⚔7)─1─戦国時代。足利学校は学徒3,500人以上を抱えた「板東のマンモス大学」〜No.27No.28No.29 ② 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 戦国時代は、殺伐たる殺戮の時代だけではなかった。
 戦国大名・武士達は、領地が少しでも豊かになる為に、比叡山の学問僧や足利学校の学徒を積極的に雇って意見を聞きながら領地経営を行っていた。
 日本民族日本人の法治主義や遵法精神は、戦国大名が定めた領地法によって形成された。
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 武士・サムライは、日本に存在して朝鮮や中国にはいなかった。
 武士・サムライは、土地に縛られ、土地を守る為に戦う、世襲制専制君主職業軍人であった。
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 現代日本のリベラル派・革新派そして一部の保守派は、世襲制専制君主や人殺しの職業軍人を非人道的犯罪者として否定している。
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 2019年9月12日 産経新聞「戦国期、九華の木板発見 足利学校、最盛期の史料
 九華の記した木板を手に説明する史跡足利学校事務所の大沢伸啓所長=12日
 足利学校(栃木県足利市)の校長に当たる第7世庠主(しょうしゅ)、九華(きゅうか)が敷地内の稲荷(いなり)社の再建経緯などを記した木板が解体修理中の大成殿から新たに見つかり、12日、報道陣に公開された。戦国時代、学徒3500人以上を抱え「板東の大学」と評された最盛期を知る貴重な史料といえそうだ。
 木板は縦39センチ、横11センチ、厚さ1センチ。墨書で「神体は半ば剥落し、宮も風雨に破らる。宮殿を建立し、新たに神体を奉る 九華誌之」などと記されていた。片面には退色で詳細不明だが、稲荷社の祭神「荼枳尼(だきに)天」らしき姿も描かれている。
 同学校の歴史をまとめた江戸時代の古文書には、この木板の内容と、九華が天文23(1554)年、稲荷社に八幡大菩薩を合祀(ごうし)したことを記す木板の内容を併記。このため、同じ年に九華が鎮護のため荼枳尼天八幡大菩薩図を奉納し、経緯を裏書きしたとみられている。八幡大菩薩図の木板は現存していたが、荼枳尼天図は所在不明だった。
 孔子を祭る孔子廟の正殿「大成殿」としては国内最古とされ、寛文8(1668)年に建築。2年前から文化庁の指導を受け解体修理中で、木板は敷居の下の2本の木材の隙間に挟まれていた。木板の前半部分は欠落していた。
九華は大隅(宮崎県)出身で、天文19(1550)年から29年間、庠主を務めた。当時、足利学校は軍師養成機関として栄え、宣教師のフランシスコ・ザビエルが「板東にある日本で最も大きく、有名な大学」と紹介。国宝書籍「文選」は永禄3(1560)年、小田原城主・北条氏政から寄進を受け、学徒が読めない字を記した紙片を松の枝に結ぶと翌日には振り仮名が付けてあった「かなふり松」の伝説も九華の時代に遡(さかのぼ)る。
 史跡足利学校事務所は「戦乱の世、九華が神仏に祈願して足利学校を守ろうとした熱い思いが伝わる。自筆の書写本など所蔵するが、足利学校の最盛期を知る新たな歴史的史料といえる」としている。木板は15日午前10時から開催する大成殿工事見学会で、一般にも公開予定。(川岸等)」
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