🏞118)─1─西郷隆盛と大久保利通が倒幕派に転向したのは水戸天狗党が原因であった。元治2(1865)年〜No.479No.480 ㊸ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 武士道とは、死ぬ覚悟もって「命を粗末にしない事」と「戦う敵に対して敬意を払う事」であった。
 武士道は、日本にあって中国や朝鮮にはない、そして昔の日本にはあったが現代日本にはない。
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 弱い者(女性や子供、老人や病人・障害者)を虐め泣かすのは、男の恥、武士・サムライの風上にも置けない心卑しき卑怯者、人間失格
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 日本のテーブルゲームは、将棋と囲碁であって、勝ち負けのチェスでもなければ、賭け事の麻雀でもトランプでもなかった。
 子供から大人まで好んだのは、敵の駒を奪い自分の手駒として敵を倒す将棋である。
 将棋には、無駄な駒・無益な駒・無意味な駒などは存在せず、全ての駒が有用な駒・有益の駒・役立つ駒であり、裏切りの駒や不忠の駒は一つもない。
 歩の駒で玉の駒を取って勝負を決める事もある。
 駒は、全てが生きた駒であって死んだ駒はない。
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 2019年10月号 WiLL「歴史の足音  中村彰彦
 西郷と大久保はなぜ倒幕派となったのか
 幕府は安政5年(1858)6月19日に日米修好通商条約を締結すると、年の変わらぬうちにオランダ・ロシア・イギリス・フランスともおなじ条約(安政五ヵ国条約)を結び、開国に踏みきった。
 同時に国内には尊王攘夷論が大流行し、孝明天皇をはじめ再鎖国を主張する声に満ちた。藩として尊攘派が多かったのは、東の水戸藩徳川家と西の長州藩毛利家であった。
 水戸藩のことはひとまず措(お)いて長州藩の動向を眺めると、吉田松陰安政5年13日、天皇の勅を奉じない幕府は『討滅誅戮(とうめつちゅうりく)』すべきだ、と論文『大義ヲ議ス』の中で主張したことが目につく。
 その遺志を継ごうとした高杉晋作久坂玄瑞は志半ばにして倒れたものの、薩長同盟を締結した桂小五郎(のちの木戸孝允)も松陰の弟子筋だから、今も松陰が教えた松下村塾跡に『明治維新胎動の地』碑があるのもゆえなしとしないのだ。
 対して慶応2年(1866)1月21日、この長州藩と討幕を最終目的とする薩長同盟を結んだ薩摩藩島津家の代表は、家老小松帯刀および大久保一蔵(利通)、西郷吉之助(隆盛)。大久保と西郷は、若き日から薩摩藩内の尊攘派『誠忠組』のメンバーだった。
 しかし薩摩藩国父として同藩を指導していた島津久光公武合体派であり、文久2年(1862)4月23日には伏見の寺田屋に集結して攘夷戦に走ろうとしていた誠忠組と諸藩の尊攘激派に対して8人の鎮撫使を派遣。剣の達人ぞろいの鎮撫使は死者1、重傷3を出しながら誠忠組に死者6、重傷2(のち切腹)の犠牲を強いたほどであった(寺田屋騒動)。
 元治元年(1864)7月19日、御所に押し寄せた長州軍を会津藩を主力とする公武合体派諸藩が迎え討った禁門の変に際しても、西郷吉之助を侍大将として薩摩藩会津藩と協力して長州軍を敗走させることに成功している。
 ではその島津藩は、いつ、なにゆえに公武合体派から離脱し、長州藩と手を握ることを選んだのか。そう考えた時に思い出したのは、水戸藩天狗党の運命にほかならない。
 水戸藩は前藩主徳川斉昭が尊攘思想を鼓舞したことから世の注目を浴びたものの、大老井伊直弼の暗殺までおこなうようでは支持者も消える。同藩尊攘派門閥派で佐幕派でもある諸生党が激化するうち浮き上がった存在となり、元治元年3月27日、藤田東湖の四男小四郎ほか六十余名が筑波山に挙兵。天狗党と称し、10月に家老の武田耕雲斎を領袖に抑えると、11月1日から西上の途に就いた。
 幕府の許可なく勝手に兵を動かす行為は『武家諸法度』違反の大罪だ。だが、天狗党将軍後見職として京にいる一橋慶喜徳川斉昭の七男、のち15代将軍)に尊攘の志を愬(うった)えればわかってもらえると信じ、長州藩と提携(ていけい)して攘夷戦に討って出ることを夢見ていた。
 しかし、幕府が天狗党追討軍の将に指名したのは皮肉にも慶喜当人。信濃路、美濃路を経て越前の敦賀(つるが)まで行軍してきた天狗党の818人は、まさか斉昭の子に弓を引くわけにもゆかず、慶喜が総攻撃期日とした12月17日、加賀藩の兵に投降した。
 幕府が加賀藩から受け取った降人(こうにん)たちの警固を彦根、福井、小浜の3藩に託したところ、3藩は敦賀の商人から鯡(にしん)肥料を入れる土蔵16棟を借り上げ、それぞれ約50人ずつを押しこめた。酷い光景が展開したのはここからだ。
 『窓は板でふさがれたので暗室の空気が淀み、敷物はわずかな筵(むしろ)のみ。便所は蔵の中央に桶を置き、便所通いの下駄もなく、臭気鼻を衝(つ)き、食は握り飯一個を日に2回のみ。これまで一同袴を着用していたのに入れられる時に袴、帯から下帯まで取り上げられ、松の厚板の足枷(あしかせ)をはめられた』(史談会編纂『波山始末』を要約)
明けて元治2年(1865)2月4日から23日の間に、降人たちの処分が決まった。
 武田耕雲斎、藤田小四郎以下の352人は斬罪か死罪。百余人は遠島、軽輩187人は追放。常陸国内で投降した1,000からも43人が斬首か切腹、数百人が獄死し、安政の大獄以来の水戸藩の死者は1,500人を超えたほど。
 この処刑を知った時の、大久保の反応は左のごとし。
 『その取り扱い苛刻を究め、衣服を剥ぎ裸体になし、獣類の扱いにて、実に聞くに堪えざる次第なり』(『大久保利通日記』上巻、同年2月11日の項を要約)
 西郷は、幕府批判を行動によって示した。降人のうち軽輩35人は薩摩藩が預かることとされたのだが、西郷は流罪とされる者たちの赦免を主張。それでも流罪にするなら幕命をお引き受けいたしかねる、と宣言してみせたのだ(「幕命拒絶の薩摩藩上書控」、『西郷隆盛全集』第2巻)。
 こうして幕府を見限った西郷と大久保は、雄藩連合による新国家の建設を模索し、長州藩との提携に踏むきるという思考回路をたどるのだ。
 慶喜は自分を慕って敦賀まで来た天狗党を無情にあしらったことにより、将軍職に就任する前から人望地に墜(お)ち、政治的生命はいくばくもなくなっていた、と考えてよい。」
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 文久1(1861)年 ロシア海軍の太平洋艦隊司令官リハチョーフ大佐は、日本海をロシアの庭とし、艦隊の航行を自由にする為に対馬海峡を支配すべきだと提案した。
 リハチョーフ司令官は、日本領対馬を軍事占領するべく軍艦ポサドニック号を派遣した。
 ロシア政府は、中央アジアでイギリスとの対立を深めている今、日本との関係を悪化させる事は好ましくないとしてリハチョーフの提案を却下した。
 海軍大臣ニコラエヴィチ大公は、今後のアジア戦略の上から、イギリスの出方を確かめる目的で日本領対馬への艦隊派遣を許可した。
 リハチョーフ司令官は、対馬を軍事占領するべくポサドニック号を派遣した。
 世界的軍事大国ロシア帝国は、日本を欧州並みの対等国家と認めてはいなかった。
 ロシア人も、キリスト教価値観による宗教的人種差別主義から、非白人の日本人を非文明圏の薄汚い「黄色いサル」と馬鹿にし差別していた。
 ロシア側の意図は、極東に根拠地を獲得して不凍港を確保し、対馬を植民地として南海航路の安全を図る事であった。真の狙いは、日本が本格的に開発の手を加えていない蝦夷地・北海道を、アイヌ人の土地であるとして領有化する事であった。
 日本の敵は、イギリスやフランスやドイツではなく、隣国の超軍事大国ロシア帝国であった。
 当時の日本人が恐れていた白人種の侵略とは、ロシア帝国の侵略である。
 サムライ日本人が、日本を植民地にし、日本人を奴隷にしようとしていると警戒したのも、ロシア帝国であった。
 2月 対馬事件。ロシア軍艦ポサドニック号は、イギリスが対馬を軍事占領しようとしていると言い掛かりを付けて、対馬浅茅(あそう)湾に侵入して停泊した。
 ロシアは、軍事力を使って日本領対馬を自国領にしようとしていた。
 軍事力を伴わない話し合いだけの平和解決は、無意味であった。
 外交交渉は、軍事力があってこそまとまる。
 軍事力を否定した平和的な話し合いで外交交渉が解決できる考える者は、無知無能な一般常識なバカである。
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 文久2年(1862) 1月 坂下門外の変。2月 和宮降嫁。4月 薩摩藩島津久光兵一千とともに上京。8月 生麦事件
文久3年(1863) 5月 長州藩下関で外国船無差別攻撃。7月 薩英戦争。8月 会薩同盟。 八月十八日の政変 七卿落ち
元治1年(1864) 6月 池田屋事。7月 禁門の変。8月 第一次長州征伐。四カ国連合艦隊下関攻撃。
慶応2年(1866) 1月 薩長同盟。6月 第二次長州征伐。家茂死去。12月 一橋派の徳川慶喜将軍宣下。孝明天皇死去。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 討幕運動 とうばくうんどう
 江戸幕府権力を、武力をもって倒すことを目的とした幕末の政治運動。その先駆は、尊王攘夷(じょうい)激派が企てた挙兵である1863年文久3)の天誅組(てんちゅうぐみ)の変、生野(いくの)の変であるが、有力な政治運動となるのは、尊王攘夷運動の挫折(ざせつ)・転回以後のことである。すなわち、この年の八月十八日の政変と薩英(さつえい)戦争、翌年の四国連合艦隊下関(しものせき)砲撃事件を経験した尊王攘夷派は、政治運動の理念の面でも、形態の面でも大きく転換した。攘夷を実行するためにも軍備を洋式に改める必要があり、そのためには外国文化を摂取せねばならぬと、薩長をはじめ諸藩は欧米諸国に接近することとなり、貿易を行い、武器・艦船を輸入し、留学生を密航させた。また欧米列強の圧力に対抗するため、幕府専制、幕府・諸藩割拠の体制を改め、統一国家を樹立する必要が認識され、そうした改革を実現する手段ないし道具として、天皇の権威を政治的に利用しようとする態度が強まった。こうして尊王と攘夷の本来の理念がもつ政治指導力が失われると、勅諚(ちょくじょう)の権威のもとで活躍できた脱藩の士や浪人などの志士の勢力が衰え、大藩の尊王攘夷派が藩権力を握り、藩の財政と軍事力に依拠し、その圧力をもって幕府専制の打破が策された。しかし討幕運動の進路は紆余曲折(うよきょくせつ)であった。将軍・幕府の存在を否定することは、大名に対する藩士の忠誠観念を崩壊させ、民衆の反抗を引き起こす危険があり、他方で幕府と諸藩との内戦は、欧米列強の植民地化政策を推進させる機会となる心配があった。幕府権力を武力をもって倒す(討幕運動)か、幕府権力の存続を認めながら、その専制体制を武力を使わずに改革する(大政奉還運動)か、この二つの政治路線は対立しながらも絡み合っていた。
 1865年(慶応1)幕府が反幕派の拠点である長州藩を討つべく第2回長州征伐を企てると、翌年正月、薩摩藩の代表西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)は、土佐脱藩士坂本龍馬(さかもとりょうま)・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の仲介によって、長州藩の代表木戸孝允(きどたかよし)らと、両藩が協力して討幕を行う密約を結んだ。6月幕府軍長州藩軍との間の戦闘が始まったが、幕府は諸藩の大軍を動員しながらも、当初の敗戦に気がくじけて、早くも8月には休戦を令し、幕府の権威を自ら失墜させた。これは、財政窮迫に悩む諸藩が戦争に消極的であり、この空気を背景に薩摩藩が出兵を拒絶したこと、またこの内戦を機に、フランスが幕府を援助し、これに対抗してイギリスの薩長両藩を支援する動きが露骨となったことが、武士層の間に内戦回避の空気を強めたことによるが、また民衆の反封建闘争が高まったことも強く作用していた。この年には米価をはじめ物価の暴騰や、戦争に伴う負担の加重に悩む民衆が、江戸・大坂とその周辺地帯を中心に、全国で一揆(いっき)・打毀(うちこわし)に立ち上がり、江戸時代を通じて最大の高揚を示した。
 こうした情況のなかで、討幕の薩長同盟密約を結んだ薩藩の西郷・大久保らは、1867年(慶応3)6月に土佐藩代表後藤象二郎(ごとうしょうじろう)と会し、後藤の主張する大政奉還実現のための薩土盟約を結んだ。しかしその裏面では、長州藩・芸州(広島)藩の討幕派や岩倉具視(いわくらともみ)ら討幕派公卿(くぎょう)との間で、武力倒幕の計画を進めた。後藤は西郷の同意を得て、10月前藩主山内豊信(やまうちとよしげ)の名で大政奉還の建白書を幕府に提出、これを受けて将軍慶喜(よしのぶ)が大政奉還の上表を天皇に提出した。しかしその前日および当日、大久保らがかねて画策していた薩摩藩主父子宛(あて)と長州藩主父子宛の討幕の密勅が岩倉から手交された。それにもかかわらず慶喜の上表は勅許された。大政奉還の実現は、中央政局における土佐藩指導力と徳川氏の勢力の温存を意味した。そこで薩長両藩はこれに対抗するため、12月9日に宮中クーデターを行い、幕府の廃止と王政復古を天皇の名で宣言させ、徳川氏の勢力を排除した天皇政権を樹立した。ついで翌年正月の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いをきっかけに戊辰(ぼしん)戦争を起こし、武力倒幕を実行した。これには薩長側の挑発が働いていた。戊辰戦争は9月の会津落城を経て、1869年(明治2)5月の箱館(はこだて)陥落をもって終わった。これによって薩長両藩の指導力は確立したが、同時に諸藩全体の解体化が促進され、この年6月の版籍奉還、翌々年の廃藩置県によって、統一国家建設の土台が築かれた。[遠山茂樹
 『遠山茂樹著『明治維新と現代』(岩波新書) ▽石井孝著『明治維新の舞台裏』(岩波新書)』
 [参照項目] | 尊王攘夷運動 | 戊辰戦争
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 現代日本人は、「武士の子孫で、武士道精神を持った賢く優れた人間である」とはウソである。
 現代の日本には、武士道・士道など存在しない。
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 武士は、性根が悪い、根性が腐っている、あくどくえげつない庶民を信用せず嫌いそして差別した。
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 日本民族を呪い天皇制度打倒や天皇家・皇室廃絶を目指したマルクス主義者(共産主義者)は武士ではなく、如何に学識・良識・見識があり聡明であっても日本の歴史を語る資格はゼロである。
 日本の歴史において、共産主義マルクス主義)は有害なだけである。
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 当然の事ながら左翼・左派・ネットサハは日本民族日本人の武士・サムライではないが、同様に右翼・右派・ネットウヨクも武士・サムライではない。
 そして、左翼・左派・ネットサハは、百姓や町人などの庶民でもなく、賤民や部落民でもない。
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 日本人の本当の祖先とは、卑しく悍ましく残酷・残虐な、百姓・町人などの庶民や足軽・雑兵などの下級人である。
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 明治時代は本当の武士が存在したが、大正時代以降は武士はいなくなり猿真似の武士が増えた。
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 昭和時代にはニセ武士が跋扈し、平成時代には詐称武士が溢れた。
 特に、高学歴出身知的エリートには真の武士は存在しない。
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 昭和前期、戦時中に武士がいたとしたら、日本軍人の本分として昭和天皇に忠誠を誓って人道貢献をした日本人将兵である。
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 武士道において、武器を捨て降伏した者、武器を持たず戦う意志のない者、女性・子供・老人など弱者、百姓や町人などの庶民に対して、無慈悲な殺傷を行い武功とする者は武士の風上にも置けない卑怯者と弱虫と侮蔑もって貶み、仲間内から除け者にした。
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 武士は、如何なる時も、卑怯を嫌い、清く爽やかに生きそして潔く死んだ。
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 戦場で強奪・強姦など乱暴狼藉を働いたのは、正規の武士ではなく臨時雇いのニセ武士か足軽や雑兵など軽輩者達であった。
 そして最も悍ましいかったのは、庶民であった。
 百姓は、戦場で死んでいる武士から武具甲冑から衣服まで剥ぎ取り丸裸にして穴に放り込み、逃げ回る武士を落ち武者狩りで惨殺して褒美を貰った。
 町人達は、戦場が見える安全な場所から酒宴を開いて観戦し、戦場荒らしの百姓が持ち込んだ略奪品を安く買い取り武士に高値で売って稼いでいた。
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