにも、「なぜ環濠集落ができたか?」というところは意識して理解しておきましょう。
 このページは、中世の環濠集落ではなく、古代の環濠集落について解説しています。
 それではさっそくいってみましょう。
 環濠集落とは
 環濠集落とは、弥生時代を通じて九州から関東地方にわたって築かれた、濠(ほり)で周りを囲んだ集落のこと。
 環濠集落の「濠」とは、「堀」のことです。
 イメージしやすいのは、城のお堀ですね。
 二条城
 参考/二条城のお堀
 環濠集落とは、堀にぐるっと周囲を囲まれた集落のことです。
 そのような集落が弥生時代から古墳時代にかけて日本の各地で築かれました。
 [jin-iconbox06]最近の研究では、縄文時代の後期から環濠集落があったということもわかってきています[/jin-iconbox06]
 環濠集落は、初期のものは小規模ですが、弥生時代後期には、かなり大規模なものが現れます。
 弥生時代後期の大規模な環濠集落で代表的なものは、佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」大阪の「池上・曽根遺跡」奈良県の「唐古・鍵遺跡」などがあります。
 吉野ヶ里遺跡吉野ヶ里遺跡の物見櫓からの景色。手前に濠があるのがわかります。
 環濠集落はなぜできた?
 それでは、そもそも環濠集落はなぜできたのでしょうか?
 はじめに、環濠集落は戦乱の時代に築かれるということを言いました。
 弥生時代というと、なんとなくのんびりしたイメージがありますが、実はかなり争いの多い、戦乱の時代であったことがわかっています。
 このことは、魏志倭人伝などの中国の歴史書にも「倭国大乱」として記録されていますし、戦いで傷ついたと見られる人骨も多数発見されています。
 なぜ弥生時代に多くの争いが起きたかというと、通説では、稲作が始まったことが理由だと考えられています。
 小規模な集団で維持できた縄文時代までの狩猟採集とは異なり、稲作をするには、広い土地や多くの人々、それを統率するリーダーも必要になってきます。
 そうした過程で貧富や権力の差、持つものと持たざるものが現れ、争いが生じるようになったと考えられています。
 また、他の集団から土地や作物を防衛する必要も生じるようになりました。
 こうしたことから、各地で争いが発生し、争いから集落を防衛する手段として環濠集落が成立していったのです。
 環濠集落と高地性集落の違い
 環濠集落とよく似たものとして、高地性集落も同時期に現れます。
 環濠集落と高地性集落の違いとはなんなのでしょうか?
 主な違いを挙げていきます。
 まず、環濠集落は主に平地に築かれています。
 水田を含むムラや小国家がまるごと濠に囲まれています。
 一方で高地性集落は、その名のとおり、山の上などの高地に築かれています。
高地性集落には、人が生活していた痕跡はあまり見つかっておらず、集落としての役割があったわけではなさそうだといわれています。
戦いのときに逃げ込む場所として築かれていたという説もありますが、実際には戦いが行われた形跡なども見つかっておらず、防衛のためというよりも、交通や流通の拠点として築かれていたのではないかという説もあります。
 また、環濠集落が九州から関東まで広く分布しているのに対して、高地性集落は瀬戸内海沿岸に集中しているのも特徴です。
 環濠集落と環状集落の違い
 日本史では、環濠集落とよく似たキーワードで「環状集落」というのも出てきます。
 よく似ていますが、環状集落は縄文時代の集落のことで、環濠集落とは関係ありません。
 縄文時代に広場を囲んで馬蹄形(Uの字型)に少数の竪穴式住居が配置された集落を環状集落といいます。
 けっこう引っ掛け問題で出るので、受験生は覚えておきましょう。
 環濠集落についてのまとめ
 以上、環濠集落について解説しました。
 環濠集落がなぜ築かれたのかということや、高地性集落との違いは、試験でも頻出箇所なので、しっかり理解しておきましょう!
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倭国大乱と日本海 (市民の考古学)
越後裏山遺跡と倭国大乱
日本人の起源 (講談社選書メチエ)
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知られざる弥生ライフ: え? 弥生土器なのに縄文がついたものがあるって本当ですか!?
〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作 (歴史文化ライブラリー)
再考! 縄文と弥生: 日本先史文化の再構築