⚔8)─1─戦国時代に軍師はいなかった。足利学校で兵法を学んだ学者や僧侶達。〜No.30No.31No.32 ② 

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 産経iRONNA
  戦国時代に「軍師」はいなかった⁉
 歴史上の「軍師」といえば、秀吉に仕えた黒田官兵衛を筆頭に多数知られているが、実際はどうなのだろうか。さまざまな史料を読み解く限り、後世の創作だった可能性が高い。もちろん、足利学校のように兵法を学ぶエリート養成機関は実在したものの、「軍師」とまではいえず、今回はその実在論争に終止符を打つ。
 兵法教育は優れど、「軍師」はウソだったといえるこれだけの理由
 『渡邊大門』 2021/01/24
 渡邊大門(歴史学者
 最近は流行らなくなったが、少し昔のビジネス雑誌をひも解くと、戦国時代の「軍師」をモデルにして、いかにビジネスを成功させるかといった記事をよく目にした。
 たとえば、豊臣秀吉の「軍師」だった黒田官兵衛(孝高、如水)は、「偉大なるナンバー2」と持ち上げられ、「ナンバー2」の美学なるものがまことしやかに語られた。しかし、戦国時代に「軍師」なる言葉はなく、「鶴翼の陣」などの陣形も嘘と考えたほうがよさそうだ。それらは、いい加減な史料に書かれたもので、信用に値しないのである。
 以下、「軍師」などについて考えてみよう。
 わが国では、座学としての戦争研究が発達していた。これは事実である。戦国大名には刀、弓、槍、鉄砲などの鍛錬が必要である一方、座学である兵法書を読むことも重要だった。「論語」「中庸(ちゅうよう)」「史記」「貞観政要」などの中国の古典が代表的なものである。
 また、「延喜式(えんぎしき)」「吾妻鑑(あづまかがみ)」といった日本の典籍など、為政者としての心得を学ぶための書物も含まれていた。ただ、戦国大名がそのまま読むには難解だったため、公家や僧侶から講義を受けることもあった。
 兵法書には、武経七書と称される「孫子」「呉子」「尉繚子(うつりょうし)」「六韜(りくとう)」「三略」「司馬法」「李衛公問対」が代表的なものとして存在する。それらの兵法書は、すでに奈良・平安時代に日本に入っていたといわれている。しかし、これらの書物は日本の古典と同じく難解で、とても戦国武将がすらすらと読めるものではなかった。
 室町時代には足利学校(栃木県足利市)という儒学などを学ぶ機関があり、その卒業生が戦国大名兵法書の講義をした。
 小早川隆景は、足利学校出身の玉仲宗琇(ぎょくちゅう・そうしゅう)と白鴎玄修(はくおう・げんしゅう)の2人を、鍋島直茂も不鉄桂文(ふてつ・けいもん)を招いていた。直江兼続のもとには、足利学校出身の涸轍祖博(こてつ・そはく)がいた。
 徳川家康のブレーンである天海も、足利学校の卒業生である。実際には、彼らが兵法書の解説などを行っていたのだろう。
 足利学校の歴史が明らかになるのは、室町時代中期頃である。鎌倉から禅僧の快元を招き初代庠主(しょうしゅ、校長)とし、学問の興隆と学生の教育に力を入れた。
 その後、関東管領上杉憲忠易経周易注疏」を寄進し、子孫の憲房も貴重な典籍を送ったという。永正、天文年間(1504~54)には約3千の学徒が在籍したといわれている。天文18(1549)年に日本を訪れた宣教師のザビエルは、「日本国中最も大にして最も有名なる坂東の大学」であると足利学校を称えたという。
 足利学校は軍師養成学校と称されるが、それは大きな誤解である。足利学校で学んだ僧侶は中国の古典に優れ、また軍配の際の占いや易学に精通していたので、そう呼ばれたにすぎない。
 戦国武将は実技たる武芸の技を磨くのみならず、座学での兵法書の読解にも励まねばならなかった。実技と座学が一体化してこそ、優れた武将として評価されたのである。
 では、いったい「軍師」とはどういう存在だったのだろうか。その点を詳しく掘り下げてみよう。
 辞書類によれば、「軍師」とは大将の配下にあって、戦陣で計略、作戦を考えめぐらす人を意味する。単に戦場で計略や作戦をめぐらすだけでなく、ときに外交にも携わるなど、多彩な能力を発揮した。
 とりわけ戦国時代には、著名な「軍師」が数多く存在した。武田氏の山本勘助、今川氏の雪斎、上杉氏の宇佐美定行、毛利氏の安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)など、数え上げればキリがないほどである。
 中にはその存在を示す一次史料に乏しく、出自や動向があまり分からない人物がいるのも事実である。山本勘助はその代表であったが、近年多くの一次史料が発見され、注目を集めている。
 ところが、そもそも「軍師」という言葉は近世に生まれたもので、戦国時代に「軍師」という言葉が使われていた形跡は確認できない。「日本国語大辞典 第二版」(小学館)を確認しても、用例は近世以降である。東大史料編纂所の史料データベースを検索しても、「軍師」という言葉がヒットすることはない。
 戦国時代には、「軍師」なる言葉は存在しなかった可能性が極めて高い。実際は「軍師」でなく、後述する「軍配師」と称するのが正しいようだ。当時、戦場でどのように戦ったのかは、後世に成立した軍記物語などの影響が大きく、当時の史料で探ることは困難である。
 ましてや、「軍師」の立てた作戦が功を奏し、勝利を得た事実は確認できない。詳しくは後述するが、「第四次川中島の戦い」において山本勘助が用いたとされる「啄木鳥(きつつき)戦法」や、それに対抗した上杉氏の「車懸りの陣」なども、本当にあったのか否か、確認のしようがないのだ。
 近世に至ると兵学が発達するようになるが、軍記物語にはその影響を受けた〝後付けの〟著述や理論も少なからず見受けられる。その点には、注意を払う必要があるだろう。
 次に、軍配兵法の発展について考えてみよう。
 日本に兵法が伝わったのは、奈良時代にさかのぼる。六国史の一つ「日本書紀」には、兵法を駆使したと思しき人々が登場する。
 留学生として唐に渡った吉備真備(695~775)は、儒学天文学兵学を修め帰国した。兵法に通じた真備は城を築くなど、「軍師第一号」といわれている。なお、真備は陰陽道にも通じていた。
 わが国では「孫子」「呉子」「六韜」「三略」などを参考にして、多くの兵法書が編まれた。やがて戦いが恒常化する時代に入り、戦いの経験を積むことにより戦法が洗練されると同時に、兵法も大いに発達した。
 南北朝期から室町期にかけて執筆された「張良一巻書」「兵法秘術一巻書」「義経虎之巻」「兵法霊瑞書」などは、代表的な兵法書といえよう。
 これらの兵法書は中国では集団戦法を重視しているのに対し、一騎打ちの戦闘法に特化している特長がある。当該期の兵法は、宿星、雲気、日取、時取、方位などを重要視した軍配術が基本であった。これに弓馬礼法や武家故実が結びつき、軍配兵法が発達したのである。
 つまり、一種の縁起担ぎに基づいていた。現代では合理的な考え方が重視されるわけであるが、戦国時代は必ずしもそうとはいえなかったのだ。軍配者は占星術陰陽道に通じており、武将の命により合戦の日取りを決定した。その萌芽は、すでに12世紀初頭に確認することができる。
 平安時代に賀茂家栄が撰した「陰陽雑書」によると、戦いに適した日は己巳以下の14日であるとされている。もっとも、諸書によって合戦に適した日は一定しないようである。したがって、各家の独自の理論に基づいていたと考えられる。確かで合理的な根拠に基づいていないのだ。
 合戦に適した日時にこだわった例は、康平3(1062)年8月の前九年の役で確認することができる。
 源頼義安倍宗任の叔父で僧侶の良照の籠もる小松柵を攻撃しようとしたが、その日は日取りが良くないとの理由で延期している(「陸奥話記」)。日時にこだわる考えは、すでに平安時代から見られたのだ。
 出陣の日については、足利将軍家陰陽頭に依頼して吉日を選択していたことが知られている(「殿中以下年中行事」)。戦国大名の場合は軍配者に託したが、易者や山伏に委ねられることもあった。現代の感覚からすれば迷信頼みに見えるかもしれないが、当時はそれが信じるに値する「真実」だった。
 その「真実」に基づき、戦国大名は出陣の日を定めていたわけであり、やみくもな判断に基づくものではなかったのである。神仏に畏敬の念を抱いていた当時の人は、日時も神や運を委ねていたのである。
 つまり、私たちは戦国大名の配下には「軍師」なる司令塔が存在し、理論的に完成された「陣形」「戦法」で戦ってきたと思っていたが、それは間違いなのである。そもそも戦国時代に「軍師」は存在せず、後世に伝わった「陣形」「戦法」もまったく信用できないのが実情だ。
 戦国大名は軍配者に出陣の日取りを決めてもらい、戦闘はそれなりの作戦はあっただろうが、おおむねこれまでの戦いの経験則に拠ったというが実際だったに違いない。
 もう嘘八百の「軍師」論は、お止めいただきたいものである。
 ※主要参考文献 渡邊大門「戦国大名の戦さ事情」(柏書房
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