⚔51)─1─鎖国令は疫病水際対策で、賤民や部落民は疫病死・変死の死体処理専門業者であった。〜No.215No.216 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 朝廷や徳川幕府は、開国を続け海外交易で国を豊かにするより、海外から疫病を侵入させ感染爆発を起こして犠牲者を出さない為に鎖国を選んだ。
 鎖国を選んだと言っても、禁止したのは人の自由な往来であって、物と金の取り引きは長崎出島で長崎奉行所の監視下で続けていた。
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 鎖国下の庶民は、貧しいながらも他国を頼らず身の丈に合った自給自足で生きていた。
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 2020年5月28日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 道真に学ぶ
 日本と支那の付き合いは結構古い。紀元1世紀にはあの『』」

 2020年7月号 Hanada「一定不易  加地伸行
 禍(わざわ)ひを転(てん)じて
 福(ふく)と為(な)し、
 敗(やぶる)に因(よ)りて
 功(こう)を為す。
      『史記蘇秦(そしん)伝
   転・因 逆手(さかて)に取って。敗 失敗。功 成功。
 日々が、コロナ、コロナ。テレビは、不景気、不景気。国会も、援助、援助。どうしてこうも一律になるのであろうか。今こそ少しでも建設的な独自の見かたが必要ではないのか。
 コロナ災禍の元凶は、中国は武漢市。しかし、今や中国政府はケロッとして世界諸国の健闘を祈ると言わんばかりである。
 となると、中国が尊大なのは・・・と非難することになろう。しかし、それは定型的なステレオタイプな物言いで、中国はどう非難されようと苦にしている様子はない。
 なぜか。実は、中国は災禍に慣れているのである。その災禍の内、感染症関係は疫災(えきさい)と称する。今回のコロナ禍はその最新のもの。
 この疫災の中国史を見てみよう、と言っても紙幅(しふく)が不足。そこで時代を限る。歴史でいま日本人が楽しんでいるのは、NHK大河ドラマ麒麟(きりん)がくる』であるから、その同時代の疫災の例を列挙してみよう。時は明王朝の時代で、神宗皇帝が即位した万暦元年(1573年)に始る万暦時代の『大疫』と記された蔓延地を示すと次のごとくである。
 元年・棗陽(そうよう)。7年・孝義。8年・遠州。9年・潞安(ろあん)。10年・成安。12年・徳安。13年・曲県。15年・潞案。16年・厳州等の湖広一帯。22年・姚安(ようあん)。25年・大理。26年・蜀(しょく)の全域。29年・貴州。34年・衛州。37年・武定。38年・陽曲。39年・沁州(しんしゅう)。40年・嘉興。さらに41年・45年・46年と大疫が続き、神宗は47年に崩御
 因(ちな)みに、万暦元年は、織田信長が将軍足利義昭を追放。同10年は、本能寺の変。同43年は、大坂夏の陣豊臣氏滅亡。
 秀吉は朝鮮出兵後、明への進軍を考えていたが、こんな感染地ではどうしようもない。
 この疫災に対して、『死者、甚(はなは)だ多し』『一家全(すべ)て疫者』『(死者からの感染を虞{おそ}れて)敢(あえ)て弔問(ちょうもん)せず』『全家死す』等といった記録が見える。単なる病気ではないことが分かる。
 さてこうした疫災は、右の時代以外、絶えず記録されている。中国の歴史は疫病流行のそれでもあった。ただ、国土が広く人の交流は限定的であったので、全域同時の大流行ではなかったようではある。あえて言えば、疫災はどこかで絶えず発生しており、中国人は疫災に慣れていると言えようか。
 しかし、もちろん疫災は遊びでごとではない。苦しめられてきた。当然、政府はどう対処したのか、ということになる。その方法の内、現代においても参考になるものがあるのではないか。探ってみよう。
 中国は今も農民が多いが、かつて農業は中心産業であった。その耕田の際、動力として牛が必要。そこで疫災でつぶれた農家に対して政府が金銭を貸して他人の牛を借りさせ、農業を継続させていたのである。
 つまり、疫災があったからと言って金銭をばらまくのではなくて、その人の労働の継続ができるように貸していたのである。
 前近代の中国でもそうした前向きの救済があった。現代日本なら、さらに進んだ相互扶助ができるのではなかろうか。
 ……
 古人曰く、禍(わざわい)を転(てん)じて、福(ふく)と為(な)し、敗(やぶる)に因(よ)りて、功(こう)を為す、と。」
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 歴史力のない現代日本人には、日本の歴史はもちろん、中国・朝鮮の中華の歴史や西洋の歴史など世界の歴史も理解できない。
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 古代から、日本の構造改革は大陸系疫病の襲来による感染爆発が原因であった。
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 日本民族日本人が生きてきた日本列島とは、甚大な自然災害多発地帯であり、深刻な疫病蔓延頻発地帯であった。
 感染爆発する疫病は、全て死病であった。
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 日本には、多様な崇拝し祈る宗教はあっても一様な信仰する宗教はなく、思想や哲学はあっても主義主張・イデオロギーはない。
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 日本民族日本人が、中国人や朝鮮人を嫌い、差別し、迫害し、近寄らず遠ざけたのには正当な理由があった。
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 身分差別・職業差別として賤民(非人・穢多)や部落民(山の民・川の民・海の民)が生まれたのには、それなりのやむを得ない理由があった。
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 ムラ根性・百姓根性として、排他的に、余所者を村に受け入れる事を嫌ったのは当然の事であった。
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 2020年6月4日号 週刊新潮「夏裘冬扇  片山杜秀
 疫病で全部から1ページ日本史講座
 シルクロードの西端がローマなら、東端は平城京と言われる。奈良時代グローバリズム時代、経済は成長し、明治の文明開化も驚く海外の文物の導入があり、中国式の巨大首都が建設された。が、グローバリズムは招かれざる客を呼ぶ。天然痘だ。特に天平年間の大流行は悲惨だった。遣唐使が強烈なウイルスを連れ帰ったのだろう。律令国家を作り上げた藤原不比等の後を継ぐべき4人の息子は揃って逝った。日本の人口が3割減ったとも推計されている。聖武天皇が奈良に大仏を建立したのは、天然痘に打ち勝とうとする国策だった。
 もちろん、人口の激減は経済を壊す。天然痘恐慌だ。律令国家の目玉たる公地公民制はボロボロ。朝廷は土地公有化路線を一部放棄し、墾田永年私有財産法(こんでんえいねんしざいほう)という新法を立ち上げた。新規開拓した田畑は私有地に!意気阻喪(いきそそう)した民衆への餌だった。しかし、中央集権の律令国家体制が崩れ、分権的な封建制へと転換してゆくきっかけにもなる。寺は平城京に集まっていたが、そこは危険とばかり、信心深い者は吉野や熊野に行きたがる。山の庵に巣籠もりするのが安心なのだ。怖い異界だった山が、避難所のイメージに化けてゆく。山で修行した者が病気を治す修験道も、この流れで広まったのだろう。
 安心なのは山。この思想は、平城京の後の都、平安京の場所選びに生かされたろう。すぐ隣が奥深い比叡山。そこに延暦寺を建てる。貴人はいざというとき、すぐ出家して自己隔離できる。
 でも、多くの人の暮らしは相変わらず市中にある。都会生活にも新様式が必要だ。平安時代の法令等を見ると細かな規定に驚かされる。人間の血が付いたり獣の死体が見つかったりした場所には、それぞれ何日立ち入るな。間違って行った者は何日隔離せよ。その隔離対象者と会った者も隔離だ。儀式・集会も延期せよ。それらの規定に基づき、ケース・バイ・ケースで明法(みょうぼう)博士らが判断する。細菌やウイルスを知らぬ時代の、経験則に基づく衛生行政だったと思えば、腑に落ちる。明法博士らが専門家会議だったのか。
 だが、時が経てば、痛い記憶も薄らぐ、平家はグローバリズムを復活させ、日宋貿易で繁栄したけれど、平清盛が死に至った熱病は熱帯病のマラリアと言われる。後を受けた源氏は鎖国的に振る舞った。室町時代から再びグローバルに振れ、その路線は豊臣秀吉の大陸制覇の夢で極まる。が、その報いか、またも天然痘が流行り、跡取りの秀頼が罹って死にかける。徳川時代はまた鎖国封建制だ。封建の封は封鎖(ふうさ)の封でもある。報じられた土地に引き籠もり自給自足するのが封建制の本義。反グローバリズムの極限である。開港地は日本の西端の長崎。外来の疫病を江戸まで届きにくくするための深謀遠慮であったとか、なかったとか。
 それから巡り巡って、天平時代が帰ってきたのか。コロナ時代の新生活として政府の勧める内容は、奈良期からの経験の結晶した平安京の新生活と、どうも被(かぶ)る。新しい古代の始まりか。それにつけても奈良時代由来の元号がうらめしい。恐るべき言霊が付いているのか。……」
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 自然災害に対応するのは常民であり、疫病に対応するのは賤民であった。
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 血と死に関わる仕事を生業とする賤民(非人・穢多)や部落民(山の民・川の民・海の民)が穢れた民として差別されたのは、人間差別や職業差別ではなく疫病への恐怖からである。
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 日本文化が死体や血を穢れとして忌避するのは、疫病対策であった。
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 最も「血と死」で穢れていたの人間が武士・サムライであった。
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 日本神道は、古い血や屍肉を嫌い、特に病死や不審死をとげた死体を最も嫌った。
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 疫病・流行病で死んだ死体は穢れている為に、その死体に触れ埋葬する者は穢れる。
 だが、死体を放置すると疫病が蔓延する為に、嫌でも埋葬する必要があり、皆で協力して埋葬すると全員が穢れてしまう、その為に穢れ仕事を専門にする人間が生まれた。
 それが、賤民(非人・穢多)や部落民(山の民・川の民・海の民)である。
 合戦による戦死、餓死、乳幼児の死、老衰、怪我による死、災害による死、明らかな病気による死、などは穢れとはされず皆で協力して弔った。
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 武士社会は、天然痘感染爆発の中から生まれ、コレラ感染爆発で滅びた。
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 日本の武士階級の誕生は、西洋の貴族・騎士階級、中国の士大夫階級、朝鮮の両班階級とは違う。
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 日本の隠遁は疫病からの逃避であり、中華の隠遁は戦乱や悪政からの逃避であり、西洋の隠遁は人間の強欲から逃避であった。
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 江戸時代に旅行ブームが起き、庶民が安心して旅を楽しめるようになったのは、鎖国によって大陸系疫病の感染爆発がなかったからである。
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 日本は、疫病蔓延による大量死・人口激減を原因として社会構造を変化させてきた。
 日本を崩壊させず一つにまとめ幾多の危機を乗り越えた精神的支柱は、神聖不可侵である万世一系男系天皇制度(直系長子相続)であった。
 最高神である女性神天照大神の血を正統とする唯一の家系に、特殊な血統と特別な皇統が与えられてきた。
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 日本の八百万の神々は、祈れば霊験で御利益を与えたが、信仰の褒美として奇跡を起し恩寵を与える生死を司る全知全能の唯一の絶対神ではない。
 現人神とされた天皇は、生き神様・生き仏様ではなく、救世主・メシアでもない、預言者でも賢者でもなく、祭祀王という神聖不可侵の唯の人である。
 そして、代表して身を浄め慎み、恵みに対して感謝を宣べ、徳のなさを謝罪し、不徳の罪を認め反省の詔を宣する唯一の尊き人である。
 つまり、天皇とは災難が襲ってくれば被害が出た事に対して「謝り続ける存在」であった。
 それ故に、日本民族日本人は天皇を受け入れ命を捨てても護ってきのである。
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 古代から、日本民族日本人は、中国大陸や朝鮮半島は死の病・疫病に汚染された穢れた土地と嫌い、穢れた土地から日本に移住してくる中国人や朝鮮人を穢れた人間だとして軽蔑し差別した。
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 海の彼方から日本に渡来して日本人に豊穣をもたらしてくれる客人神(まろうどがみ)は、東か南であって西ではない。
 日本人が死んで向かう黄泉の世界は、地底か東もしくは南の海の向こうの根の国か、中国や朝鮮の遙か西にあるインドの天竺・仏の浄土極楽である。
 中国や朝鮮を理想の国・聖人君主の国と憧れるのは、儒教だけである。
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 日本列島は、朝鮮半島や中国大陸にとって避難所であった。
 事実、朝鮮人や中国人は戦争や疫病から逃げるように日本列島に移住してきていた。
 逃げてきた人びとには2種類いて、天皇に忠誠を誓い日本の為に働いた帰化人と天皇への忠誠を拒否し日本に仇なす渡来人であった。
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 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海であった。
 反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国であった。
 統一新羅以降、日本と朝鮮の間には友好・善隣など存在しなかった。
 事実、統一新羅、高麗、李氏朝鮮などは、日本を侵略し、無抵抗な日本人を虐殺し、日本人を強制連行していた。
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 現代の日本人は、歴史力がない。
 その証拠が、新型コロナウイルス感染のクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号検疫と武漢肺炎による感染爆発対応における、後手後手のどたばたとした醜態を晒した事である。
 それは同時に、平和に惑わされ戦争を忘れ、平和にこだわって戦争を研究して学ばなかった事である。
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