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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本民族日本人は、ひ弱で、気弱で、弱虫であった。
日本民族日本人が最も恐れていたのは死穢(しえ)であった。
日本民族日本人を救ったのは日本仏教であった。
日本仏教は、死穢を浄化する為に火葬を広めたが、材木を切ると里山が荒れる為に土葬の方が主流であった。
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『詳説日本史 改訂版 日本史B』(2019年版)山川出版社刊
「生類憐れみの令と服忌令
服忌の考え方は『大宝令』の制定以来、朝廷や神社に存在してきた。1505(永正2)年、歌人・学者として名高い公家三条西実隆は、屋敷の下女(げじょ)が病気で助かる見込がないとみるや、寒風はなはだしい夜半に、屋敷の外に下女をすてさせた。家屋敷に死の穢れが生じるのを怖れたためである」
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医療が発達していなかった日本では、病気や怪我をすると助ける方法がなく死を待つだけであった。
家屋敷が死で穢れる事を避ける為に、病気・怪我・老衰などで死が避けられない者は死ぬ前に山野に捨てた。
捨てられるのには身分は関係なく、祈願寺を持たない公家は庶民と同じく捨てられた。
祈願寺を持つ公家は、死にそうな主人や家人を屋敷から寺に移し、仏像の前で死ぬまで寝かせた。
自分の住んでいる家屋敷から死者を出す様になったのは江戸時代からで、それ以前は生活する家屋敷から死人を出す事を嫌っていた。
祈願寺がなく山野に捨てるのに忍びない公家は、領地や屋敷内に隠居所を造って死ぬまで寝かせていた。
隠居とは、死を待つ者の事をいう。
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広辞苑。服忌令。服忌の日数などを定めた規定、徳川5代将軍綱吉が1684年(貞享1)年生類憐れみの令とともに制定。1736年(元文1)吉宗の時代に条文が確定され、明治維新まで続く。死と血を忌避する観念の定着に大きな役割を果たした。
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世界大百科事典 第2版の解説
ぶっきりょう【服忌令】
近親の死に際して喪に服すべき期間を定めた法。ほかに触穢(しよくえ)に関する規定も付されていることが多い。服忌令と称するものは,中世伊勢神宮その他の神社で作成されたのが初めであるが,それらは基本的には喪葬令服紀条と仮寧(けによう)令を組み合わせ,喪に服するものが与えられる休暇たる仮(か)を,死穢を忌む期間としての忌に変えたものであった。江戸幕府では,これらをもとにして5代将軍徳川綱吉の1684年(貞享1)儒者林鳳岡(ほうこう),木下順庵,神道家吉川惟足(これたり)らの参画の下に,服忌令を制定公布,その後数次の改正の後,1736年(元文1)最終的に確定した(表参照)。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
触穢 しょくえ
そくえとも読む。死穢,産穢,月経などの穢れに触れること。昔は触穢になると,神事や朝参を慎んだ。
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死穢(読み)しえ
世界大百科事典内の死穢の言及
【穢】より
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[穢の広がりと浄化]
穢が罪や災いと異なる点は,その呪的な強い伝染力にある。そのため死や産の穢には喪屋や産屋(うぶや)を別に建てて隔離し,それとの接触を厳しく警戒して忌避するが,とくに死穢は不可抗的に死者の家族や血縁親族を汚染する。たとえば《魏志倭人伝》には3世紀ごろの倭人の習俗として,死者の遺族が十数日の喪に服し,最後に全員水浴して穢を浄化することを記している。…
※「死穢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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