❈425)─1─大日本帝国憲法と皇室典範の隠れた意図とは、天皇を封じ込める事であった。〜No.973No.974/       

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 近代日本が天皇に求めた帝王学とは、先頭に立って国民と国家を引っ張っていく強力なリーダーシップではなく、国民と国家の中心にあって祈りと癒やし・励まし・慰め、そして勇気をもたらすカリスマ性であった。
 日本人が最も嫌がった天皇像とは、個性が強く、強力なリーダーシップを持ち、自分の意志で国民や国家の先頭に立ち前に出て行動する天皇であった。
 昔の日本が求めた理想的天皇像とは、リーダーシップを持たないカリスマ天皇であった。
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 明治新政府が考え天皇とは、操り人形としての「決められない天皇」であって、孝明天皇後醍醐天皇のような「決められる天皇」ではなかった。
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 天皇の親政は、嘘である。
 現代の歴史教育は嘘である。
 現代の歴史常識の多くは嘘である。
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 明治以来の近代政府が国民を信用していなかったのは、当たり前、当然の事であった。
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 明治天皇は、日清戦争日露戦争には反対であった。
 大正天皇は、第一次世界大戦やシベリア出兵を憂いていた。
 昭和天皇は、平和を希望し、満州事変、日中戦争・太平洋戦争の回避を望んでいた。
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 現代の日本史は、1946年のキリスト教の原罪史観と共産主義階級闘争史観による東京裁判史観、1980年代の日本人極悪非道な重犯罪人史観による自虐史観で毒され、改竄・捏造・歪曲されている。
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 2019年5月16日号 週刊新潮「夏裘冬扇  片山杜秀
 決められる天皇と決められない天皇
 昔、岩倉具視は500円札で、伊藤博文は1000円札。板垣退助はというと100円札だった。
 板垣は自由民権運動の立役者。戦後民主主義と相性がよい。戦後すぐ、御札に登場した。でも御札は額の多い方が嬉しい。肖像にも、額面ゆえの格の違いが、どうしても生じる。岩倉や伊藤は、額面から換算すると、民主主義の英雄、板垣の、5倍も10倍も偉い。なぜか。この2人が、明治この方の国のかたちをよくデザインしたからだと思う。『天皇の国、日本』のかたちを。
 岩倉は公家だった。天皇征夷大将軍的存在に再び押し返されることのない国作りを目指した。伊藤は長州藩士だった。天皇を担ぎつつ、自分たちの権力が長続きする国を望んだ。
 そのためにどうする?天皇の偉さを、盤石の重みをもって、国民に刷り込まねば!その決定打が、天皇から国民に一方的に下しおかれる形式を取った、大日本帝国憲法だった。岩倉と伊藤のアイデアの結晶と言ってよい。第一条は『大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス』。
 だが、それだけでは駄目だ。国民を天皇で縛るだけでなく、天皇を法で律するべきだ。
 維新の元勲たちには苦い経験があった。幕末の動乱に大活躍してしまった孝明天皇のことである。この帝(みかど)は何としても攘夷を実行せよと強く意思表示した。孝明天皇が、現実には不可能な西洋諸国打ち払いを唱え続けたゆえに、幕末の大混乱が生じたとも言える。そして、もしも天皇が先頭に立って攘夷大戦争を敢行していたら、きっと敗れ、天皇は責任をとらされて、天皇制の存続に関ったかもしれない。天皇を滅ぼしうるのは、反天皇主義者よりも、しばしば天皇自身だ。
 なぜ、そうならなかったのか。孝明天皇が突然死したからだろう。そして、周囲の言いなりになってくれる、まだ子供の明治天皇が即位したからだろう。
 親政に失敗すれば天皇制崩壊の危機。岩倉は孝明天皇の再来を恐れた。伊藤はといえば、そのうち大人になる明治天皇の政治参加を恐れた。自分たちが勝手をできなくなるからである。
 『男は黙って◯◯ビール』。昔の三船敏郎のCMだ。それと同じ。『天皇は黙って御名(ぎょめい)御璽(ぎょじ)』。岩倉も伊藤も安心できる落としどころであった。
 大日本帝国憲法は、表向きには天皇の大権を集中する。だが解釈と運用で、天皇本人をなるたけ黙らせておく、維新政府の戦略であった。でも、なお心配が残る。たとえば、天皇が裁量できることの少なさに退屈して退位を望み、世間が、現政権への天皇自身の不満がそこに込められていると信じたとする。明治国家はたちまち正統性を疑われる。
 また、退く天皇が、後継ぎをどの皇子にしたいと選り好みしたとする。反対勢力があれば、南北朝時代の再現になりかねない。対策は、天皇の自由意志では退位や後継ぎの指名をできなくすることだ。
 崩御するまで辞めさせない。皇位継承順も法で決める。皇室典範が、伊藤の主導で作られた所以である。
 岩倉と伊藤の思想は、敗戦を超えて延命してきたと思う。『象徴天皇も黙って御名御璽』。『辞められません、崩御するまでは』。肝心要はずっと同じだった。
 だが、革命は起きた。今回の代替わりはとてつもなく新しい。日本はきっと大きく変わる。吉と出るか、凶と出るか」
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 2019年6月12日 産経新聞上皇ご夫妻が孝明天皇陵をご参拝 「親謁の儀」で譲位ご報告
 京都府を訪問中の上皇ご夫妻は12日、京都市東山区孝明天皇陵を参拝し、譲位の報告を行う「親謁の儀」に臨まれた。午後には同市伏見区明治天皇陵も参拝し、天皇在位中から続いていた譲位に伴う一連の儀式を終えられる。
 ご夫妻は午前10時ごろ、滞在先の京都大宮御所をご出発。重要行事に用いられる「上皇旗」をつけたセンチュリーで、同市東山区孝明天皇陵に隣接する泉涌寺(せんにゅうじ)へ向かわれた。
 孝明天皇陵では、モーニング姿の上皇さまが陵へと続く塀重門(へいじゅうもん)からゆっくりと階段を上って参進し、ご拝礼。上皇后さまもロングドレスの参拝服姿で拝礼に臨まれた。
 ご夫妻は午後の明治天皇陵参拝で譲位関連の儀式を終えた後、京都大宮御所に戻って休息を取り、13日にJR京都駅から新幹線の臨時専用列車に乗って帰京される。」
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 反天皇反日的日本人は、天皇制度の廃絶と天皇家・皇室の消滅ために、天皇・皇族を実体化して政治や社会の表舞台に引きずり出そうとしている。
 メディアの天皇・皇族・皇室報道は、その意図を含んでいる。
 昭和天皇は、一人孤独に、生涯を掛けて抵抗し、皇室・皇統・血統・血筋を守る為に壮絶な死を遂げた。
 キリスト教朝鮮人テロリストや日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇や皇族を殺す為につけ狙っていた。
 日本人共産主義者は、ソ連コミンテルン中国共産党から活動資金や武器を受け取って暴力的人民革命を目指していた。
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 昭和天皇が、満州事変・日中戦争・太平洋戦争などでの開戦と終戦で選択した事は正しく、戦争責任を取るとして退位しなかった事は当然の事であった。
 戦争の責任は、政府と軍部そして国民にあって、天皇にはない。
 天皇には、戦争責任や戦争犯罪などない。
 昭和天皇は、無罪である。
 が、昭和天皇は逃げる事なく全ての戦争責任を引き受け、見苦しい言い訳じみた自己弁護・弁明はしなかった。
 昭和天皇は、誰よりも平和努力をし人道貢献を行っていた。
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 日本民族日本人は、究極の個人主義者として、人智を超えた自然を信用してもお里が知れる人など信用しなかった。
 昔から日本は、自分は自分、他人は他人、自分の事は自分で処理・処分する冷たい社会であった。
 日本民族日本人の本性は、薄情、非情、冷淡、冷血、冷酷である。
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 熱狂的天皇主義の尊皇派・勤皇派は、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、身分低い芸の民(歌舞伎役者や傀儡師・曲芸師などの地下芸人)、虐げられた賤民(非人や穢多)、蔑まされた部落民(山の民・川の民・海の民)達であった。
 日本の底辺で生きていた彼らは、マルクス主義共産主義)が認定する搾取され差別され迫害・弾圧を受けた哀れな人民・プロレタリアではない。
 さらに、キリスト教が説く、絶対神の命令に逆らったという「大罪」を持ってはいないし、絶対神の怒りを被って天罰を受ける「罪人」でもない。
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 日本民族日本人は、人とは私欲・個人欲で暴走する強欲な生き物であるとして信用していなかった。
 本音では人間不信であるがゆえに、建前として相互扶助の精神で助け合い・励まし合い・慰め合い、如何なる危機的状況に追い込まれても暴動や騒動を起こさず、人の弱みに付け込んだ略奪や殺人などの犯罪行為を戒めていた。
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 明治の元勲・元老・重臣達は、天皇を神聖不可侵として自由を制限し、皇居の中に押し込めた。
 さらに、徳川家康織田信長のような軍事独裁者が政治家として現れ軍隊=国軍を私兵化して私欲で戦争を始める事を恐れ、政治家から軍隊指揮権と参戦権を剥奪し、軍人の暴走を抑える込む為に、国権から軍事権・統帥権を切り離して天皇の大権とした。
 そして、軍備拡張費と交戦費の軍事費を国家予算内に組み込んで政府と議会が握った。
 大日本帝国憲法とは、軍事独裁者が出現して幕府を開き国を私物化させない為の法律であり、
 大日本帝国憲法の神聖不可侵とは、天皇軍事独裁者に利用させない為に創られた新語の法律用語である。
 明治の元勲・元老・重臣達は、武士階級ではない庶民階級出身の高学歴出身知的エリートを信用していなかった。
 大正末期から昭和前期。高学歴出身知的エリートの革新官僚や軍人官僚エリートが、天皇統帥権を利用して政治を壟断し、軍隊を動かして戦争へと突入した。
 歴代天皇は、全ての戦争に反対し、不服従を示していた。
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 伊藤博文は、小作農出身であった。
 山県有朋は、足軽出身であった。
 黒田清隆は、下級武士出身であった。
 東郷平八郎乃木希典も、下級武士出身であった。
 岩崎弥太郎は、最も貧しい下士出身であった。
 渋沢栄一は、百姓出身であった。
 身分低い彼らは、徳川幕府から暴力で奪った権力を正当化する為に天皇の権威を必要とした。
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 明治の元勲・元老・重臣達の多くは家禄の少ない下級武士出身で、明治維新まではその貧困故に庶民にバカにされながらも土下座しながら借金をしたり内職を分けて貰いながら食いつないだと苦い経験を持つだけに、庶民を信用していなかった。
 庶民も、元勲・元老・重臣と威張っていても、元を正せば惨めで哀れであった下級武士であっった事を知っているだけに、冷ややかに明治政府を見ていた。
 近代国家日において、政府と庶民の対立は必然であった。
 政府や元勲・元老・重臣達は、面従腹背で不服従気味の庶民を従わせる為に天皇の権威を利用した。
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 廃藩置県によって、朝敵の諸藩はもちろん官軍の諸藩の武士は家禄や職を失った。
 日本は、近代化に伴って能力主義・才能主義社会となった。
 学才・才能・技能がある士族(元武士)は、その能力生かして官吏や何らかの職に付けたは。
 能力のない士族は、職に付けないばかりか、家屋敷を追い出され、貧困層として都市に流れ込み低賃金の肉体労働で何とか家族を養った。
 明治に世にあっては、元は由緒ある武士といっても無意味、無価値であった。
 近代化の恩恵を受けられない極貧階層の士族の間では、天皇への怨嗟の声が渦巻いていた。
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 現代日本人は、日本民族の歴史が嫌いなだけに、大日本帝国憲法皇室典範の真実が読み取れないし、本当の意図が理解できない。
 特に、左翼・左派・ネットサヨク、リベラル派・革新派・ニセ保守派・一部の保守派、人権派、そして右翼・右派・ネットウヨクも同類である。
 メディア関係者にもそうした日本人が多数いる。
 そうした傾向は、高学歴出身知的エリートに強い。
 彼らには、哲学・思想・主義主張が有るようで無い、着替え可能な見せ掛けであり、書き換え自由な文学的言葉の文にすぎない。
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