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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本の伝統文化は、それほど古くないし、信用している日本人も多くなく、時代の情勢によって大きく変わる事がある。
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日本の子供は5才から10才までに、商家へ丁稚・下女、武家では下男・女中へと奉公に出される。
10歳を過ぎても親と一緒に生活する子は稀であった。
日本民族日本人には、夢も希望もなかった。
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日本の常識は世界の非常識で、日本の知識は世界に通用しない。
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2020年3月号 実話BUNKAタブー「天皇制、夫婦同姓、武士道・・・は明治以降につくられた
この国ではとかく伝統を重んじることが美徳とされがちだが、それがどのくらい昔からあったのかわかっていますか?
古そうな雰囲気に浸っているだけじゃないですか?
ネットウヨクが賛美する伝統ぜんぶデタラメ
『二礼二拍一礼』は明治から
年末年始を皆さんはどのように過ごしたであろうか。
元号が令和に変わって初めての年末年始ということで今回は日本のしきたりにならって過ごそうと、大晦日は除夜の鐘を聞き、元旦に初日の出を拝み、おせち料理を食べて初詣に行く。『これぞ日本伝統の正月』だと霊験あらたかな気持ちになっていた人。
それってホントに日本の〝伝統〟なんですか?
例えば『除夜の鐘』。そもそも禅寺では煩悩の数とされる108回鐘をつくというのはあったものの、他宗派含めた多くの寺で行われるようなものではなく。1927年(昭和2年)にNHKの『ゆく年くる年』の前進となる『除夜の鐘』というラジオ放送が始まった際、上野・寛永寺に頼んでスタジオに鐘を持ち込み、108回叩いたことがきっかけとなって全国の寺院が取り入れたのだという。
93年の〝伝統〟行事。
年が明けて正月になった途端、テレビやラジオ、商業施設などで流れまくる『春の海』。
作曲家の宮城道雄が上京する際に、航路で旅した瀬戸内海をイメージして作ったのが1929年(昭和4年)の年末。すなわち・・・。
91年の〝伝統〟的な曲。
正月料理を重箱に詰めて出す、おせち料理。何百年も前から日本の家庭では一般的・・・という記述はどこにも存在しておらず。その風習がはじまったのは江戸時代で、庶民にまで広がったのは明治後期以降。婦人雑誌や料理雑誌が次々と創刊される中で、新年号に重箱料理が紹介されるのが定番化したことがきっかけだという話。明治後期というと1900年頃なので・・・。
約120年の〝伝統〟料理。
ちなみに当時の百貨店のおせち販売も定番だったらしいので『おせちは買うものではなくて、家で作るものなのにね。最近の若い人は・・・』と小言をつぶやくお姑はただの無知な貧乏!
おせちも食べ飽きたし、暇だから初詣に行こうか・・・なんて言うと『なんて罰当たりな!』と怒る人がいますが、そもそも暇つぶしのレジャーだったということを知らないのであろうか。『初詣』という言葉が初めて用いられたのは1885年の『東京日日新聞』記事という説が濃厚。当時、新橋と横浜の間に汽車が通っていたが、通常は停まらない川崎に三が日だけは止めるようにしたという。なぜなら汽車に乗って川崎大師へ〝初詣〟に行く客が多かったから。そもそも当時は新しかった汽車に乗るのが目的で、ついでだからお寺にお参りしようかというものだった。それがいつの間にか手段が目的となり、いわゆる〝初詣〟するのが一般的になっていったのである。
江戸時代にも大晦日の夜に神社仏閣に籠もって新年を迎える『年籠もり』や縁起の良い方角にある神社仏閣にお参りする『恵方詣』、年の初めの縁日に神社仏閣にお参りする『初縁日』などの習慣があったが三が日という、たった3日の休日でそれらを叶えるのは難しい。『まあ、社寺に参っておけば、いいじゃね?』といったカジュアルな感覚で始まったのが初詣。
約135年の〝伝統〟娯楽。
そうとはいえ、『神社に参るならば伝統的な作法である「二礼二拍一礼」は守ります!』と息巻く者よ。
それも始まったのは明治からですから!
奈良時代に始まった神仏習合も1000年の時を経て神仏分離となった。そこで格上だった仏教に負けまいと、神社を格上げるために国家が直接祭司を司ることになり、1907年(明治40年)に『神社祭式』というのが規定されて、その中で『二礼二拍一礼』の元となる作法が決められたのである。すなわち・・・。
113年の〝伝統〟作法。
ちなみに初詣が流行りすぎて人が並びすぎるため、早く参拝を終わらせるために『二礼二拍一礼』すればOKということにしたという説もあり。諸説あり。
〝伝統〟に諸説ありとは、これいかに。
『一世一元の制』も明治から
1868年(明治元年)、新政府は『王政復古』『祭政一致』のため神道国教化を進めるべく、神仏分離令を発令。神社の境内にあった寺院は取り壊されて、単体での神社ができていったのである。すなわち神社というのは・・・。
150年ほどの〝伝統〟的宗教施設。
ちなみに日本一の初詣参拝客数を誇る『明治神宮』はその名の通り明治時代に作られたのかと思いきや、1920年(大正9年)に鎮座祭が行われている。
100年の〝伝統〟的神宮。
そもそも現在ある神社の多くは神道国教化の元で整備された施設であったことからして、元々は皇室の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を総本山として国家神道の社であり、天皇と深い関係にある。その天皇自体の歴史が長いから、神社という概念は伝統のあるものだと言っていいのではないかという意見もあるのだが・・・。
その天皇を崇め奉ることが日本の伝統と言っていいのか?国民統合の中心に居続けたのだろうか?
『天皇』とは大和朝廷時代の大王が用いた称号であり、大王は奈良時代から平安時代にかけて政治や祭祀の頂点にあった。しかし摂関政治や院政、武家の台頭という歴史の中で実権を失っていったのである。足利家の室町時代には多くの宮中祭祀の廃絶もあったほど。江戸時代になってもその地位は変わらず、京都に天皇というお人がいたことを庶民が知っていたのか、怪しいものだという話もある。
その旗色が変わるのが江戸時代末期で、尊王論や王政復古が盛んとなり、明治維新を経て天皇制へとつながっていった。
すなわち現在も残る天皇崇拝は明治に始まったもの。皇室を奉っている神社は主に明治にできたもの。
150年ほどの〝伝統〟でしかない。
昨年11月に行われた大がかりな神事の『大嘗祭』も『皇室伝統』と言うが、あそこまで大々的にやるようになったのは明治からだ。建設費だけで9億5,700万円ほどかかっているらしいが、『7世紀からの伝統的な皇位継承儀式で公的性格がある』とのことで公費支出となっている。
まあ、日本の〝伝統〟なんだから税金がいくらかかってもやるべきだ(棒読み)。
その皇位継承にて元号が『平成』から『令和』に変わったのだが、『天皇一代につき、元号を1つだけ使う』といった『一世一元の制』も日本の伝・・・ん?これも明治元年からなの?天皇の在位中にも災害などの理由で改元されたり、天皇が変わっても元号は変わらないことがあったの?
全248ある元号のうち、明治、大正、昭和、平成、令和のわずか5つのみに通用されている〝伝統〟。
ちなみに古事記や日本書紀で初代天皇とされる神武天皇の即位日を『紀元節』として祝日にしていたのだが(後の『建国記念日』)、当初は1月29日(旧暦の1月1日)だったのを1873年(明治6年)に2月11日に定め直している。
天皇制にて最も大事であろう日を定め直すって、それでいいの?そこにおける〝伝統〟って、何?
その理由が『旧正月を祝う日だと国民が勘違いして、神武天皇即位日だって印象が薄れちゃうか』とい。
だからそんな理由で定め直していい日なの?大切な日じゃないの?ね?
その前年1872年(明治5年)に『神武天皇即位紀元』、いわゆる『皇紀』が定められたというのだが、その根拠となっている『日本書紀』の紀年を歴史的事実とするには無理があるということもあり、もはやオカルト的な〝伝統〟がまかり通っていたことがわかる。
そんな後付けだらけの、『天皇の治世』を祝う歌とされていた国歌『君が代』の編曲を担当しているのはドイツ人なんだけど、それでいいの?ねぇねぇ?
見合結婚&夫婦別姓も明治から
神社に話を戻しますと、『日本人なら教会じゃなくて神社で、神前の結婚式にしたいよね』とか言っている、令和婚で入籍して幸せいっぱいのアナタ。
あれって大正天皇が結婚するときにキリスト教の式をマネして作られたのが最初だから。1900年(明治33年)のことなので・・・。
120年の〝伝統〟儀式。
ちなみに見合い結婚も日本の伝統みたいなことを言う人がいるが、明治政府が恋愛を邪なものと考えて明治中期に推進して広まっただけで、元々は恋愛結婚が日本の伝統!
あと、結婚した夫婦の性問題。『夫婦同姓こそが日本古来の伝統!』ではないのであしからず。
そもそも江戸時代以前の庶民は姓を名乗っていない。明治になってから庶民も姓を名乗ることとされ、1872年(明治5年)に今でいう戸籍制度(壬申戸籍)が始まったのが議論の始まり。結果、明治政府は1876年(明治9年)、太政官指令で『夫婦別姓』を正式に定めている。その後、1898年(明治31年)の明治民法施行までそれが続いたことを考えると、『夫婦別姓』のほうがどちらかというと日本の伝統だろう。
夫婦といえば家族。安倍首相が『かつて大家族、2世代、3世代という家族がたくさんあった』と言っていたが、1920年(大正9年)の核家族率は約54%。2017年(平成29年)の核家族率は約56%。
核家族が日本の伝統!
他にも日本の伝統とされていることでいうと、正座。両膝を折って腰をおろす座り方は『かしこまる』と呼ばれ、庶民が貴人の前で平伏するときなどの限られた場面での姿勢だった。江戸時代以前は『あぐら』こそが正しい座り方とされていたのを明治政府が国民に等しい修身教育を施すにあたり、日本人としてあるべき正しい座り方として正座を選んだという。
正座は明治政府によって作られた〝伝統〟的姿勢。
日本を代表する花とされている、桜。ソメイヨシノは江戸時代後期に開発され、昭和の高度成長期にかけて全国で多く植えられた。つまり日本のどこに行っても桜が見られるようになったのは高度経済成長よりも後の昭和中後期の話。
桜の〝伝統〟は昭和になって始まったばかり!
他には・・・そう、喪服。
喪服は元々、白だった。会葬者も死者も同じく白装束、和装の白無垢を着て参列していたのだが、明治時代の政府高官の国葬で政府が会葬者に対し、洋風の着用や黒ネクタイ、黒手袋の着用などを通達したことから始まったのである。
明治30年の英照皇太后の大喪では全国民が30日間、喪に服す際、黒喪章の着用を政府が指示したことが大きなきっかけとなって、それ以降、黒が喪色として一般に認知されたのである。
喪服は白こそが日本の伝統であり、黒は明治政府が作り上げた〝伝統〟。
以上、日本の〝伝統〟のほとんどは明治政府によって作り出されたものである。
安倍首相が目指す『美しい国』とは、本来の伝統を取り戻した日本か?それとも〝伝統〟を守る日本か?」
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世界常識から見て、悪いのは全て日本であり、悪い原因も全て日本にある。
悪い日本の中心に存在するのが天皇家・皇族、皇室、天皇制度である、世界の正しいにんしきである。
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日本民族は、大陸や半島にける弱肉強食の生存競争から逃げてきた敗者や弱者で、逃げ込んだ日本列島に雑居し、見境のない乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族である。
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真面な日本人が2割で、真面でない日本人が3割で、未病な状態の日本人が5割。
真面でない日本人は少数派に多く、優しい日本は少数派に寄り添い、多数派は人道として少数派の機嫌を取ろうとしている。
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昔の日本人は、口には出さなかったが、中国や朝鮮による日本への侵略と日本人への虐殺・拉致された事を忘れず、そして中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人が日本人を奴隷として売り買いして金儲けをした事を忘れてはいなかった。
そして、ロシア人による日本侵略と日本人・アイヌ人殺傷を忘れてはいなかった。
現代日本人は、若年健忘症患者のように忘れやすく、発達障害と変質性格で精神異常と異常行動を起こしやすい。
そして、反宗教無神論にして命軽視・人権無視・道徳破壊・モラル崩壊のマルクス主義・共産主義が大虐殺を仕掛けてきた。
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日本人とは、浅はかで、愚かで、馬鹿で、つまらない人間である。
自惚れ自慢する程に、秀でてもいなければ、優(すぐ)れてもいないし、賢くもない。
日本人は、卑怯で、嘘つきで、信用できないし、優しどころか冷血で、薄情で、非情で、残酷である。
日本社会は、自己責任・自助努力・自力救済が鉄則で誰も助けてはくれない。
つまり、人を見捨てるのが日本である。
日本人は、「心優しい」はウソである。
日本社会は、強者が理不尽で身勝手に欲望を満たす非人道的なブラック社会である。
「美しい国日本」はウソである。
人を信用しない、家族に頼らない、「人は人、自分は自分、家族といえども他人」それが日本の真の姿である。
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現代日本の財政、経済は、日本国憲法で没収した天皇家・皇室の個人資産・私有資産で成り立っている。
没収された天皇家・皇室の個人資産・私有資産は、廃藩置県で廃止された各藩の借金と価値の薄い山野の不動産、殖産興業の為の率先投資による株配当で作られたのであって、重税による国民からの搾取でも、侵略による外国からの略奪ではない。
日清戦争でえた賠償金は、政府の臨時収入となり日露戦争用の軍事費に消えた。
明治維新は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略から日本を守る為に起きた改革であって、革命ではなかった。
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日本は、江戸後期から明治にかけて、ロシア・中国・朝鮮らの大陸諸国の侵略に備えての軍事国家化と共に、キリスト教の侵略に対する内面の武装強化も必要となり、宗教の国家神道、文化の日本国語、そして精神・心理・生活習慣の伝統・作法・定めなどを新たに作って普及させた。
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日本を外国勢力から守る為には、天皇を中心とした軍事と宗教・文化・精神で武装した中央集権国家を作り、国力を発展させる以外に方法がなかった。
が、現代日本はそれを戦争・人殺しを助長する非人道的な犯罪行為であったと否定している。
特に、反天皇反日派、左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派・エセ保守派、反民族派、護憲派、人権派、良識派、良心派、正義派、反戦平和市民団体、反核市民団体、再軍備反対派、自衛隊反対派、反暴力無抵抗主義者などにその考えが根強い。
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天皇とは、中華帝国・中華文明の軍事・宗教・文化など多方面での侵略から日本国と日本民族日本人を守る為の対外防禦膜であった。
その為、国内・内政は武力で日本を統一した権力者に統治を委任し、政治権力と宗教権威を放棄した。
天皇は、神話に基ずく神の裔という「天皇の御威光」のみを保持した。
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現代日本は、国・民族・宗教・文化・精神など多方面で融解し始めている。
それは、保守派はもとより右翼・右派・ネットウヨクでも同様である。
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熱狂、狂信な天皇派・勤皇派・尊皇派は、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、軽蔑された芸能の民(歌舞伎役者や曲芸師など)、迫害されていた賤民(非人や穢多)、差別された部落民(山の民・川の民・海の民)らであった。
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反天皇反日外国勢力と繋がりのあった日本人共産主義テロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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