🌈58)─1─古き伝統的形式美は在原業平の和歌(言霊)から始まった。『伊勢物語』。~No.94No.95 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本民族の伝統的形式美や言霊=日本国語は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火など複合的災害多発地帯日本の中から生まれた。
   ・   ・   ・   
 2020年7月号 正論「日本が好き! ルールには必ず理由がある 対談 井上和彦×壱城あずさ
 ……
 壱城 日本人の良いところって助け合えるところだと思います。なのに、悪いところをみると、引きずりおろして自分が上がろうというような感じを受けます。批判するばかりでなくて、手をとって一緒にあがって行こうというふうにできたらいいなと思います。
 一人でできないことを、みんなで協力して助け合えるのが日本人の良いところだと思うんです。今それが少し欠けているように思いますが、情の厚さだったり、やさしさだったり、思いやりというのはどこの国よりもあると思います。私は日本人の『美しい心』が好きです。日本人であることを誇りに思います。この美しい心を大切に、みんなで助け合える心をもっと豊かに持てたらいいなと思います。」
   ・   ・   ・   
 日本の伝統的形式美と言霊=日本国語は、有りの儘の姿、その佇まいとしての偽らざる風情である。
 ローカルな伝統的形式美と言霊=日本国語は、皇室の雅に繋がっている。
 伝統的形式美と言霊=日本国語とは、穢れなき清明光明な天皇の御威光である。
   ・   ・   ・   
 穢れなき清明光明な天皇の御威光による天皇の政(まつりごと)は、私欲・俗欲・強欲に塗れた穢れ多き政治権力や宗教権威ではなかった。
 それ故に、天皇は神聖不可侵の存在、神の子孫、神の裔、現人神として護られてきた。
 それが、天皇の正当性ではない正統性であった。
   ・   ・   ・   
 2020年7月号 正論「なぜ私は『業平』を書いたのか  高樹のぶ子
 ……
 『伊勢物語』は古来、人気があって日本中でずっと読み継がれてきたわけですけれど、その主人公とされる在原業平が実際にどういう人物であったのか、どんな一生を送ったのかは誰も書いておらず、分からないのです。主人公は業平であろうと言われてきましたが、『伊勢物語』自体がいつ成立したのかも作者もはっきりしないのです。
 おおよそのところは業平自身が書いたのだ、という説もありますが、あくまでも一説であって、そもそも後世に書き加えられたとみられる段(章)もあるのです。あえていえば13世紀に藤原定家が全部、それまであったものを書き写して、125段にまとめたものがそれ以降、『伊勢物語』として流通しているのですが、それ以前にいろいろ加筆や削除があったとみられます。
 ……
 ただ歴史的には、在原業平をモデルとして『源氏物語』が書かれたのは間違いないでしょう。だから私は逆に、『源氏物語』を参考にして今度の『業平』を書いた、というところもあります。紫式部が業平をモデルに『源氏物語』を書いた、それを私が1000寝ん経って逆にいただいて新しい業平像をつくった、ということになります。
 業平はいわゆる『東下り』で武蔵国(現在の東京都・埼玉県)、さらには陸奥国(東北地方)まで旅に出ています。業平は高子({たかいこ}のちの陽成天皇の母)との恋愛関係が非常にまずい結末になって、都から逃げ出したというべきか、ほとぼりを冷ますために東下りしたわけです。この東下りを下敷きに、紫式部は『源氏物語』の主人公・光源氏の須磨・明石(現在の兵庫県)行きを書いているのです。
 ……
 日本の美は平安時代由来
 ……
 新聞連載をしていた昨年には、ちょうど平成から令和への御代替わりがありました。そこで感じたことは、日本の美というものは結局、平安時代から、業平からきているということでしょう。その美というのは『貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)』、つまり西行鴨長明松尾芭蕉のような人たちが権力から距離を置くことで美に生じる、それが『あわれの美』です。その美の伝統をずっとたどっていくと業平に行き着く。すでに70年ほど前に、文芸評論家の唐木順三が『無用者の系譜』(筑摩書房)の中で、業平の歌について『ここには一種のきよらかなあはれがある』と評していましたが、ここに業平を読み解く手掛かりがあるように思われます。
 業平は意図的に権力から離れて半ば世を捨てたというのが大事な点で、だからこそあれほどの歌詠みになれたのではないでしょうか。業平の父・阿保親王もそうでしたが、権力の残酷さ・不安定さはアテにならないわけれど、言の葉、歌は末代まで残るということを信じた人であり、だからこそ業平は日本の美の源流となりえたのだと思います。
 この貴種流離譚の美というのは日本の伝統美として多くの人に知られていたことで、本居宣長折口信夫も言及していますが、その起源はどこかといえば、奈良時代にはまだなかったろうと思います。それ以前の神話の時代も含めて、権力と腕力を兼ね備えた日本武尊(やまとたけるのみこと)のような英雄譚がありましたが、平安時代になるとそういう英雄譚はありません。それよりは『滅びの美』の世界が出来上がっていきます。それは和歌の隆盛と重なっていますが、やはり業平から始まっているのではないでしょうか。
 平安時代前期は唐からの文化がどんどん入ってきている時代でしたから、まだ漢詩の全盛期で、当時は『詩』といえばすなわち漢詩のことでした。ですので『業平』の後半に出てきますが、高子が最終的に清和天皇のお后となって力を得て、女の力で和歌の時代をつくり出していく。そこに業平や何人かの人たちが力を貸し、彼らの作品が少し後に『古今和歌集』に収められていますが、そうした日本の和歌文化をつくった人たちを支えたのが高子だったのです。
 ここで押さえておくべきは業平の文学上の役割で、日本の美の本質を最初につくった男だった。ということです。そこには貴種流離、隠遁の美というものが表れている。そうして『業平』を読まれればおわかりのように、女たちもそれぞれに成長していっています。この物語は、女たちの成長の物語でもあるのです。
 和歌ならではの心の熟成
 読者の方々それぞれの感想があろうかと思いますが、この語り口でなければ私は『業平』の世界に入れませんでした。それだけに『伊勢物語』を読む前段階としてこの『業平』を読んだ方がいい、と先の上野先生のお勧めがありましたが、その通りだと思います。
 そして日本の美の起源は平安時代にあるといっていいのでしょう。今でも、皇室の行事は平安時代のものを踏襲しているといえます。それは日本の美の本質が平安時代につくられた、ということなのです。
 昨年の御代替わりの儀式を見て『やっぱり平安時代なのだなあ』と私には思えました。それ以降の武士の時代、荒々しき時代を超えて、皇室は平安時代に帰っているのだ、平安時代の文化を継承しているのだと思えるのです。
 在原業平という男の魅力は、言葉を駆使する能力に秀でていたことです。彼の和歌を詠む力、それがなければ対立が深まるばかりだったことでしょう。言葉は女を口説くばかりでなく、人と人との意思を疎通させるものであり、それは現代においても必要とされているものだと思います。
 業平の最後の公職は、殿上人の対立を収めて回るコーディネーター的な役職でした。彼の言葉を駆使する力は女性を口説く場面でも発揮されましたが、それだけの能力がある人だからこそ政治的にも重要な役割を果たしえたのです。
 だから業平は、皇族の血を引くとはいえ位は決して高くなかったのだけれど、時の天皇の使いとして上手に役割を果たし、天皇に頼られていたのです。平安時代は武力ではなく、言葉の力が大事にされていた時代でした。当時は呪詛だとか権謀術数とか忌み事、穢れといった非科学的なことも多かったのですが、それらを鎮めていくのが言葉の力であり、神への祈り、祝詞(しゅくし)も言葉によってなされていたわけです。
 言葉が非常に重要視されていた時代において、和歌は男同士が意思疎通する際にもクッションの役割を果たしていました。『お前、あれやれ』『お前は嫌いだ』といったことを直接言うのではなく、やんわりと伝え合うことで柔らかな心の熟成がみられる。女を口説くにしても和歌で伝えることで、そこに心の熟成があるわけです。
 和歌は詠んで相手に送って、それが返ってくるまで待つという手間暇がかかります。和歌を書きつけること自体も、自分の気持ちをきちんと言葉に置き換える必要がありますが、それも昔から伝わる言葉を和歌に入れ込むことで、『これはこういう意味なのだ』ということがわかるわけです。この過程を経ることで自分の思いが熟成されていきますし、相手からの歌が返ってくるまでに時間もかかりますし、もしかしたら歌が返ってこないかもしれない。現代のメールやLINEなどとは違ってとんでもない手間暇がかかっていますが、それがクッションになっているんですね。」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 在原 業平は、平安時代初期から前期にかけての貴族・歌人平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上蔵人頭・右近衛権中将。
 六歌仙三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによる。
 全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。
 出自
 父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)に父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らと共に在原朝臣姓を名乗る。  
   ・   ・   ・   
 日本男子は唐に習って漢詩を吟じ、日本女性は日本の心を和歌を詠んだ。
 平仮名による和歌の文化は、女性によって高度に洗練されて広まった。
 後の俳句や川柳などの五七五調は、和歌から生まれた。
 日本文化において、平仮名の和歌文化は栄えたが漢字による漢詩文化は衰退した。
 日本と中国・朝鮮の違うところは、漢詩文化である。
 女性が使う文字は民族固有のローカルな平仮名で、男性が用いた文字はグローバルな外来の漢字であった。
 日本国・日本民族日本人を日本列島に縛りつけ閉じ込めたのは、言霊を操った女の力である。
 日本の最高神は、女性神天照大神である。
 縄文文化弥生文化最高神は、女性神の大地母神であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族の伝統的形式美は、数万年前の縄文文化まで途切れる事なく繋がり、現代においても時代に応じた新しい日本文化を生みだし続けている。
 日本民族の伝統的形式美の優れている事は、他者に代わる事なく異物に変わる事なくそのままで「続いている」事である。
 この途絶える事なく「続いている」事が、「受け継がれている」事が、「継承されている事が、日本の美であるとともに、日本の心であり、愛であり、徳であり、善であり、正であり、良である。
 つまり吉兆「よきかな、よきかな」である。
 日本民族の伝統的形式美とは、古き善き雅な心情と新しき良き粋な心意気である。
 伝統的形式美が息づいて今も続いている証拠が、宮中の歌会始近江神宮などのかるた祭・かるた開きの儀である。
   ・   ・   ・   
 和歌の歌会やかるた祭は言霊の神事だが、カラオケ大会は喉自慢・自己自慢の大衆演芸である。
   ・   ・   ・   
 ローカルな伝統的形式美や日本国語が、好きな日本人は2割、嫌いな日本人は3割、魅力を感じず関心もない日本人が5割。
   ・   ・   ・   
 昔の日本国語と現代の日本語は違う。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、昔の日本人と比べて言葉力が弱いというより劣っている。
 特に、2010年以降の日本人は特にそれが言える。
 現代の日本語には、ウソ、詭弁、言い訳、ゴマカシそして罵詈雑言・誹謗中傷など汚い言葉が多く含まれている。
   ・   ・   ・   
 昔の「相手に対する配慮・慮る・思い遣る」と現代の「相手に対する忖度」とは違う。
   ・   ・   ・   
 昔の日本人の賢さと現代の日本人の賢さは違う。
 現代日本人の優秀さはSNSやインターネットに自分の意見を書き込んで世界に発信する。
 昔の日本人の優秀さは、和歌を詠み、落首を書く事であった。
 現代の日本人と昔の日本人は別人のような日本人である。
   ・   ・   ・   
 宮内庁
 歌会始
 人々が集まって共通の題で歌を詠み,その歌を披講する会を「歌会」といいます。既に奈良時代に行われていたことは,「万葉集」によって知ることができます。
 天皇がお催しになる歌会を「歌御会(うたごかい)」といいます。宮中では年中行事としての歌会などのほかに,毎月の月次歌会(つきなみのうたかい)が催されるようにもなりました。これらの中で天皇が年の始めの歌会としてお催しになる歌御会を「歌御会始(うたごかいはじめ)」といいました。
 歌御会始の起源は,必ずしも明らかではありません。鎌倉時代中期,亀山天皇の文永4年(1267年)1月15日に宮中で歌御会が行われており,『外記日記』はこれを「内裏御会始」と明記しています。以後,年の始めの歌御会として位置づけられた歌会の記録が断続的に見受けられます。このことから,歌御会始の起源は,遅くともこの時代,鎌倉時代中期まで遡ることができるものといえます。
 歌御会始は,江戸時代を通じほぼ毎年催され,明治維新後も,明治2年(1869年)1月に明治天皇により即位後最初の会が開かれました。以後,改革を加えられながら今日まで連綿と続けられています。
 明治7年(1874年)には一般の詠進が認められ,これまでのように皇族・貴顕・側近などだけでなく,国民も宮中の歌会に参加できるようになりました。
 明治12年(1879年)には一般の詠進歌のうち特に優れたものを選歌とし,歌御会始で披講されることとなりました。これは宮中の歌会始の歴史の中でも画期的な改革であり,今日の国民参加の歌会始の根幹を確立したものであります。
 明治15年(1882年)からは,御製を始め選歌までが新聞に発表されるようになり,明治17年1884年)からは官報に掲載されるようになりました。
 大正15年(1926年)には,皇室儀制令が制定され,その附式に歌会始の式次第が定められました。これにより,古くから歌御会始といわれていたものが,以後は「歌会始」といわれることになりました。しかし,大正15年12月,大正天皇崩御のため昭和2年には歌会始は行われなかったので,実際に歌会始と呼ばれたのは昭和3年(1928年)の歌会始からです。
 そして,先の大戦後は宮内省に置かれていた御歌所が廃止され,在野の歌人に選歌が委嘱されました。また,広く一般の詠進を求めるため,お題は平易なものとされました。預選者は,式場への参入が認められ,天皇皇后両陛下の拝謁や選者との懇談の機会が設けられるようになりました。召人は広く各分野で活躍し貢献している人々を選び,陪聴者の範囲や人数を拡大しました。また,テレビの中継放送が導入されて,さらに多数の人々が歌会始に親しむことができるようになりました。こうして歌会始への国民参加は,ますます促進されました。
 長い歴史を有する宮中の歌会始は,明治と戦後の改革によって世界に類のない国民参加の文化行事となりました。短歌は,日本のあらゆる伝統文化の中心をなすものといわれています。この短歌が日本全国のみならず海外からも寄せられ,これを披講する宮中の年中行事が皇室と国民の心を親しく結ぶものとなっていることは,誠に喜ばしいことであります。
 毎年1月の歌会始の儀では,天皇皇后両陛下の御前で,一般から詠進して選に預かった歌,選者の歌,召人(めしうど)の歌,皇族殿下のお歌,皇后陛下の御歌(みうた)と続き,最後に御製(ぎょせい)が披講(ひこう)されます。皇太子殿下をはじめ皇族方が列席され,文部科学大臣日本芸術院会員,選歌として選ばれた詠進者などが陪聴します。
   ・   ・   ・   
 宮中歌会始
 歴史
 起源は必ずしも明らかではないが、鎌倉中期には、『外記日記』に亀山天皇期の文永4年(1267年)1月15日に宮中で「内裏御会始」という歌会が行われたと記録されている。ただし、当時は作文始・御遊始(管弦)と合わせた一連の行事として捉えられて御会始(歌御会始)と呼ばれており、1日のうちに3つを行うのが通例と考えられていた。また年始に限らず、天皇治天の君の執政開始後に開催される場合もあった。ただし、御会始そのものは室町時代に中絶しており、『晴和歌御会作法故実』(著者不明であるが、霊元上皇書写の国立歴史民俗博物館所蔵本がある)という書物によれば、後円融天皇の永和年間の和歌御会始を模範として後柏原天皇が明応10年(文亀元年/1501年)正月の月次歌会を独立した儀式として執り行ったことが記されており、これが歌会始の直接的起源であると考えられている。江戸時代からはほぼ毎年開催され、少しずつ変化をしながら現在に至る。  近代においては、明治2年(1869年)に京都御所の小御所で行われたのが最初であった。明治7年(1874年)には一般国民からの詠進も広く認められるようになり、明治12年(1879年)からは詠進歌も詠みあげられるようになった。さらに明治15年(1882年)以降は、天皇の御製や一般の詠進歌が新聞や官報などで発表されるようになった。詠進歌の選考は宮内省に置かれた御歌所が行なった。このころ、歌の才を認められて重用される者も現れた。士族出身ながらも宮中女官となった平尾鉐は、18歳の時に歌の師である八田知紀の推薦で宮中に入り、皇后美子より、歌子の名を賜った。女子教育者として一世を風靡した下田歌子である 。
 歌御会始の題(指定されるテーマ)は勅題(ちょくだい)といわれる。
 1928年(大正15年)には、歌会始の式次第が定められ、それまで「歌御会始」だったのが、「歌会始」に改称される。
 昭和22年(1947年)より、現在のように皇族のみならず国民からも和歌を募集し、在野の著名な歌人(選者)に委嘱して選歌の選考がなされるようになった。それにともない、勅題はお題(おだい)といわれるようになり、平易なものになった。これにより、上流社会の行事から一般の国民が参加できる文化行事へと変化を遂げた。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 歌会始(うたかいはじめ)は、和歌(短歌)を披露しあう「歌会」で、その年の始めに行うものを指す。現在では、年頭に行われる宮中での「歌会始の儀」が特に有名。
 概要
 元々は、上代にて皇族・貴族等が集い和歌(短歌)を披露しあう「歌会」で、その年の始めに行うものを指す。
 今日では宮中歌会始(後述)の他に、京都冷泉家(公家の流れを汲む)で行なわれているものが有名である。冷泉家では、狩衣や袿などの平安装束を身にまとい、数十名が集って行なわれるもので、京都の風物詩として、毎年マスコミ報道、古文教科書(資料集)で紹介される。
 この他に、一般の和歌教室(短歌会)で、講師や生徒が年始に歌を披露しあう集いを「歌会始」と呼ぶところもある。
   ・   ・   ・   
 近江神宮
 祭神・第38代天智天皇。昭和15年創建。発願者・第124代昭和天皇
 小倉百人一首巻頭歌ゆかりの近江神宮で、天智天皇御製
 「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」
 を読師が神前で朗誦し、采女装束を着用した4名の取姫が儀式的にかるたを取り「かるた開きの儀」を行います。続いて近江勧学館において高松宮記念杯をいただいた競技かるたの全国大会が開催されます。
 皇室を慕い、王朝のみやびにあこがれる日本人の国民心意は、江戸時代以降一般に広まった、新年の百人一首かるた遊びのなかに育まれました。
 伝説的な歌ではありますが、2つ目の勅撰和歌集である後撰集以後、天智天皇の御製として伝承され、小倉百人一首の巻頭歌として置かれました。農耕儀礼のような田作りの上に御身をおかれて農民の辛苦を思いやる歌と考えられてきましたが、同時にまた、神話の時代、天孫降臨にあたって天照大神から高天原の稲穂を授けられ、地上でも米作りを行う起源になったという、日本の米作りの起源神話への認識を踏まえて、天智天皇の御製という伝承が生れてきたと考えられます。日本の神々のまつりが米作りの上に立脚し、神まつりと米づくりと皇室とが密接不可分のものであることが、おのづからにして自覚された歌でもあります。
 君民一体の農耕社会への渇仰がうかがわれ、また現今、天皇陛下が宮中で田植と抜穂をお手づから行っておられることと即応するものがあります。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 『古今和歌集』(こきんわかしゅう)は、平安時代前期の勅撰和歌集。全二十巻。勅撰和歌集として最初に編纂された。略称を『古今集』(こきんしゅう)という。
 成立
 『古今和歌集』は仮名で書かれた仮名序と真名序の二つの序文を持つが、仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、延喜5年(905年)4月18日に奏上された。ただし現存する『古今和歌集』には、延喜5年以降に詠まれた和歌も入れられており、奏覧ののちも内容に手が加えられたと見られ、実際の完成は延喜12年(912年)ごろとの説もある。
 撰者は紀友則紀貫之凡河内躬恒壬生忠岑の4人である。序文では友則が筆頭にあげられているが、仮名序の署名が貫之であること、また巻第十六に「紀友則が身まかりにける時によめる」という詞書で貫之と躬恒の歌が載せられていることから、編纂の中心は貫之であり、友則は途上で没したと考えられている。
  ・  ・  
 百人一首(ひゃくにんいっしゅ、ひゃくにんしゅ)とは、100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。
 中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首おぐら-ひゃくにんいっしゅ)は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。本記事では主に、この小倉百人一首について解説する。
 概要
 小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰である。その原型は、鎌倉幕府御家人歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。

   ・   ・   ・   
 教養人が目指した隠遁とは、儒教ではなく、道教の神仙境への憧れであった
   ・   ・   ・   
 昭和天皇を否定し、昭和天皇御真影肖像画を引き裂き、焼いてその灰を踏みつける事をアートとする現代日本には、祖先が産み育てた伝統的形式美は存在しない。
 そうした現代アートを賛成し支持しする現代日本人には、伝統的形式美の素養は皆無である。
 そうした現代アートに公金を出して協賛する現代日本には、伝統的形式美はない。
 そうした現代アート表現の自由として擁護するする現代日本人には、伝統的形式美を語る資格はない。
 彼らには、日本の美はもちろん日本の心もない。 
   ・   ・   ・   
 現代の政治家・官僚・財界人そしてメディア人や報道機関者などの高学歴出身知的エリートには、伝統的形式美の素養がなく、よって民族の伝統的形式美を語る事ができない。
   ・   ・   ・   
 美やアートには、光と陰、明と暗、表と裏、外と内、正統と異端、生と死、喜怒哀楽など多方面からの多様性が必要だが、伝統的形式美を完全否定する現代アートにはそれがない。
   ・   ・   ・   
 昭和天皇は、人道貢献や平和貢献に深く関わっていた。
 昭和天皇は、歴代天皇の中で最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇を惨殺しよとした犯人は、二等国民・キリスト教朝鮮人テロリストと一等国民・日本人共産主義テロリスト達である。
   ・   ・   ・   
 第32代崇峻天皇は、半島系渡来人に殺された。
   ・   ・   ・   
小説伊勢物語 業平