🕯150)─1─亡くなった闘病者が残してメッセージで変わる死生観。小林麻央さん、34歳。~No.317No.318  

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 産経新聞IiRONNA「関連テーマ 小林麻央さんが遺してくれたもの
 フリーアナウンサー乳がん闘病中だった小林麻央さんが34歳の若さで亡くなった。昨秋にブログを開設して以来、352回ものメッセージを発信し、多くの人々の心を動かした。麻央さんは私たちに何を伝え、何を遺してくれたのか。その意味を考えたい。
碓井真史(新潟青陵大学大学院教授)
 有名人や芸能人の人生は、私たちに大きな影響を与え、時に社会を変えていく。山口百恵のように、人気絶頂のアイドルが結婚を機にすっぱりと引退し、専業主婦として生きていくといった姿は、当時の日本女性に強いインパクトを与えただろう。そして「山口百恵」は伝説化されていく。
 さらに「死」にまつわることは、より普遍性が高いために、多くの人々の生き方にさえ影響を与える。スポーツカーで事故死したジェームズ・ディーン、愛と平和を歌いながら暗殺されたジョン・レノン、民家の軒先で遺体が発見された尾崎豊。彼らは、その芸能活動と死にざまがあいまって、熱狂的なファンを生み神格化されていった。
 人はみんな死ぬ。有名人も権力者も金持ちも関係ない。死から免れる人はいない。だから問題は、どう死ぬかだ。涙で包まれた穏やかな臨終の場面はドラマでよく登場するシーンだが、現実とは異なる「様式美」とさえ言えるよう最期が描かれたりする。事故死は、突然の死であり、ご遺族にとってはとても辛いことになる。だが、だからこそこの衝撃的な死に方も物語にはよく登場する。現実世界の芸能人も、事故死の方がその芸能人のイメージのままで死を迎えられるために、「永遠のスター」として私たちの記憶に残ることもある。
 だが、病気はなかなか辛い。徐々に体が弱る。痩せ細るなど容姿が変わることもある。長く苦しむこともある。病人の周囲では良いことばかりが起こるわけではない。体と心の苦しみ、お金の問題、看病、人間関係の問題など、さまざまなトラブルが起こることもあるだろう。辛さだけが残る最期もある。だから、有名人の中には闘病生活をほとんど世間に知らせない人もいる。華やかな結婚式や、授賞式や、一家だんらんなど公私にわたる人生を公開してきた人も、死期が近づいている闘病生活は公開しない。夢を売ってきた芸能人として、それも当然のことだろう。
 だからこそ、フリーアナウンサー小林麻央さんの活動は注目された。彼女のネット発信は素晴らしものだった。「私は前向きです」「今、前向きである自分は褒めてあげようと思いました」「何の思惑もない優しさがこの世界にも、まだたくさんある」「がんばれっていう優しさもがんばらなくていいよという優しさも両方学んだ」「今は今しかない」「今日、久しぶりに目標ができました。娘の卒園式に着物で行くことです」「空を見たときの気持ちって日によってなんでこんなに違うのだろう」「苦しいのは私一人ではないんだ」「私はステージ4だって治したいです!!!」「奇跡はまだ先にあると信じています」。小林麻央さんのブログには、宝石のような言葉があふれた。死との向き合い方のお手本のようだ。
 酸素チューブを鼻に入れた写真。ウイッグ(カツラ)の写真。闘病中の姿も、美しく、ユーモラスに公開した。そして彼女は語る。
 「私が今死んだら、人はどう思うでしょうか。『まだ34歳の若さで、可哀想に』『小さな子供を残して、可哀想に』でしょうか?? 私は、そんなふうには思われたくありません。なぜなら、病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです。私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです」。闘病生活をつづったブログなのだが、麻央さんのプログは闘病記ではなかったのだ。
 もちろん、公開されたことだけが事実ではないだろう。家族にしか言えない苦しみがあったことだろう。死も闘病も、きれいごとだけですまない。しかしそうだとしても、2016年9月1日に始まった麻央さんのブログは、人生の苦悩と希望を私たちに届けてくれた。それは日本人の心を動かし、世界にも報道された。彼女の言葉に、慰められ、励まされた人々はどれほどたくさんいたことだろう。そしてその活動が、小林麻央さん自身の癒しと勇気にもつながったことだろう。
 どう死ぬかという問題は、どう生きるかという問題であり、死生観が関わる問題だ。そして死生観には、宗教が絡む。普段は無宗教という人でも、葬儀の時には宗教的なことをする。しかし、世界的に宗教の力は落ちている。日本でも、簡易な家族葬無宗教の葬儀、そして「直葬」と呼ばれる宗教的葬儀なしに火葬場へ行く方式も増えている。仏教式の葬儀を行っても、以前ほど戒名などにこだわる人は減っているだろう。宗教への熱い信仰があれば、どう生きてどう死ぬかの指針になる。だが、非宗教化した現代社会で、人々は新しい死生観を求めている。
 インターネットは、まるで新しい宗教だ。人は確かに生きて日々活動しているのだが、人生とは各自が振り返ってみたこれまでの記憶とも言える。同じような生き方をした人でも、良い記憶でまとめられた人生もあるし、悪い記憶でまとめられた人生もある。人生は、当人の記憶であると同時に、周囲の人々の記憶だ。多くの人々の記憶が、その人の人生を形作る。
 神仏を信じていれば、神仏が私の人生を見守る。神仏は私に関する出来事を全て記憶し、私の人生に意味づけをする。心理学の研究によれば、信仰を持っている人の幸福感は高い。神仏的なもの抜きで人生の意味づけをすることは、簡単ではない。
 インターネットは、新しい神にもなるのだろう。私の人生を、ネット上で記録できる。世界に発信できる。世界の人々は、ネットを通して私を見て、リツイートしたり、「いいね」したりする。その記録は半永久的に残る。
 インターネットの黎明期(れいめいき)から、人生を語る人々はいた。一般の人の中にも、闘病生活を発信した人はいた。まだブログもなく個人ホームページも数少なかった頃、母であり教師であるある一人の女性は、死期が近づく中で、普及し始めた電子メールで配信を始めた。「私は、なぜ病気になったのかではなく、何のために病気になったのかと、考えるようになりました」と。その活動は、多くの友人、知人たちを力づけた。
 このような活動は、今や多くの人々に広がっている。ある元校長は末期のガンであることをブログでカミングアウトし、それでも最期まで自然に親しみ、グルメを楽しみ、家族や病院スタッフに感謝する。家族がそれを見守り、友人や知人が応援し、見ず知らずの読者との温かな会話が始まる。同じ病で苦しむ読者とも交流が生まれる。それは、どれほど素晴らしく意味あることだったことだろう。
 ネットを通して、記録を残し、思いを伝え、人々とつながる。それは、真剣に命と向き合っている人にとって、かけがえのない活動だ。死期が迫った終末期は、人生の中でもっともコミュニケーションを必要とする時期だ。しかし、しばしば死期が迫っているからこそ、孤独感に襲われることもある。だがネットは、豊かなコミュニケーションを提供する。神仏の腕に包まれるように、ネット世界で人は包まれることもあるだろう。
 余命いくばくもない人にとって必要なことは、安易な慰めでもなく、客観的だが悲観的なだけの情報でもない。必要なのは「祈り心」だ。神仏に祈れる人もいる。同じ宗教の信者たちに祈ってもらえる人もいる。健康心理学の研究によれば、祈られている人は病気が治りやすくなる。そして祈り心は特定宗教によらなくてもできる。祈り心とは、客観的には厳しい状況であることを知りつつ、同時に希望を失わない心だ。
 東日本大震災の時に、日本は祈りに包まれた。「Pray for Japan」、日本のために祈ろうと、世界が日本の支援に乗り出した。国連はコメントしている。「日本は今まで世界中に援助をしてきた援助大国だ。今回は国連が全力で日本を援助する」。
 義援金や救助隊員を送ってくれたことはもちろんうれしい。だが金や人だけではなく、その心に熱い想いを感じた人も多かったことだろう。真実の祈りは行動が伴い、真実の行動は祈りが伴う。世界はマスコミ報道により日本の状況を知り、そしてインターネットによってさらに詳細な情報が伝わり、人々はつながっていった。つながりこそが、人間の本質だ。
 このようなことは、個人でも起こる。今回は、小林麻央さんというたぐいまれな人格と文才を持った女性が、苦悩と希望を発信してくれたことで、大きな祈りと交流が生まれたといえるだろう。ネットは世界を変えた。ネットは私たちの死生観をも変えるのかもしれない。」
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