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2021年5月12日 MicrosoftNews ダイヤモンド・オンライン「「戦国時代は応仁の乱から」は過去の常識、最近有力な説とは?
河合 敦
© ダイヤモンド・オンライン 提供 「応仁の乱で室町幕府が弱体化し戦国時代へ」は、正しくないことが分かっている Photo:PIXTA
日本史の中でやはり人気が高い戦国時代。しかし、多くの人が学校で習ったであろう「応仁の乱で室町幕府が弱体化し戦国時代へ」は、正しくないことが分かっている。東国では応仁の乱の13年前、1454年に始まる「享徳の乱」から、全国的に戦国の世になったのは応仁の乱ではなく、「明応の政変(明応2年、1493年)」からだという説が研究者の間で有力になりつつある。いったいどういうことなのか?そこで今回は、歴史研究家・河合敦さんの新刊『教科書の常識がくつがえる!最新の日本史』(青春出版社)から、この「明応の政変」について詳しく解説する。
応仁の乱とは結局なんだったのか
「応仁の乱」は日本全土に戦国時代を到来させたという共通認識があったが、近年、研究者の間では、応仁の乱が終結してから16年後に起こった明応の政変こそが戦国時代の到来だとする考え方が強くなりつつある。
まずはこの政変と大いに関係のある応仁の乱について復習しておく。応仁の乱は、幕府の三管領(将軍の補佐役である管領を出す家柄)の一つ、畠山氏一族の戦争から始まった。応仁の乱が勃発する十数年前から、畠山氏は政長派と義就派に分かれて一族・家臣でもめていた。
幕府の実力者である守護大名の山名持豊が、畠山義就を支援し、将軍義政に働きかけて畠山政長の管領職を罷免させると、政長は屋敷を焼き払って上御霊神社に陣を敷き、管領の細川勝元に応援を求めた。しかし勝元はこれに応じず、結局、義就は政長軍に襲撃されて敗退した。この御霊合戦が応仁の乱の始まりである。
「応仁の乱で幕府が弱体化」は誤り
約11年にわたって続いた応仁の乱が終結した後、再び室町幕府は統一された。新将軍の義尚は、若いながら政治に強い意欲を示したが、引退したくせに父親の義政がなかなか権限を義尚に譲渡しようとせず、親子間で確執をくり返していた。とはいえ、室町幕府が再びしっかり機能しはじめたのは確かである。
つまり、応仁の乱後に幕府が完全に力を失い、全国が下剋上の世になって戦国大名たちが分国を拡大するために相争うようになったという解釈は正しくない。
乱の終結から10年後の長享元年(1487)、将軍義尚は将軍の権威を高めるため、2万の大軍を引き連れ、反抗的な六角高頼を討伐する目的で近江国へ出陣した。この頃、ようやく義政が本格的に権力を手放し始めたと考えられている。
ところが、義尚が25歳の若さで病没してしまったのである。酒の飲み過ぎで体を壊したというが、はっきりした死因はわからない。義尚が亡くなると、義政の正妻・日野富子は義視の子・義材を将軍にしたいと考えたが、なんと、父親の義政が将軍の座に返り咲いたのである。けれど翌年、その義政も中風によって55歳で没してしまった。そこで富子は、再び義材を将軍にすえようと動きはじめた。
一方、細川勝元の子で幕府の実力者である政元は、清晃を将軍にしたいと考えていた。清晃は、義政の異母兄で堀越公方となった足利政知の子である。ただ、将軍家における富子の権限は強く、結局、新将軍には義視の子・義材(後の義稙)が25歳で就任した。
クーデターを決意させた女性
しばらくすると、美濃国から義材と一緒に上洛した義視(義材の父)が将軍の後見人として政治を動かすようになり、さらには富子と対立するようになったが、そんな義視も延徳3年(1491)正月に死没してしまう。
これにより、将軍義材の力は弱まるかに思えた。しかし、義材は同年8月、威勢を回復していた六角高頼を攻めるべく近江へ出陣したのである。六角氏を倒して己の権威や武威を上げて求心力を高め、さらには、直属の武士である奉公衆たちに六角氏から没収した土地を与えて結束を固くしようとしたようだ。
さて、この遠征だが、六角高頼は逃げてしまったものの、義材は園城寺に拠点を置いて戦いを有利に進め、降伏した六角氏の重臣・山内政綱を殺害するなど、六角勢力に大打撃を与えて凱旋したのである。
これに気を良くした義材は、前管領の畠山政長(応仁の乱の原因をつくった人物)を重用し、今度はその政長の願いを聞き入れ、畠山基家(かつて政長が応仁の乱で争った義就の子)の拠点である河内国へ遠征を宣言したのである。
細川政元は近江への出陣も反対していたが、今度の河内征伐も強く反対した。だが、義材はそれを黙殺して河内への遠征を強硬した。一説によれば、河内平定後、義材は自分の行動にことごとく反対する細川政元を滅ぼしてしまおうと企んだという。
一方、ここで政元も幕府の元管領という立場にありながら、将軍義材の排除に動いたのである。そうした決意に至らしめたのは、日野富子が政元の味方をしたことが大きいとされる。
研究者の大薮海氏は、「義政・義尚が没した後の日野富子は足利将軍家の事実上の家長であり、義材を後見すべき立場にあった。その富子は、義材が自身の権力強化のために近江国のみならず河内国にまで諸大名を動員し、そのことによって細川政元をはじめとする大名たちと溝を深めている状況をみて、義材に見切りをつけた」(前掲書)と論じている。
将軍義政の正室で、将軍義尚の生母である富子は、足利将軍家で絶大な信頼を集めていた。そんな彼女が手を結んでくれたからこそ、政元はクーデターを決行する決心がついたのだ。
家臣が将軍を自由に替える時代となった
明応3年(1494)4月22日、細川政元は突如挙兵し、清晃(足利政知の子)を自分の屋敷に迎え入れ、義材を廃して新将軍にこの清晃を擁立することを宣言した。
これが、「明応の政変」の始まりである。ちなみに政元はまだ28歳、意外に若いことに驚く。ちょうどクーデター時、将軍・義材は京都を留守にしていた。守護大名や直臣(奉公衆)を引き連れ、河内国内で畠山基家勢を激しく攻め立てていたのである。だから都でのまさかの事態は、青天の霹靂だったことだろう。
さらに、日野富子が自ら政元の屋敷へ参じたのだ。この動きが決定打となり、義材に従い河内で戦っていた守護大名たちさえも、この政変を知ると、続々と陣中から離脱して京都へと戻ってきてしまった。
こうして幕府の実権を握った細川政元は、畠山政長を討つという名目で、将軍義材のいる河内へ大軍を派遣した。結局、戦いに敗れた政長は自殺し、義材も抗しきれずに降伏したのだった。捕縛された義材は、京都に連れ戻されて幽閉された。
同年12月、還俗した清晃は11代将軍となった。名前は何度か変えるが、以後は一般的に知られている義澄と記すことにする。将軍就任時、義澄はまだ14歳の少年だった。
いずれにせよ、幕府の家臣によって将軍の首がすげ替えられる時代になったことは、これまでと異なる大きな変化だったが、それだけでは事は終わらなかった。
「将軍が二人」に
その後、身の危険を感じた義材が京都を密かに脱し、故・畠山政長が支配していた越中国放生津へ入り、さらに諸国の守護大名に細川政元の征討を呼びかけて、北陸の諸大名を糾合し始めたのである。
その後は越前国を拠点として勢力を拡大、上洛を目指して近江国坂本まで攻め上っていったのだった。しかし、戦いに敗れて京都の奪還に失敗、有力大名の大内義興を頼って西国の周防へ入った。
ただ、それからも将軍として振る舞い、諸大名にさまざまな命令や通達を発し始めた。こうして日本に二人の将軍が分立する状況が生まれたのである。
また、新将軍・義澄を擁立した京都の室町幕府(細川政元政権)がその後、安定したわけではなかった。成長した義澄は、自ら政務に意欲を示し始めたのだ。そして、これをおさえようとする政元との間で相剋を生じ始め、ついに文亀2年(1502)、その摩擦に火がついた。
同年、政元が管領を辞めると言って京都から出てしまったり、逆に将軍・義澄が腹を立てて寺院に引きこもるなど、二人の確執が大きくなったのである。ただ、その後は和解して小康状態を保ち続けたものの、5年後の永正4年(1507)、驚くべき事態が出来する。細川家の家督をめぐって政元自身が暗殺されてしまったのである。
すると当然のごとく、周防にいる前将軍・義材が元気づき、翌年、西国から軍勢を連れて都に入り、将軍に返り咲いたのである。一方、京都から駆逐された義澄は、京都奪回を目指したが、残念ながら永正8年に病死してしまった。
以上のように明応の政変を機に、将軍家は義材系統と義澄系統に分裂し、守護大名を巻き込んで争いを続けるようになった。
こうした中、室町幕府の支配力は山城一国にしかおよばなくなり、その実権も細川氏からその家臣の三好氏に移り、さらにその家来だった松永久秀に移っていった。対して地方では、独立した権力である戦国大名が登場し、それぞれが自分の分国を拡張するため相争うようになった。
戦国大名の出自は、守護大名だったり、守護代だったり、国人だったりと多様だが、いずれにせよ、明応の政変をきっかけにして実力がものをいう時代に大きく変わったのである。
訂正
記事初出時より、以下のように表現を改めました。第5段落:新将軍となった義正の息子・義尚は、→新将軍の義尚は、(2021年5月12日10:53 ダイヤモンド社デジタル編成部)」
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