🕯147)─1─死後の世界はなく、死ねばすべてが消えて「無」くなるという科学的死生観。~No.311No.312 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本民族日本人とは、個性が薄く、自我意識が乏しく、いがみ合う事を嫌い、争い事から逃げる、ひ弱で、気弱で、弱々しい臆病な人間である。
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 日本仏教とは、苦から逃れる逃亡宗教であり、苦から逃げる逃避信仰である。
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 2011年3月11日 東日本大震災において、全ての神も、如何なる宗教も、自然がもたらす甚大なる被害に言葉を失って沈黙した。
 日本民族日本人は、無意識に、反射的に、自然の振る舞いとしてとった行動が、世界を驚愕させ感動を与えた。
 被災地で生き残った日本民族日本人が、信じ頼ったのは神ではなく人であり、命を預け身を寄せたのは宗教ではなく自然であった。
 その時、全ての神が消え、如何なる宗教も無力であった。
 さらに、どんな哲学、思想、主義主張も無意味であった。
 日本民族日本人は、日本常識として、人智や人力ではどうにもならない何モノかの存在を言葉ではなく肌身で感じていた。
 故に、キリスト教が説く「人は生まれながにして原罪・宿罪を持っている」や「死んで安らぎを得て、永遠の命を与えられる」が納得できなかった。
 さらに、マルクス主義とくに共産主義が訴える「人民は権力者・上流階級・資本家に虐げられ搾取されている」や「支配者と被支配者の階級闘争」が理解できなかった。
 日本で、キリスト教が信者を増やせなかったのも、共産主義マルクス主義)が浸透できなかったのも、この為である。
 日本で頻発する甚大なる自然災害に対して、絶対的価値観のキリスト教も科学的価値観のマルクス主義共産主義)も無力であり、むしろ有害であった。
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 古今東西、如何なる宗教も、人は完全なる善人はいないし根っからの悪人もいない、人は良い事もするが悪い事もする、と心・精神の二面性を認めている。
 その二面性を完全否定したのが共産主義マルクス主義)である。
 共産主義大義とは、共産主義の正義を完全無欠として認め、その他を全て悪として根絶・死滅させる事であった。
 マルクス主義共産主義)は、反宗教無神論として、「宗教はアヘンである」と嫌悪しアヘンを抹殺しようとした。
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 日本には、「穢れと恥」はあっても、「罪と罰」はなかった。
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 多神教の日本神道と大陸の一神教とでは宗教的共通認識がない為に、幾ら話し合った所で理解しあう事は絶対にあり得ない。
 つまり、神聖・神性に関する神学論争を如何に激しく論じ合ったところで無駄、無意味、無理である。
 お互いが譲れない「価値観の違い」が有る事を認めるしかない。
 共通の価値観・認識・常識があまりない多神教には、神聖不可侵の厳格な戒律・律法・掟がないぶん、仲間内で争い・いがみ合いを起こさない為の、お互いが守るべき定め・決まりごととしての空気・空気圧・同調圧力が存在する。
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 一神教における価値観は、絶対的価値観として一つしか認められない。
 多神教の価値観は、相対的価値観として数多く存在し、お互いが優劣を決める為の争いは起きない。
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 中華仏教は、白蓮教のように弥勒菩薩を尊崇し皇帝ではなく御仏・菩薩による救済を信仰する革命的要素を持っていた為に、中華儒教から敵視され、度々宗教弾圧を受けていた。 同じ理由で、キリスト教も弾圧の対象になった。
 革新性を持つがゆえに、仏教もキリスト教もグローバル信仰として世界宗教・普遍宗教といえる。
 白蓮教の乱では、約700万人が犠牲となった。
 太平天国の乱では、約1億5,000万人が犠牲となった。
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 藤子(A)不二雄(83歳)「どう生きるか、どう死ぬか、そんなの考えても仕方ないですよ。僕は寺で生まれた事もあって、死ぬ事は全然怖くないです。
 日本人は真面目すぎるんじゃないかな。『どう死ぬか』なんて余計なお世話だと思う。年を取ったら、何か有効なことをしようなんて思わないことです。特に気に入っているのが『明日に延ばせる事を今日するな』という言葉。
 ノンビリと自由に使える時間があるのは、人生でとても大切なこと。気持ちが楽になると身体も楽になるものです。僕がこの年でもピンピンしているのが何よりの証拠でしょう」
・・・
 2018年2月号 新潮45「反・幸福論 佐伯啓思
 第82回 浄土とは何か
 もし死が極楽浄土への往生であれば、さっさと死ねばよい。だが、やはり死は怖い、死にたくない。親鸞はそれでよいという。
 死ねばどこへ行くのか
 日本人は信仰深いのか、それとも不信心なのか。いったいどちらなのでしょうか。日本全国には実に多くの寺社仏閣があり、正月ともなればどっとお参りにくる。人が死ねばお坊さんがお経をあげる。外国人は、日本人は何と宗教的な国民なのだろう、と思うようです。ところが、実際には日本人ほど特段の宗教を信仰しているわけではないという。
 イスラム教が支配する強力な宗教国家は当然として、キリスト教の影響が強い欧米でも、自分と宗教とのかかわりがさっぱりわからない、という日本人のようなとぼけた人はめったにいないでしょう。無神論なら無神論無宗教なら無宗教で、その自覚を強くもっているのが欧米人で、ともかくも、自己と宗教との関係性の自覚はあるのです。だから、彼らからすれば、『いったいあなたの宗教は何なの』と尋ねられて、『いや、別に、hsて、いったいどうなっているのでしょうかね』などとうろたえている日本人に対しては、それこそ『あんたいったいどうなっているの』といいたくもなるのでしょう。
 もちろん、これは、欧米と日本の歴史の相違であり、宗教観の違いによるところが大きいのです。ユダヤキリスト教のような強力な一神教が支配し、人間の存在意識も、基本的にはこの絶対神によって規定されてきた社会では、信仰か対立か、という態度決定が不断に要請されてきたという事情はよくわかります。
 これに対して、もともとアニミズム的な自然信仰があり、その発展としての神道儀礼があり、仏教諸派があり、それらが神仏習合した日本では、特段の宗教的意識を自覚する必要はなかった。習俗として生活に根づくと同時に、特段の意識化作用も生じなかった。深い信仰も要請されなければ、厳しい対立も要請されなかったのです。したがって、そもそも、欧米の一神教のような絶対神を基準にして、日本人は宗教的か否かと問われても、われわれとしては答えようもない。『宗教』という言葉で理解しているものが違っているのです。
 宗教つまり『レリジョン』とは、もともと『人々を強く結びつける』という意味です。人々を強く結びつけるには、この世の世俗的な利益や争いを超えた何か、つまり超越的な次元を持ち出す必要がある。そしてそれを正当なるものとするには、そこに人々が納得できる『物語』が必要となるでしょう。その意味では、欧米も日本も同じです。
 この『物語』は、世俗世界を超えた超越世界の次元にある。しかも、それはこの世俗世界に深くかかわっている。そのかかわり方を述べるのが『物語としての宗教』ということでしょう。言い換えれば、われわれの意識はこの世俗世界(現世)だけでは完結しないのです。
 たちえば、われわれはいったいどこからやってきたのか、そして死ねばどこへゆくのか、こういうことが気になる。それは現世を超えた問いであり、この世に縛られたわれわれには答えようのない問いです。また、われわれは、この世俗世界で、とんでもない理不尽な苦しみを受けていることもある。いったい自分はどうしてこういう目にあうのか、と思う。
 こういう世俗世界において身の置き所がないとき、われわれは世俗を超えたもうひとつ別の世界を構想するほかありません。超越的な世界を構想することで、世俗の不幸から解放される。世俗世界の苦や理不尽を、われあれの意思や思惑をはるかに超えた次元によってかろうじて納得させようとする。それを、キリスト教のように『神のはからい』といおうが、仏教のように『三世(さんぜ)の因縁』といおうが、いずれにせよ、この『不可思議』を信じるところに宗教の意味があるのでしょう。
 ですから、多くの宗教において、世俗世界は『苦』に満ちたもので、『苦』からの救済を超越世界や絶対的なものに求める、ということになります。キリスト教も仏教も同じことです。そして、この『救済』は多くの場合、死後にやってきます。天国といい浄土といい、救済、もしくは苦からの解放は『あの世』で実現する。したがってまた、宗教とは、一面では『あの世』についての『物語』であり、信仰とは、『あの世』についての『物語』を信じる、ということなのです。
 さて、宗教をこのように理解すれば、仏教が宗教かどうかは、実はかなり微妙になってくるのではないでしょうか。なぜなら、もともとのゴータマ・ブッダの始めた初期仏教では、『あの世での救済』などというものは説かれていませんし、初期仏教は、修行者(僧)たちが修行集団(サンガ)を作り、苦から解放されることを目指すものだったからです。ブッダも、人が死ねばどうなるかなど答えられない『無記』としました。
 しかし、ブッダの死後、部派仏教と呼ばれる諸派の分裂のなかから大乗仏教がでてき、さらにそれが中国へと伝達され、仏教は衆生の救済宗教へと大きく変形されていったのです。死後の救済ももっとも強力に唱えた浄土教は、とりわけ日本では一大勢力になったことはいうまでもありません。
 日本人の持つ自然観、生命観はもともと、肉体は消滅しても、何か『魂』『霊魂』というものが永遠に続き、目に見えないものの、われわれのすぐそばにいるというものです。これは神道系の考えでしょう。しかし、もうひとつ、根深くあるのは、『あの世』とは浄土である。『この世』で善行を積めば死後、浄土へ行ける、というものです。
 浄土とは、覚りを開いたブッダ(仏)が住む仏国土であって、浄土も様々あるのですが、何といってももっとも有名なものは阿弥陀如来が住する西方の極楽浄土でしょう。ただただ『南無阿弥陀仏阿弥陀仏へ帰依する)』を唱える称名念仏によって極楽浄土への往生をとげるという浄土教法然によっていっきに広まった。
 上座部(小乗)仏教のように、厳しい修行をつみ、戒律を厳格に守り、ようやく往生できる、という聖道門(しょうどうもん)ではなく、日々の生活に追われ、修行などやっている暇もない大衆・庶民は、ただただ念仏を唱えるだけで死後往生できるというのが法然の説いた易行道(いぎょうどう)で、平安末期から鎌倉の『末法』の時代に人々に救済の希望を与えたのはよくわかります。
 すべて生々流転
 しかし、こういったときに、いくつか気になることがあります。
 まず、もともとの仏教は、現世での生(現生{げんしょう})は苦である、といい、苦の原因は、貪(どん)・瞋(じん)・痴(ち)を始めとする世俗の欲にある、という。欲に取りつかれるということは、自分が大事だからで、ここに我執が起きる。あるものがほしい、しかし手にはいらない、他人がうらやましい、そのうちそうして他人を嫉妬し憎悪する。これはすべて自我への固執におかなりません。そこで苦を滅するにはどうするか。我執を消すほかない。それはどうすればよいのか。確かな実体としての自我など存在しない、と知ることこそが大事だ。この智慧こそが苦を滅することになる、というのです。
 確かにそうかもしれません。私や自我などといっれも、その日の気分によって変化します。天気がよければ気分もよく、雨が降れば憂鬱になる。若いときと成年、老年では考えも感覚も変わる。本当に欲しいものを手にいれた途端に関心がなくなってしまう。これが現実というものでしょう。すると『私(自我)』などという確かなものはどこにもない、と知るほかありません。だから、自我の本質は『無』であるというわけです。無自性(むじしょう)です。しかも、『私』などといっているものは、実は、この身体(色)と、感覚(受)、想像や妄想(想)、意欲(行)、こころの作用(識)の集まり(五蘊{ごうん})に過ぎないのではないか。それをあたかも確かな実体であるかのように勘違いするから苦が生じるのだ。『般若心経』にいう『五蘊皆空(ごうんかいくう)』こそが真実だというわけです。
 『私』が無であると同様に、さらに、われわれが欲望の対象としているこの世界の様々な存在も、実は『無』である。つまり不変の実体ではない。どんなに美しい花も散り、美しい人も色あせ、うまい食べ物も腐り、壮大な宮殿も朽ちてゆくではないか。すべては生々流転、生滅遷流(しょうめつせんる)したえず変化してゆく。一切万物はことごとく変移し、常住のものは何もない。有為無常です。こうして『私』だけではなく、この世そのものが、その本質は『無=固定された実体はない』である。それをあたかも実体であるかのように勘違いしてはならない、というわけです。
 それではどうするか。ブッダが最初に説いたのは、四諦八正道(したいはっしょうどう)でした。まず生の本質である苦を直視し、苦が迷いであることを直視する(苦諦{くたい})。次にその原因つまり煩悩を知る(集諦{じったい})。そして煩悩を滅する(滅諦{めったい})。最後に、そのために、八正道という八つの正しい生活(修行)をする(道諦{どうたい})。こうして、すべては無であり空である。という正しい覚りをひらけば、苦は滅して静寂の境地である涅槃(平穏にみちた境地)にいることができる、というのです。大乗仏教でも、この『無上正等覚(むじょうしょうとうがく)』つまり正しい覚りをえるのが最高の智慧だとします。逆に言えば、自我もこの世界もすべて無もしくは空である、という真実を知らないし、それを知ろうともしない、この根本的な『無明(むみょう)』にこそ最大の問題があるのです。この無明を抱えている限り、人は決して現世の苦から逃れられることはできない、というわけです。
 しかし、そうだとすると、それでいったい何が困るのか。それは、この我執や欲望に取りつかれ、苦から逃れられない限り、人は輪廻転生を繰り返し、苦しみはいつまでも続く、からです。死んでもまた別の世で苦しみは続く、という。それを断ち切るには『正等覚』という覚りの境地に入るしかほかならない。浄土教の専修念仏もそのための手段であったわけです。

 さてそこで、私には次のようなことが疑問になってしまいます。
 もともとの仏教では、『死後の世界』も輪廻転生も考えられていなかったのではないか、ということです。なぜなら、死後、われわれが、何かに生まれ変わるとすれば、その生まれ変わるものとはいったい何なのか、ということになるからです。因と縁の偶然の和合によって、ただこの身体にこの感覚や精神(五蘊)が集まって『私』ができたに過ぎないとすれば、そんなものは死ねばすべてなくなるでしょう。自我とは無であり空であるとすれば、魂も精神も無です。霊魂という実体はありません。もちろん、『死後の世界』という確かなものもありません。極楽浄土という実体もどこにもないでしょう。極楽浄土を仏の真実の国土として実体化してしまうと、それはそもそも仏教の最上の真実に反するのではないでしょうか。
 では浄土教とはいったい何を説いたのでしょうか。大乗仏教では、人間の存在の在り方についての(無や空についての)根本的な無知、つまり『無明』から始まって、それが12の因縁を通して、胎児から出生、そして生・老・死へいたり、死後の輪廻を引き起こすとされる(12縁起説)。『無明』がすべての始まりなのです。しかし、仮の姿であっても、『私』がまた死後の生(中有)へ引き継がれるとすれば、そこに何か実体が想定されてしまうのではないでしょうか。しかし、それこそ初期仏教が否定しようとしたものではなかったのでしょうか。
 そういう疑問が私には以前からありました。素人とはいえ、そこをどう考えればよいのか。で、改めて親鸞など、いくつかの仏教関連書なども読んでみたりして、なるほどと思うことがあった。これは、日本人の死生観という点でも重要な点ではないか、と思うのです。
 人は罪悪を犯すもの
 考えてみれば、極楽浄土とは何とも中途半端な世界です。われわれは、念仏をちゃんと唱えれば、死後、この世界へゆくことになる。そして、浄土で改めて修行をつめば今度は本当に解脱して涅槃へゆく。こうして輪廻転生を脱する、という。二段構えになっており、浄土とは覚りにいたる中間段階です。どうして中間段階が必要かといえば、それは、この穢土に生きて罪を負った衆生は、決して容易に解脱にいたることはないからです。だから、まずは暫定的に浄土へいって、研修を受けるようなものです。
 確かに、いくら念仏を唱えても、人間は清浄無垢な存在になるとは思えません。それはそうでしょう。人は誰でも、生きるために動物を殺して食し、社会がある限り他人を傷つけるほかない。いくら『五蘊皆空』といっても、自我への執着を完全に離れることなどとてもできないでしょう。それどころか、自我もこの世も『無』であれば、何でも好きなことをすればいいじゃないか、ということにもなりかねません。人間の弱さといえば弱さなのですが、もともと人間はその程度には弱いものでしょう。これは人間のもっている宿命のようなものです。おまけに罪をなさしめるものが、前世も含めた因縁だとすれば、人は、自ら意識せずとも罪悪を犯すものなのです。
 『歎異抄(たんにしょう)』のなかの有名な話をここで思い起こすことができるでしょう。ある時、親鸞唯円に向かって、『もしも、お前が、私を信じるのであれば、私のいうことを聞けるだろう。では、お前はこれから1,000人の人を殺してこい』という。さすがに唯円は『それはできない』という。すると親鸞はいう。『そうだ、お前には、人を殺すという因縁がない。だからできない。もしも、そういう因縁をもったものであれば、いやだと思っても人を殺すものだ』と。
 もちろん、現代のわれわれはすべてを『因縁』で片付けるわけにはいきません。暴行事件を起こした横綱も、動機はと聞かれて『因縁』などとのたまうわけにはいきません。しかし、ここでいいたいのは、人間は、時には、自分の意思や利益や意図とはまったくあずかりしらない何かによって動かされる時がある、ということです。自己責任の主体などということではどうにもならないこともあります。罪を犯し時には、本人の素因があり(これは近年の生理学では遺伝子や脳現象に還元されるでしょう)、環境があり、仲間があり、そして直接のきっかけがでてくる。それを『因』(素因)と『縁』(直接のきっかけ)というのです。
 とすると、誰でも、どんなに精進していても罪を犯す可能性はある。西行のように、解脱したくて出家するのは本人の勝手でしょうが、そのおかげで、子供は縁側から蹴飛ばされ、妻子はたいへんにつらい思いをした。こうなると、精進して修行することさえ、身内を傷つけることになる。
 こうして、人間存在そのもの、つまり、人間の生そのものに悪や罪が不可避についてまわり、それを取り去るなどということは不可能だとすれば、自力で覚るなどはなから無理でしょう。どこまでも罪を背負った人間が、自分で自ら穢れを落として清浄心になり、正覚をえるなどということは不可能です。
 そこに、親鸞絶対他力がでてきます。これは本当に絶対なのです。自力に期待する余地はどこにみない。そこに法然との違いもあって、法然は、毎日数万回の念仏を唱えていた。このとき、法然はともかく自己の悪行を自覚し、念仏三昧によって極楽往生できる、という。これではどこか自力が紛れ込んでいる。
 では、親鸞絶対他力とは何でしょうか。それはただただまことに弥陀の本願を信じて帰依する、ということではないのです。これでは、弥陀に帰依するという、いってみれば主体的な選択と決意の結果として往生できる、という話になってしまうからです。穢土に生き煩悩にまみれたものが、自ら至誠心(しじょうしん)をもつこと自体が難しい。そこにはまだ自らのはからいが残っているのです。
 そこで、親鸞は、まことの心(至誠心)をおこして、本当の信心(深心{じんしん})を、弥陀に差し向ける(回向発願{えこうほつがん})ようになすものは、この『私』ではなく、実は弥陀そのものだ、という。自分ではどうにもならない。だからこそ弥陀の本願があり、弥陀は、すべての衆生を(どんな悪党でも)救うと誓った、そのことをただ信じるだけだ、というのです。弥陀の大慈悲を信じるのです。そしてこの信心を起こさせるものもまた弥陀のはからいである。そこにすべてをゆだねるのが絶対他力というものなのでしょう。だから、法然浄土教が『念仏為本』(もっぱら念仏あるのみ)であるのに対して、親鸞浄土教は『信心為本』(ただただ信じるのみ)といわれるゆえんです。
 親鸞も念仏を否定するわけではありません。しかし、念仏を行うのは行者自身の意思ではなく、あくまで弥陀のはからいだという。弥陀によって、念仏を唱えるようにしていただいている、ということで、あくまで重要な点は、弥陀のはからいを信じることなのです。
 ところが、こうなるとたいへん興味深いことがでてくるのではないでしょうか。親鸞は、自己をすべて捨て去り、ただただ弥陀の大悲心を信じる、という。まことの信心をもたらしてくれる弥陀のはからいを徹底して信じろという。自らのはからいをすべて放棄するのです。とはいえ、穢土であるこの現世における悪や罪が消えるわけではなく、意思があれば清浄心が立ち上がってくるわけでもない。欲や悪にまみれた現世の生はそのままそこにある。そのうえで弥陀の本願を信じるのです。すると、弥陀は、悪を引きずったままで、あるいは悪にまみれているがゆえに、衆生を浄土(もしくは、浄土の隅のほう)へと往生させる、という。
 とすると、この場合の極楽往生とは何でしょうか。それは決して死後の世界のことではありません。自己を捨て去り、自力のはからいをすべて放下(ほうげ)し、自我を無にしたときに、浄土への往生が決定(けつじょう)し、それはそのまま浄土から涅槃への解脱を意味している、ということになるでしょう。それは死後の話ではありません。弥陀への信は、『いま・ここ』で生じるのです。それは現世での往生決定なのです。これもしばしば、法然が死とともに往生するという臨終往生を説いたのに対して、親鸞が説いたのは、この現世において自己を放下したときに往生するという。死後ではなく、この現世においておきるとい考えがあるでしょう。衆生は、現世の穢土にあって、そのまま往生が確定する人々である『現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)』になっているのです(たとえば、竹村牧男『親鸞と一遍』参照)。
 こう考えれば、死は文字通りの解脱です。往生即成仏です。死後、どこか『あの世』らしき場所にいくのでもなく、もちろん輪廻転生するわけでもない。私は、それを『無に帰入する』とでもいいたくなります。初期仏教に即していえば、入滅は真の涅槃に入ることであり、それは『無記』、すなわち『語りえないもの』でした。私は、それを『絶対無』とでも呼んでおきたいのです(ただ、『歎異抄』には、親鸞の言葉として、死後の生まれ変わりや輪廻転生について書かれており、来世もあるので、ここに述べたことは、親鸞思想の解釈というより、親鸞をヒントにして死生観といった方がよいでしょう)。
 死は絶対的な救済
 いずれにせよ、自我のはからいや自力への期待をすべて放下し、まことの信心そのものになったとき、現世はそのまま浄土になる、という。救いは死後の来世にあるのではなく、まさに、『いま・ここ』の現実のなかにあるのです。汚れ苦しみに満ちた現世における悪や罪はそのままであって、しかし、だからこそ『いま・ここ』で救済されるというのです。
 とすれば、もはや『死』について煩わされる理由はどこにもありません。『死』は解脱であり、間違いなく絶対的な救済なのです。仏教の出発点が、現世における苦から逃げる点にあったことを改めて思い出してみてください。すると、自己や自我のはからいをすべて放棄したものこそが、いっさいの苦を逃れ、もはや死を恐れることもない、ということになる。そして、涅槃に入るとは、別の言い方をすれば、死は絶対的な救済だということになる。『絶対無』は絶対的な救済なのです。
 こうして、死はもはや論じるにたらない。死が苦痛であり恐怖であるのは、いまだに自我に固執しているからだ。阿弥陀仏という絶対的な救済への徹底した信によって自我を捨て去れば、もはや死は恐怖などではなくなる、というのです。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 と、ここまで述べれば、これまた『歎異抄』に書かれた次の部分が気になります。これもよく知られた箇所なのですが、あるとき、唯円親鸞に向かって尋ねます。『私はどんなに念仏を唱えても、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)して極楽浄土に一刻もはやく行きたい、という気持ちがいっこうに起きません。これはいったいどうしたことでしょう』。すると親鸞は答える。『実はワシもそうなのだ。だが、考えれば、それこそが煩悩ではないか。死ぬのはいやだ、少し病気にでもなれば、死ぬのが怖くなる。この現世に恋々として、楽しいはずの極楽浄土へ行こうという気にならない。しかし、この煩悩から逃れられないからこそ、仏はわれわれ凡夫を救ってくれるのではないか』。こう答えるのです。
 確かに、ここには浄土教が抱えるひとつの根本的な矛盾があるのでしょう。もしも生が苦であり、死が極楽浄土への往生であれば、さっさと死ねばよい、ということにもなる。どうして親鸞は90歳まで長生きしたのか、などといいたくもなる。そこまでいわずとも、死は慶賀すべきことになります。だが、どんなに極楽浄土を思い浮かべても、死は怖い、死にたくない、というこの感情は決して消し去ることのできるものではありません。
 しかし、親鸞はそれでよい、という。そんなものだ、という。われわれは、最後までこの世に名残惜しい心を残しながら、徐々に力が尽きて死んでゆくものだ、という。だからこそ、阿弥陀仏の大悲大願に委ねるほかないのだ、というのです。
 私には、仏教が、もともと死後の生や『あの世』などという観念を強くもっていたとは思えないのです。日本の伝統的な霊魂観やたましいや祖霊とは対立する思想であり、そこにこそむしろ、仏教の革新性があったように思うのです。では、浄土とは何なのか。どうして浄土を説いたのか。鈴木大拙は次のようなことをいっています(『浄土系思想論』)。
 浄土を作ったのは阿弥陀如来である。弥陀の本願による。それは、生死の苦(輪廻)から衆生を救おうという大慈悲のこころによる。人が生死の苦という深海に没溺するのは、三世の業(因縁)による。とすれば、苦を滅することは業の否定であり、業を否定するには死ぬほかない。死のみが救済である。
 しかし、では弥陀は、われわれに死をすすめているのか。死のなかに投げ込みのが弥陀の願いなのか。そんなことはないだろう。とすれば、われわれの現生はそのままで、つまり、業(因縁)はそのままにして生死を離れることをいっているのではないか。生死は精子のままにしておいて、生死の業を否定するところに弥陀の本願があるのではないか。それは、むしろ、業の中で現世で生の苦を背負いつつ、安住の地をえることであり、その安住のところが智慧の光明である。浄土とはすべてを照らす智慧の光明である。それは現世を離れてあるのではない。目に見えないところで、現世を包みこみ、貫き通すものである、という。
 ということは、壌土とは、この世を辞してからゆくところではない。空間的にも、はるかかなた西方十万億土をへだててあるものでもない。浄土とは、いわばこの世と張り合わせになったものです。それは相互に相手を否定しあいながら、同時に相即するようなものなのです。浄土(あの世)の面が此土({しど}この世)に映りまた、此土(この世)の面が浄土(あの世)に映っている、と大拙は述べる。
 浄土とは、すべてが満ち足り、無限の光をはなって、一切の陰りがなく、無限の寿命をもった仏の世界、つまり『すべて』であり『完全』であり、つまり『絶対』の世界なのです。その『絶対』があってはじめて、現世の不完全、罪深さ、理不尽がわかる。浄土は、人間という存在の罪や苦を映し出し、この現世という相対世界の空無を指ししめす鏡のようになっている。したがって、両者は、対立し、否定しあっているが、此土なくして浄土なく、浄土なくして此土はない。それを、大拙は、相互矛盾的な自己同一、という。こうして、この世とあの世は、それぞれでありながら、対立しつつ相即しているので、浄土教徒は、たえず、浄土へ行って(往相)、また戻ってくる(還相{げんそう})。廻向は、こちらから差し出すとともに向こうからやってくるのです。こうして、『あの世』があるから『この世』があり、『この世』があるから『あの世』がある。両者は、相互に映しあう、ということになるのでしょう。これまた、独特の日本的な死生観というほかありません」
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 世界では、「自分は無宗教者で神を信じていない」と言う人間は常識・教養を持った人間ではないと見なされ、軽蔑され、差別され、迫害される。
 最悪は殺される。
 人権の一つである「信仰の自由」は、神を否定し神を殺そうとする反宗教無神論者には認められていない。
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 日本民族日本人の伝統的宗教観・死生観・生命観・人生観は、現実思考として、甚大な被害をもたらす自然災害多発地帯の日本列島で生きる智恵として生まれてきた。
 西洋の理論思考も、中華の観念思考も馴染まなかった。
 それ故に、人の思索によってつくり出される思想も、哲学も、主義主張も生まれなかった。
 重要だったのは、生き残る為の技術・技能であった。
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 日本には、天国・極楽浄土や地獄といった死後の世界はなく、死ねば何もかも消えて「無」に変えると信じられていた。
 それ故に、全てを奪い尽くす「死」に怯え、死をもたらす、死を連想させる死体や血を穢れとして忌避した。
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 日本民族日本人は、心底から神や仏を信じていない為、上辺だけの宗教は数多く存在するが真の宗教は存在しない。
 もし、天地創造の、万能の、全知全能の、唯一の絶対神がいて、その奇蹟・御業・はからい・恩寵・恵みで自然災害の一つでも永久に起きないように消してくれれば、信じても良いと、信仰してもよいうと考えていた。
 いまだかって、そんな有り難い神様は日本に現れなかった。
 そして、神の子や神のみ使いである救世主(メシア)や預言者が、日本に現れて、日本民族日本人を救ったという物語もない。
 日本列島は神様に見捨てられた土地であり、日本民族日本人は神様に嫌われた人間であった。
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 日本民族日本人は、無神論者でも無宗教者でもなく、有り難い神だと聞けば条件付きで受け入れた為に、日本一国で地球上の神に匹敵するほどの数の神が祀られている。
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 日本民族日本人は心の底では、如何に神を祀り、誠心誠意、心を込めて祈りを捧げても神は助けてくれない事を知っていた。
 日本民族日本人は、宿命論者として助かるときは助かり駄目の時は駄目だと諦めていたが、運命論者として100に1つでも助かる道・救われる道があると信じそれに賭けてやれる限りの努力をしていた。
 人間の智恵では知る事ができない神の御意思・御差配など、日本民族日本人は信じていなかった。
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 日本民族日本人は、自然災害多発地帯の日本列島で、独自に数万年も生きて、日本文明と日本文化を築いてきた。
 それが、花鳥風月及び虫の音を慈しむ、ありのままを受け入れる現実志向の情緒的生き方である。
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 日本民族日本人の宗教とは、ローカルな民族宗教天皇教である。
 天皇教には、教祖はいないし、教典や聖典もなく、そして信者を増やす布教活動もない。
 天皇教とは日本民族日本人限定の、日本民族日本人の中で完結する宗教である。
 つまり、実在した祖先を神として祀る祖先神・氏神の人神信仰である。
 天皇教の最高位神社は、女性?・天照大神を祀る伊勢神宮である。
 祖先神・氏神の人神信仰の核心は、途絶える事なく繋がっている「絆」としての霊魂・魂そして血・生命・心・志・気概・想いである。
 重要なキーワードが、「言霊」でる日本国語の祝詞である。
 祝詞とは、奉る祝詞の言葉・寿ぐ言葉であって、祈りの言葉でもなく、呪文でもない。
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 天皇教とは、ある意味で単純・素朴な宗教で、特別に優れた高等・高尚な宗教ではない。
 つまり、誇る所は何もない。
 日本の多神教とは、天皇教の事である。
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 日本の八百万の神々は、天皇教によって日本の正統な神として神格を証明する位が与えられている。
 それが、日本中心神話・天孫降臨神話・天皇神話である。
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 人類の宗教史において、多神教は原始的未発達宗教で、一神教は近代的進歩宗教である。
 優劣を付けるなら、多神教は劣っていて、一神教は優れている。
 多神教は滅び消える宗教で、一神教は栄え残る宗教である。
 人類が進歩・発展するに従い、数多くのローカルな民族宗教が民族言語や民俗文化と伴に消滅していた。
 日本の民族宗教も民族言語も民族文化もローカルである以上、何時かは消滅する。
 そして、日本民族日本人も何れは死滅・絶滅する、それが人類史・世界史・大陸史である。

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