🏞61)─2─犬公方・徳川綱吉は捨て子の保護・養育を町・町方に義務付けた。~No.261 

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 江戸時代は、戦争のない平和な時代であったが、その実、保障も助けも期待できない生きるのに辛い苛酷で悲惨なブラック社会であった。
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 日本の家・家族・地域は、江戸時代の封建社会、明治・大正・昭和初期の戦前、昭和中期・後期の戦後、平成・令和のバブル経済崩壊後では全然違う。
 つまり、昔は昔で現代は現代であり、民族の歴史を否定する戦後民主主義教育の歴史教育を学んでいる現代の日本人にとっては縁も所縁もない死んだ物語である。
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 水子供養とは、日本民族の特殊な宗教儀式であり、水子の多くは貧しいが故に実の親に殺された胎児や乳呑み児であった。
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 2025年7月8日 YAHOO!JAPANニュース OTONA SALONE「「カゴに入れて捨てられた子」が犬に襲われる。あまりに悲しい運命と、10歳で働きに出る江戸の庶民の子どもたち
 つよ(高岡早紀) 三和(山口森広) 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」26話(7月6日放送)より(C)NHK
 「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、作品の背景を深掘り解説していきます。今回は江戸時代における「捨て子」について見ていきましょう。
 【画像ギャラリー】NHK大河『べらぼう』第25回
 江戸時代は子どもを「みかん籠」に入れて捨てていた!?
 親は子を守り育てるべきという考え方が一般的ですが、すべての親が子を育てられるとは限りません。いかなる者も産んだ責任をもつべしという意見は正論であるものの、時と場によってはきれい事になってしまうのが現実です。
 江戸時代において捨て子の存在は町の景色の1つであり、「みかん籠」は捨て子の代名詞でした。蔦重の死から約6年後に出版された『敵討巖間鳳尾艸(かたきうちいわまのかじのき)』(1803年)は武家のお家騒動をテーマにした作品ですが、当時の捨て子に対する考え方がよくあらわれています。家臣は奥女中との間に子を授かるものの、奥女中は産後すぐに亡くなりました。家臣は子を育てられるわけがなく、赤ん坊をみかん籠に入れて、他所の家の前に置きました。現代であれば、自分が生んだ子どもを育てられないからといって、他人の家の前に置くのはありえない話ですが、当時においてはごく普通のことだったようです。
 同著では、この家臣は「人が言うように情け深い人だろう。これで、こぞうの命が助かるだろう」と赤ん坊を置いた家の人について述べているし、子を置かれた側も「このような良い子を捨てる親の心は思い遣られる。おれの子にするぞ。泣くなよ」と寛大な心で受け止めています。
 また、「べらぼう」においても当時の養子に対する考え方が垣間見れます。吉原を代表する引手茶屋の主である市右衛門(高橋克実)は、蔦重(横浜流星)の商売に対する姿勢と才覚を早くから見抜き、他の子は手放しても、蔦重は自分のもとに残していました。市右衛門のように引き取った養子に将来性を感じられれば、血のつながりはなくても家を安心して託せました。
 とはいえ、江戸時代における捨て子事情は『敵討巖間鳳尾艸』や『べらぼう』の蔦重のような良心的な話ばかりではありません。親は子をお寺の門前に置き去りにし、誰かに育てられることを願うことがありました。しかし、野犬に食べられるなど、悲惨な結果になるケースも少なくなかったといわれています。当時、置き去りにされた幼子が野犬に襲われることは広く知られていました。親は子が野犬のエサになる可能性があることを認識していたでしょう。それでも、貧困や社会的事情により、こうした選択を余儀なくされたのです。
 江戸時代においても、子どもを捨てることが公に認められているわけではなかったが…
江戸時代について、高齢者や子どもなど生産性のない家族を山や道に平然と捨てていたという先入観を抱きがちです。しかし、子どもを育てられないからといって捨てることが公に認められていたわけではありません。
 1687年、徳川綱吉によって「生類憐みの令」が発布され、多くのどうぶつの命を重んじるムーブメントが広がったことはよく知られています。この令はどうぶつのみならず、高齢者や子どももまた憐れみの対象としています。例えば、この令では捨て子の届け出の提出を各地に命じていますし、町に対して捨て子の保護を義務付ける命令文もあります。
 また、蔦重の時代の『御定書』(1742)では「金を付捨子を貰其子を捨候者 引廻獄門」と定められており、お金を払って買った子を捨てた場合、公開処刑(引き回し)の対象となりました。
 庶民の子どもは10歳未満で働きに出る
 江戸時代において、庶民の子どもの多くは10歳前後で奉公に出されました。貧困層の中には5歳前後の子どもを奉公に出す家庭もあったといいます。
 奉公先では丁稚から始まり、年季が明けると職人と対等の身分を得られました。奉公人の労働時間は12時間ともいわれており、長時間労働を強いられました。奉公というと聞こえはよいですが、実情は我が子を金銭と引き換えに下働きとして差し出すことに他ならなかったようです。
 なお、女子の場合は子守りや各家庭の下働きとして、経済力がある家に働きに出されました。また、借金がある家では幼い我が娘を吉原に売る選択を強いられることもありました。吉原では10歳前後で売られた禿という少女たちが上級遊女の世話をしたり、遊女になるための指導を受けたりしていました。
 本編では、江戸時代の「みかん籠」に入れて捨てられた子どもたちの悲しい運命や、幼くして奉公に出される庶民の子どもたちの過酷な現実をお伝えしました。
 ▶▶鬱々とした世の中だからこそ、江戸の“家族”観を超えていく。蔦重とてい、そして母との再会が描く「本当の絆」とは?【NHK大河『べらぼう』第26回】
 では、江戸吉原の蔦重とてい、そして母との再会を通じて描かれる「本当の家族の絆」について深掘りします。
 参考資料
 沢山美果子『江戸の乳と子ども -いのちをつなぐ-』吉川弘文館 2016年
 深谷大『さし絵で楽しむ江戸のくらし』平凡社 2019年
 畠山健二『超入門! 江戸を楽しむ古典落語PHP研究所 2017年
 パオロ・マッツァリ『歴史の「普通」ってなんですか?』 ベストセラーズ 2018年
 アメリカ文学研究/ライター 西田梨紗
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 2014年7月9日 福岡県弁護士会TOP
 弁護士会の読書
 ※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
 本当はひどかった昔の日本
 日本史(江戸)
 著者 大塚 ひかり 出版  新潮社
 現代日本では、若い母親によるネグレクト(育児放棄)による子どもの死亡事故が起きると、昔なら考えられないこととして、世論が一斉にけたたましい非難をその母親に浴びせかけるという現象が生まれます。
 でも、本当に昔の日本は全員、みながみな子どもを大切に育てていた、幸せそのものの社会だったのか・・・。著者は古典の文献をふくめて、そうではなかったことを実証しています。
 私も、弁護士生活40年の体験をもとに、その指摘には、大いに共感を覚えます。
 平安のはじめに書かれた『日本霊異記』には、男遊びに精を出す若い母親が子どもらを放置し、乳を与えず、飢えさせた話がある。
 子どもは親の所有物という意識の強かった昔は、捨て子や育児放棄は、現代とは比べものにならないほど多かった。
 捨て子は珍しくなく、犬に食われてしまう運命にあると世間は考えていた。捨て子が取締の対象になるのは、江戸時代も五代将軍綱吉の時代からのこと。
五月生まれの子は親にとって不吉。旧五月は、いまの六月にあたり、梅雨時。五月は「五月忌」(さつきいみ)といって、結婚を避ける風習のある「悪月」だった。
 明治12年(1879年)の捨て子は5000人以上、今(2003年)は、67人ほどでしかない。
 中世の村落は、捨て子だけでなく、乞食も養っていた。これは、いざというときの保険の意味があった。何かのとき、「身代わり」として差し出した。
 乳幼児の死亡率の高さを利用して、もらい子を飢えさせておきながら、病死したと偽る悪徳乳母が江戸時代にもいた。
 江戸時代には、離婚も再婚も多かった。日本にキリスト教が入ってきたとき、離婚を禁じられたが、当時の日本人には納得できないことだった。
 『東海道中膝栗毛』の祢次さんと喜多さんはゲイのカップルだった。えーっ、そ、それは知りませんでした・・・。
 安土桃山時代の日本では、犬を「家庭薬として」食べていたそうです。宣教師フロイスの報告書にあります。
 猫が網から解き放たれたのは、江戸時代に入ってからのこと。
たしかに昔を手放して美化するわけにはいかないものだと思いました。それでも、人と人との結びつきがきつく、また温かいものがあったこともまた間違いないことでしょうね。それが、現代ではスマホにみられるように、とても表面的な、通りいっぺんのものになってしまっている気がします。
(2014年1月刊。1300円+税)
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 2025年6月10日 世界のニュース トトメス5世「江戸時代は捨て子だらけ、街中が「赤ちゃんポスト」だった
 江戸時代は間引きや捨て子が頻繁に行われていた
 赤ちゃんポストの元祖は徳川綱吉だった
 2007年5月から熊本市に設置された「赤ちゃんポスト」は大きな反響を呼び、今までに約200人近くが保護されました
 熊本市の慈恵病院の他東京都にもあり、保護されたあとは熊本市などの保護施設で育てられるようです
 他の地域にもポストを作ろうという動きがあり、盛り上がったり反対意見が出されたりしている
 ところで昔の日本には捨て子が非常に多く、昭和の前半には「捨て子」はドラマやアニメのジャンルでした
 戦争で親を亡くしたり、捨て子で里親や養護施設で育ったというのは、ごく普通のドラマの設定でした
 戦争前の明治時代にもやっぱり捨て子は多く、調べると江戸時代には考えられないほどの捨て子が居ました
 どの文献か残念ながら忘れたが、江戸時代の深川の奉行所で、その年だけで500人の捨て子があったと嘆いている文章が残されていたという
 深川は江戸の奉行所のひとつなので、江戸全体では遥かに大人数の捨て子がいたと考えられます
 江戸時代の歌人松尾芭蕉は捨て子が泣いているのを見て「猿を聞く人捨子の秋の風いかに」と詠んでそのまま立ち去っている
 江戸時代は捨て子は表向き禁止されていたが、食糧危機を回避するために、頻繁に行われていた
 米の収穫が多く高値で売れれば人手不足になり、子供を多く作ろうとするが、飢饉になれば子供は邪魔にされるのです
 この場合の捨て子は、誰かに拾われて育てられるのではなく、山の中などに捨てられるという事でした
 それに比べれば江戸の捨て子は結局、多くは誰かに拾われて、育てられるようになっていました
 犬将軍は捨て子に優しかった
 江戸時代の日本は統一された法制度が無く、特に徳川幕府の直轄地と、諸藩では法制度が大きく違っていました
 江戸では捨て子は「捨ててあった町内で育てる」事になっていて、そう決めたのは犬将軍で悪名高い徳川綱吉でした
 綱吉は犬とか猫とかを可愛がったので知られるが、捨て子対策もやり、捨ててあった町内で成人まで育てる事を定めた
 それ以前の日本に福祉政策はなかったので、自分の家の前に捨て子が置かれていたら、別な場所に捨てなおしていました
 徳川綱吉は一説では身長120センチ台しかなく、虚弱体質だったそうで、そんなところから『生類憐れみの令』を作ったとも言われている
 政令は人間も対象で、「捨て子、障害者、老人」などを野山に捨てたり『間引く』事を禁止しました
 綱吉は虚弱だったのに63歳まで生き、次の将軍吉宗は『生類憐れみの令』を撤廃したが、捨て子や人間関係は良い事だというのでそのままになった
 奉行所では捨てられた町内で育てろと命じたが、町内で育てられない場合は、持参金付きで養子に出した
 これが捨子養子制度だったが、金と子供を受け取って、また捨ててしまう「捨て子詐欺」が多発した
 それではというので今度は信頼できる養育先を仲介する商売が生まれたが、お金で子供をやり取りするようになっていった
 貰い手の見つからない子供は結局なくなってしまうのだが、この問題は明治まで解決されなかった
 江戸時代の研究として「捨て子は大家族や地域の繋がりが強ければ少なく、小家族で地域の繋がりが希薄になると増える」と書き残されている
 🖼️徳川綱吉は、捨て子は町内で育てるべしと政令を出した
 近代になって捨て子が減った理由は
 明治の中ごろになって捨て子は急速に減少し、3分の1にまで減ったが、「家制度」や「国家主義」の確立と関係があるとされている
 江戸から明治にかけては、石を投げれば捨て子にあたるほど、捨て子は珍しくなかった
 江戸時代には庶民に「家制度」は希薄だったので、家庭を省みない個人主義の女性が多く、面倒臭いとすぐに子供を捨てた
 日本に「家制度」「家族制度」が導入されたのは明治中ごろで、それまでは武家天皇家にしか無かった
 武家天皇家にしても子供は乳母が育てるものだったので、母親は子育てに熱心ではなかった
 「良妻賢母」とか女性は家を守るべきという価値観が生まれたのは、実は大正・昭和以降でした
 女性は家を守り、育児に専念しなくてはならないという価値観が最近また揺らいできて、女性は外で働いて子育てをしないのがカッコイイと変わっています
 再び江戸時代化が進み、捨て子が増えるのでしょうか
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 ウィキペディア
 捨て子(すてご。英語:foundling、abandoned child)とは、様々な事情によって、病院、路上、他人の家、宗教施設、児童養護施設あるいは乳児院へ、置き去られた子供を指す。棄児(きじ)ともいう。
 日本のマスコミでは、差別用語に当たるとして「捨て子」という表現を避け、赤ちゃん置き去りと言うことが多い。尚、英語で捨て子を意味する「foundling」は、直訳すると「発見された小っちゃい者」を意味する。
 概要
 原因として、経済的理由、親や子供の病気、若年妊娠などの意図しない妊娠(英語版)、ひとり親(英語版)、戦争、迷信(双子などの多胎児が不吉や恥とされる文化、捨て子はたくましく育つとされる文化)、子の性別が望むものでなかった場合、事件などで親が投獄・国外追放された場合、親から縁を切られる勘当など様々な要因がある。
 対策
 捨てられた子供を助ける悲田院/救貧院 (プアハウス)/孤児院/児童相談所などの施設が、歴史的・全世界的に行われてきた。日本においては、児童福祉法によって、乳児院児童養護施設へ収容する事となっている。
 禁止令
 多くの国で、子供を捨てることは違法(自然犯)とされる。日本では、子供を捨てた場合は、保護責任者遺棄罪となる。 江戸時代では生類憐れみの令は、捨て子禁止令も含んでいた。
 包括的な対策
 性教育や避妊についての知識教育で捨て子を減らすことができる。また、人工妊娠中絶を行うことで、捨て子や虐待などの件数が低下する。
 貧困の撲滅、病人・片親への支援などによっても減らすことが可能である。日本においては、片親などの場合は児童扶養手当の支援を受けられる。
 匿名出産制度により、出産のリスクの低下、母親へのカウンセリング・経済的援助などの支援を受けられる。
 ドイツやオーストリアなどの国々では、こういった捨てられる両親不明の子供を救う為に2001年から病院の玄関に「赤ちゃんポスト」と呼ばれる、養育が困難になって育てきれなくなった子供、または私生児などをこのポストに入れて病院側に養育を委託するという措置がとられるようになった。これにならって、日本でも熊本市に立地するカトリック系の慈恵病院で、赤ちゃんポストが2007年5月10日に設置された。また特別養子縁組、里親制度などの仕組みもあり、行政や支援団体が取り組んでいる。
 パキスタンのテレビ局が、2013年のラマダーン月間中に放送したクイズ番組「ラマダーンの祝福」で、クイズに正解した家族に捨て子が賞品として贈呈された。この番組の男性司会者が、イスラム教に関するクイズを出題し、正解した夫婦2組に捨て子を贈呈、そのうちの1組は結婚14年でいまだ子宝に恵まれていないということで「神様からの贈り物」として喜んでいたが、欧米のメディアはこれに批判を示している。
 戸籍
 出生届の提出が未済と認められる乳幼児の捨て子については、発見者または警察官からの棄児発見報告に基づき、市町村長が棄児発見調書を作成し、戸籍を編製する
 本籍地は市役所・乳児院児童養護施設などの住所になることが多く、生年月日は推定される年に発見された日を誕生日として設定されることが多い。苗字などについては申し立てた人物や保護者、発見地の町名などから取ったりする。 赤ちゃんポストの場合は、新生児への命名熊本市長が行う。
 捨て子が発見されたとき、すでに死亡していた場合でも、上記手続きにより戸籍が編製された後、死亡による除籍という扱いとなる。行旅死亡人としてその旨が官報に公告されることもある。
 親が現れるなど、なんらかの事情により身元が判明した場合には、本来の戸籍に復帰することになっている。
 救護・養育の歴史
 日本での捨て子の最も古い記録は『日本書紀』に、「676年(天武天皇5年)に今年は凶作であったため、子供を売る許可が欲しい」との要請を天武天皇の治世下の朝廷は許可しなかったが、 15年後に「黙認する方針に変更した」と記載されている。子売り・子殺しの懲罰は、757年の養老律令に記載されており、子供の同意があれば売って良しとされ、親は杖で百叩きですんだ。
 日本の近世社会においては、江戸時代後期の京都冷泉町に伝わった捨子関係文書(冷泉町文書)に拠れば、都市社会で捨子が発生した場合には町奉行所は直接的な救済を行わず、町の責任で里親希望者を募集し、里親が見つかるまでは町での養育を義務付けられている。里親は希望する理由を審議され、奉行所から許可されると請人や親分などの保証人を立て、遊女奉公へ出さないことなど誓約を取り決めた後に養子として引き取られている。
 福岡藩でも捨て子が社会問題となったが、藩の対応として、「養育目付」という役職を設置し、産婆などの協力を得、妊娠中の女性を監視し、出産後も子育てを行っているか見張った(水戸計 『江戸の大誤解』 彩図社 2016年 p.124)。また、里親が捨子を引き取る際には持参金や衣類が町から支出されており、捨子が発生した際には町に様々な負担が存在し、この負担を軽減させるために里親養子制が確立していったと考えられている。
 ヨーロッパでは、拾われた子は、奴隷、または家事使用人、軍隊、または教会で育てられ、それぞれの養育先で奉公した。この慣習は、西ゴート法典(英語版)などに、発見者は連れ帰って奴隷とすることができることが書かれている。これらの慣習は、宗教施設の基盤や、貴重な労働力ともなった。近代アメリカでは、孤児列車によって多数の孤児が労働が必要な場所や新しい里親へ輸送された。
 捨て子に関する文化
 風習、迷信
 捨て子はよく育つ - 親の厄年に生まれた子や体の弱い子が誕生した時、形式的にいったん捨てて、すぐ拾うと丈夫に育つという言い伝えがある。この迷信を信じて、豊臣秀吉は子供達の幼名に「捨」「拾」などの名前を与えた。徳川家康の子松平忠輝も捨てられ家臣に拾われた。徳川吉宗も、この迷信から捨てられ刺田比古神社が拾い育てた。
 捨て子は世に出る - 逆境にも負けず、たくましく育ち、かえって世に出るものであるという諺
 取子 - 東日本で行われた仮の親子関係を結んだ子方の名称。親方の方は取親と呼ぶ。親に不幸が続いたり子が虚弱な場合、神仏や神職、または卑賤視されていた者を仮の親とすることで、子供が丈夫に育つなどの呪術的効果を期待した。
   ・   ・2022/05/03/ 08:00   ・   
 2022年5月3日 AERA「死体の片づけから捨て子の保護まで 江戸時代に「辻番」が果たした大切な役割
 【厳選】書籍ダイジェスト
 目次
 旧彦根藩足軽組辻番所。写真はイメージ
 組織に不満があっても、自分や家族の生活を考えれば、そう簡単には辞められない。組織で働く人ならば、誰もが多かれ少なかれ、ストレスを抱えているだろう。それは現代に限ったことではない。江戸の武士も「家格」の上下に泣き笑い、「出世」のために上司にゴマをすり、「利権」をむさぼり、「経費」削減に明け暮れていた。組織の論理に人生を左右されてきたのである。山本博文氏が著した『江戸の組織人』(朝日新書)は、大物老中・田沼意次、名奉行・大岡越前、火付盗賊改・長谷川平蔵などの有名人から無名の同心、御庭番、大奥の女中まで、幕府組織を事細かに検証し、重要な場面で組織人がどう動いたかを記している。本書から一部を抜粋して紹介する(※一部ルビなどは追記)。
 【表】薩摩藩が首位! 幕末の「雄藩最強」ランキング
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■八百九十九か所の辻番
 江戸の町の六割は武家地だった。武家地には、広大な大名屋敷や旗本屋敷があり、大名屋敷では一万坪以上、旗本屋敷でも多くは五百坪から千坪の邸宅だったから、夜ともなると武家地の道は延々と塀が続く寂しい通りだった。
 江戸時代初期には、辻斬りが横行した。辻斬りは、刀の切れ味を試すために行ったものと言われるが、戦国の余習がさめやらぬ時期のことだから、人を斬りたいという衝動を持つ者もいたかもしれない。こうしたことから、夜、町を歩くのはたいへん危険だった。
 幕府は、寛永六(一六二九)年、庶民が辻斬りに難儀しているため、大名や旗本に辻番(つじばん)という警備施設を設けるよう命じた。辻番は、武家屋敷の周囲に何か所か設けられ、常時戸を開けて辻斬りなどが起こらないよう見張る小屋である。
 大名は、単独で一か所ないし数か所を設けて足軽を置き、旗本は単独で設けるのは経済的に厳しいので、近所同士で何家か共同して置いた。こうして、江戸には八百九十九か所の辻番ができた。このうち、大名のものが二百十九、旗本のものが六百八十だという。この数から言えば、一万石程度の大名だと、他と共同して置くこともあったようである。
 幕府の規定によると、辻番には、二万石未満の大名だと昼三人、夜五人、二万石以上だと昼四人、夜六人を置くようになっていた。旗本の場合は、昼二人、夜四人だった。
 幕府から辻番設置を命じられた大名は、国元から足軽を呼び寄せ、辻番とした。旗本はそのクラスの家来を出した。しかし、旗本ではなかなか辻番を維持することが難しく、十七世紀後半には請負人に任せるようになった。
■辻番は足軽
 こうして、辻番のある部分は、都市に生活する「日用(にちよう)」と呼ばれる人々が務めるようになった。「日用」とは、「人宿(ひとやど)」と呼ばれる今で言えば人材派遣業者のもとに集まる者たちで、武家奉公人や普請や作事の人夫として派遣される者である。
 十八世紀初頭の学者荻生徂徠(おぎゅう・そらい)は、その著書『政談』に、地方の農村から江戸に出てきて武家奉公などを行い、年をとって故郷にも帰れなくなった者が辻番などになっている、と書き、何の役にも立たぬ、と批判している。確かにそういう面はあっただろうが、それでも武家地にこうした施設があれば、それなりに犯罪の抑止力になったと思われる。
 幕末の事例によれば、辻番の請負は、一人一年の給金が九両となっている。これはかなりの額である。もっとも、辻番を派遣する人宿がピンハネしていたから、辻番になる者がこれだけの額をもらえたわけではなかろう。ただし、辻番は足軽役だったから、庶民でも刀と脇差の両刀を差して務めた。
 辻番は、昼夜ともに交代で務め、番所の戸は開け放ち、常時、受け持ちの地域を巡回した。もし、不審な者や喧嘩をした者がおれば、その者を捕らえ、藩邸の係に連絡し、そこから幕府目付へ知らせる体制をとった。堀にゴミを捨てる者がいればこれを取り締まり、酒に酔って倒れている者は介抱するようにと命じられている。
 もし、担当地域に死体があれば、目付に届け、それを晒し、関係者の申し出がなければそれを寺に葬らなければならなかった。江戸時代は、辻斬りでなくても殺人事件は頻発していたし、行き倒れになる者もいたから、これはよくあることだった。
 また、捨子があれば、これを保護し、捨てた者が見つからない場合は、辻番を設けた藩で養育されることになっていた。藩では、捨子に持参金をつけ、子供がいない庶民に養育させたので、捨子が絶えることはなかった。
■辻番は交番のルーツ
 将軍のお膝元である江戸のことだから、こうしたことはすべて幕府の責任で処理すべきことだったかもしれない。しかし、これをすべて行うとすれば幕府の手にも余るので、大名や旗本に委任したのである。大名らは、幕府の命令だということで忠実に務めたから、江戸の庶民のためにはよいことだった。
 こうした治安維持施設は、実はヨーロッパには見られない日本の特色である。明治七(一八七四)年、警察官が立つ場所に交番所が設けられ、同十四年には立ち番が廃止され派出所が設置された。これは江戸時代の辻番がそれなりに有効な施設だったことが再認識され、こんどは政府直轄の組織として再生されたものではないだろうか。
 現在は、日本の至るところに交番があり、警察官が常駐している。その経費はかなりのものだと想像されるが、地域住民の安全には代えられない。考えて見れば、辻とは道路が交わるところだから、辻番とはまさに江戸時代の交番だった。民間に任せる部分が多かったため、ともすれば批判される施設だったが、その意義は十分に認めなければならないだろう。
 ◎山本博文(やまもと・ひろふみ)
 1957年、岡山県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院修士課程修了後、東京大学史料編纂所へ入所。『江戸お留守居役の日記』で第40回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。著書に『「忠臣蔵」の決算書』『大江戸御家相続』『宮廷政治』『人事の日本史』(共著)など多数。学習まんがの監修やテレビ番組の時代考証も数多く手がける。2020年逝去。
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