⛩19)─3─祭祀王・天皇が執り行う宮中祭祀と自然災害・疫病・飢餓などの天変地異。~No.38No.39 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本列島で多発する雑多な自然災害、疫病、飢餓・餓死などの天変地異を神に祈れるのは、神の裔である天皇御一人であって、キリスト教は無力で奇跡も起こさないし救いにもならない、共産主義ごときは役に立たないどころが混乱を拡大し内戦を引き起こして被害を拡大するだけの有害無益なイデオロギーである。
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 ウィキペディア
 宮中祭祀は、天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう祭祀。皇居宮中三殿で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、掌典長掌典職)らが祭典を行い、天皇が親拝する小祭がある。
 歴史
 平安時代
 病気や疫病、地震、火災、天災といった災い事はすべて神の祟りが起こすものと考えられ、祟りを起こす神の存在を鬼に例えたり、疫神として恐れたいた。
 陰陽道が平安貴族社会を基盤にして呪術的に展開されており、律令制の神祇祭祀の中に、陰陽要素を含む祭祀が数多く存在し、疫神祭、鎮花祭、風神祭、大祓、宮城四隅疫神祭、防解火災祭、螢惑星祭など様々な、祭祀が行われていたとされる。京内を結界(聖なる領域と俗なる領域)し、京城四隅疫神祭、(都)、宮城四隅疫神祭(内裏)など、四角四境の祭祀を行い、世の安泰を願っていた。
 安土桃山時代
 豊臣秀吉による陰陽師弾圧や迫害が始まり、祈祷や占いを生業とする陰陽師を地方に追いやり、一気に力を失っていき、当時陰陽寮にいた正式な陰陽師の数をはるかに超える陰陽師と名乗る人間が全国に流れた。戦国時代の迫害で、筆頭の土御門家であっても陰陽道相伝や法具などの多くを焼失した。陰陽道の最も重要な「大法」の泰山府君祭(たいざんふくんさい)の祭壇も喪失し、京都吉田神社から法具を借用して御所の地鎮祭を行った。その影響が大きくあり、宮中祭祀神道色を色濃くしていった。
 近代以前
 中世の順徳天皇は、『禁秘抄』で「禁中作法先神事」と述べたように、天皇は肇国以来「神事」を最優先としている。四方拝などは江戸時代以前から歴代の天皇に引き継がれた行事である。
 江戸時代中・後期には水戸学に基づいた尊王論の高まりがあり、新嘗祭など祭祀の再興が盛んになった。
 明治期から戦前まで
 今日行われている祭祀の多くは、明治維新期に大宝令、貞観儀式、延喜式などを継承して再編された物である。
 天皇の「現人神」としての神格化や神仏分離などに合わせて、途絶えていた祭祀の復興や新たな祭祀の創出が行われた。1871年明治4年)には「神社は国家の宗祀」との太政官布告が出され、1908年には宮中祭祀について定めた皇室祭祀令が皇室令の一つとして制定された。
 宮城内の水田では稲作が行われ、昭和天皇以降は自ら田植えをするようになった[7]。収穫された米は供物として、祭祀の際に用いられている。
 戦後
 1945年(昭和20年)に日本が敗戦し、戦後の連合国軍司令部による統治の下で、宮内省は宮内府・宮内庁へと移行される。また、国政と切り離されていた旧皇室典範日本国憲法施行に合わせて廃止され、全面的に改定された皇室典範は一般法の一つとなった。
 これに合わせて、皇室祭祀令など戦前の皇室令も、一旦全て廃止されたものの、宮内庁は内部通牒を出し、「新たに明文の規定がなくなった事項については、旧皇室令に準じて実施すること」を確認している。
 日本国憲法下の位置付け
 日本国憲法やその下の法律に宮中祭祀についての明文の規定はなく、現在の宮中祭祀も皇室祭祀令に基づいて行われている。また、これに係る予算も皇室の内廷費によって処理されている。このため、多くの憲法学者が、戦後の宮中祭祀を「天皇が私的に執り行う儀式」と解釈するようになった。
 宮内庁の公式HPでは、宮中祭祀を「宮中のご公務など」の項で説明している。
 また、内閣総理大臣はじめ三権の長が、大祭を中心に一部の祭祀に陪席していることが確認されている。佐藤栄作は首相在任期間中、春季皇霊祭・春季神殿祭、秋季皇霊祭・秋季神殿祭、新嘗祭にほとんど出席しており、NHKスペシャル『象徴天皇 素顔の記録』(2009年4月10日放送、天皇・皇后成婚50周年の記念番組)では、当時の内閣総理大臣麻生太郎ほか三権の長が、春季皇霊祭・春季神殿祭に出席している映像が放映された。
 制度としての宮中祭祀が確立して以降の天皇では明治天皇大正天皇はあまり熱心ではなく、侍従らが代拝するのが主であった。一方で、貞明皇后昭和天皇香淳皇后は非常に熱心であった。
 在位後期に侍従長であった入江相政は、昭和40年代から50年代に昭和天皇の高齢を理由とした祭祀の簡略化を推進したことがその日記から伺えるが、昭和天皇は1986年(昭和61年)まで新嘗祭の親祭を続けた。
 明仁と美智子も祭祀にはきわめて熱心であり、諒闇(服喪中)や病気を除くとほとんどの宮中祭祀に代拝を立てず親拝していた。
祭祀に関しては、事前の潔斎と平安装束を着用する事に加え、長時間の正座が必要であり、生前の昭和天皇は祭祀が近づくと、正座してテレビを視聴するなど、意識的に長時間正座することを心がけていたという。明仁新嘗祭の時節が近づくと、昭和天皇と同様に正座の練習をしていたといわれていたが、在位20年を経た2009年(平成21年)以降は、高齢であった天皇明仁の健康への配慮、負担軽減のため、祭祀の簡略化や調整が計画、実施されていた。
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