関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
長州藩・毛利家は、戦国の時代から浄土真宗本願寺派・西本願寺とのつながりが深かった。
・ ・ ・
天下では、暴れ回る長州の人気が高く、幕府も薩摩も会津も人気がなかった。
・ ・ ・
1863年5月10日 長州藩は、攘夷決行として、最初にアメリカ商船ペンブローク号を砲撃し、その後にフランスやオランダの軍艦に砲撃した。
8月 馬関戦争。四ヵ国艦隊下関砲撃事件。
アメリカのブルイン公使は、幕府を恫喝して賠償金78万ドルを支払わせた。
後の1883年に、アメリカは道議に反する賠償請求であったとして、75万ドルを使途用途に条件を付けて日本側に返還した。
イギリス、フランス、オランダの三ヶ国は、賠償金の返還を行わなかった。
8月8日 イギリスは、敗北した長州藩に対して、軍事力を見せつけて彦島の租借地を強要した。
8月9日 勤王の志士・高杉晋作(靖国神社)は、彦島を租借地として与える事は香港の様に外国の領土になり、神国日本は植民地化にされるとして、『日本書紀』を持ち出し、「国生み神話」を語り、日本の土地は日本の神々の体の一部である以上は1ミリたりとも明け渡す事はできないと毅然と外圧を撥ね付けた。
四ヵ国は、幕府から賠償金を強奪した。
欧米諸国は、日本を植民地化する為に策謀を練っていた。依然として、日本の植民地化の危機は続いていた。
イギリスは、ロシア帝国を北方に封じ込めるべく、日本を植民地化するか、日本国内に幾つかの租界を獲得する事をアジア戦略の一つとしていた。
だが、イギリスの目論見は国粋主義者日本人(靖国神社)の愛国心によって失敗した。
幕末期において、前近代的な日本を救ったのは『古事記』『日本書紀』による皇国史観・皇国思想であった。
欧米諸国は、日本を植民地化する為に策謀を練っていた。
依然として、日本の植民地化の危機は続いていた。
キリスト教欧米列強の真の狙いは、日本を分割して植民地として分け合い、日本人を奴隷にすることであった事は間違いない。
けっして、対等関係による友好国として近代化する事を希望していなかった。
長州藩は、中国の「元寇」や朝鮮の「応永の外寇」など幾たびもの大陸からの侵略という歴史的事実を踏まえて、神国日本の消滅という危機感を強く持っていた。
神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)を神として崇める勤王の志士(靖国神社)は、神国日本が清国やビルマやインドの様にキリスト教欧米列強の植民地となり、天皇の臣民である日本人が中国人やインド人やアフリカ人の様にキリスト教徒白人の奴隷とならない為に、命を犠牲にして徳川幕府を倒して軍国日本を建国した。
・ ・ ・
高杉晋作は、奇兵隊を結成するに当たって、下級武士や農民・町人だけではなく、穢多や非人まで天皇を敬う尊皇の志があれば隊士とした。だが、本人は身分意識が強かったとも云われている。
戦死した下級武士や百姓・町人や穢多や非人等の勤王の志士は、身分に関係なく等しく 護国の神として靖国神社の祭神として祀られた。
その為に、諸外国は靖国神社を廃絶する様に強要している。
・ ・ ・
勤皇僧・島地黙雷は、僧侶中心の金剛隊を結成し、戦闘に参加した。
鴻(おおとり)雪爪は、天皇・皇室と祖国日本を、西洋列強の侵略とキリスト教の浸透から護る為に戦う仏教徒・僧兵の復活を目指した。
・ ・ ・
イギリスは、自国民を現地保護する為に、1,500人の兵隊を日本に駐屯させた。
フランスは、300人を日本に駐屯させた。
・ ・ ・
靖国神社は、軍国主義の象徴として否定されている。
・ ・ ・
1863年暮れ 幕府は、開港した横浜港を再閉鎖するべく、使節団(正使・池田長発と副使・河津伊豆守裕邦)を欧州へ派遣した。
幕府は、開国は時代の流れとして避けられず、交渉は不成功に終わる事が分かっていたが、鎖国復活を求める朝廷や攘夷派への懐柔策として、政治的判断で使節団を送りだした。
池田と河津らは、予想通り交渉に失敗し、帰国後はさらなる開国が必要であるとの建議を行って逼塞を命じられた。
当時の武士達の外国訪問は、現代の政治家のように私利私欲的な行楽目的で公金を流用しての外国視察とは違って、国の将来を憂うる命懸けのものであった。
開国派も、鎖国派も、命を賭けて行動していた。
・ ・ ・
新疆のイスラム教徒が、中国支配から独立する為に叛乱を起こした。
清国は鎮圧軍を派遣して叛乱軍を鎮圧し、独立派を弾圧し、容赦なく虐殺した。
1,000万人以上のイスラム教徒が、中国人によって惨殺されたと言われている。
中国は、中国こそが世界の中心という儒教的中華思想を持っていただけに、中国に逆らう者は絶対に許さず、激情すると国を滅ぼし住民を皆殺しにした。
中国大地は、儒教教条主義ゆえに、夥しい血で染み込み、大量の人骨が埋まり、無名の人々の怨念がこびり付いて消える事がない。
ゆえに、中国人は精神的にも肉体的にも逞しい。
中国の大地は、虐殺された死体が横たわる、血に塗られた怨念の大地である。
それは、血を穢れとして嫌う日本では考えられない事である。
・ ・ ・
1864〜78年 新疆(東トルキスタン)=イスラム教徒の乱。中国は、東トルキスタンを完全支配する為に、抵抗するイスラム教徒1,000万人以上を大虐殺した。
中国は、モンゴル・東トルキスタン・チベットなどの非漢族を中国化する為の徳化政策をおこなっている。
中国の主張する儒教価値観の「徳」とは、そうした相手を完全否定する排他的な「徳」である。
儒教価値観の中国人にとって、少数民族は人権を持った人ではなく、卑しむべき獣に過ぎず、殺しても罪の意識を持つ事はあり得なかった。
・ ・ ・
1864年11月(一説・翌65年1月) 西欧列強は、中華思想に基ずく華夷秩序を堅持する清国に対して国際法を履行させるべく、ヘンリー・ホイートン原著『万国公法』(『国際法原理』)を漢訳し一般刊行した。
清国政府は、アヘン戦争とアロー戦争に敗北し屈辱的条約を強要された経験から、国際法を学び理解する必要があるとして万国公法の研究を始めた。
徳川幕府は、1865年・1866年に漢語訳『万国公法』を輸入して研究した。
『万国公法』の「海賊版」が日本で製作され、日本全国に広く流布し、開国派も攘夷派も、サムライ・武士から町人まで競って読んだ。
日本人は、中国人や朝鮮人とは違う。
・ ・ ・
1864年 対馬藩士大島友之允は、朝鮮は頑迷固陋として世界情勢を理解せず危うい限りであるとして、勝海舟を介して幕府に意見書を提出した。
「朝鮮はもともと疑り深い国柄であり、日韓同盟と言う事が理解できない。しかも弱国で物産がなく、政治は苛烈で上を恨んでいる者が少なくない。その虐政の実情を理解してその人民に接すれば、我国の仁政を慕うようになるだろう。また我国の武威勇気を示す事も必要だ。なぜなら表面は従順な振りをして実際には嘘偽りをなす事もあるからだ」
幕府は、西洋の侵略を食い止める軍事力がない事を対馬事件で痛感しただけに、朝鮮や清国との関係強化を模索していた。
徳川慶喜は、対馬藩からの意見書に興味を持った。
五島列島・福江島は、隠れキリシタンの島である。
幕府は、西の玄関口にある福江藩(1万2,000石)に対して黒船を警戒させるべく、建築費の半分を提供して築城させた。
6月 池田屋事件。
7月19日 禁門の変。蛤御門の変。元治の変。元治甲子の変。
会津藩は、京・六角堂につながれていた勤皇の志士・平野国臣ら過激派30名以上が、大火と混乱で脱走し長州勢に走る事を防ぐべく牢獄で全員惨殺した。
孝明天皇は、長州討伐を幕府に命じた。
朝廷は、崇徳院没後700年に当たる年に、長州が御所に向けて発砲したのは「崇徳院の祟り」と恐怖した。
国学者の中瑞雲斎は、中川宮を通じて孝明天皇に怨霊鎮魂の儀を献上した。
孝明天皇は、崇徳院の怨霊を神霊として京に御帰還して頂く計画の遂行を命じた。
第一回長州征討。
・ ・ ・
久坂玄瑞(靖国神社)は、1859年に恩師・吉田松陰が刑死した事で、その憂国の志を継ぎ、祖国日本を外国の侵略から守り、祭祀王・天皇を奉じて古の国に立ち帰るべきだとして立ち上がった。
「先師の非命を悲しむこと無益なり。先師の志を堕さぬよう肝要なり」
「諸侯恃(たの)むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽(そうもう)の志士糾合義挙の外にはとても策これ無き事」
日本が外国の軍隊に攻められ占領されない為には、幕府はもとより諸大名や公家などを充てにせず、身分に関係なく「天皇を守り日本を救う」という志の下で団結して戦うしかないと覚悟した。
「世の善し悪しはともかくも誠の道を踏むがよい、誠の道を」
日本男児として、誰かに頼るのではなく、自分達一人一人が命を捨てて国難に立ち向かわなければ、日本は救われないと。
「けふもまた知られぬ露のいのちもて 千(ち)とせも照らす月を見るかな」
「あづさ弓春も来にけり武士(もののふ)の 引き返さじと出づる旅路に」
久坂玄瑞は、軍事力を強化せずこのままの外交を続けていては日本は外国に占領されるという危機感から、倒幕を目指した。
1864年 禁門の変(蛤御門の変)に敗れ、25歳の若さで自刃した。
日本の将来を憂い、天皇を奉じて戦い敗れて死んだ久坂玄瑞は、他の勤皇の志士や尊皇派浪士と共に靖国神社に祀られている。
・ ・ ・
左翼・左派のマルクス主義者や反天皇反日的日本人は、尊皇の志で神国日本を守ろうとして戦死したサムライ達が祀られている靖国神社を否定し、廃絶する様に訴えている。
反戦平和主義者は、如何なる理由があろうとも、全ての戦争に猛反対している。
殺し合いは悪であると。、
・ ・ ・
1864年11月28日 サンドクリーク虐殺は、サンドクリーク居留地の一角パイクス・ピークで金が発見されに事が原因されている。
つまり、ゴールドラッシュの為に居留地で平和に生活するシャイアン族が邪魔になったからである。
ジョン・チビントン大佐は、メソジスト教会の宣教師であった。
脅迫された道案内したロバート・ベント(白人とインディアンの混血)は、宣教師であり、コロラドでガイド業をしていた。
チビントン大佐は、頭皮を剥いだ者に懸賞金を払う事を約束した。
金鉱師は、先行投資として、持ち込まれた頭皮に金を払い、耳付きの頭皮であれば高額の25ドルを支払った。
民兵達は、戦利品として殺したインディアンの耳を切り取って家に飾った。
頭皮を剥いだのは、インディアンではなく白人であった。
宣教師は、死亡したキリスト教徒は祈りを捧げて弔ったが、異教徒に為て非白人は獣のように祈る事をせず穴に中にゴミのように為てて埋めた。
軍法会議に於ける襲撃者の証言。「インディアンの男達が前に立って女と子供は助けてくれと懇願した。彼らは即座に撃ち殺された。何人かが武器を取って反撃したが、皆殺された」
「抜き身のサーベルを持った白人がまだ息のある女を見つけた。刀を振りかぶると女が右手で防ごうとした。兵士はその腕を切り落とした。女が左手を上げるとそれも切り落とした。兵士は苦痛に悶える女に止めを刺さなかった」
「40人ほどの女が窪みにかたまっていた。6歳くらいの女の子に白旗を持たせて窪みから出したが、女の子は3歩も歩かないうちに撃ち殺された。女達も撃たれ、まだ息がある者も含めって頭皮が剥ぎ取られた」
「女の腹が裂かれ、そばに胎児が転がされていた。どの子供も母親と一緒に殺されていた」
ベント「多くの民兵が女性器を抉り取ってそれを馬の鞍頭に嵌(は)めたり、帽子に貼り付けた」
軍法会議は、歴史的記録に残す為の形式的なもので、チビントン大佐を非難したが退役を理由に実刑は免除された。
白人キリスト教徒中心の西部開拓史では、大虐殺を行ったジョン・チビントン大佐は英雄とされた。
・ ・ ・
1865年 サッスーン(中東系ユダヤ人)は、ロスチャイルドとの協同出資で、香港ドル紙幣発券銀行の一つとして香港上海銀行を設立した。香港上海銀行は、アヘン貿易で得られた莫大な収益をロンドン・シティーに送金した。
イギリスに帰化してイギリス王からサーの称号を得て「白いユダヤ人」となり、イギリス政府からインド産アヘンを中国に提供し中国人に供給する権利を保証された。
英国東インド会社とアメリカのデラノ家やアスター家などの商人の多くは、中国のアヘン貿易と中国人労働者(クーリー)の人身売買(ブタ貿易)で巨万の富を得た。
ハリマン家やロックフェラー家などの新興財閥は、黒人労働者ではなく中国人労働者を奴隷として大量に雇って企業経営を拡大していた。
キリスト教会は、日本、朝鮮、中国を生まれ変わらせる為に、布教活動を「神聖な使命」とした。ゆえに、現人神・天皇を絶対に滅ぼすべき敵として、キリスト教徒に民族宗教への偏見を植え付け憎悪を駆り立てていた。
アメリカの太平洋問題調査会(IPR)は、既存のアヘン貿易を守る為に新たに中国交易に参入する者を規制し、日本を新たなるアヘン市場に開拓すべく医薬品と偽って密輸する計画を立てた。日本に開国を要請する使節団派遣計画は、こうして進められた。
マークー・リー・ラファエル「ユダヤ商人は、奴隷貿易において大きな役割を果たした。事実として、ユダヤ商人が勢力を振るう場は多かった」(『ドキュメンタリー 米国におけるユダヤ人とユダヤ教』)
後のフランクリン・ルーズベルトは、デラノ家と関係して、親中国派として天皇制度国家日本を破滅に導いた。
・ ・ ・
1865年3月 浦上の隠れキリシタン15名は、役人の監視を警戒しながらフランス寺を訪れ、プチジャン神父にキリシタンである事を打ち明けた。
大村崩れ。
11月 イギリスは、弱体化した幕府に対して、アメリカと結んだ高率関税を引き下げる事を認めさせた。
12月17日 ベルギー王国第二代国王レオポルド2世が即位(〜1909年12月17日)。
レオポルド2世「清か日本への遠征が成功すればベルギーは巨大な帝国となるだろう。人間が同じ人間を搾取することは許されないが、ヨーロッパの出現を東洋が救済と考えないと誰が言えるだろうか」と語り、極東の植民地化にも関心を示した。
側近は、清国と日本の植民地化は難しいと答えた。
1884年のベルリン会議は、コンゴはにレオポルド2世の個人的私有地である事を認めた。
コンゴは、ベルギーぼ植民地となり地獄と化した。
・・・
・ ・ ・
- 作者:沖浦 和光
- 発売日: 2007/09/04
- メディア: 文庫