⚔26)─1─織田信長は、近世の扉を開く為の破壊者ではなく改革者であった。No.99 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 織田信長における、宗教の保護と弾圧、天皇への敬意、伝統・文化・芸能への敬愛。
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 織田信長は、破壊と殺戮の第六天魔王ではなかった。
 「第六天魔王 信長」は、武田信玄からの手紙に対す返事に書いた事で広められた。
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 天下とは、京を中心とした五畿内の事である。
 織田信長が目指したのは、武力で天下を統一する天下布武ではなく、足利将軍が五畿内を統べる状態に戻す天下静謐であった。
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 織田信長は、足利義昭を京に送り届け将軍に就任さた事で天下静謐が取り戻せたと判断し、満足して、それ以上の野望を持たず領地に戻った。
 戦乱を収めるべく、各地の戦国大名足利義昭の命で和睦の書状を送った。
 織田信長は、足利義昭の命で若狭を攻めたが、敵勢力に朝倉義景浅井長政が味方した。
 足利義昭は、織田信長に三好討伐を命じた。
 織田信長が三好を攻撃したいる後ろを、朝倉・浅井連合軍が攻撃した。
 織田信長は、反転して朝倉・浅井連合軍を撃破した。
 朝倉・浅井連合軍は敗走して比叡山延暦寺に逃げ込んだ。
 織田信長は、延暦寺に中立を保つように手紙を出したが、延暦寺は無視して従わない為にやむなく焼き討ちした。
 足利義昭は、生真面目に命令に従って東奔西走して戦働きする織田信長に嫌気をさし、反信長同盟を組んで兵をあげた。
 織田信長は、天下静謐を保つ為に足利義昭を攻め、捕らえたが、殺さず追放した。
 織田信長は、天下静謐の為に、足か将軍から天皇に忠誠を誓い、皇室や公家に資金を行い助け盛り立てた。
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 織田信長は、日本の偉人であって、中国にも朝鮮にも同じような人間はいない。
 何故なら、織田信長の業績は現代日本でも有効に生きているからである。
 つまり、織田信長現代日本で生きている。
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 現代日本人は、織田信長らが生きた時代の日本人とは違う異質な日本人である。
 特に、政治家・官僚・学者・メディア関係者は「命を捨てても守るべきを守らない」という点でそれが言える。
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 2018年12月13日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講座
 [近世篇]
 信長の描いた日本とは
 織田信長の物事の進め方を見ると、モンゴル帝国の手法によく似ている感じがします。
 どういうことかといいますと、チンギス・カアンが率いたモンゴル軍団の手法は、『俺らの言うことを聞くなら身の安全を保障するが、抵抗するなら見せしめに全員殺すで』というものです。
 信長も一度領国化したところが一揆や寝返りを起こすと、徹底的に誅滅しています。
 1570年から74年の間戦われた伊勢長島(三重県桑名市一向一揆に対する攻撃では、兵で囲んで2万人以上を焼き殺しています。
 また71年には有名な比叡山延暦寺の焼き討ちがおきています。根本中堂ほか多くの堂宇を焼き、僧侶たちを皆殺しにしました。
 信長軍団の猛将前田利家も、北陸の一向一揆に釜茹でや火焙りで望みました。
 有名なホトトギスの句がありますね。信長は『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』、秀吉は『鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス』、そして家康が『鳴かぬのなら鳴くまで待とうホトトギス』。
 江戸時代に作られたこれらの句は、よく引用されるので皆さんもご存知と思います。先の例を聞くと句の通りやで、信長は厳しいでと思われるのではないでしょうか。
 しかしこれは信長の政策に対して公正な評価とはいえません。というのは、信長は大きな理由もなく人を殺してはいないのですね。
 実は問題を起こした部下に対しても、追放はしても切腹までさせるケースは少なかった。
 足利義昭に対してもそうですし、大坂の石山本願寺攻めでの怠慢を責めた佐久間信盛父子も高野山に放逐しただけで殺してはいません。
 柴田勝家が信長のことを『うつけもの』と呼んで弟に与力した後も、荒木村重が最初にそむいた後も、上手に使っています。
 秀吉もうまく使ったし、各地を流れきて信長に仕えた明智光秀も大名に取り立てているわけですから、部下の使い方はまっとうだったと思います。徳川家康との同盟もずっと揺らいでいません。
 晩年の秀吉が秀次の一族を根絶やしにしたり、千利休切腹させたりしたのに比べると、信長による処刑は実はとても少ないのです
 宗教の保護と弾圧
 1579年、琵琶湖畔に安土城天守閣が完成しました。その前後、法華宗の信者が浄土宗の僧侶に論争をふっかけたことがきっかけとなり、安土宗論という論争が信長の命で行われています。
 この論争は仕組まれたものという説もありますが、領内の法華宗の信者を皆殺しにすると脅し、法華宗に敗北を認めさせ、他宗を論難しない起請文を書かせました。
 一方、キリスト教については、前回見たとおり、安土でも布教を許しています。では信長はキリスト教が好きで、法華宗が嫌いだったのでしょうか。
 信長 は、仏教かキリスト教化ということではなく、自分のいうことを聞くものは保護し、歯向かうものは徹底的に潰すという、モンゴル帝国と同じ政策を取っていたのですね。
 その代表が安土の宗論で、領内の宗教事情をややこしくしている法華宗を叩き、浄土宗を選んだわけです。
 信長と戦った本願寺一向宗浄土真宗)でした。でも本願寺派と対立していた一向宗の高田派には、信長は友好的でした。彼らが信長のいうことを聞いたからです。
 比叡山の焼き討ちにしても、その前に僧侶たちに『琵琶湖の北方の浅井、朝倉と通じるんやったら滅ぼすで。仏門なら中立の立場に立つべきやで』とメッセージを送っています。当時、信長に対して攻撃をしかけてきた浅井・朝倉との苦しい戦いの最中だったからです。
 信長の事績を見ると、自分から約束を破ったことはあまり見当たりません。約束は守るし、大義名分を重視していたことがよくわかります。
 権威や伝統を尊重していた
 尾張(愛知)守護代織田氏、その分家のそのまた家老だった父親の後を継いだ信長は、まず尾張を統一します。そのとき斯波義銀というもとの主家の後継ぎを連れてきて、『あなたがこの土地の守護ですよ』と立てています。
 もちろん実際には信長が力でとり仕切るのですが、頭に置くのは名族のほうがいいと考えたんですね。その後斯波義銀信長に反抗したことで尾張を追放されますが、殺されずに天寿をまっとうしています。
 将軍義昭も立てるところは立てて、京都に居城(二条城)をつくっています。1569年の殿中御掟の追加として、70年には義昭に五か条の条書という約束をさせています。信長が『大事なことは相談するんやで』といって、将軍を傀儡化したものだとする学者もいますが、内容は義昭の立場を尊重しています。
 信長との二重政権に満足しなかった義昭は、周辺各国に反信長の陰謀を巡らし、73年には信長に対して自ら挙兵しました。
 一度目は義昭が『負けました。許して下さい』と誤ったので許しています。それなのにまた挙兵したので、京都から追放したわけです。
 義昭が上手に信長のてのひらに乗っていれば、足利幕府はもっと続いたかもしれませんが、ここでも、信長は義昭を殺してはいません。三好義継らが将軍義輝を殺したのと好対照ですね。義昭はその後、秀吉の時代の97年まで長生きしました。
 太政大臣・関白・将軍
 信長は足利将軍だけではなく、朝廷をも大事にしました。
 戦国時代、各地の荘園が奪われた王家は、即位式もままならないほど困窮していましたが、信長が財政援助をしたことで持ち直します。もちろん信長にも朝廷の権威を利用できるというメリットがありましたが。
 信長は1575年に権(ごん)大納言、右近衛大将に任じられました。これは追放された将軍義昭に並ぶ地位です。2年後には右大臣に昇進します。
 78年には信長はすべての官職を返上していますが、権力を手放したわけではありません。安土城から各地の配下たちに指示を飛ばしていました。
 関東の滝川一益に託して北条氏を牽制し、北陸は柴田勝家前田利家に命じて、上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝に当たらせる。中国地方は羽柴秀吉に毛利を押さえさせる。自分の子供の信孝には四国を攻めさせようとしていました。
 もう自ら出陣せずとも、家臣団が全部やるようになっていたのです。
 82年、本能寺の変の直前に信長の家臣が天皇に仕える公家に『信長様を太政大臣・関白・征夷大将軍のどれかに任じるべきや』と話したという記録が残っています。
 これは家臣による忖度だったようですが、正親町天皇は信長に問い合わせの勅使を送ります。しかしこのやりとりの中身は伝わっておらず、信長の返答は謎のままです。
 秀吉は関白になり、家康は征夷大将軍になりかした。では信長はどうだったのか。信長はとても合理的な人で、既存の枠組みには必ずしも収まらないところがあります。
 信長がどういう日本をつくろうとしていたのか、わからないままに死んでしまった。そこが面白くて、信長は人気があるのだと思います。」
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 織田信長は、自分が天皇になろうとは思わなかったし、天皇を超えようとも思ってはいなかったし、まして天皇制度を廃絶しようとする気もなかった。
 織田信長は、日本民族日本人であった。
 織田信長は、天皇・皇室を中心とした日本統一を目指し、その後は海外、西ではなく南への雄飛を夢見ていた。
 織田信長など先が見通せる優れた日本人は、古代に縛られ発展していない中国や朝鮮などの中華ではなく新しく進んだ豊かな西洋に興味を抱き、陰気な西の大陸・半島ではなく陽気な南の海原・島嶼への関心が強かった。
 それは、南方系海洋民の子孫である日本民族日本人が内に秘めていた「海」という遺伝子の再発見であり回帰であった。
 日本民族日本人は、大陸より海原に安堵感を抱く。
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 軍事独裁織田信長は、天皇の最古の権威を神聖不可侵として重んじたが、個人欲に塗れやすい宗教の権威を政治権力の下位に置いて抑圧した。
 織田信長は、宗教宗派間の対立を武力で鎮め、政治力・経済力・軍事力を持った宗教勢力は無力化された。
 政治から宗教を暴力的に排除したのが、織田信長である。
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 織田信長が目指した経済・社会の仕組みは、豊臣秀吉徳川家康に受け継がれ明治維新まで続き、近代化への原動力となった。
 織田信長に似たような指導者・軍事力と経済力者は、中国や朝鮮にはいない。
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 日本では、聖の八百万の神々や仏と俗の一般人との間・境界に立って和やかに仲立するのが天皇であった。
 境界で、聖でもなく俗でもなく存在できるのは皇室の天皇だけである。


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