🎑24)─2・A─何が相撲の伝統を守ったか。昭和天皇と天覧相撲。〜No.61 ⑧

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 相撲は、プロレスやボクシングなどの人集めや金儲け目的の娯楽的イベントではない。
 それすら分からなくなった日本人が増えてきている。
 その象徴が、伝統的力士の品位・品格はグローバル時代にそぐわないと軽視し、外国人力士の礼儀・作法違反を容認する日本人が少なからず存在する。
 そうした日本人は、相撲をプロレスやボクシングのようにエンターテイメントで観客を楽しませるべきだと主張している。
 つまり、日本民族文化の破壊である。
 そうした日本人は、国際派、リベラル派、革新派、人権派、人種差別反対派、男女平等派、反民族派、反天皇派などに多い。
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 何が相撲の伝統を守ったか
 『月刊正論』 2014年7月号
 舞の海秀平(元小結、スポーツキャスター)
 大相撲の世界には、ここ何年間でいろいろな不祥事がありました。本場所が中止になったこともあり、天皇陛下をお迎えする天覧相撲も平成23年1月を最後に、もう3年以上も行われていません(編集部注:その後、天皇、皇后両陛下は4年ぶりに平成27年初場所をご観戦)。大相撲界の不祥事が原因であり、やむをえないことなのかもしれませんが、これは本当に残念なことです。
 私自身、現役時代に何度も天覧相撲を経験し、現役引退後にもNHKなどで大相撲の解説もしていますが、天覧相撲というのは、力士に不思議な力を生み出すものなのです。また、国技館のお客様が、自然と立ち上がって拍手を送る。こういう光景を見ると、なんと素晴らしい国に生まれたのだろうと思います。私たちは、天皇という大きくて深い、懐の中で、生きているのであろうと感じられるのです。
 それはなぜか。単に、陛下がご覧になっていることを意識している一人一人の感覚によるものともいえるでしょうが、私は、それだけではないと考えています。それは日本の伝統文化の一つである大相撲が、実は天皇、皇室のご存在によって、1500年近く守られてきたという歴史的事実と無関係ではないのではないかと思うわけです。そのことを、いま私たちは改めて思い出し、襟を正す必要があるのではないか。私はそう考えています。相撲界に携わる者として、一日も早く、晴れて陛下にご覧いただける大相撲を取り戻さなければならない、そう考えるわけです。
 単なるスポーツではない
 まず初めに大相撲が、単なるスポーツではなく、日本の伝統文化、伝統芸能であり、そして何より相撲は神事であるということを確認しておく必要があるでしょう。
 神事だということは、日本の伝統的な信仰で、皇室と深くつながる神道に関わるものでもあるということです。大相撲の不祥事報道では、スポーツとしての公平さ公正さの重要性ばかりが強調されますが、これはあまりに一面的な見方なのです。
 大相撲本場所のテレビ放送を見ると、誰でも相撲が伝統芸能であり、神事であるという証拠を目にすることが出来ます。例えば、呼出が扇子を持って「東~」「西~」と、力士を呼び上げます。ただのスポーツならば、観客のためにマイクで場内アナウンスをすれば済むことですが、大相撲は伝統芸能であるが故に、あの独特の所作が生むムードを必要とするわけです。歌舞伎役者がどんなに見得を切っても、音を響かせるツケ打ちさんの高い技術がなければ見栄えしないのと同じです。
 相撲の取組には、神事であるからこそ、さまざまな作法があります。
 土俵の力士は蹲踞をして、大きく手を広げて、ぱちっと手を叩きますが、あれは、私は武器を持っていません、正々堂々と闘います、ということを示すと同時に、柏手の意味があるそうです。丁寧な力士は叩いた手を揉んでいますが、実はこれが正式な所作であり、神社にお参りするとき、手を洗って口をすすぐ行為の代わりなのです。昔はどこにでも水がなかったから、力士は手を下に伸ばして、草をむしり、その草で手を揉んで、手を洗ったことにしたのですが、その名残なのだそうです。
 土俵の中央で向かい合った後、わざわざそこで四股を踏むのもまた神事からきているそうです。大昔の人は、土の中に魔物がいると考えたそうで、力持ちの力士が大地を踏みしめて魔物を退治し、五穀豊穣を祈る意味があるそうなのです。
 塩をまくのもそうです。塩は、いろいろな神事に使われますが、大相撲でも土俵を清め、邪気を払う役割もあるのです。
 宮中儀式にならなければ…
 ここで大相撲が、いかに天皇、皇室と関わりが深いものであったかということに触れておきたいと思います。
 『力士漂泊』を書いた宮本徳蔵は、力士の起源を2、3世紀のモンゴル辺りとみていますが、日本では、西暦642年(皇極天皇元年)に、古代朝鮮半島百済から来た使者を饗応するため、飛鳥の宮廷の庭で相撲を見せたという史実が、文献で確認されているそうです。
 734年、聖武天皇の代には、初めて天覧相撲が行われたといわれています。聖武天皇は諸国の郡司に対して、強い力士を選んで貢進するように勅令も出しており、国家儀礼として宮中で行われる相撲「相撲節会」が正式に形作られていったのです。「すもうせちえ」と読みますが、相撲は「すまい」と読まれていたことから、「すまいのせちえ」とも読みます。
 平安時代に入った頃から、天覧相撲は毎年恒例となり、833年、仁明天皇の頃になると、「相撲節会というのはただ単に娯楽遊戯のためではなく、武力を鍛錬するのが、中心の目的である」と勅令を出し、諸国のすぐれた相撲人を探し求めるようになりました。
 このようにして、相撲は、天皇に認められ、宮中儀式となり、そして国家的な文化として隆盛を極めるようになったといえるでしょう。
 平安時代、相撲は民間各地でも豊作祈願の農耕の儀式として行われていましたが、宮中で相撲節会として扱ってもらっていなければ、やがて廃れてしまい、続いていなかったかもしれません。実際に、その後、相撲は危機に瀕することもあったのです。
 天覧相撲に救われた伝統
 12世紀になると武家社会が到来し、相撲は宮中から、武士の手に渡り、戦のために鍛錬するという武芸の一種のような性格が強くなっていきました。室町時代になると、いろいろな文化、芸能が起こり、芸能文化としての相撲は段々衰退していき、野蛮なものだと思われるようになっていくのです。
 しかし、戦国の英雄、織田信長が相撲好きで、上覧相撲も行われるようになり、また見直されます。豊臣秀吉もそれにならいました。江戸時代になると、寺社仏閣を建てる、橋を建てるという名目で、営利目的の相撲の興行が起きるようになりました。これを勧進相撲といいます。
 平和で、力のある外様大名が中央政治に関与する機会が殆ど無かった江戸時代には、各藩の大名が強い力士を探して、それぞれ抱え、藩の名誉を競うようになったようです。年に何度かある江戸、京都、大坂であった相撲の大会に出場させるわけです。たとえばいまの青森県津軽家や鹿児島県の島津家は、本当に強い力士を探すのに熱心だったそうです。こうした熱心な大名家の領地だった土地には、いまでも輩出する力士の数が多いのです。
 ちなみに、相撲に土俵が生まれたのは江戸時代だという説があります。土俵がない時代の相撲は、力士の周りに人が集まって相撲を観るために、力士双方が四つに組んで、どちらかが倒されるまで続けなければならず、なかなか勝負がつきませんでした。気が短い江戸っ子は、いつ終わるか分からない相撲を観ていられなくなり、土俵をつくるようになったというのです。
 相撲の歴史では大きな進歩というべきでしょうが、一方で、土俵ができたことによって、立ち合いに変化が生まれ、力と力のぶつかり合いが必ずしも行われなくなっていったという一面もあります。現役当時の私のように、猫だましをしたり、八艘跳びをしたりする「卑怯」な力士には、いいことだったかもしれません。もちろん、これはある種の冗談というか、土俵がなかった時からみたらそう見えるということで、いま、それをしている力士が卑怯ということではありませんが…。
 それはともかく、宮中から舞台が移っても、相撲と皇室との関わりは消えませんでした。明治時代、天皇が京都から江戸に移る時、京都の力士達は菊のご紋の陣羽織を着て先頭に立つことを名誉としたそうです。文明開化で西欧のものを取り入れるようになると、相撲はまた室町時代のように野蛮な競技だとみられるようになり、裸になることすら憚られるようになったのですが、そのとき、相撲を救ったのは明治天皇でした。
 明治17年、芝延遼館で天覧相撲が行われ、明治天皇がご覧になったことで、一気に相撲が見直されるようになったのです。もし、ここで天覧相撲が行われていなかったら、時代とともに相撲はなくなっていたかもしれません。
 天覧相撲とともに、相撲という伝統文化が残った大きな理由に丁髷があると私は思います。明治後、世の中の人はみな、丁髷を切ったのですが、相撲界だけは丁髷を残しましたが、これは今考えると、重要だったのではないかと思います。相撲というのは丁髷をつけているから神々しく見える。丸坊主の太った男が土俵に上がって闘っても、それほど神々しく見えないのではないでしょうか。
 言い換えると、皇室によって守られた相撲が存続することで、丁髷という伝統技術も残されたということなのです。一度、丁髷をやめれば、そこで髷を結う床山は必要なくなります。そうすると床山の持っていた伝統技術もなくなるのです。復活させようとしても、もうできません。丁髷を結える人がいなくなってしまうのですから。こう考えると、皇室の存在は相撲の持つさまざまな伝統文化、技術を守っていたともいえるでしょう。
 身を乗り出された昭和天皇
 昭和天皇は大変な相撲好きでいらしたことが知られていますが、昭和天皇のご存在が、大相撲を現在の形にしたと言っても過言ではありません。
 まず、力士にとって最高の名誉である天皇賜杯。大正14年、昭和天皇が摂政宮でいらしたときに、赤坂の東宮御所で台覧相撲が行われましたが、このときの御下賜金で摂政盃(優勝賜杯)が作成され、これが現在の天皇賜杯につながっているのです。
 また、天皇賜杯をいただくのに、大相撲を行う団体はきちんとしておかなければいけないということもあって、財団法人となる動きは加速し、大日本相撲協会が認可されるのです。これが現在の公益財団法人「日本相撲協会」へとつながっていくわけです。
 昭和天皇はありがたいことに戦後も40回にわたり、蔵前、両国国技館にお出ましになり、大相撲をご覧になりました。東京では年3場所ありますが、3場所ともご覧になった年も何度もあるわけです。
 天覧相撲といえば、昭和50年5月場所、麒麟児と富士櫻戦が有名です。麒麟児と富士櫻はお互いにまわしを取らずに突っ張るタイプの力士で、いまの力士に多いタイプとは違って、押せなかったからといって、はたかず、突っ張り合いで勝負するのです。テレビ中継では、100発を超える突っ張り合いを、昭和天皇が身を乗り出されて、香淳皇后とご一緒にご覧になる姿が放映され、非常に印象的でした。
 天覧相撲では、この両力士が激突することが多かったように思います。本当かどうかは定かではないのですが、相撲協会も天覧相撲になると、わざわざ麒麟児、富士櫻戦を用意したのではないかといわれています。
 プロ野球の天覧試合では、巨人・阪神戦で、巨人の長嶋茂雄選手が逆転サヨナラホームランを打った映像が有名ですが、私たち力士は、天覧相撲になると、何か不思議な力をいただくのではないかと思えるのです。
 ひ弱な日本人力士たち
 大相撲は、現在の日本社会に大きな影響を受けています。日本社会の縮図と言っても過言ではありません。たとえば、日本の若者はひ弱になったとか、内向きになったとか、そういうことが言われますが、大相撲も最近、強いのは外国人ばかりで、つまらなくなったという声をよく聞きます。
 いま大相撲を支えているのはモンゴル人なのです。モンゴル人がいるからこそ、私たちは横綱の土俵入りが見られるわけです。彼らの目的は何か。日本の大相撲界に入って、そして早く強くなって、お金を稼いで、祖国の両親、家族の面倒を見るということです。勝てるようになるまで、帰れない。そういう強い気持ちが、日本人の力士と違ってあるわけです。
 朝青龍から聞いた話なのですが、朝青龍の父上は、息子に、どういう気持ちで相撲に臨むべきか、このように教えたそうです。「相手のことを、自分のお母さんのことを殺した犯人だと思って闘え」と。これを聞いた時、日本人力士は勝てないなと思いました。
 それに比べて、このごろの日本人力士には「3~5年やってだめなら、田舎に帰って何か仕事を探せばいいかな」と考えている力士がたくさんいるのです。力士の親も変わってきました。昔は、息子が相撲界に入るとなると、親も「強くなるまで帰ってくるな」と送り出したものですが、いまの親は「苦しかったら、すぐ帰ってきなさい」「何も我慢することはないのよ」と送り出すのです。そうすると、すぐ帰っていきます。ひどいのになると、朝来て夜には帰ってしまうのもいるのです。
 これは、相撲界だけなのでしょうか。企業の社長と話していても、「最近の若いのはすぐやめていくんだよね」というのです。「どうしてですか」ときくと、「いや、『理想の職場じゃなかった』というんだよね」というのです。どんな世界でも、いいところと悪いところがあります。みんな、我慢をしながら、仕事をしていくのになあと思います。
 相撲界に外国人が増えるのは、やはり国際化、グローバル化の影響であり、もはや止めようもないことです。外国の力士を排除すべきという意見もありますが、これも難しいと思います。もし、そういうことでもすれば、外交問題に発展するでしょう。モンゴル政府は本当に怒ると思います。
 ただ、その一方で相撲が日本の伝統文化、伝統芸能であり、神事であるということも忘れてはならないと思います。相撲をオリンピック競技にしてはどうかという声も出てきていますが、五輪競技になれば、スポーツの国際的基準にあわせるために、相撲の伝統的部分がどんどん失われることになるでしょう。私はそれは、決していいことだとは思いません。
 ずぶ濡れになってお見送り
 なぜ、大相撲がここまで続いたのかというと、日本に天皇がいらしたから、日本に皇室があったからだと思うのです。
 明治時代に相撲が廃れかけたときに、明治天皇が天覧相撲を行って下さった。昭和天皇が何度も国技館に足を運んで下さり、大相撲を見守って下さった。そして今上陛下も何度も国技館に足を運んで下さいました。
 クラシック音楽が宮廷音楽として発展したのと似ていますが、相撲という文化を発展させたのは天皇・皇室のご存在なのです。相撲界には谷町という存在がありますが、皇室は、大相撲の精神的な谷町であるというと、言い過ぎでしょうか。
 しかし、相撲に限らず、皇室のご存在を精神的支柱とし、その中で発展してきた伝統文化は多いはずです。同じようにさまざまな伝統文化が、皇室のご存在によって生まれ、維持され、発展してきたはずです。そういう意味では、天皇・皇室は、伝統文化を守る大きなシステムであるともいえるのではないかと、私は考えています。
 私たち相撲関係者は、皇室への敬意を決して失いません。相撲界の先輩から聞いた話ですが、昭和天皇崩御された時、大相撲の親方、力士は、ご遺体が運ばれるのを、土砂降りの冷たい雨の中をずっと立って待っていたといいます。いつ到着されるか分からなかったこともあり、はじめは、みな傘を差してお待ちしていたのですが、当時の相撲協会の二子山理事長が「傘をとれ」というと、力士がみなズブぬれになりながら、頭を垂れて、ご遺体を見送ったそうです。私は、この話を聞いた時、本当に胸が熱くなりました。
 私は、相撲界に携わる一人として、皇室の弥栄を心よりお祈りして参りたいと考えております。
 (構成/月刊正論編集部・菅原慎太郎)
 舞の海秀平氏 本名は長尾秀平。昭和43(1968)年、青森県生まれ。日本大学経済学部卒業。平成2年、大相撲出羽海部屋入門。基準の身長に足りず1度目の新弟子検査に不合格。頭にシリコンを入れ1カ月を過ごし、2度目の検査で合格。3年3月新十両、9月新入幕。最高位小結。11年に引退後は大相撲解説者、スポーツキャスターとして活躍。」
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