⚔7)─3─戦国時代、足利学校は「運を占う」為の軍師養成学校であった。〜No.29No.30 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 動かせない宿命は他力で、動かせる運命は自力である。
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 2022年3月5日号 週刊現代占星術、風水、陰陽道は効くのか『幸運』を引き寄せる具体的な行動とは
 『運命を変える方法』の科学 前編
 松下電器の創業者・松下幸之助は人材育成を重視した。彼が採用面接で必ず発した問いが『君は運がいいか?』だったという。人が運命を変える方法は果たしてあるのか。徹底研究の前編をお届けする。
 信長も呪術師を雇った
 人間は誰でも幸せな人生を送りたいと思っている。だが人生にはさまざまな困難がつきものだ。そんな時、運に恵まれていれば無事に乗り越えられるのではないか?人類にははるか昔からこう考え、それを乗り越えてきたのだろう?
 静岡大学名誉教授の小和田哲男氏はこう語る。
 『現代の私たちは、戦争とは軍事力が強大なほうが勝つ、それが当然だと思っています。しかし戦国時代の武将は必ずしもそうは思っていなかった。武田信玄は「合戦は魔法である」という趣旨の言葉を残しています』
 小和田氏の著書『呪術と占星の戦国史』には、武将たちがいかに運を味方にしようとしていたか記述されている。
 『戦(いくさ)の趨勢が些細(ささい)な事で転じることは珍しくなく、そのため戦国時代の人々は、戦には〝目に見えない力〟が働いている、と信じていました。その力を司っていたのが軍配者({ぐんぱいしゃ}軍師)と呼ばれた者たちです。
 軍師というと作戦参謀のように思いがちですが、信玄の軍師・山本勘助は呪術を身につけていたと言われています。陰陽師や修験者、僧を軍師に迎える武将も多く、神仏を信じないイメージがある織田信長でさえ、伊束法師という呪術師を抱えていました』(小和田氏)
 当時〝軍師養成学校〟とされたのが『足利学校』である。戦国時代に来日した宣教師ルイス・フロイスが『日本でただ一つの大学』と呼んだ学問所で、′15年にはその跡が日本遺産に認定されている。実は、この学校は別伝と呼ぶ占筮(せんぜい)術を教えていた。占筮術は陰陽道の技術の一つで、天文を観測し、筮竹(ぜいちく)などを使って出陣日の吉凶や軍勢の方角などをまで占い。前出の武田信玄は「占いは足利にて伝授か」と確かめて軍師を採用したし、直江兼続小早川隆景の軍師も足利学校出身だった。徳川家康の懐刀といわれた怪僧・天海も足利学校で4年間学んでいる。
 占筮術の源流は、中国の『易(えき)経』だ。『最高の人生教科書 易経』の著者で真言宗弘法寺管長である小田全宏氏が言う。
 『易経は古代中国の四書五経の筆頭に挙げられる経典です。易という文字は常に変化するトカゲの身体をかたどったといわれており、変化の学問という意味があります』
 『悪日は吉日である』
 易の基本が陰陽思想だ。磁力のN極とS極のように、対立する陰と陽が作用し合い、新たなものを生み出し変化する。易(やさ)しくシンプルな構造でありながら、宇宙が無限に生成していくということを『易』の言葉で表現しているのだという。小和田氏が続ける。
 『ですから易では「さぁ、ここまできたから、あなたは成功しましたね。幸せになれましたね」とは決して言いません。逆に今、不幸な人がかつての幸せな時を思い返して今を悲観することも無益です。禍福はあざなえる縄のごとし、という言葉があるように、人生は常に陰と陽が繰り返される。良いこと悪いことにいちいち囚われてはいけないのです。
 運命とは自分で〝命を運ぶ〟ことです。たとえば私が日本人として生まれたことはどうしようもない。それは宿命です。しかし運命は、自分で変えられる。自分の魂をどこに運んでいくか、その知恵が易です』
 易の考え方を実践した武将が豊臣秀吉だ。
 『天王山の戦い』で、秀吉は明智光秀を破り、破竹の勢いで天下統一を成し遂げた。
 実は秀吉は、この戦いに臨むにあたって側近である祈禱僧から出陣を止められていた。『明日の出陣は殊(こと)の外(ほか)日柄が悪く、出発したら二度と帰ることのできない悪日です』と僧は言う。すると秀吉は、こう答えたのだ。
 『それはかえって一団と吉日である。主君・信長様のための討ち死には覚悟の上。逆に光秀の天命が尽きて私が勝てば、思いのままに城を構えられるから、播磨(ここ)に戻ってくるには及ばぬではないか』
 このやりとりを聞いた全軍は奮い立ったという。秀吉にとっては、兵の士気が上がるのも、計算済みだったに違いない。
 『凶日を逆手に取る方法は、他にもありました。毛利元就陶晴賢厳島の戦いで、毛利軍をすぐに攻めれば落とせたはずの陶軍は悪日を理由に数日を空費、毛利軍が勝利を収めました。
 毛利博物館には「御佳例吉軍扇」という元就愛用の扇が現存しています。これは表に日輪が、裏には三日月が描かれている。悪日には昼に裏側の三日月を、夜に表側の日輪を外に向けることで凶日を吉日にひっくり返せたと言われています』(前出・小和田氏)
 豊臣秀吉毛利元就は、ともに戦国の世を生き抜いた。呪術を活用しながら、お告げに囚われて自分の思考を停止することはしない。それが運を味方につけたのだ。
 風水は占いではなく環境学
 陰陽思想と同様、中国に源流を持ち、今も信心する者が多いのが風水だ。
 ……20年前、この牧場に目を留めたのが風水師Dr.コパこと小林祥晃氏である。
『風水は一言でいうと環境開運学なんです』
 と小林氏は言う。……
 小林氏は続ける。
 『……
 実は風水は人間にはなかなか効きませんただ、人間は環境に影響される生き物です。環境が変われば考え方が変わり、考え方が変われば性格や人との付き合い方も変わってくる。運の良い人と多く接することも大事だと僕は思います。難しく考えることはありません。運お良い人が集まっていそうな場所、たとえば高級住宅街の公園に出向いてコンビニで買ったとんかつ弁当を食べたっていい。今年は食で豚肉、豆、米が開運食ですあらね。そうやって運気を吸収するんです。
 開運すれば、自分より先に周りの人が気づいてくれますよ。何よりそばに来る人間が変わります。
 最終的に、人の運は人によってしか変わらないんです』
 女性に人気の高い西洋占星術ではどのように運命を考えているのだろう。
 占星術の起源は紀元前2000年頃の古代バビロニアに遡る。当時の占星術は、国家や王室の吉凶などを判断するものとして用いられた。バビロニアが滅んだ後、ギリシャに伝わった占星術が個人を占うホロスコープ占星術になったという。
 ……
 自分の意思を口に出す
 ここまで見てきた伝統的な思想では、いずれも『目に見えない力に抗うのではなく、それを活用すること』、そのためには『自分を知ること』が重要であるとされている。
 さらに能動的に運命を変えるにはどうすればいいのか──平成に入ってさかんに提唱されようになったのが『引き寄せの法則』だった。
 ……
 引き寄せの法則と偶然の出来事は切っても切れないものです。
 ……
 本田(健)氏は、運命を変えることも、今の自分がどの方向に変わりたいのか、それを把していなければ意味が無いという。
 『たとえて言えばカーナビに目的地を打ち込むようなものです。どこに行きたい、というだけではどこにも行けない。目的地がわかっていなければ車は行く先を見失い、いつかガス欠を起こして止まってしまいます』
 引き寄せることを心に描き、口にすることが幸運を運んでくる。
 ……
 『本田宗一郎は天才技術者でしたが、企業経営はできない。会社経営ができるパートナーを探していることを口にしていたのです。とはいえ共通の知人が市谷の町で藤澤氏とばったり会っていなければ、二人は出会うことはなかったでしょう。
 調べてみると、成功している人の出会いにはこのような不思議な縁が多々あるのです』(本田氏)
 ……」
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<戦国時代>宣教師も驚いた戦国エリート校 足利学校 (歴史群像デジタルアーカイブス)
学校史に見る日本 ――足利学校・寺子屋・私塾から現代まで
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 戦国時代は、勝敗は時の「運」次第として、全ての武将は占筮・呪術・占星・陰陽道で動いていた。
 合理主義者であった織田信長は、運を味方につける為に呪術師の伊束法師を抱えて、戦に際して出陣日や攻撃する方角をその都度占いその結果で行動していた。
 現代の日本人では考えられない様な奇想天外な行動で勝利していたのは、その為であった。
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 日本の軍師は、中国の軍師や西洋の参謀とは違っていた。
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 歴史的事実として、日本人の生き方が中国人や朝鮮人と違って当然であり、日本人と欧米の白人と違って当たりまである。
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 日本人は、占い好きであったが占いを信じてはいなかった。
 所詮、運が良い人は運が良く、くじ運が良い人はくじ運が良く、運が悪い人やくじ運が悪い人は何をやっても駄目である。
 人生において、拾う神は1%以下で、捨てる神は99%以上。幸運の女神やチャンスの女神とで会う確率も0.01%以下と極稀である。
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