🎑30)─2─万葉賛歌。日本天皇の万葉王朝始祖。〜No.77No.78No.79 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
 2019年6月11日 産経新聞「【万葉賛歌】時代の歌(1)「万葉王朝の始祖」高らかに
 「万葉集」の舞台となったかつての大和。畝傍山(手前)、耳成山(左端)、天香久山(右奥)の大和三山が優美な姿を見せる=奈良県橿原市、明日香村周辺(本社ヘリから、彦野公太朗撮影)
 関西で暮らし始めて40年以上になるが、歴史好きの客を案内する定番コースがある。奈良市平城宮跡(へいじょうきゅうせき)を起点に南へくだり、三輪山山麓から藤原宮跡、飛鳥へと足を延ばす。日本という国の誕生を実感できる旅だからだ。
 新元号「令和」によって注目されている「万葉集」4500余首の歌の冒頭は、別掲の雄略(ゆうりゃく)天皇長歌で始まる。うらうらとした春の岡、若菜を摘む若い女性がいる。生命のきらめきの象徴のような彼女に向かって名を名乗る、つまり結婚を申し込む「我(われ)」は、大和を治める王者。堂々たる風格が伝わってくる。
 だが雄略天皇は、5世紀後半に生きた人物である。いわゆる万葉歌が詠まれた7世紀後半から8世紀の人々にとっては、はるかに遠い昔。しかも、実際に雄略天皇の作である可能性は限りなく小さい。
 ではなぜ、この歌が万葉集の冒頭に据えられ、雄略天皇の御製(ぎょせい)(天皇の作)とされたのか。研究家の多くは「8世紀の人々が今の天皇家の直接の始祖は雄略天皇と認識していたからだ」とみる。
 雄略天皇(大泊瀬稚武天皇(おほはつせわかたけるのすめらみこと))は系譜上第21代に数えられ、西暦478年、中国の宋に使節を派遣した倭王「武(ぶ)」にあたるとされる。埼玉県行田市(ぎょうだし)の稲荷山古墳から出土した鉄剣に「ワカタケル大王」の名が刻まれ、実在が証明された最初の天皇でもある。
 日本書紀雄略天皇について、皇位継承のライバルを次々殺害する「暴虐王」の面と、葛城の一言主神(ひとことぬしのかみ)と語り合うなど「徳ある王」という相反する性格を持っていたと描く。大和政権の版図が東国から九州まで拡大したことや官僚制の萌芽(ほうが)も確認でき、歴史家の多くが「雄略朝こそ古代の画期」と考えている。
 「籠もよ~」に続く万葉集の2番目は、第34代舒明(じょめい)天皇の《大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山(かぐやま) 登り立ち~》で始まる、いわゆる「国見(くにみ)の歌」である。舒明天皇は天智、天武両天皇の父で、持統(じとう)天皇には祖父にあたる。
 まさに、雄略から続く皇統の正統性を強調した歌の配列といえるだろう。万葉集は、天智、天武天皇が懸命につくりあげた日本の古代国家(律令国家)の完成を言祝(ことほ)ぐ歌集なのだ。
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 籠(こ)もよみ籠(こ)持ちふくしもよみぶくし持ちこの岡(をか)に菜(な)摘(つ)ます児(こ)家(いへ)告(の)らな名告(の)らさね
そらみつ大和(やまと)の国はおしなべて我(われ)こそ居(を)れしきなべて我こそいませ我こそば告らめ家をも名をも(巻1-1)
 【口語訳】
かごも、よいかごを持ち、へらも、よいへらを持って、この岡で若菜を摘んでおられるおとめよ、家をお告げなさいな、名を名のりなさいな。(そらみつ)大和の国は、ことごとく私が治めているのだ、すべて私が支配しておられるのだ。私こそ告げよう、家も名前も。
岩波文庫版「万葉集」から)
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 新元号の出典となった「万葉集」。ゆかりの地を訪ね、最古の歌集が編まれた時代背景と、わが祖先が国づくりにかけた苦闘のあとを探ります。(客員論説委員 渡部裕明)」
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 6月12日 産経新聞「【万葉賛歌】その時代(2)大敗戦からの国づくり
 熟田津の場所は三津浜説、重信川河口説などがあるが確定していない。戦争の危機が迫る中で斉明女帝らも心を震わせながらの出航だったのだろう =松山市三津浜港(鳥越瑞絵撮影)
 「万葉集」には古代国家への産みの苦しみに関連した歌がいくつかある。中でも最大の苦難は、第38代天智天皇の2(663)年、朝鮮半島西南部の白村江(はくすきのえ)で唐・新羅(しらぎ)連合軍と対決しての大敗戦だろう。
 ここへ至ったのには、4世紀以降の長い歴史がある。日本(倭国)は国内で産しない「鉄」や最新の文化を求めて朝鮮半島に渡り、国々の抗争に巻き込まれていった。友好関係を結んでいた百済(くだら)は西暦660年、唐・新羅連合軍に攻められ、都が陥落する。
 ときの斉明(さいめい)天皇と嫡男、中大兄皇子天智天皇)は長年の友誼(ゆうぎ)を重んじ、百済を支援するため3万近い軍勢を派遣する決意を固めた。さらに女帝は68歳の高齢をおして、前線基地の九州に赴いたのである。
 別掲の歌はこの遠征の途中、滞在先の石湯行宮(いわゆのかりみや)(松山市道後温泉付近)を出発するおりに、額田王(ぬかたのおおきみ)によって歌われた名歌である。熟田津(にきたつ)の場所については諸説があるが、瀬戸内海に面した港湾だったのだろう。
 昼間ではなく、なぜ暗い夜に船出したのか。謎に迫ったのが、今年2月に亡くなった古代史家、直木孝次郎さんの論文「夜の船出」である。瀬戸内海特有の陸風(海に向かう風)が吹き始める夜を待って出航したというのだ。
 何より疑いないのは、この出航が緊迫感にあふれていたことである。石湯行宮での滞在自体、約2カ月にも及んでおり、軍勢の確保にも難航していたのだろう。歌には、ともすれば不安に駆られがちな兵士らを鼓舞し、奮い立たせる意味あいが込められていた。
 にもかかわらず、九州に着いた斉明女帝は間もなく体調を崩し、7月には崩御してしまう。中大兄皇子即位式も挙げないまま指揮を執ったが、2年後の白村江の決戦では惨敗してしまった。
 「唐軍は勢いに任せて侵攻してくるかも…」。中大兄らは恐れ、亡命してきた百済人技術者らの指導で、対馬から瀬戸内海沿岸にかけて山城(やまじろ)や烽火台(のろしだい)を設けた。さらには、都を近江(大津市)に移している。
 亡国の危機を脱したのは偶然でしかなかった。朝鮮半島新羅が唐を追い出す戦争を始めたからである。しかし天智天皇は敗戦を重くとらえ、唐にならった中央集権の国づくりに邁進(まいしん)した。そして彼の死後、志は同母弟である天武天皇やその皇后だった持統天皇に受け継がれる。(客員論説委員 渡部裕明)
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熟田津(にきたつ)に船乗(ふなの)りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕(こ)ぎ出(い)でな   (巻1-8)
【口語訳】
熟田津で船に乗り込もうと月の出を待っていると、潮も、船出にちょうどよくなってきた。さあ、今こそ漕ぎ出そう(岩波文庫版「万葉集」から)」
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