🌏13)─2─日本が近代中央集権を導入したのは対外戦争で勝利する為であった。~No.38  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 真面な日本人は2割、真面でない日本人は3割、無関心で傍観する日本人は5割。
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 戦争を否定する日本国憲法下で平和を愛する現代日本人には、昔の戦争が理解できない。
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 日本の庶民は、合戦・戦争を好み、キリスト教マルクス主義社会主義共産主義を嫌い排除した。
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 2020年8月13日・20年夏季特大号 週刊新潮「夏裘冬扇 片山杜秀
 令和の玉音を待ち望む
 今上天皇は第126代とされる。が、皇統の数え方は万古不易ではない。とりわけ明治末期の南北朝正閏(せいじゅん)問題は大きかった。現皇室は北朝系。ゆえに長く北朝が正統、南朝は非正統とされていた。ところが逆転した。北朝の5代を外し、南朝の3代を編入。2代減った。
 なぜそうなったのか。帝国陸海軍は天皇の軍隊。日清、日露の戦争も、兵とその家族に尊皇心が旺盛だったから勝てたとも言える。そのとき忠君愛国の鑑として国家が讃えたのは、楠木正成新田義貞南朝の忠臣だ。後醍醐天皇に命を捧げ、劣勢でも北朝即ち足利方に寝返らず、潔く散る。しかるに明治国家は一方で北朝が正統と言う。すると楠木や新田は間違ってニセの王朝に忠を尽くしたというのか。
 そう、明治国家のこだわりは、天皇に命を捧げる一枚岩の国民作りにあった。ために有用なら、現天皇の血筋と違っても、南朝正統で構わなかった。天皇を方便と割り切っていた。そもそも維新の精神がそうだろう。西洋列強に対抗するには、長州と会津が争ったり、侍と町人が心を合わせられなかったりでは論外だ。中央集権で四民平等の国民国家を作らねば国力を束ねられない。そのためにどうするか。日本は元来そういう国だったと言えば、変革もしやすい。復古される王政とは遠く奈良の律令時代。そのとき日本はほんの一瞬、天皇を政治の中心とする中央集権国家だった。その後、上皇法皇や摂政や関白や寺社や将軍や大名が国家を多元化してもとまり切らないのが、この国の長い常になる。
 明治国家はイチかバチかに賭けたのだ。日本史上唯一、中央集権の実を上げたらしいとはいえ、それはもう1000年以上も大昔の、超骨董品である天皇を担いだ。そうしたら当たった!国民を創造し命を懸けさせる装置として大成功。だが、たとえば敗戦し、天皇に捧げられた膨大な命が無駄死にと言われたら、天皇もアウトになりうる。
 でも75年前、奇跡は起きた。土壇場で昭和天皇は、神聖なる動員装置としてポーカーフェイスで黙っているのを定石とする天皇像を大胆に裏切り、聖断と玉音放送というアクロバットをやった。マッカーサーに会い、どうにでもしてくれとまで言った。明治維新から敗戦寸前までの77年間を、国民に生命財産を捧げさせる近代天皇の時代とすれば、聖断と玉音放送からの昭和天皇は、戦争を悔やみ、平和を祈り、戦没者を慰霊することで国民の信頼をつなぎとめようとすう現代天皇の時代を始めた。その思いを受け継ぎ、反戦の姿勢で戦没者慰霊の旅を続けたのが平成の天皇なのは、言うまでもない。
 神話の数えに従えば今年で2680年、百何十世代も天皇は続いている。しかし、王政復古で古代から久々に政治的生気を吹き込まれてからだと、明治から令和まで、僅か5代とも言える。しかも、戦争動員装置としての寿命は75年前に尽き、そのあとの戦争反省人間としての寿命も、戦争の記憶の風化の進む中、ほぼ尽きた。今上天皇は新しい天皇を始める宿命を負うている。
 令和の玉音が、災厄の時代を国民と共感共苦する存在としての思いを尽くして発せられることを、冀(こうねが)い奉ります。」
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 ロシアによる日本侵略の危機は、江戸時代後期、田沼意次松平定信の時代から存在していた。
 水野忠邦徳川幕府は、ロシアの侵略から蝦夷地(北海道)・北方領土樺太南部を軍事力で守るべく東北諸藩に派兵を命じ、松前藩天守閣建設と城郭強化を命じた。
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 日本は、江戸時代後半からロシアの日本侵略に怯え、母国を守る為にはロシアとの戦争は避けられないと覚悟していた。
 徳川幕府は、幕藩体制による消極的防衛戦略から、ロシアに日本侵略を諦めさせるような強力な軍事力を付けるべく諸政策を実行していた。
 薩長と朝廷は、中央集権体制による積極的防衛戦略から、ロシアの侵略を軍事力で粉砕するべく富国強兵を進めた。
 そして起きたのが、戊辰戦争であった。
 勝利した薩長と朝廷は、対外戦争ができる明治新政府を樹立し、対ロシア戦争に勝利するべく殖産興業による近代化を急いだ。
 近代教育とは、中華儒教教育であった。
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 明治新政府は、侵略してくるロシアの西洋キリスト教文明圏から母国日本を軍事力で守る為に中央集権国家を急いで作る必要があった。
 軍事的中央集権国家を造る為に採用したのが、正統派中華儒教朱子学)であった。
 中華儒教とは、中華系漢族至上主義で、教条的差別主義原理主義で、排他的で不寛容で視野狭窄的であった。
 日本儒教とは、異端派論語儒教であり、陽明学などの諸派儒教集合体の事である。
 明治政府が人材確保の為に採用した高等官吏採用試験は、西洋教育の官僚採用試験ではなく、中華儒教科挙であった。
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 明治以降の日本人兵士は、主君・主家に対する忠誠心が高い命知らずの武士ではなく、天皇と国家に対して忠誠心が疑わしく死なない為に戦わず逃げ回る危険性がある庶民(百姓や町人)であった。
 武士は、先祖代々受け継いだ土地の為に命を捨てて戦い死んだ。
 庶民には土地に対して愛着心はなく、命と土地の二者択一を迫られれば迷う事なく土地を捨てた。
 現代日本には武士は存在しないし、現代日本人は武士の子孫でもない。
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 8月27日秋初月増大号 週刊新潮「夏裘冬扇 片山杜秀
 脱中央集権としての令和維新宣言
 『事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きているんだ!』20年以上前の映画『踊る大捜査線 THE MONIE』で織田裕二扮する青島刑事が言い放ったこの台詞を最近よく思い出す。疫病禍で日本の中央集権政治体制がパンクしてしまったように思えるからだ。
 そもそも、近代中央集権国家とは、イギリスでもフランスでも日本でも、対外戦争をし、国内反乱を鎮圧するために発展した。税務署が国税を集めるのは一に軍事費の調達のため、郵便局が全国に張り巡らされたのは、恋文のやりとりを国が手助けしてあげたいからでは無論なく、徴兵や課税の通知を確実に届けるため。そこでは全国一律がとても重要だ。知床半島の奥地には召集令状も課税通知も届かないとしたら、みんなそこへ引っ越すだろう。
 国民全員が運命共同体。在住地は関係なし。一律に網を掛けるのが基本。戦争や徴税のためならそれが正しい。が、長引くうえに流行地が時々刻々と移ろう疫病禍となると話が違う。疫病の流行は、首相官邸や専門家会議の会議室ではなく地域の現場で起きている。東京や大阪や名古屋。東京でも新宿区や世田谷区とか豊島区とか。ミクロでの工夫に富んだ対応が求められる。現場の裁量を大きくし、人員や設備も増やし、機動的に動員せねばならない。
 そこで重要なのは、法律もだが、お金だ。都道府県知事や市長や区長が大胆に予算を執行できなくては、休業要請も休業補償もなかなかやれない。
 ところが戦後日本では、国から地方への権限移譲が長年叫ばれながら、実態は相変わらず。国が地方を牛耳る。唐突に学校を休みにする。布マスクや現金を配る。どれも全国一律対応だ。ミクロに目が届かない。現場を忘れたお上の発想である。そうやって国費を非効率的に使う。そんなお金があるのなら地方に与えよ。権限も非常事態特別立法の発想で一時的に地方に委ねよ。
 日本の公の収入は、だいたい国税が6割で、地方税が4割という。しかし支出は、おおよそ国が4割で地方が6割。地方は不測のお金を常に国に無心してきた。国のさじ加減が地方の生死を握る。そこにどうしても上下関係も生まれる。地方が国に忖度する。地方の独自判断の余地は狭くなる。その構造が今回は甚だしく裏目に出ている。
 お金の配分法を中央集権向けから地方分権向けに、緊急に転換させるべきだ。江戸時代、幕府は藩に領内の政治を任せた。藩は高度な自治体であった。そして幕府の直轄領は、全国約185万石のうち最大時期でもおよそ450万石だったという。4分の1くらいだ。時代も制度も違うから今にそのまま当て嵌まるわけもないが、参考程度にはなろう。たとえば、現代日本の公の支出の目安を、国が4割で地方が6割から、幕藩体制に倣い、国が25%地方が75%へと変えたらどうか。税体系も地方税の比率を大幅に高め、国が地方に無心せねば成り立たなくなるようにひっくり返す。国には地方間の調整役に徹してしてもらう。中央集権を成立させた明治維新を逆転させ、地方分権の令和維新を断行するのだ。もし疫病禍が長期にわたるなら、それほどの革命を起こさねば追いつくまい。
 座して死を待つより、脱中央集権の虚妄に賭けさせていただきます。」
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 日本が歴史の教訓として学ぶべきは、清国(中国)ではなくムガル帝国(インド)であった。
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 歴史が苦手、西洋や中国・朝鮮の歴史は好きだが日本やインド・東南アジアの歴史は嫌いな現代日本人には、歴史を教訓として学ぶ力は弱い。
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 清国の衰退はアヘン戦争に敗れ香港を奪われたからではなく、白蓮教の乱・回教の乱、太平天国の乱などの宗教反乱、疫病大流行、大量餓死者などが原因であった。
 中国の「勿忘国恥」(国恥を忘れることなかれ)は、中華儒教の一君独裁体制による悪政・暴政・失政に対する民衆の怒りが原因であった。
 明治天皇と日本政府は、中国で疫病や飢餓が発生すれば、隣国の誼としてできうる限りの支援の手を差し伸べていた。
 何故か、日本はロシアと大戦争をする為に、中国や朝鮮がロシアに味方しないように食い止める為であった。
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 キリスト教は、聖戦を起こせず、日本の庶民(百姓や町人)を救い導く事はできなかった。
 マルクス主義は、人民暴力共産主義革命に失敗し、日本の庶民を理解できなかったし説明できず指導できなかった。
 近代日本において、キリスト教マルクス主義共産主義も無力で役に立たなかった。
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 日本の庶民は、キリスト教の迷える子羊・哀れな子羊ではなかったし、マルクス主義共産主義の搾取され虐げられた人民ではなかった。
 何故か、それは日本民族日本人が自然な「死」を運命として受け入れたが、不自然な「血と死」を最悪な「穢れ」として嫌い排除したからである。
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 命を捨てても天皇・皇族・皇室を守ろうとした勤皇派・尊皇派は、下級武士、貧しい庶民、芸能の民、賤民、部落民、異能の民、異形の民など差別され虐げられてきた下層民達であった。
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 日本民族日本人とは、乱婚を繰り返して生まれた血が汚れた混血(ハーフ)の雑種民族で、秀でてもいないし優れてはいないし賢くもない平凡で凡庸な有り触れたつまらない人間である。
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 近代天皇家は、国内外で人道と平和の歴史的人類的貢献を続けていた。
 昭和天皇は、その象徴的存在であったがゆえに、全責任を背負って退位せず茨の道を歩かれ、国内外からの罵詈雑言や非難中傷に耐え、在位のまま天寿をまっとうして崩御された。
 昭和天皇の事実・心情を、戦前の日本人は知っていたが、現代の日本人は情け容赦なく切り捨てた。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、非白人非キリスト教徒の日本人をアフリカ人同様に奴隷として売り買いして金儲けしていた。
 バチカンローマ・カトリック教会は、キリシタンの日本人を奴隷にする事を禁じ改宗を拒否する日本人を奴隷とする事を認めた。
 日本人を奴隷として売ったのは日本人である。
 日本人は、金(マネー)の為ならば平気で国を売る人間である。
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 現代の日本と昔の日本は別の日本である。
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 庶民は、武士が命を賭けて合戦している時は山頂や河原の反対側の安全な場所で宴会しながら殺し合いを娯楽として見物し、戦が終われば戦場に駆け寄り群がって戦死者の身包み剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋めた。
 さらに、落ち武者狩りとして、敗れて逃げた側の武将を襲撃し半殺しにしてその首を切り落として勝った側に差し出して賞金を貰った。
 合戦の中で団結力を失いバラバラになった村を襲い、生け捕りにした村人を奴隷として日本人商人や白人キリスト教徒商人に売って金を稼いでいた。
 日本のムラ意識はこうして生まれた。
 日本では、人は金で買えた。 
 武士・サムライは、金に意地汚く節操のない庶民を嫌悪し軽蔑し差別した。
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 江戸末期の日本人が恐れたのは、西洋列強の軍事侵略ではなくキリスト文明の宗教侵略であった。
 明治期の日本人は、キリスト教の宗教侵略に対抗する為に天皇を神聖不可侵の現人神する精神的防衛陣を敷き強化した。
 それが、近代的国體論である。
 天皇家・皇室は、キリスト教に対抗する為に、宗教戦略としてローマ教皇との、政治戦略としてイギリス王家とアメリカ大統領との友好関係の維持に務めた。
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 庶民には、一文の得にならない愛国心も郷土愛も持っていなかったし、武士が死の覚悟で持っていた主君や御家に対する忠誠心などは無縁で、むしろ馬鹿にしていた。
 例を挙げれば、戊辰戦争における会津戦争である。
 歴代藩主の仁政・善政に浴していた会津領民は、官軍が攻めてきたら藩主を助けるどころか逃げ去った。
 会津領民が特別に恩知らずだったわけではなく、日本ではそれが当たり前の事で、日本の庶民全てがそうであった。
 庶民にとって、領主・統治者・支配者・権力者が誰であっても構わず、日本人だろうが外国人(中国人・朝鮮人・その他)であろうが、極端に言えば猿・犬・猫・鹿などの動物でも、石・岩、草木、紙、山、川でもよかった。
 何故なら、八百万の神々だからである。
 明治新政府は、庶民に不信感を抱き、庶民が金儲けで侵略してきた外国勢力に協力する事を恐れた。
 その好例が、1945年の敗戦後、GHQ・占領軍に阿諛迎合し媚び諂い金儲け・利益・利権の為に、昭和天皇と日本国の為に共に戦った戦友を密告した日本人が多数存在した。
 仲間を売った彼らは、戦後自由・民主主義によって社会的地位に上り詰め資産を増やし、新たな権威者となり、金持ちとして幸せな老後を送り、天罰を受け不幸になる事はなく幸せに天寿を全うした。
 それが、日本人の偽らざる実態である。
 日本とは、寝返り御免・裏切り御免の油断も隙もない薄情なブラック社会である。
 それは、天皇・皇族・皇室に対しても同様である。
 現代日本人は、そうした現実の庶民の子孫であって、憧れの武士・サムライの子孫ではない。
 現代日本には、底知れぬ闇としてムラ気質ではなく庶民気質が根づいている。
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 何時の時代でも、天皇を自称する日本人が耐えない。
 メディアは、金儲けの為に面白おかしく報道する。
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 キリスト教朝鮮人テロリスト(不逞朝鮮人)や日本人共産主義テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
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 最後の外国勢力による日本侵略は、応永26(1419)年に李氏朝鮮世宗大王が仕掛けた対馬侵略であった。
 朝鮮軍は、侵略した対馬で島民虐殺と略奪・拉致連行を行った。
 世に知られた応永の外寇である。
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 後期倭寇の首領は中国人で、その配下は朝鮮人・中国人とポルトガル人・スペイン人・オランダ人らで、日本人は1割~2割の少数派であった。
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 中国の日本侵略である元寇は、文永(1274)年と弘安(1281)年であった。
 文永に役の主力は高麗軍で、高麗人兵士は対馬壱岐・北九州の各地で虐殺・略奪・拉致連行を繰り返し、日本人の子供約200人を戦利品として高麗王に献上した。
 弘安の役における蒙古の主力部隊は、旧南宋軍であった。
 前期倭寇は、元寇で虐殺された対馬壱岐・北九州北部の住民で、復讐として半島や大陸の沿岸を荒らし回り惨殺、強奪、強制連行を繰り返していた。
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 日本の大陸・半島侵略は、豊臣秀吉の朝鮮征伐である文禄元年(1592)年と慶長2(1597)年の二度だけである。
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 820年 平安時代弘仁新羅の乱。駿河遠江・伊豆で朝鮮系渡来人の叛乱が起きていた。
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 日本にとって、中国と朝鮮は古代から敵国であり、近代に入ってからは敵国にロシアが加わった。
 中国、朝鮮、ロシアの3カ国はいつ日本を侵略してくるか分からない、油断できない敵国であった。
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