🏞74)─4・④─数十万人が餓死した「天明の米騒動」悲惨すぎる実態と令和の米騒動とはレベルが違う。~No.304 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸時代のコメ生産は、需要・総人口3,000万人に対して供給・総生産量3,000万石で自給率100%であった。
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 天明米騒動の原因は、米不足で米価が上がる事を期待して米を買い占める商人が続々と現れ売り惜しみで米の値をつり上げたからである。
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 令和の米騒動の原因は、日本人がトイレット・ペーパー買い溜めしてトイレットペーパー騒動を引き起こしたのと同じで、日頃コメを余り食べていなかった消費者がコメの購入に狂奔したからである。
 令和の米騒動もトイレット・ペーパー騒動も、メディアが報道し煽ったからである。
 ウィキペディア
 トイレットペーパー騒動とは、1973年(昭和48年)10月31日に発生したトイレットペーパー買い占めパニックと報道をきっかけに、日本全国に広がった日用品買い占めパニックである。「オイルショックの影響でトイレットペーパーが不足する」という噂が大阪府千里ニュータウンで広まり、あるスーパーで行われたセール対象のトイレットペーパーに購入希望者が殺到したことが発端となった。その状況を毎日新聞が「定価の2倍になった」と誤報したことで不安が全国に広がり、トイレットペーパー以外の日用品へまで買い占めが相次ぎ社会問題化した。
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 2025年7月6日10:17 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「令和の米騒動とはレベルが違う…「べらぼう」では描き切れない数十万人が餓死した「天明米騒動」悲惨すぎる実態
 1783年、現在の群馬・長野県境にある浅間山が噴火した。歴史評論家の香原斗志さんは「これにより米が大凶作に。米価は高騰し、さらに米を買い占める商人が続々と現れたことで庶民は困窮した。幕府が対策するも大きな効果は得られず、全国各地で死者が続出した」という――。
 【画像】浅間山天明大噴火を描いた「浅間山夜分大焼之図」
■「天明米騒動」のすさまじさ
 「江戸は今年、米の値がえらいことになるんやないかて」。NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の第25回「灰の雨降る日本橋」(6月29日放送)では、冒頭からそんな話が飛び出した。
 その後、轟音がしたり、それにともなって地面が揺れたりと、江戸の町はただ事ではない状況に見舞われた。綾瀬はるかの「天明3年夏、浅間山が大噴火いたしました」というナレーションが入ると、今度は灰が降り出した。だが、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)は「こりゃあ恵みの灰だろう」といって、進出しようとしている日本橋通油町に出向き、屋根を着物で覆って灰から守ったり、積もった灰を捨てたりするのに尽力した。
 じつは、「米の値がえらいことになる」話と、浅間山の噴火とは関係がある。そして第26回「三人の女」(7月6日放送)では、「天明米騒動」が大きなテーマになるようだ。
 では、浅間山の噴火は「天明米騒動」とどんな関係があるのか。また、この米騒動はどうやって発生し、どんな状況につながったのか。「令和の米騒動」と、なにか共通点があるのだろうか。
浅間山の爆発音は四国まで響いた
 蔦重が日本橋に進出したのは、天明3年(1783)9月。群馬県と長野県の境に位置する標高2568メートルの浅間山が大噴火したのは、ちょうどその2カ月前、7月のことだった。4月9日にはじまった噴火は6月下旬に頻度を増し、7月5日から激しくなった。
 大規模に噴火しては、火砕流が繰り返し発生した挙句、7月7日から翌朝にかけて最盛期を迎えた。火砕物と火山ガスが続けざまに勢いよく噴出するプリニー式噴火が起き、マグマの総噴出量は東京ドームの403個分に相当する0.5立方キロメートルにもなったという。爆発の大音響は、7月8日午前には四国にまで届いたほどだから、江戸ではさぞかし大きな音がしたことだろう。
 このとき土石雪崩が発生し、北麓の鎌原村(現嬬恋村)では、全村152戸が一瞬にして飲み込まれ、483人が犠牲になっている。赤く熱した石が降ってきて家が焼けたり、軽石に家が押しつぶされたりする被害も、後を絶たなかった。また、土石雪崩は吾妻川利根川を下って、遠く江戸湾や太平洋にまで到達している。
 それほどの噴火だから、噴煙も地上約10キロ以上の成層圏まで届き、広い地域に火山灰が降り注ぐことになった。噴煙が偏西風に流されたため、灰はとくに風下で激しく降ったという。
■東北で数十万人が餓死したワケ
 気温の上昇が激しい昨今と逆で、江戸時代は世界的に小氷河期といわれ、気温が低めだった。そこに浅間山が噴火して、噴煙が成層圏を覆い、さらに同年、アイスランドラキ火山も大噴火した。その影響で、北半球の気温は年間平均1.3度下がったという。
 しかも、浅間山が噴火する前年の天明2年(1782)から、悪天候や冷害が原因で飢饉が発生しており、とくに東北や関東で被害が甚大だった。そこに噴火で追い打ちがかかったのである。
 火山灰は浅間山から近いとはいえない秩父(埼玉県秩父市周辺)で15センチ、佐倉(千葉県佐倉市周辺)で10センチほど積もったという。だから、周辺の農業が全滅したのはいうまでもないが、そのうえ火山灰が降り積もったまま流れ下った吾妻川利根川が各地で氾濫し、田畑が荒廃した。加えて、冷害等による被害も甚大だった。
 こうして大凶作がもたらされたが、なにしろ前年も不作だったから、そもそも余剰米がない。それでも、江戸や大坂は各藩から米が移送されていたからまだマシだったが、米を送ってしまった末に収穫がほぼゼロになった弘前藩(青森県)など東北の各地は、悲惨な状況になった。東北地方の太平洋側では、天明3年(1783)から4年(1784)にかけ、数十万人が餓死している。
■暗躍する中間の卸売業者
 こんな状況だから、都市部でも米はどんどん高騰した。ただ、原因は米の収穫量が減ったことだけではなかった。米を買い占め、高値になったところで売り払おうと目論む中間の卸売業者の暗躍で、米価はなおさら高騰することになった。このあたりは令和の米騒動と変わらない。
 だが、こうした不条理には、庶民はいつの時代にも気づき、敏感に反応するようだ。蔦重が日本橋に進出した天明3年(1783)9月、浅間山に近い上野国(群馬県)西部で「打ちこわし」が起こった。買い占めている米を市場に放出することを求め、農民たちが商人たちの店や家に押しかけ、破壊したり焼き払ったりしたのである。
 これを機に、飢饉の被害が深刻な東北から関東にかけての広範囲で、打ちこわしが頻繁に発生するようになった。
 この時点まで、幕府もほとんど無策だったが、さすがに打ちこわしの衝撃は大きく、対応策を講じている。最初に、江戸での米価引き下げを命じた。天明3年12月7日には「備蓄米」の放出もはじめた。当時、各大名は非常時の対策として、居城に「城詰米」を備蓄しており、幕府は飢饉の被害が小さい近畿、中国、九州の37大名に、城詰米を江戸に廻送するように命じたのである。
■米を買い占める商人が続々と
 年が明けて天明4年(1784)になると、幕府は江戸町奉行所に命じて、江戸の米問屋の米蔵を検分させている。米が市中に流通するように、奉行所から圧力をかけたのだ。同時に米穀売買勝手令も出された。一時的な措置だが、かぎられた業者しか携われなかった米の流通と販売を、だれもができるようにしたのだ。
 それでも中間の卸売業者は、いつの時代もしぶといということだろうか。米を買い占めている商人たちの多くは、高値で売る期間をねらって放出を渋ったから、事は穏やかに済まなくなった。武蔵多摩郡村山(東京都東村山市)に集結した農民たちは、こうした商人たちへの打ちこわしを行った。
 ただ、ここまでは飢饉も、米騒動も、ほとんど東日本に限定された現象だったから、打ちこわし等が起きる地域もかぎられていたが、天明6年(1786)になると状況が大きく変わった。風水害が全国に広がって、米の収穫量が平年の3分の1にまで減ったからだ。それでも、中間卸業者たちは米を放出しなかった。むしろ、いままで以上に高く売れると見込んで貯め込んだ。
 幕府は米穀売買勝手令をふたたび発布するなど、米の流通を促そうとしたが、米を買い占めて利益を上げようとする商人が次々と現れ、効果は得られなかった。
■幕府は「大豆を主食に」と勧めるも…
 発火点は大坂だった。天明7年(1787)5月、大坂で米を買い占めている商人への打ちこわしが起き、大坂中に、続いて関西全域に飛び火し、あっという間に東北から九州まで拡大。この月だけで全国30以上の都市で打ちこわしが発生し、ついには江戸にも広がった。
 このころ江戸では、米価が2年前の2倍、3倍に高騰し、そもそも米を入手できなくなった。米価高騰のあおりでほかの食糧の入手も難しくなり、生活苦にあえぎ、両国橋などから隅田川に身を投げる人が続出したと伝えられる。町奉行所は5月19日、大豆を主食として勧める町触まで出したが、効果はなかった。
 5月20日、赤坂(千代田区赤坂近辺)の米屋が襲われたのを機に、江戸中で500軒を超える商家が打ち壊された。
 ところで、「べらぼう」で渡辺謙が演じている田沼意次が失脚したのは、飢饉が全国へと広がった天明6年(1786)8月で、江戸で打ちこわしが相次いだのちの天明7年(1787)の10月には、あらためて蟄居を命じられ、残された領地もほとんど召し上げられた。むろん、浅間山の大噴火からの天変地異と飢饉、それを発端にした治安悪化等の責任を取らされた面が否定できない。
 だが、それだけではない。浅間山の噴火が大きな原因となった世界的な飢饉は、1789年のフランス革命の原因のひとつになった、とも指摘されている。鎖国をしていた日本における米騒動は、こうして世界とつながっているのである。

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 香原 斗志(かはら・とし)
 歴史評論家、音楽評論家
 神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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 7月6日17:17 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「そりゃ米騒動が起こるわ…大河「べらぼう」で描かれる「流通不足→米価つり上げ→対策失敗」240年前の悪循環
 昔から米の値段が急騰すると、一揆などが起き、時の政権は転覆してきた。作家の濱田浩一郎さんは「大河ドラマ『べらぼう』(NHK)では幕府老中の田沼意次(渡辺謙)が米価の高騰を解決するようだが、実際は意次は有効な手を打てなかった」という――。
 【画像】映画『Fukushima50』の記者会見に出席した俳優の渡辺謙(「べらぼう」の田沼意次役)
■凶作で米価が高騰、田沼意次はどうしたか?

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 「米が、ない?」
 「おととしの米なら」

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 そんな予告編が流れた、大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)第26回「三人の女」では、2025年の今に通じる米価の高騰が描かれます。
 浅間山の大噴火による降灰と冷夏による不作で米の値段が高騰し、江戸幕府の要職にある老中・田沼意次(渡辺謙)らが対策に追われるのでした。ドラマにおいて意次は商人らに「米の値下げを命じよ」と指示。しかし効果は薄く、有効な対策をとれず、紀州徳川家徳川治貞(高橋英樹)に叱責されるありさまでした。結局、意次らは米問屋や仲買が売り惜しみをしないよう米に関連する「株仲間」を廃止し、難局を乗り切ることになりました。
 これが今回の概要ですが、ここには大きな嘘があると筆者は感じます。その嘘が何かは後で見るとして、それではまず、株仲間とはいったい何かということを見ていきましょう。
 株仲間とは端的に言うと「商人・手工業者たちによる特権的な結合組織」のことです。商人らの同業者仲間は元来より存在していましたが、それが株仲間として公認されたのは8代将軍・徳川吉宗(1684〜1751年)による享保の改革の時です。
徳川吉宗の時代は米価が安く、幕府は苦心
 享保期は米の値段が安い状態でした。ところが米が安い代わりに米以外の商品の値段がかなり高くなっていたのです。これは「米価安の諸色高」と呼ばれています。徳川吉宗は「米将軍」として有名ですが、それは幕府の財政再建のため新田開発と年貢の増徴を行なったこと、米の値段を引き上げるのに苦心したことに由来しているのです。
 「令和の米騒動」が起こっている今から見ると信じられないことですが、では吉宗はなぜ米の値段をわざわざ引き上げようとしたのでしょう。それは、米の値段が安い状態が続けば、年貢米が増えたとしても財政収入の増加に直結しないからです。そこで幕府は物価を安定化させるため、また奢侈品(しゃしひん)禁止令の励行のため株仲間を公認したのでした。
 幕府は株仲間を公認し、それに営業の独占を認めると共に、株仲間を通じた流通・商工業の統制を図ろうとしたのです。流通の統制を図り、主要商品の価格を落ち着かせようとしたのでした。しかし、幕府の努力にもかかわらず(1732〜33年の享保の飢饉の時を除き)、米価の安い状態は続きます。
■「備蓄米」を流通させず、米価を上げようとした
 それは意次が権勢を誇った「田沼時代」にも続いていたのです。当然、米価が安いということは幕府や諸藩の財政、ひいては武士の家計に打撃を与えます。では意次の時代にはどのようにして米価を引き上げようとしたのでしょう。
 手法の1つとして挙げられるのが「囲籾(かこいもみ)」(囲米)です。囲籾とは幕府が飢饉(ききん)などの非常時に備えて諸藩や村に命じて備蓄した籾米、つまり「備蓄米」のこと。しかし米価調節にも利用されました。米を大名の領内に留め置くことによって米の流通量を減らすことができれば米価は高くなるのではと考えたのです。
 手法の2つ目は「買米(かいまい)」でした。米価の低下に歯止めをかけるため、市中から米を買い上げ、米の流通量を減らすことにより米価を上げようとしたのです。
 米価引き上げ策と共に採られたのが、諸物価の引き下げ策でした。「べらぼう」においては、田沼意次は米に関わる株仲間をしばらく廃する策を打ち出し、難局を乗り切るようです。だが、現実には田沼時代には株仲間の公認が広く行われていたのです。都市部のみならず農村部においても株仲間を公認したのです。
■米商人の「株仲間」を廃止した為政者は…
 幕府は株仲間に営業上の特権を与える代わりに献納金を差し出させていました。このような金のことを「冥加金(みょうがきん)」「運上金」と呼びます。冥加金の増加は幕府の財政に寄与します。一方、商人にとってもそれにより営業上の特権を得ることができる。相互利益になるという訳です。株仲間を広範に認可することにより、幕府財政収入の増加と商品流通統制の強化(それによる諸物価の安定化)を狙ったのです。
 田沼意次は米に関わる株仲間をしばらく廃する策を打ち出してはいません。冒頭で筆者が書いた「嘘」とはこのことを指します。将来的に幕府は米・油・炭などに関する株仲間を廃止することになるのですが、それを主導したのは田沼意次ではありません。
■老中となった松平定信構造改革したが…
 では、米など生活必需品に関する株仲間を廃したのは誰か。意次の次に登場し「寛政の改革」を断行する老中・松平定信です。とはいえ、定信も全ての株仲間を廃止した訳ではありません。ごく少数の株仲間を廃しただけです。定信もまた株仲間に冥加金の上納や物価調節の役割を期待していたのです。
 定信の老中就任前には新たな問題が起こり、それへの対応が迫られていました。連年の飢饉(天明の大飢饉)により、米価や諸物価が高騰していたのです。定信が老中首座となる天明7年(1787)の前年(1786)には全国の米の収穫は「平年の3分の1」となっていました。当然、飢饉の影響は田沼時代の末期にもありました。全国的に米の値段が上がり、人々は生活に困窮していたのです。
■田沼の嫡男が暗殺され、米価が下がった
 そうしたときに起きたのが、田沼意次の子・意知(「べらぼう」では宮沢氷魚)の斬殺事件(1784年)でした。意知を殺したのは旗本・佐野政言(同・矢本悠馬)ですが、政言は殺人犯にもかかわらず、庶民から「世直し大明神」として崇められます。それは一説によると刃傷事件の翌日に米の値段が下がり始めたからでした。
 一方、意知の葬列には人々から石が投げられています。この逸話からは米価高騰に有効な対策がとれない「田沼政権」への人々の不満が溜まり、ついにそれが爆発した様が垣間見られます。意知が殺害される前年には大飢饉により、各地で打ちこわしや一揆が発生していました。天明年間は江戸時代の中で一揆や打ちこわしが多発した時期といわれています。それらは「天明の大飢饉」による米価高騰に起因した「米一揆」でした。
 さて定信は米の値段が上がったのは、商人が米価を操作したり、米の生産が停滞しているからと考えていました。米の生産が停滞したのは、農民が都市へ流出したこと、農業以外の職業に就くようになったことなどが要因と定信は睨んでいます。また庶民の生活が全体的に奢侈となったことも様々な商品の物価高騰を招いた要因と考えていました。
 よって定信は「田沼時代」に続いて倹約令を出し、更には風俗統制を強め、農村復興を図ろうとするのです。しかし「寛政の改革」の倹約令を中心とする景気の極端な抑制策は、庶民に強い不満を生じさせ、改革は頓挫(とんざ)することになります。
■米価にのせるマージンを廃止、どうなったか
 さてこれまで見てきたように、定信も「田沼時代」の政策を踏襲した面もありました。株仲間の多くを存続させたこともそうです。株仲間に関しては物価高の根源との批判がありましたが、定信もそれを廃することはできませんでした。商人らは幕府への冥加金を調達するため、物価を高く設定している。また株仲間は排他的である。よって株仲間を廃止し、冥加金の上納を免除すれば物価は安定するという見解(中井竹山『草茅危言』)もありました。
 株仲間を解散させたのは、天保の改革を主導した水野忠邦でした(1841年)。ところが株仲間の解散は流通の混乱を招き、景気は悪化。社会に大きな混乱をもたらすことになります。田沼時代からの一連の改革を見るにつけ、改革というものの困難さを痛感します。
 「令和の米騒動」の今、小泉進次郎農水相は「コメは作らないでという農政から、意欲をもって作り、余っても海外輸出するなど中長期を見据えた農政の根本的改革を実現したい」と語っています(原知恵子「小泉進次郎農水相、コメ生産者と面会「作らない農政」改革にも意欲」朝日新聞2025年5月24日)。筆者も「農政の根本的改革」には賛成ですが、改革によって生じる「負の側面」「弊害」にも目を向け、それへの対応をしっかりしていけば万全の対策となるのではないでしょうか。
 参考文献
藤田覚松平定信』(中央公論社、1993年)
藤田覚田沼意次』(ミネルヴァ書房、2007年)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)
清水光明「べらぼうコラム5 老中・田沼意次が進めた政策で物価高に? 「株仲間」の積極的公認がもたらした影響とは」(「ステラnet」2025年2月2日)

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 濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
 作家
 1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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 7月6日 YAHOO!JAPANニュース シネマトゥデイ「「べらぼう」備蓄米、古古米…米騒動が恐ろしいほどに現代と酷似
 第26回「三人の女」より - (C)NHK
 横浜流星主演の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(毎週日曜NHK総合よる8時~ほか)の6日放送・第26回では、蔦重(横浜)らが米の高騰に打撃を受けるさまが描かれ、現在の日本と重なる描写の連続に驚きや共感の声が相次いだ(※一部ネタバレあり)。
 【画像】まるで今の日本…天明の大飢饉描く第26回場面写真
 前話の冒頭でも大坂の本屋・柏原屋(川畑泰史)が蔦重に「江戸は今年米の値がえらいことになるんやないかて」と話す場面があったが、第26回「三人の女」ではその言葉通り米の値上がりによって人々の生活が困窮するさまが克明に描かれた。浅間山噴火の灰と冷夏による不作を受け、大坂の市場では米の値がつり上がり、その影響で江戸市中では前年の倍にまで値上がり。老中・田沼意次渡辺謙)は差し迫った様子で、商人たちに米の値を下げるよう指示を出した。
 一方、日本橋に店を構えた蔦重も米の高騰に頭を抱えることに。奉公人たちの食事のみならず来客も多く、さらに当時はおかずが少ない代わりに今では信じられない量の米を食していたという。やがて蔵の米が残り一俵になると、蔦重は駿河屋(高橋克実)に相談し、米を安く売ってくれるなじみの札差を紹介してもらう。
 徳川治貞高橋英樹)が意次に告げた「“囲い米”を市中に放てば事が収まるのではないのか」(備蓄米放出)、札差・大引赤蔵(林家たい平)が蔦重に話した「“おととしの米”ならもっと安くおろせるぞ」(古古米)の言葉、米屋に列をなす人々、「江戸市中では昨年の値の倍」など、今まさに日本で起きている現象が描かれ、SNSではあまりの既視感に「時事ネタ」「なんというタイムリーな」「令和の話してる?」「すごい聞き覚えのある会話」「脚本いつ書いたの?」「怖いほどシンクロ」「現実とリンクしまくりでつらい」「備蓄米まで出てくるとは…」と沸いていた。
 そんな苦境の中でも蔦重は相変わらずのポジティブ思考で、自分にできるのは「天に向かって言霊を投げつけることだけ」と狂歌集「歳旦狂歌集」を制作。また本エピソードではかつて蔦重を捨てた実母つよ(高岡早紀)が登場。いつの間にか奉公人たちにまぎれてちゃっかり米を食しており、「今さら何しにきやがったんだ!」「出てけばばあ」と追い出そうとする蔦重をよそに、髪結いとして培った驚くべき人たらしぶりで居座るさまが痛快に描かれ「人たらしは母譲り」「人たらしのDNAは強い」と血は争えない描写が注目を浴びた。(石川友里恵)
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 7月7日 MicrosoftStartニュース よろず~ニュース「大河「べらぼう」天明の大飢饉の惨状ー井戸の中で巡礼者が見た凄惨な光景とは?
 大河「べらぼう」天明の大飢饉の惨状ー井戸の中で巡礼者が見た凄惨な光景とは?
 © よろず~ニュース
 大河ドラマ「べらぼう」第26回は「三人の女」。老中・田沼意次の時代に「天明の大飢饉」(1782〜1787)が発生します。冷害や浅間山の大噴火が重なり凶作となり、飢饉となったのです。特に奥羽や関東地方の被害が大きく、餓死者や病死者が続出しました。飢饉と飢餓は赤子をも襲います。飢えた赤子は母の乳房から乳を吸おうとするのですが、母も飢えた状態であり、乳は絶えて出ません。するとその赤子は餓えが迫り、母親の乳房を食い切り、父親の腿にも喰らい付いたとされます。「病犬」のような状態になってしまったのでした。
 凄まじい逸話ですが、天明の大飢饉にまつわる次のような話もあります。1人の巡礼者が南部から秋田に出ようとしたのですが、その時、至るところに20・30と屍が積み重ねられているのを目にします。餓死者の死体です。日が暮れたので、巡礼者は宿泊させてくれる家を探します。一軒の大きな家を見つけたので、巡礼者は一夜の宿を借りようとするのでした。その家から出てきたのは、1人の老人。その老人は「夜の具はいくらでもあるが、米は1粒もありません。それで苦しくないのなら、泊まってください」と巡礼者に話します。それに対し、巡礼者は「私は廻国の者です。よって米の用意は少しはあります。それを炊いてご老人にも振る舞いたいと思うのですが」と答えるのでした。
 するとその老人は「一族の者は皆、死に絶えました。如何なる罪業のためか私1人が死に遅れた。今更、生きていても仕方がない。1日生きれば1日の苦しみ。私はもう物は食べず、1日でも早くあの世に行きたいのです」と語ります。巡礼者は米を炊くため井戸に行き、水を汲もうとするが、一滴の水もありません。家に戻りその事を老人に話すと、それは水が涸れたというよりは「井戸が死人で埋まっているから」ということでした。明かりを持って巡礼者が井戸に行ってみると、果たして老人が話した如く、井戸の中は死屍累々。餓えに絶えかねて、井戸に身を投げて亡くなった人々のご遺体だったのでしょう。
 (主要参考文献)
 大塚久『鈴木為蝶軒』(鈴木為蝶軒翁景徳会、1925年)。
 (歴史学者・濱田 浩一郎)
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