♨9)─1─江戸時代、年間約20万人の庶民が「大山詣で」に出かけていた。~No.24No.25No.26 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 江戸の町の人口は、約100万人で庶民は50万人であった。
 江戸時代の総人口は、1600年頃で約1,200万人で1868年で約3,000万人。
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 2025年7月5日 YAHOO!JAPANニュース MANTANWEB「<ブラタモリ>年間100万人が訪れる人気の大山 “江戸のヒーロー”も参拝、その秘密とは? 天空の神社に驚きの超巨大奉納品
 7月5日放送の「ブラタモリ」の一場面 (C)NHK
 タレントのタモリさんがさまざまな街を訪ね歩くNHKの人気バラエティー番組「ブラタモリ」(総合、土曜午後7時半)。7月5日は前週に引き続き江戸っ子の間で大ブームとなった大山詣(まい)りの魅力に迫る。
 【写真特集】驚きの超巨大奉納品って? タモさんも興奮! 番組カットを公開!!
 旅の舞台は神奈川県伊勢原市にある大山。年間約100万人が訪れる人気の山で、山上の大山阿夫利神社は多くの参拝客で賑わう。今回は山を登り参拝へ。“江戸のヒーロー”火消しがなぜ大山に? その秘密は急峻な山の成り立ちにあった。
 山頂から見えるのは大パノラマの絶景。天空の神社で、驚きの超巨大な奉納品と出会う。
 タモリさんの旅のパートナーは、NHK広島局の佐藤茉那アナウンサーが務め、ナレーションをシンガー・ソングライターあいみょんさんが担当する
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 大山詣で・伊勢詣で・江ノ島詣でなどは、四国巡礼や秩父巡礼などの宗教性の強い巡礼とは違い、当然、信仰心を突き詰めるキリスト教イスラム教、ユダヤ教チベット仏教、その他の宗教でおこなわれている巡礼とも違い、日本民族が好む単純明快な娯楽としての「物見遊山」にすぎない。
 日本民族は、宗教に深入りせず神や仏に精神的「御利益」「恵み」を求めても、宗教にのめり込んで神仏を信仰し「奇跡」「恩寵」を求めてはいない。
 何故なら、日本民族は、自分を忘れて一生懸命に神仏に祈った所で、多発する自然災害である噴火・地震津波・豪雨・洪水・疫病・大火・その他が一つでも「消える・なくなる」という奇跡は「絶対」に起きない事を知っていたからである。
 宗教や神仏は、自然災害には無力だが、有用であって無用ではない。 
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 昔の日本民族は、反宗教無神論現代日本人とは違い、宗教意識が強く、信仰心が篤く、迷信深く、験を担ぎ、日本固有の民族神話や自然崇拝を信じていた。
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 江戸時代の貧しい庶民は、各地の神社仏閣への参拝、名所旧跡の観光地や名湯と呼ばれる温泉を巡り、地域地域の郷土料理や銘菓を食べ歩く「旅」を楽しんでいた。
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 日本における土着の神々は、中国や朝鮮の徳が高い観念的高尚な神とは違い、世界宗教であるキリスト教イスラム教・ユダヤ教などの唯一絶対の神とも違っていた。
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 大山詣りに熱狂した江戸の町人たち~神奈川県の歴史~
 まっぷるトラベルガイド編集部
 更新日: 2024年1月13日
 大山詣りに熱狂した江戸の町人たち~神奈川県の歴史~
 江戸時代中期、江戸に暮らす町人たちは「大山詣り」に熱狂しました。
 独特なルールのある大山への参詣が、江戸の男衆の心をつかんだのです。
 目次
 大山詣りと霊山・大山
 大山詣りは江戸庶民に大人気だった!
 大山詣りの主要道「矢倉沢往還
 大山詣りの独特なルールは源頼朝がルーツ!
 大山詣りは江戸の町人文化として浸透し浮世絵や古典落語にも!
 『神奈川のトリセツ』好評発売中!

 大山詣りと霊山・大山
 大山とは神奈川県中部の3市(伊勢原市秦野市厚木市)の境に位置する標高1252mの山です。山頂からは祭祀用と思われる縄文土器が出土したことからもわかるように、古くから山岳信仰の対象とされてきた霊山です。
 中腹にある大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)(伊勢原市)では、かつて旧暦6月27日から7月17日にかけて奥の院に祀られた石尊大権現への参詣が許され、この期間に参詣することを「大山詣(おおやままいり)」と呼びました。
 大山詣りと霊山・大山
 現在もハイキングコースとして人気の大山山頂周遊コース(大山阿夫利神社下社〜見晴台)
 大山詣りは江戸庶民に大人気だった!
 かつても獅子山といわれる石造物群があったといわれるが、関東大震災で流失。写真は「平成の大山獅子山」といわれる
 江戸時代には、庶民の旅行は禁じられていたものの、信仰目的(伊勢詣り、富士詣りなど)であれば許可されたため、多くの参詣者が大山を訪れるようになりました。
 とくに江戸庶民のあいだでは、商売と博打の御利益があると信じられたことも、大山詣りの人気に拍車をかけました。宝暦年間(1751~1764年)には、年間20万人が来山したという記録も残っています。
 大山詣りの人気の理由
 大山詣りが人気を博した理由としては、江戸からの距離的な近さも挙げられるでしょう。 江戸から歩いて2~3日で参拝できることから、行楽地として重宝されました。
 大山詣りの主要道「矢倉沢往還
 江戸から大山詣りをするルートには複数ありますが、もっともポピュラーだったのが矢倉沢往還(やぐらざわおうかん)です。
 矢倉沢往還は江戸の赤坂御門を起点とし、渋谷、三軒茶屋二子玉川溝の口荏田長津田、下鶴間、国分、厚木 ……と、ほぼ現在の国道246号と同じルートを経て、厚木から伊勢原、大山へと至ります。
 東海道脇街道であり、さらに西へ進むと矢倉沢関所があったことから矢倉沢往還と名づけられました。しかし、江戸時代中期以降には江戸から大山への参詣客が多く利用したことから、大山街道と呼ばれるようになります。
 大山詣りの主要8道
 江戸の赤坂御門を起点とする矢倉沢往還は、渋谷、三軒茶屋二子玉川溝の口荏田長津田、下鶴間、国分、厚木、伊勢原などを経て大山に至る約70㎞の参詣道。これはおおむね国道246号に相当し、また東急田園都市線三軒茶屋長津田付近)や小田急線(国分~愛甲付近)が同様のルートを走っています。
 ほかに厚木往還(八王子通り大山道)など、各地から大山までの道のりにはいくつかの主要道がありました。
 大山詣りの独特なルールは源頼朝がルーツ!
 なお、この大山詣りには独特なルールがありました。参詣に向かう前に、まず隅田川で水垢離(みずごり)をしたのです。そして翌朝、白の浄衣を着用し、木刀(白木の太刀)を携行して江戸を発つのでした。
 なぜ木刀をもっていくのかというと、源頼朝大山阿夫利神社に戦勝祈願の太刀を奉納したことに由来します。参詣者は木刀を神社に奉納し(納め太刀)、代わりに別の木刀をもらい、もち帰った木刀を自宅の神棚に飾りました。
 やがて大山詣りが浸透してくると、江戸っ子のあいだでは派手な太刀を奉納するのが粋であるとされ、なかには6mもの太刀を納めた強者もいたといいます。
 大山詣りは江戸の町人文化として浸透し浮世絵や古典落語にも!
 ちなみに、かつて大山阿夫利神社奥の院は女人禁制であったことから、大山詣りは江戸の男衆のあいだで盛んでした。大山参詣を終えた男衆は、藤沢宿などで一泊し、博打や女遊びをしたり、江の島や金沢八景を観光したりと、参詣にかこつけて大いに羽を伸ばしていたのです。
 大山詣りのようすは、数々の浮世絵に描かれ、また古典落語大山詣り」の題材にもなりました。
 このように大山詣りは、ただ参詣に終始するものではなく、江戸時代の町人文化として広く浸透していたのです。それゆえに、2016年には文化庁が認定する日本遺産に選出されています。
 大山阿夫利神社
 住所
 神奈川県伊勢原市大山355
 交通
 小田急小田原線伊勢原駅から神奈中バス大山ケーブル駅行きで28分、終点で大山ケーブル阿夫利神社行きに乗り換えて6分、終点下車、徒歩5分
 料金
 無料
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 江戸庶民の信仰と行楽の地
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 江戸庶民の信仰と行楽の地~巨大な木太刀を担いで「大山詣り」~
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 江戸庶民の信仰と行楽の地~巨大な木太刀を担いで「大山詣り」~江戸庶民の信仰と行楽の地~巨大な木太刀を担いで「大山詣り」~
 現代に受け継がれる、粋な江戸庶民による大山詣り
 現代に受け継がれる、粋な江戸庶民による大山詣り
 悠久の歴史のなか、変わることのない端麗な姿で、人々の心を魅了し、癒してきた、ふるさと伊勢原のシンボルである大山。 平地から見ても存在感のある大山は、古代から信仰の対象となり、「大山詣り」として、江戸の人口が100万人の時代に、年間20万人もの参拝者が訪れたと言われています。
 別名「雨降山」とも呼ばれる大山は、雨乞いや五穀豊穣の祈願だけでなく、商売繁盛にも御利益があり、また、帰りがけに江の島などの観光地に立ち寄っても江戸から5日程度。レジャーも兼ねて気軽に出かけられたことが、粋で遊び上手な江戸っ子たちの心を捉えたのでしょう。
 現代に受け継がれる、粋な江戸庶民による大山詣り
 現代に受け継がれる、粋な江戸庶民による大山詣り
 上:大山寺 下:山頂からの眺望
 「大山詣り」の参拝者の多くは「講」と呼ばれる町内会や同業者組合による団体で、皆で費用を積み立て、お参りツアーとして「大山詣り」に出かけていたのです。その風習は現代まで引き継がれており、春先から夏にかけて多くの講が参拝に訪れ、行衣という白装束を纏った方々が参道を登る姿は江戸の風景を想起させます。
 講をお迎えする宿坊の主人は、「先導師」と呼ばれ、先祖から代々引き継がれています。今では個室を備えた宿坊も増えており、一般のお客様も安心して泊まることができます。
 先人が憧れ、楽しんできた「大山詣り」は、江戸の粋を今に伝える講の方々だけでなく、大山を訪れ、楽しむすべての人たちによって継承され続けていく文化です。


 江戸庶民の信仰と行楽の地
 大山への信仰は古く、奈良時代には、霊山寺(現・宝城坊。通称・日向薬師)、石雲寺、大山寺が開かれ、平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」に記される阿夫利神社や比々多神社、高部屋神社の成立などにより、信仰の地としての姿が整えられていった。
 貞秀・雨降神社真景
 大山は別名を「雨降山(あめふりやま)」と呼ばれるなど、雨乞い、五穀豊穣、商売繁盛を願う多くの庶民が「大山詣り」に訪れた。しかしながら、人々を惹き付けたのは神仏の御利益だけではなかった。
 大山詣りを仕掛けた御師の生い立ち
 戦国時代末期の天正18年(1590年)、豊臣秀吉の軍勢により北条氏が滅ぼされた戦いにおいて、大山の修験者たちは武装し北条氏と共にいた。その後、江戸近郊に僧兵の武装勢力があることに危機感を持った徳川家康は、大山を純粋な信仰の地とするため山内改革を行い、寺領を寄進し経済的な支援をする一方で、修験者や妻帯している僧侶たちを大山寺から追放した。
 不動明王及び二童子
 家康に下山を命じられた者たちはその信仰心を断ち切らず、生き残り策として中腹で神殿を備えた宿坊を営む御師となった。御師たちは、宿坊や土産物屋を営みながら、年に100日以上にわたり関東一円の檀家を廻って御札を配り、初穂を集め、大山寺に祀られる「不動明王」と山頂に祀られる「石尊大権現」の霊験を広める地道な布教活動に励んだ。
 信仰と行楽を兼ね備えた大山詣り
 (1)庶民の遠出を叶えた大山講
 大山は、関東一円どこからもその神秘的な容姿を望むことができ、江戸方面からは富士山とともに眺めることができる。当時、富士詣りも人気があったが、富士へ行くには少なくとも7日を要し、箱根の関所を通る手形が必要な大旅行であった。一方、大山詣りは、関所も通らず、帰りがけに江ノ島金沢八景を経由しても3日か4日程度といった観光を兼ねた小旅行であった。
 しかしながら、いかに江戸から近い大山詣りとはいえ、1人での参拝となると費用の工面は困難であった。そうしたことから、同じ職種の職人同士や今でいう町内会を単位とする大山詣りを目的とした講を組織し、費用をみんなで積立て順番制で大山に向かうといった仕組みを作り上げた。御師たちの熱心な布教もあり、関東一円をはじめ静岡、山梨、長野、新潟、福島に広がり、最盛期には100万戸を超える檀家がいた。
 こうして、江戸から距離的に近い利便性と大山の歴史的由緒を生かし、霊験あらたかでありながらも、厳しい修行や戒律を伴わない、気軽な信仰と行楽を兼ね備えたものとして大山詣りはできあがっていった。
 (2)納め太刀を担ぎ「いざ!大山へ」
 東海道五十三次細見図
 関東一円から大山へと続く道は「大山道」と呼ばれ、江戸を出立した参拝者たちは相模湾を左手にして、はるか向こうの富士山が背後に見える大山を目ざし、要所にたてられた石造りの道標をたどりながら楽しげに歩を進めた。
 大山講の一行、いわゆる講中が江戸から肩に担いで運んだ巨大な木太刀は、源頼朝が武運長久を祈願して自分の刀を大山寺に奉納したとされることに由来し、参拝に際して奉納する納め太刀である。庶民による参拝では他に例をみない、唯一大山詣りで行われたものである。
 幅広い人々に親しまれた大山であったが、日頃高い所での仕事が多く、遠くに見える大山に特別な感情を抱いていた鳶や大工、火消しといった職人たちでつくる講も多くあった。こうした職人たちは水や石への縁起を担ぎ、「雨降山(あめふりやま)」の名や山頂の「石尊大権現」にあやかって御利益を求め参拝に訪れ、粋にこだわりを持つ講中同士が競い合ううちに納め太刀も徐々に大きくなり、7メートルに及ぶものも奉納されている。また、参拝者の中には、ばくちに負けて借金取りから逃げるように大山詣りをした者もいた。納め太刀には、五穀豊穣、商売繁盛などの願いとともに庶民の武運長久とも言える勝負運を上げる意味も込められていた。
 (3)歌舞伎や浮世絵の題材となった大山詣り
 豊国III・大當大願成就有が瀧壷
 参拝者たちは中腹にある滝に打たれ身を清める滝垢離をしてから登拝する。粋な職人たちにとっての滝垢離は、互いに彫りものを披露し合う大山詣りならではの舞台でもあった。
こうした姿をはじめとして大山詣りに多くの人々が関心を寄せていたことから、歌舞伎や浄瑠璃、落語、川柳などに取り上げられ、また、参拝者たちが大山に向かう道中の様子や、歌舞伎役者がふんする彫りもの姿で大きな納め太刀を手にして滝に打たれる姿などを描いた浮世絵が売り出されたこともあり、更に多くの人々の興味や関心を呼び起こし、江戸の人口が100万人であった頃、年間20万人もの参拝者が大山を訪れている。
 (4)参拝客をもてなす宿坊と麓の繁栄
 玉垣
 参拝の講中を歓待する宿坊は、講の所在地とその名称が刻まれた玉垣に囲まれ、玄関先に並ぶ登拝記念の石碑や奉納された手水鉢、講の名を刻み込んだ板まねきや布に染め抜いた布まねきが御師とのつながりの強さを表し、帰宅した家族さながら講中を出迎える。
 御師たちは、参拝客の宿泊から登拝の道案内まで一切の世話をし、宿坊に備える阿夫利神社の分霊を祀る神殿で、登拝する講中の無事を祈願した。
 大山の名物となっている豆腐料理は、各地の講から奉納された大豆を利用し地元の清水でつくったのが始まりで、宿坊ごとにそれぞれの講から預かる専用の器を用いて振る舞われた。また、地域の木地師により作られた大山こまは、金回りが良くなるという縁起物で、参拝客が帰宅の際に買い求め、誰からも喜ばれることから、御師も檀家廻りの際に土産代わりに持参していた。
 大山の麓も大山詣りの恩恵にあずかり、往来する参拝者を相手とする商いはもとより、宿坊で必要となる布団や履物から日用品、酒や食料品などの取引で繁盛した。
 今に息づく庶民信仰と神秘的な魅力
 大山詣りは先導師(当地では明治の神仏分離を契機に御師を改称)により脈々と引き継がれ、今も先導師の道案内で登拝する白装束に身を包んだ大山講の一行や古くから伝わる様々な祭事を目の当たりにすることができる。
 山頂からの眺望
 宿坊や参道沿いに軒を連ねる茶店や土産物店では、当時の風情を感じることができ、もともと精進料理であった豆腐料理や猪、山菜といった地元の食材を使った食事も楽しめる。
 首都近郊に残る豊かな自然とふれあいながら歴史を巡り、山頂から眼下に広がる雄大な景色を目にしたとき、大山にあこがれた先人たちの思いと満足を体感できる。
 【江戸庶民の信仰と行楽の地 関連情報サイト】
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 産業能率大学地域マネジメント研究所
 丹沢・大山
 歴史街道ものがたり
 歴史と文化ー信仰の山に集う人々の想いー
 大山参り
 江戸時代の大山参りは、山頂に祀られた石尊社と中腹の大山寺を対象に行われていた。大山参りの人々は行者とも呼ばれ、白の行衣、菅笠に手甲、脚絆、着茣蓙(きござ)を背負い、腰に鈴をつけ「六根清浄」の掛念仏を唱えながら大山道を歩いた。この場合、遠方の講社は代参(代表による参拝)が多く、近くの講社は総参りによる登拝が中心であった。
 慶安元年(1648年)の「和令分類」によれば、江戸町人の派手な大山参りを戒める記述もみられるが、庶民の大山信仰は益々盛んになっていったとされる。この大山参りは、夏山(旧暦 6月27日~7月17日:現在の7月27日~8月17日)や春秋(2回)、それに節分を中心に行われ、近郷の村々からは、若者による裸詣りの風習もみられた。
 この裸参りは、主に高座郡(相模原、藤沢等6市と寒川町の範囲)の人が、肉襦袢に股引、白足袋の出で立ちで、鉢巻きと腰には鈴をつけ、夜通し走って登拝するもので、3~4人が組になり、大山には朝の3~5時頃(薄明かりの頃)に到着したという。正月の3ヶ日や節分時、夏山の時期にみられたという。
●夏山の期間の呼び方
 初山 : 6月27日~6月晦日(現在7月27日~7月31日)
 七日堂: 7月1日~7月7日(同8月1日~8月7日)
 間の山: 7月8日~7月12日(同8月8日~8月12日)
 盆山 : 7月13日~7月17日(同8月13日~8月17日) 
 *13日~15日を盆山、16~17日を仕舞山ともいう
 不動堂から山頂の石尊社へ向かう本坂入口には木戸(登拝門)があり、この木戸は通常閉じられ、夏山の時期の初日に、日本橋小伝馬町講中である「お花講」(大正時代のお花講は、造花の赤い花を持ち、途中銭を撒きながら登拝したとされる)により開扉されるが、元禄以前から続くこの開扉の儀式は現在も続いている。
 大山を登る人々の様子(歌川豊国)
 この頃の記録として、新編相模国風土記稿を読むと、「例祭六月二七日より七月一七日迄、二〇日の間なり、其間諸國より参詣の者甚多し、此山頂は常に山外の人、登る事を禁ずれど、祭禮中は許して社前に至らしむ〈祭禮中も女人は禁ぜり〉」と書かれている。
 このように江戸時代は、通常下社(当時の大山寺不動堂)まで登拝でき、上社(当時の石尊社)は入山が禁止されていたが、夏山の期間のみ入山が許可された。なお女人は下社まででそれより上への入山は禁止されていた。大山に自由に入山できるようになったのは明治以降のことである。
 坊入りにあたり、各御師は門前に講毎の「まねき」(講の名を記した木の札や布)を竹竿や軒先に掲げ、一般に午前中に到着した講中は、御師宅で一服した後登拝し、1泊して翌朝帰郷する。また夕刻に到着した参拝者は、その日は登拝せず、翌朝登拝した。いずれも御師の神前でお祓いを受け、行衣に鉢巻き、登山杖を使い登拝した。また登拝に弁当が必要な場合、御師は下社前の茶店に弁当を届けていたが、各講中はそのため独自の弁当箱を揃え、それを御師宅に預け使用していた。
 また登拝の前の禊として、大滝、新滝(愛宕滝)、良弁滝、元滝などで心身を清めた。落語の「大山詣り」にも見られるように、江戸時代の大山参りは江ノ島参りと一体となったいわゆる周遊型の参詣で娯楽も兼ね備えていた。また御師宅で賭事を行う人も見られ、こうしたことを楽しみにしていた人も少なくなかったとされる。
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 大山阿夫利神社に残る、願いの歴史
 遡ること、2200年以上前。崇神天皇の御代に創建されたと伝えられているのが、大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)です。大山阿夫利神社が鎮座する大山は、山上によく雲や霧が生じたことから別名「あめふり山」とも呼ばれ、雨乞いや五穀豊穣祈願の霊地として篤い信仰を受けました。山岳信仰としての歴史も長く、祭祀に使われたとされる縄文土器も山頂から発掘されています。
 奈良時代以降は神仏習合の霊山として栄え、平安時代に編纂された延喜式にも「阿夫利神社」と記される国幣の社となりました。当時から阿夫利神社は、人々の心の拠り所として在り続けました。
 武家政権下になると、武運長久の祈りの対象として、多くの武士たちの願いが寄せられるようになります。源頼朝公は平家打倒のために挙兵する際、当社に自らの太刀を納めたと伝えられています。後にこの事柄は民衆にも広く知られるようになり、人々は競って木刀を納めるようになりました。これが、今も続く「納め太刀」の起源に当たります。源氏のみならず、足利氏・北条氏・徳川氏など、代々の将軍は当社を信仰したと伝えられています。
 江戸時代前後にかけて、阿夫利神社は石尊大権現の名と共に庶民からも篤い崇敬を受け、年間20万人もの参拝者が「大山詣り」を行ったと記録されています。その絶大な人気から山内は賑わい、大山への参詣道は大山街道として整備され、周辺の町の発展にも寄与したとも伝えられています。この「大山詣り」は、古典落語の中で語られた他、数々の浮世絵や伝統芸能の中に息衝いています。
 当時から「大山詣り」は、同じ信仰を持つ人々で結成された「講」と呼ばれる集団によって行われていました。大山へ参詣する「大山講」の人々は、地域の五穀豊穣や地域の安全祈願のためにこぞって大山へ参詣しました。一方、宿坊を営む神官は「御師」と呼ばれ、山内の案内役として参詣者の世話や神社への取り次ぎを行いました。阿夫利神社への登拝時には参詣者は山内の滝で身を清め、御師にお祓いを受けて参詣するのが通例とされ、特に開山期となる7月27日~8月17日の期間には山内は大変な賑わいとなったそうです。
 また、源頼朝公が起源とされる木太刀を納める「納太刀」の風習はこの頃から行われるようになり、江戸庶民にとって大山詣りを行うことが粋であるとされ、一部の地域では大山へ登らないと大人と認められないというほどの人生儀礼の一つにもなっていきました。そのため大山は「立身出世の山」「諸願成就の山」とも言われるようになりました
 明治になると神仏分離令が発布され、全国で神社と寺院を別とする動きが起こりました。こうした背景のもと、阿夫利神社と大山寺は分けられ「石尊大権現」から旧来の「阿夫利神社」に復されることとなり、現在の「大山阿夫利神社」の名称が用いられるようになりました。
 また、明治6年には国学者の「権田直助」が阿夫利神社神祇官として招かれ、山内の仕組みをまとめ上げ現在に至る体系を築き上げました。権田翁の山内改革により、「御師」は「先導師」と改称され、時代が転換する中での混乱は治まり、大山詣りの伝統は現在でも引き継がれています。権田翁はこれらの功績から大山中興の祖として敬われました。
 大正12年9月1日、関東大震災が起こり大山でも大きな被害が出ました。山内では地震の被害の他、大規模な山津波(土砂災害)が起こり、直前で多くの人が避難できたものの多くの家屋が濁流と共に流されてしまいました。当時の様子は、住民により以下のように記されています。
 本日午前八時より 大雨沛然と襲来 且つ 雷山方面より 物凄しき
 大音響の起こると見るや 山すな大木 大水と共に押し出し 且つ
 女坂方面より 大木・石材の 流るる事夥しく 人々 上を下への驚きに
 今ははや 生るか・死ぬか・倒るるかの外 何物もな
 阿鼻叫喚の修羅場なり 大雨はしきりに至り 大木・石材の流るること
 以前として 愈々度を増すのみの 有様なり
 夜に入り 大雨壕然 石材・大木の流るる音 愈々はげしく 物凄き有様
 たとふるにもなし 今は ただ神仏を念じ 一身の安きを願ふ外
 何物もなく あたかも此世の地獄とや云ふべきなり
 夜の明くること 待ち遠し
 この被害の後、山内を流れる大山川は整備され、現在の大山の町並みへと変わっていくこととなりました。
 昭和2年小田急伊勢原駅が開業し、大山の新しい玄関口となりました。同時期に賑わいを見せていた大山阿夫利神社への参詣の便を図るため、大山観光鋼索鉄道(現在の大山ケーブルカー)の建設が始まり同12年に開通しました。
 第2次世界大戦が始まり、都市部での空襲の被害が広まると、大山は学童の疎開地になりました。主に川崎方面の児童が疎開し、宿坊で生活をしていたとのこと。終戦後、国内が復興するに伴い、旅行や登山の流行も相まって大山も再び大いに賑わうようになります。昭和42年には大山が国定公園となり、更に多くの参詣者を迎えました。そして昭和52年、大山阿夫利神社下社の御造営が行われ、現在の下社拝殿が竣工しました。
 古来から、時を超えてあらゆる人々の願いに寄り添い続けてきた大山阿夫利神社。現在も多くの人々が参拝に訪れており、大山は賑わいを見せています。さらに、300年以上の伝統を誇る「大山能」や明治時代から続く神楽舞「倭舞」「巫女舞」など、数々の文化が今に継承されています。これからも、大山阿夫利神社の願いの歴史は受け継がれ、人々によって紡がれていくことでしょう。
 大山阿夫利神社 社務局
 〒259-1107 神奈川県伊勢原市大山355
 TEL 0463-95-2006(受付時間 9:00〜17:00)
 FAX 0463-96-6167・・・
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