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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
火葬は、仏教。
土葬は、儒教、キリスト教。
火葬・土葬併用は、日本神道。
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ごじょクル
何故「火葬」するの?
世界では“当然”じゃない「火葬」
日本では現在は、当然のように火葬が行われています。しかし、世界を見渡すと実際には土葬の場所もたくさんあるのが現状です。なぜ、日本は火葬を行うようになったのでしょうか。その意味や歴史などを知ることで、より葬儀に対する知識を深めていきましょう。
仏教とともに伝来
火葬の歴史は古く、もともとは仏教の伝来とともに日本に入ってきたと言われています。遺体を火葬にすることを「荼毘に付す」と言いますが、この「荼毘」はインドの昔の言葉で火葬を表す「ジャーピタ」に音を当てたものだとされています。インドでは昔から火葬が一般的な埋葬法であり、仏陀もこの方法で埋葬されたことから、日本では徳の高い人の埋葬法として受け入れられたようです。また、煙とともに魂が天に昇っていくというような意味も含めて行われていたのでしょう。
日本で最初の火葬は1300年前
日本で最初に火葬で埋葬された人は僧侶である道昭という人です。この人は三蔵法師に師事した僧侶とされ、文武天皇四年(700年)に火葬で埋葬されています。
その前までは、日本では土葬が一般的でした。そして、火葬が入ってきてからも、実際に火葬を行っていたのは貴族や僧侶の間だけで、一般の人は土葬が多かったようです。それというのも、今のように立派な施設がそろっていなかった時代は火葬のほうが衛生上に問題が生ずることが多かったためだとされています。また、神道の一部には火葬は残虐な葬儀方法と考えるような思想を持つところがあることもその原因のひとつだったといわれています。
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火葬の歴史 - 日本火葬技術管理士会
アーリア人と釈迦の火葬
アーリア人はアリアン人ともいい、インド・ゲルマン族に属するが、彼らはもともと中央アジアのアム河流域において半農、半牧の生活を送っていた。紀元前 1500 年頃に南下して西北インドへ侵入し、鉄製武器を使用することにより先住民族を征服しつつ紀元前 1000 年頃、ガンジス河流域まで進出した。彼らは聖火を中心にして大家族生活を営み、都市連合を形成していたが、特記すべき事項は火葬の習慣を持っていたことであり、
それがインドの最古の聖典リグ・ヴェーダ経に書き残されているという。
このアーリア人は、紀元前 6 ~ 5 世紀頃に興った仏教徒により追放されたり、改宗を迫られた。仏教徒は彼らの文化とともに火葬を継承したため、それが古代インドの西北部や北部に広く普及したといわれる。仏教の開祖、釈迦の遺体が紀元前 480 年にふされたことは歴史的な出来事として有名である。
ヨーロッパの火葬
古代ギリシャやイギリスでは、紀元前 1000 年頃の骨壷が各博物館に展示されていて、当時すでに火葬が行われていたことを証明している。古代イタリアでも紀元前 1000 年頃、謎の古代人といわれるエトルリア人がローマの北部地方に定着していた。彼らは小アジア(現在のトルコ)あたりから移住してきたといわれ、オリエントやギリシャの文化を身に付け、紀元前 800 年~ 700 年頃には、ローマの北方、チベル河流域を中心にして独特の高い文化圏を形成していた。彼らの墓は、立派なものが多く、発掘すると石棺や陶棺が出るほか、ギリシャ製の美術的価値の高い壷も多く出土する。この壷は火葬骨を収蔵している例があるので、エトルリア人は火葬の風習を持っていたと思われる。
アジアの火葬
1) 中国の火葬
中国では後漢の初期、紀元1世紀半ば頃に、火葬を容認する仏教が中央アジアやインドから伝来したが、伝 統的に肉体を焼くことを嫌悪していた人々が、仏教を宗教としてではなく、新知識という意味で受け入れたらしい。
しかし、仏教は人々の間で次第に進行されるようになり、4 世紀後半になって漸く社会的に広く理解され、伝播するようになったという。これに伴い、火葬の理解度も次第に深まり、中国火葬は南北時代(紀元 420 ~589 年)に最盛期を迎えるに至った。
ところが、唐時代の韓愈が火葬は罪悪だとして反対し(紀元前 891 年)、その後になると、儒教徒も一貫して火葬反対論を唱えたので、火葬が衰微する一方となった。
結局、中国の火葬は盛況の時もあったが、儒教との関係、国民性などの事情から支持率が著しく低下し、後には法令で禁止されたこともあって、1949 年の中華人民共和国の成立まで火葬はほとんど行われなかった。
中国共産党は 1956 年に火葬を提唱し、推進することとなったので、火葬が大都市を中心として盛んに行われるようになり、さらに、1985 年には墓地埋葬法に相当する法律ができて、火葬を一義的に行うべきことを定めたので、火葬が一層普及されるようになって現在に至っている。
2) 韓国の火葬
紀元 4 世紀頃になると中国の仏教は、朝鮮半島に伝えられた。すなわち、紀元 372 年に高句麗へ、紀元 391年には百済へ、さらに、若干遅れて紀元 527 年に新羅へそれぞれ伝来した。
新羅が半島を統一したいわゆる新羅時代(紀元 676 ~ 935 年)及び高麗時代(紀元 936 ~ 1392 年)には、仏教文化が開花するとともに火葬の風習も貴族社会に普及した。
高句麗や百済における火葬の風習は、その後、わが国へ伝えられたが、本家の朝鮮では、高麗時代の末期から儒教、とくに朱子学が輸入されたことにより、火葬が不仁不孝の至りであると非難され、高麗末期には火葬禁止の法令が出されたので、次第に衰微していった。
日本の火葬
1) 奈良時代までの火葬
紀元 653 年に遣唐使に随行し、唐僧の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう︓有名な物語・西遊記でお馴染みの孫悟空がお伴をした主人。実在の高僧)の弟子となり、帰国して法相宗の開祖となった高僧・道昭は、紀元 700年に遺命して自ら火葬に付された。これがわが国の火葬の起源だということが、続日本紀(しょくにほんぎ)に記されているため、歴史的な事実だとして長年にわたり広く信じられてきた。しかし、昭和 31 年に同志社大学の森浩一教授が大阪府堺市内にある陶器千塚古墳の火葬遺跡であるカマド塚などを発掘、紀元 600 年前後には、朝鮮半島から渡来した陶器工人の間で火葬が行われたことを示す窯形火葬墳墓を発見したため、火葬の起源が 100 年ほど遡ったことになる。
道昭の火葬の翌年、701 年に朝廷は大宝律令を制定し、従前に引き続いて薄葬を推奨するとともに、火葬を初めて奨励した。703 年に第 41 代の持統天皇は、皇族として初めて飛鳥崗で自らの意思により火葬に付されたが、これは火葬の奨励策を朝廷自ら実践したものであり、その後は歴代の天皇、皇族や高級官吏及び地方豪族などの間に火葬が普及するに至った。
第 53 代の淳和天皇は、「今、骨を砕いて粉とし、山中に投ずべし」という詔を出し、840 年に自らの火葬後の焼骨を京都、大原野の西山に撒骨させ、山稜を作らせなかったという。
2) 平安・鎌倉・室町時代の火葬
平安時代も10世紀になると京都では、空也上人などの念仏僧(浄土教)が、鴨の河原や巷に満ちた死者や行旅死亡人に対して念仏を唱えながら火葬し、菩提を弔うことを盛んに行った。現代風にいえば社会事業活動、又はボランティア活動であった。
その後、僧侶による火葬執行が常識になるとともに、貴族や豪族の間では火葬が全国的に普及した。
鎌倉・室町時代には戦乱や天災で、飢饉が続き、悪疫の流行により死者が巷に満ちたので、僧侶による社会事業としての火葬が依然として行われていた。また、武士階級や庶民の間にも火葬が広く深く、伝播していった。
3) 江戸時代の火葬
江戸時代の初期に幕府は、キリスト教を弾圧するため制度化して寺院に檀家の戸籍を把握させたので、寺院が墓地を管理したり、火葬を実施するのが一般的になった。また、5 人組制度を強化し、治安・検察に当らせたため、日常生活に互助共済を中心とする組織に発展し、祝い事や葬儀、火葬を自主的に共同して行うようになった。
一方、鎌倉時代から伝来された儒教や朱子学は、徳川幕府が奨励したため国学者、儒学者、微視の間に普及したが、仏教を排斥する口実として火葬を非難したので、支配階級の間に火葬を嫌う傾向が強くなった。そのため、第 110 代、後光明天皇は、1654年に崩御されたが、歴代天皇の先例が破られ火葬に付されなかった。
また、会津藩や萩藩は火葬を禁止したり、土佐藩では犯罪者の死体を火葬すべきことを定めたので、所によっては庶民が火葬を避ける傾向もあった。しかし、浄土真宗の盛んな新潟、富山、石川、福井の各県を含む北陸地方では火葬を全面的に支持し、また、江戸、京都、大阪などの人口密集地では埋葬地が限定されるため火葬に依存しなければならなかったので、大勢として火葬は全国的に行われてきた。
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日本の葬儀はなぜ火葬が一般的なのか?|お坊さんのいないお葬式
2020.5.26
供養
日本の葬儀はなぜ火葬が一般的なのか?
日本で人が他界すると、葬儀後に火葬されるのが一般的です。
しかし、火葬以外にもさまざまな埋葬方法があり、実際に土葬が主流になっている国もあります。
日本では、なぜ火葬がこれほどまでに広まったのでしょうか。
ここでは、日本で火葬が一般的になっている事情について解説します。
【目次】
1.仏教が火葬の普及に影響を与えた
2.批判を受け禁止令が出された時代も
3.土地不足や衛生上の理由により、戦後は火葬が定着
4.今回のまとめ
仏教が火葬の普及に影響を与えた
日本でいつごろから火葬が行われていたのかは、はっきりとはわかっていません。
しかし、縄文時代の遺跡から火葬の形跡のある遺骨が発見されているため、このころには火葬が行われていたと考えられています。
記録が残っている中で最初に火葬された人物は、飛鳥時代の僧・道昭です。
道昭は西暦700年、自分を荼毘に付すよう言い残して他界し、実際に火葬されたことが「続日本紀」に記されています。
また、703年には持統天皇が、天皇としては初めて火葬されました。
その後、皇族・貴族・僧侶といった上流階級の人々の間で、少しずつ火葬が行われるようになっていたのです。
この時代に火葬が注目された背景には、仏教の影響があるとされています。
古代インドでは火葬が一般的で、お釈迦様も荼毘に付されました。
そのため、仏教を信仰する日本の僧侶や貴族にも、火葬を希望する人が現れ始めたのです。
しかし、これはあくまでも一部の人の習慣にすぎませんでした。
なぜなら、当時の技術では遺体を骨になるまで焼くのは難しく、大量の薪と時間を必要としたからです。庶民にとっては、経済的な負担から簡単に行えるものではありません。
そのため、多くの人は土葬を行っていたと考えられています。
批判を受け禁止令が出された時代も
鎌倉時代以降は、仏教の広まりに伴い、庶民の間でも少しずつ火葬が普及していきます。
さらに江戸時代に入ると、人口増加によるお墓の土地不足の問題もあって、江戸や大坂といった都市部を中心に火葬の割合が増えていきました。
簡易的ながら火葬場も作られ、現在のスタイルに近づいていたことがわかります。
しかし、火葬に批判的な人も少なくありませんでした。
江戸幕府は儒教を推奨していましたが、儒教の考え方の1つに祖先崇拝があり、親の体を焼くことは大きな罪と捉えられたからです。
実際に、いくつかの藩では火葬が禁止されていました。
火葬の難しさの問題も解決されておらず、都市部以外では相変わらず土葬が主流だったのです。
そして明治時代に入ると、神仏分離思想の広まりとともに仏教への弾圧が始まり、1873年には火葬禁止令が出されました。
仏教と関係の深いものを徹底的に排除しようとしたのです。
ところが、人口の増え続ける都市部において、土葬用の広い土地を確保するのは簡単ではなく、火葬禁止令は1875年に撤廃されました。
その後は、レンガでできた火葬炉が登場したり、感染症で亡くなった人の遺体を火葬することが義務付けられたりと、火葬の普及に向けた環境が整えられていきます。
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日本列島は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが頻発する複合的災害多発地帯であった。
庶民はわずかな収入で貧しく、重税・労役・兵役に苦しめられ、災害で被害が出ても朝廷=中央政府や国司=地方役所そして神社や寺院からの助けや支援はなく、運が悪ければ野垂れ死にする定めであった。
日本列島は、地球上で最悪な地獄のような世界であった。
日本の美しい自然とは、命を生む以上に命を奪う冷酷、冷血、非情、残酷が本性であった。
日本は相反する2面が一体で、それが豊穣の和魂・御霊と厄災の荒魂・怨霊であり、本音と建て前は関係ない。
言霊は、地獄のような日本の自然から祈る言葉として生まれた。
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日本民族日本人の特性・体質・性格・性質は、数万年の間、絶滅に近い複合的災害多発地帯で生き残る中で形成さ、時間は一秒でも、寸法は1ミリでも、細部まで細心の注意を払う、一寸も気を抜かない、約束は口約束でも命を賭けて守る、戒めや定めや法(法律)は遵守するなどなどは、苛酷な複合的災害多発地帯で生活する事で身に付いた。
それは、死と隣り合わせで生きる事である。
そして、世界の異常とされる、信仰心もなく如何なる宗教にこだわらず全ての神や仏を拝むという無宗教性はこうして生まれた。
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日本民族日本人と大陸系の中国人や朝鮮人とは全く違い、それ故に幾ら話し合ったところで分かり合う事はありえない。
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数多くの人の命を奪った疫病は、中国大陸や朝鮮半島から日本列島へと人の移動と共に上陸したのであって、日本から中国や朝鮮への逆はなかった。
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幾度も甚大な被害をもたらす複合的災害多発地帯日本に、適応したのが柔軟な日本神道、日本仏教、日本儒教などで、適応できなかったのが硬直なキリスト教、大陸仏教、イスラム教、中華儒教そして共産主義・マルクス主義などであった。
甚大な被害をもたらす複合的災害多発地帯では、宗教やイデオロギーなどの教条主義も原理主義は生まれないし、たとえ生まれたとしても無力であった。
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日本の死体の葬り形は、地域によって土葬・風葬・水葬であったが、仏教の布教によって大陸から火葬がもたらされた。
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中国大陸や朝鮮半島から日本列島への難民の急増で、疫病が蔓延し、夥しい数の日本人が病死した。
疫病感染爆発地帯となった日本に仏教が伝来し同時に火葬がもたらされ、病死・変死した死体は疫病対策として火葬にした。
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火葬は、中国や朝鮮との国交を鎖した平安時代以降は下火となった。
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日本民族日本人は、疫病が蔓延する中国や朝鮮を穢れた土地と嫌い、疫病を持ち込む中国人や朝鮮人を穢れた人間と嫌悪し、差別し、排除し、国交を断絶して、神々が住まう浄き日本に足を踏み入れる事を禁止した。
それが、国を鎖(とざ)した皇国史観の大本である。
現代日本は、不寛容にして排他的な皇国史観を否定し、中国人や朝鮮人の入国を認めている。
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日本に逃げてきた人々には2種類いた。
天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた帰化人。
天皇への忠誠を拒否し、自分の為だけに動いた渡来人である。
疫病蔓延を食い止めて日本人を救ったのは、帰化人であって渡来人ではない。
日本民族日本人は、命を助けてくれた帰化人に感謝する必要がある。
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現代の日本人は歴史力はなく、作り話の理想的時代劇は好きだが事実の現実的歴史は嫌いである。
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日本と中国の関係は、中国戦国時代の呉越の関係ににている。
日本は呉国で、中国は越国である。
呉国は越国に滅ぼされた。
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日本政府は、少子高齢化による人口激減を食い止める為に中国人移民を含む外国人移民約1,000万人計画を進めている。
中国共産党系中国軍系中国資本と友好的日本企業は、日本国土や日本企業を購入している。
親中国派媚中派日本人は、日本買いをしている中国資本に協力している。
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中国や朝鮮から日本に、政争や戦争に負けた優れた学識・教養や秀でた技術・技能を持った敗者・弱者が逃げ込んできた。
逃げてきた人々によって、インド発祥の仏教、儒教・道教、兵法、医術、農業・建築など数多くの技術が日本にもたらされたが、同時に疫病も日本に広がった。
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日本は、儒教色を薄め仏教色を神道色と混ぜ合わせる事で多種多様化して、脱中華文化の国風文化を生み日本文化に発展させ、古代から中世・近世へと激変を繰り返して西洋色の近代を受け入れた。
中国や朝鮮は、儒教色単色の一様化を教条的原理主義的に貫き、古代の中華文化から抜け出す事ができず、日本の近代化を真似て古代からいきなり日本色的近代へ変化した。
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日本が中国や朝鮮と違っていたのは、毒性の強い外来由来を無毒に中和させる柔軟な変換能力(ブラックボックス)である。
その柔軟な変換能力を証明するのが、外来語の日本国語化・和製新語(漢字・西洋語)・カタカナ化である。
外来語から日本国語への柔軟な変換能力は、現代の高学歴出身知的エリートから消えつつある。
その証拠が、2020年の武漢ウイルス対応の後手後手、新型コロナウイルス水際対策の失敗、武漢肺炎蔓延の不手際である。
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中国大陸・朝鮮半島から日本列島にもたらされたのは、日本人を幸福にする明るい豊・福と同時に日本人を不幸にする暗い貧・禍であった。
昔の日本人、日本民族の不幸を避ける為に豊や福を断念し、中国大陸・朝鮮半島との人的交流を遮断し自由な往来を禁止した。
日本と中国や朝鮮の間には、友好関係・善隣関係などはなかった。
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古代日本にとっての、世界とは中華文明圏であり、諸外国とは儒教諸国であった。
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日本は、インド発祥の仏教を無条件で取り入れたが独自に発展させ普及させたが、中国発祥の儒教は中華色を消し去り全く別物に変質させて受け入れた。
毒性の強い外来の宗教・思想・哲学を、日本に厄災をもたらさない無毒・無害な宗教・思想・哲学に変質させる濾過装置が祭祀王・天皇であった。
日本に悲惨を引き起こす主義主張・イデオロギーが蔓延らなかったのも、神聖不可侵にしてブレる事がない不動の存在として神の裔・天皇がいたからである。
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不寛容にして排他的なキリスト教や共産主義が、日本に受け入れられず排除されたのは天皇がいたからである。
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現代日本の国内外、特に中国や朝鮮が起因する事件の多くは古代にも似通った事件として起きていた。
日本が巻き込まれた国際事件で、日本が被害者で中国や朝鮮が加害者と言う事である。
日本にとって、中国や朝鮮は憧れであったが同時に不吉であった。
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現代日本には、親中国派媚中派の反天皇反日的日本人が増えている。
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